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インドに”インドの第2波”が到達したのは何時(長さん)

以下に、イスラムシャトランジの象・馬・車
ルールがインドの二人制チャトランガに取り
入れられて、インドの今に残る二人制チャト
ランガに近いルール(イスラムシャトランジ
型象・馬・車)になったのは、何時なのかを
推定する。
 以前に、東南アジアの西暦1000年時点
での象棋は、海岸国では、兵駒が前進し高成
りとなった、イスラムシャトランジだと述べ
た。盲点は、インドだけはビールーニの言う
ように、”日本型”なので、

インド直伝来をチェックする必要がある。

これについては以前、最下段配列が飛龍、馬、
角行、玉、近王、角行、馬、飛龍の二枚角将
棋は、日本では、馬が桂馬でも八方桂でも、

性能の悪いものとして、弾かれる

との本ブログの予想を述べている。そのとき、
ミャンマーのパゴーとタトンに、イスラムシャ
トランジが伝来して、ミャンマーでインドの
第2波ないし、ビールーニ反転が起こるのは、

西暦800年より前だ

と本ブログでは述べている。(西暦2019年
11月10日の本ブログ。)ただし、さいき
ん考えるに、

西暦800年が西暦950年になっても、そ
の程度なら、日本の将棋に対する効果は同じ

だ。なぜなら、日本の将棋と異なり、東南ア
ジアの将棋は、成るのが兵駒だけであり、桂
馬の成りが問題にならないから、桂馬の高跳
びは、気にならないのである。つまり、イン
ドで将棋が生まれたのが、西暦600年代前
半として、玄怪録の成立は800年代前半だ
から200年後にインド古チャトランガ系が、
インドから中国に伝播。だから、イスラムを
750年頃出発したシャトランジは、東南ア
ジアに200年後の950年に到達するとい
う計算になるという事である。よって以降は
余り”ミャンマー・タイ・カンボジアでの、
インド第2波ないし、ビールーニ反転の年代
が、西暦800年より前”には、こだわらな
いように、議論が自説に甘くならないように
注意したい。
 すなわち、少なくとも西暦1031年の時
点で、

インドへはインドの第2波または、ビールー
ニ反転が起こって居ない

というのが、アル・ビールーニの記録という
名の史料の内容である。つまり、イスラムシャ
トランジと、四人制チャトランガの象と車は、

西暦1031年に逆だから、逆だと、アル・
ビールーニは言った

のである。ここから、東南アジアよりも
むしろ、イスラム圏に近いのに、インドへの
インドの第2波の到達が遅い理由と、到達し
て転換し、今に残る2人制チャトランガの、
象・馬・車、銀将・八方桂馬・飛車ルールに
変わったのは何時なのかを、議論する必要が
有ると言う事になる。回答を書く。

カナウジとカルカッタ(タムルクまたは、
タームラリプティ近郊)を分けて考える必要

がある。カナウジは12世紀末。カルカッタ
は東南アジアと同じと本ブログでは見る。
つまり、

カルカッタ付近では、西暦800年までに、
イスラムシャトランジ系へ転換していた

可能性がある。では、論を続ける。
 今の所だが、本ブログでは、
イスラムシャトランジのミャンマー・タトン
への伝来は、スリランカで寄港するパターン
の海路と見る。この航路は、カルカッタ付近
を通る。だから、カズナ・トルコ帝国内でも
指されていたとみられる、イスラムシャトラ
ンジは、

海岸沿いのインドの街には、発生後直ちに
伝来

したと、今の所本ブログでは見る。
 なお、西暦650年頃から西暦1200年
頃までインドはラージプート時代の戦乱期で、
王国無しで諸侯が跋扈した時代と、本ブログ
では認識する。カルカッタはインドバーラ国
の支配地かもしれないが、統制は取れておら
ず、貿易港で外国文化が往来していただけだ
と、今の所みなす事にしたい。
 次に、カナウジについて説明する。
そもそも、インドの四人制チャトランガに関
して、アル・ビールーニが記録したのは、

カナウジでの状況

とみなして、議論に影響は無いと思う。当時
カナウジは全体で20年位、

イスラム系のカズナ朝イスラム国の占領下

の真ん中の時代だった。イスラム系の国であ
るカズニー朝が、インドの諸侯、プラハーラ
国を西暦1019年に滅亡させたと、高校の
歴史の世界史図表(西暦1969年、
第一学習社)にある。支配は西暦1040年
頃までのようだ。
 アル・ビールーニがインドで将棋史の調査
が出来たのはイスラム系国家が、カナウジ等
のガンジス川沿いの西側を、一時占領したか
らだと考えられる。この時点ではインド文化
の将棋が指されていたという情態が、知識人
のビールーニに記録されたのだろう。
 その後ガンジス川流域は、西暦1200年
前後に、イスラム系の国家である、ゴール朝
イスラム国に全域占領された。ので、そうな
るとイスラムの国王が、

インドでイスラムシャトランジを指した

のではないかとみられる。だから、銀将の
ルールが象と置き換わった程度の、

”今に残る2人制チャトランガ”(シャトラ
ンジ的チャトランガ)が西暦1200年頃に
インドに発生して、象と車を反転させた

と見るのが、自然だと私は思う。統制が取れ
て居ない地域だが、イスラム化は望んで居な
い12世紀までの時代には、イスラムシャト
ランジは、

敵対国のゲームなので、紛争地域のインド
ガンジス川上流域では、西暦1200年まで
指されなかった

のであろう。よって以上のように今の所だが。
アル・ビールーニのインド将棋の観察は、
インドのガンジス川上流の、深インド域で
行われたもの。それに対して、同じインドで
も、交易港であるインド沿岸都市のたとえば
カルカッタ近郊では、早くから、イスラムシャ
トランジ化して、東南アジアに、象・馬・車
が、飛龍、八方桂、飛車の象棋を、転送させ
ていた。よって少なくとも

西暦1031年頃の時点で、カルカッタは、
イスラムシャトランジ型。カナウジはインド
古2人制古チャトランガ型と、インドに統一
国が無いので、分かれていた

のではないか。また、インドという国家が無
い時代だったので、特に東南アジア諸国では、

西暦800年から西暦1000年まで”イン
ドに合わせる”という発想も、余り無かった。

以上のように今の所、本ブログでは、推定す
るという事である。(2019/12/28)

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