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ダルヴェルジン・テパ遺跡型遺物は動物種多数(長さん)

ウズベキスタンのダルヴェルジン・テパ遺跡
から、将棋駒とも疑われる、2世記の象と駱
駝の、貴金属製立体駒状物品が出土している
事は良く知られ、本ブログでも以前に紹介し
た。この物品が、将棋駒では無いというのが、
本ブログの論である。象駒が走象ではなくて、
臥象を表しているように見えるというのが、
将棋駒説に反対する根拠であった。さいきん
webで、オークションでシルクロード遺物
が出展されているのを見かけた。発掘地は
アフガニスタンと主張され、宝石を成形して
作られ、成立年代は良く判らない。
 動物種は象に似た太った図体のもので、
長い鼻が無いピース(右)を、ダルヴェルジ
ン・テパ遺跡の象の造形物と並べると、以下
のようになる。この2つの物品は、カテゴリー
が同じ物のように私には見える。

象パーツ.gif

つまり、ダルヴェルジン・テパの屈んだ象と
駱駝は、この象のようなカバのような青い動
物の像と、何に使うのか、私にははっきりし
ないが、とにかく用途が同じなのではないか。
 なお、今回紹介したアフガニスタンの宝石
製の像は4個あり残りは、狼、鷲、大トカゲ
のような生き物と、このカバ象である。ちな
みに、歩いているように私に見えるのはトカ
ゲの像だけで、上記4つのアフガニスタンの
オークション遺物も、残りは屈んでいる。

そもそもアフガニスタン遺物に馬は無いので、
大局将棋の立体駒なら話は別だが、動物種は
将棋の類のものではない。

だから、アフガニスタンの遺物が将棋駒とは、
下に支えの台が有っても、ちょっと考えにく
い。ダルヴェルジン・テパ遺跡の象と駱駝は、

アフガニスタン出土出展品の類の疑いがある

のではないか。よって、このwebの情報か
ら私が、ダルヴェルジン・テパ遺跡の遺物は
将棋駒の類では無いのではないかと、益々考
えるようになったのである。(2020/01/21)

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平安後期の天文道家安倍家等。流星雨は隠したか(長さん)

以前に、月と惑星の接近、惑星と惑星の接近、
惑星と明るい恒星の接近(何れも見掛け)は、
コンペチター(業界競合者)の観測技術向上
につながるため、賀茂家の光平の時代と、
安倍家の泰長の時代、西暦1140年頃まで
は西暦1000年過ぎより、その技術に関し
て隠匿行為が行われたと述べた。また超新星
についても、同様だと述べた。
 それに対して大彗星の接近データは、元号
を変えさせる等、陰陽道の力の見せつけに繋
がるので、西暦1096年程度からは積極的
に広報したとした。ただし彗星の観測が、
天体位置観測技術の取得には、余りつながら
ないので、囲碁や大将棋の挙動に無関係だと
した。ここでは、残りの天文現象、特に流星
についても、漏れがあると気持ちが悪いので
述べる事にする。
 具体的には流星雨と、明るい流星(火球)
がある。このうち火球は、数秒以下の現象を
見逃すと、見逃した大衆は、隕石になって、
降ってこなかったため無事だったという結果
を聞くだけなので、影響力は弱いとみられる
ので除く。大流星の経路記入観測をしたとし
て暦の改革等の作用も無いので、議論にとっ
て泡沫的である。
 それに対して、流星雨の方は、2~3時間
の間に情報が入れば、個人も観測できる。ま
た、彗星同様の怪現象である。そこで答えか
ら述べると、

彗星同様、西暦1094年より少し後からは、
賀茂光平、安倍泰長等が積極的に、流星雨観
測結果を広報した

形跡がある。具体的にしし座流星雨について
述べると、以下のような史料がある。
 西暦1094年の少し後に成立の扶桑略記
には、西暦967年10月14/15日の放
射点(または、輻射点)上昇後の流星雨の、
(私の見立てでは、数万/時程度の)出現を
記録している。
 西暦1050年~西暦1200年のどこか
で成立の日本紀略には、西暦1002年10
月14/15日の放射点(または、輻射点)
上昇後の流星雨の(私の見立てでは、数千/時
程度の)出現を記録し、翌10月15/16
日にも同様に、放射点(または、輻射点)
上昇より少し後の、午前0時から薄明少し前
までの流星雨の(私の見立てでは、同じく
数千/時程度から後に数百/時程度の)出現
を記録している。また、西暦1035年10
月14/15日に(私の見立てでは、数千/時
程度の)出現を、比較的長時間記録している。
 西暦1180年前後、平安時代末期成立の
本朝世紀には、西暦967年と西暦1002年
のしし座流星雨について、何らかの言及の後、
”西暦1002年のしし座流星雨は西暦967
年の流星雨と同様である”との旨、記載され
ている。
 以上は又聞きなので、成書名を挙げて置く。
岩波新書207(西暦1982年)
”星の古記録”、斉藤国治。
 なお日付は、ユリウス暦日のようであるが、
 本能寺の変の年、西暦1582年に
実施した、切り替え時の約10日の跳びが煩
わしい。彗星の吉田誠一氏のサイトに、固定
分点の太陽黄経が、967年、1002年の
初日の方、1035年で、220.5、
220.3、220.1と、階段で下がると
の情報がある。木星の引力の影響が小さいと
きに、流星雨になりやすいというパターンで
あろう。脱線するが将棋史と違い、流星雨の
史料はダブついていて、これ以上は無くても、
実は平気だ。

年と、固定分点の太陽黄経λが判れば宣明暦
やユリウス暦の月日は、頭がこんがらがるだ
けなので忘れても良いとの、研究者の声無き
声が聞こえる。

なお太陽黄経の分点は西暦1950年元旦で
やった文献も多い。西暦2000年元旦と、
0.7差(1950が小さい)だが、気をつ
けたい。
 一応ユリウス暦日に斉藤国治氏が換算した
のかどうかを、検証すると以下のようになる。
西暦1799年の流星雨が11月12日。
太陽黄経λが232.8前後になっている。
グレゴリオユリウス1582シフトが10日。
恒星年ユリウス年差600年で4日恒星年大。
恒星年グレゴリ年差220年で3日恒星年大。
1799年対967年のラムダ差約12日分。
全部足すと29日になるので、11月12日
の29日前は10月14日でつじつまが合う。
外挿グレゴリオ暦日だと1000、1100、
1300、1400、1500が閏抜きなの
で、967年だけ10月14/15日ユリは、
10月19/20日グレゴリオ。1002年
と1035年の10月14/15日ユリウス
は、10月20/21日グレゴリオであろう。
このとき、1582年シフトをキャンセル計
算する必要がある。吉田氏のブログの”?”
の付いた西暦年月日は外して読む必要がある。
以上はともかくとして。
 文献でハレー彗星のときと、しし座流星雨
と、パターンが一緒である。つまり扶桑略記
が1100年より前の疑いが強いので、西暦
1140年の安倍泰親の時代よりは、早い。

だから、大彗星と大流星雨は、傾向が同じと
見てよい

と私は考える。現象が奇怪なので、西暦10
35年のしし座流星雨では、後一条天皇の詔
により、特赦が行われたと、前記成書に書い
てある。特赦という政策に関与できたので、
安倍家で言えば、安倍晴明を初代として3代
目の、安倍章親(次男)が、実績を作れた
という事になるのだろう。だから、西暦11
00年より少し前の、扶桑略記の時代に、
5代目の安倍泰長が、

安倍家の流星雨の観測と言う過去実績を、盛
んに宣伝していたとみなせる。

なお、西暦1066年のハレー彗星接近につ
いては、4代目当主、安倍有行の観測を、
5代目の安倍泰長が宣伝したと見なせる。
 よって、大彗星と、少なくともしし座流星
雨とは一緒で、月と惑星、惑星と惑星、惑星
と恒星、以上の各会合現象、超新星のように、
隠匿しては居ない。
 以上で説明はだいたい終わるが、流星雨に
ついては、しし座流星雨という現象の本質を、

平安時代に、自然科学的な見方で発見できな
かったのは何故かという問題提起が、今から
80~90年前程度に、なされている。

問題の提起者は、小惑星の族の発見で天文学
では著名な、東京天文台の平山清次氏である。
これについては、私は、

冷泉天皇、一条天皇、後一条天皇が共に、
藤原摂関政治との関連が深い天皇だったため
に、運悪く発見できなかった

と考えている。西暦967年の流星雨は、
村上天皇のときに一時停止した摂関制度が、
6月に復活し、冷泉天皇の即位4日後である。
西暦1002年の流星雨は一条天皇の即位時。
また西暦1035年のしし座流星雨は、
後一条天皇の即位時である。
 だから村上天皇、三条天皇、後三条天皇等、
藤原摂関と離れた天皇の時代にしし座流星雨
が出現しておれば、無作為に見えたのかもし
れないが。たまたま藤原摂関政治最盛期、
藤原道長の孫の、後一条天皇が、亡くなる1
年前に出たのが、西暦1035年のしし座
流星雨等だった。そのため当時の目には、こ
の流星雨が、西暦1015年の一件のように、

国軍を、私的な唐物を都まで運ばせる為だけ
一時期、持ち場を離れさせるような政治は、
いかがなものかと”天”が首をかしげている

ことによって起因するように見え、テンペル=
タトル彗星が、約33年の周期で、塵を放出
しながら、太陽周辺に回帰している為のよう
には見えなかったと見られるのである。
 事実、上で紹介した史料、特に年差とλを
よく読めば判るが平山清次氏の言うようには、

西暦967年の流星雨と1002年の流星雨
とは、自然現象として似て居ない。

前者が西暦1966年のアメリカの流星雨型、
後者が西暦2001年の日本の流星雨型類似
だからである。
 なお本朝世紀が、考慮しているかどうか不
明だが、西暦1035年の後一条天皇の時代
の出現パターンは、西暦1002年と似るが、
テンペル=タトル彗星の周囲部だけが、木星
接近して、宇宙空間ダスト分布に、強い分布
変化が起こっている回帰のときで、母彗星の
回帰後2年ないし4年経ったところで、毎時
数千個規模の流星雨の起こる、特殊なケース
のようである。そのため、”西暦1002年
のしし座流星雨は、西暦967年の流星雨と
同様である”という旨の本朝世紀記載を、少
なくとも斉藤国治氏の解説を私が読む限りは、

平山清次氏は、自然現象としての現代天文学
的類似性の記載だと、意味を取り違えている

ように私は感じる。それは本当の所は”同じ、
藤原摂関政治を、

天が批判する、何かが有る”と、平安時代の
末期に、本朝世紀が指摘しているという意味

の史料だと、この自然現象の、詳細から私は
考えるのである。
 よってもし、この3イベントについて即位
天皇の性格に関して無秩序に、しし流星雨が
出現していたのなら、

当時でも、単なる自然現象では無いかと、
平清盛のごとき才能の有る人物には、疑われ
る可能性も有ったのかもしれない

のだろう。しかしたまたま、しし座流星雨の
西暦967年、1002年、1035年の出
現が、摂関藤原氏寄りの、天皇の時代ばかり
だったので。いかにも藤原摂関政治を批判す
る天命のようにしか、しし座流星雨の出現が
見えなかったに違いないと私は思うのである。
 さしもの小惑星の族を発見した平山清次氏
も、今から90年前では、学際分野の全く違
う日本史までは、フォローしにくかったのか。

平安時代後期には小惑星だけでなく、天皇に
も族が有る

という事実を、うっかりと見落としてしまっ
たように私には見えるのである。(2020/01/20)

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子供の将棋遊び”将棋崩し””振り将棋”に合体型(長さん)

以前、中国シャンチー駒が宋時代に穴を空けられ
貨幣の準えて宝物とされていた話をした。そのと
き、日本の五角形駒には、そのような習慣が無い
と、ここでは書いたが、

間違いが有る

ようだ。日本将棋としては使用しない、子供の将
棋遊びで、”振り将棋”とか、”お金将棋”とい
うものが、webにも出ている。五角形だが、

将棋の駒を貨幣のように見る見方は、近代の日本
人にも有る。

だから、間違いだという事だ。

よって、これはこれで話が終わりだ。

 なのだが実は、同じ子供将棋で”盗み将棋”と
”振り将棋”を繋げる、ローカルゲームが有るの
を、個人的に私は知っている。

ので、記憶がなくなる前に本ブログで紹介しよう。
 遊ばれている(いた)のは、東京の下町地区で、
時代は、だいたい、西暦1960年代の頃である。
 ようするに将棋崩し(山崩し、または盗み将棋)
をした結果、手持ちの駒を使って、更に振り将棋
(お金将棋)をして、

他人の駒を全部取ったら勝ちというゲーム

が存在したのである。後半のステージでの駒の価
値は、次の通り。
 玉将、飛車、角行、銀将、桂馬、香車、歩兵は
其々100円、60円、50円、30円、10円、
5円、1円。振り駒は、盤外に金将がこぼれたら
0、駒を1箇所でも重ねたらマイナスで、逆払い
のルールであった。そして、金表1枚につき1円
で、本来の0円のはずの、全裏返しで100円、
本来4円のはずの全表で50円。横立ち1枚につ
き5円。縦立ち一枚につき10円。頭逆さ立ちで
1000円なので、最後のケースはいっきに勝負
が付く。なお、参加者がN人の場合他のN-1人
は、それぞれ払いになるので、N-1倍だけ、
”入金”される。
 以上のようなルールである。
 なお、このゲームの参加者は多方、”回り将棋”
もする者なので、振り駒の表現歩数は回り将棋の
ときに同様。ただし全裏返しのときには2階級特
進で角2進。全表返しのときには、1階級特進で
角1進。以上のようにルールを変えた。ただし頭
立ちにはルールが無かったので、たぶん、駒の進
み先を、そろばんで計算したのかもしれない。
(たぶん頭立ち1枚で、31周+8歩前進では、
なかろうか。)
 ちなみに全国各地にローカルルールがあったの
だろうが、たまたま私の知る”回り将棋”では、
歩兵→と金→香車→成香→桂馬→成桂→銀将→
成銀→角行→竜馬→飛車→竜王→玉将と昇格した。
一人に玉が出来たら、出来た者やタッグを組んだ、
変則ゲームのケースは、そのチームの勝ちとなっ
たように記憶する。
 以上の事から、話をパイプラインゲームに戻す
と、後半の振り将棋が出来るように前半の将棋崩
しでは、金将4枚は、予め除いておき、崩しの
将棋の山の中に入れ無いと言う

特徴が、このローカル合体ゲームには有った。

個人的には、将棋崩しで金将に点数が有るという
話には、よって違和感を持っている。
 けっこうよくやっていたと思っていたので、ど
こかに書いてあると思って、webを探してみた
が、この将棋崩し+振り将棋合体ゲームは、ざっ
と見た所、どこにも書いて無いようだ。本ブログ
では、

子供の将棋遊びは、独立に作られたのではなくて
普及者が、幕末のほぼ特定の人物ではないか

との疑いを持っている。だから、合体ゲームは
存在が、尤もらしい話に聞こえる。
 以上の点で、回り将棋や挟み将棋の江戸末期普
及者の、実体ヒントになるかもしれないため、
ここに、ローカルゲームの一つを記録して置く事
にしたい。(2020/01/19)

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シャンチーの玄怪録岑順天那国準え主張は陰陽師(長さん)

以前述べたが、中国シャンチーや、それとの
区別の主張が遅れた、プロト朝鮮チャンギが
日本に侵攻できなかったのは事実だが、原因

解明は難しい。

中国シャンチーのゲーム性の良さは、8升目
原始平安小将棋より、かなり上だし、二中歴
時代の平安大将棋よりは、はるかに良い。
 にもかかわらず、藤原定家の明月記の時代
より少し前に、日本に自然到達したと見るの
が自然な、プロト朝鮮チャンギが、かつての
囲碁のように、日本に上陸できないのは、不
思議である。
 本ブログでは、この点を説明するために、
玄怪録の岑順(小人の戦争)に、勝利国、
金象国の相手国として出てくる、敗戦国の

天那国が、任那を暗に示したものと捉えられ、
宝応将棋が、中国シャンチーとイコールで、
かつ、白村江の戦等での、日本軍の壊滅を示
唆と誤認される事によって、普及を妨げた

としてきた。なお、現在の定説は”宝応将棋
は中国シャンチーとつながる”だが”解明
将棋伝来の謎”の松岡信行氏や本ブログは、
駒名が2文字表現なため等を理由に反対し、
日本の平安小将棋の類と見ている。
 何れにしても今回は、具体的に

こんなデマを流したのは誰か

を論題とする。回答から書く。

平家政権の頃の陰陽師、例えば安倍家7代目
当主の安倍季弘等が疑われる。

では論を開始する。
 中国シャンチーや朝鮮チャンギが伝来する
にしても、最も早くは、博多、太宰府、京都
府の港の住人等か、朝廷や、藤原氏一族等が、
最も情報の入手が、早く出来たはずである。
たとえば天皇については本ブログの論であり
定説では無いが、西暦1129年に源師時長
の長秋記の日記に現われる記事、鳥羽上皇の、
”12枚の将棋の駒を使った袋物占い”に使
用された駒は、宋代の中国シャンチーの駒で
はないかと、前に述べている。つまり、

北宋象棋の時代には既に、中国の象棋ゲーム
情報について、朝廷内部では既知

だったという意味である。
 だから、流行を止めるとすれば、犯人は、
①朝廷内で、発言力が有った疑いが強いし、
②そもそも、玄怪録を根拠にしているとすれ
ば、太平広記を所持している事が疑われる、
陰陽寮に関係する者が最も怪しい
という事になるだろう。更には、平安大将棋
の原案作者が、本ブログの言うように5代目
③安倍泰長だったとしたら、その孫の安倍家
の7代目当主の安倍季弘にとっては、他人が、
平安大将棋から朝鮮チャンギに乗り換えられ
ると、先祖の顔が潰れる
事になろう。だから仮説が正しいとしてだが、

安倍季弘には、デマを流す動機が有る

と私は疑う。特に、普通の人間の主張なら
広まらなかったのだろうが、

陰陽師に、言うときの表情を含めて
オドロオドロしく言われると、皆気持ち悪がっ
て、プロト朝鮮チャンギを指すのを止めた

のではなかろうか。
 また、以上の経緯ならば、朝鮮チャンギ駒
の業者が、李氏朝鮮の時代に、将駒を将から
漢・楚に変えた理由を他人から聞かれたとき
に、質問者に対し、いかにも

④語り草として、語って答えてみせるに相応
しい”日本むかし話”である

ように、私には思える。
 主張した人間が、たまたま”その系”の、

逆らうと、触りの有りそうな人物だったので、

本当は、ゲームとしては出来が良いのに、
中国シャンチー系ゲームが、日本へは、ほと
んど上陸できないという事が、仮に有っても
おかしくは無い。
以上のように、私は考えるのである。
(2020/01/18)

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11世紀末陰陽師は彗星の観測は啓蒙した。(長さん)

これまで、月と惑星の接近、惑星同士の接
近等の今に伝えられた、観測数の増減から、
西暦1094年前後に陰陽師は天体観測の
啓蒙を社会に余りせずに、技術を隠匿した
と、本ブログでは主張してきた。天体の
中国星座内での位置を観測する事に関して
啓蒙しなくなるので、囲碁と民意が離れて
しまい、囲碁は停滞し、平安大将棋は生き
延びたという論だった。今回は、以上の論
理でいっけんしては説明できない事実が有
る事を、明らかにしたい。陰陽道の指導者
の賀茂光平や安倍泰長が、西暦1094年
年末の大江匡房による囲碁衰退指摘の頃に、
彗星の観測を、流行らせていた形跡を示す
史料があるようだ。
 では説明を開始する。
 長谷川一郎氏の著書、”ハレー彗星物語”、
恒星社(1984)で紹介している、西暦
912年、西暦989年、西暦1066年
のハレー彗星の近日点回帰のときに、日本
の陰陽寮での観測を記録したと、記載して
いる史書、

扶桑略記(僧、皇円撰)が、西暦1094
年より少し後の成立

だと見られている。これは、賀茂光平や
安倍泰長が、西暦1094年前後に、天体
のうちで、

彗星だけは、世間に大きく紹介した証拠

とみられる。何故なら、これより前の彗星
観測、又聞き情報古記録古文書が、

西暦870年頃成立の続日本後紀まで見当
たらない

ので、飛びぬけているからである。
 なお、続日本後紀には、西暦837年の
ハレー彗星回帰の記録が載っている。
 さて扶桑略記の後には、続々史料が登場
し、西暦1050年~1200年のどこか
で成立とされる、日本紀略が西暦912年
西暦989年の回帰を記録。またすこし後
のマトメだろうが、群書類従の諸道勘文が、
西暦989年、西暦1066年の、ハレー
彗星の回帰を記録しているという。次は、
藤原頼長の台記の、西暦1145年の条で
あり、ユリウス暦日で5月14日から、同
6月18日まで、22日程度のハレー彗星
の姿が記載されていると前述、長谷川一郎
氏の成書に有る。ついで、同じく長谷川一
郎氏の成書によれば、平安末成立の、
本朝世記に、西暦1145年のハレー彗星
の記載がある。
 以上の事から、10世記から1094年
ころまで、確かに彗星人気は下火だったが、
西暦1100年頃には、人気が戻った疑い
が濃い。

立ち上がりは、月と惑星の会合は西暦
1140年頃からだったが、彗星だけ西暦
1094年より、少し後だったようだ。

前記、長谷川一郎氏の著書によれば、実は、

西暦1097年、1106年、1110年、
1145年と4回、大きな彗星が現われて、
年号が変わっている

という事である。だから、西暦1094年
暮れには、間に合わなかったが、2年後の
西暦1096年頃には”大彗星が現われた”
と、賀茂光平や安倍泰長が騒いで、
彗星天文学を啓蒙した結果、不吉なので、
年号が変わったと考えられる。蛇足だが、
西暦1145年のケースがハレー彗星であ
り、藤原頼長も騒いだのが、年号が変わっ
た原因だったのは明らかであろう。
 では、天文道ならどんな天体でも、囲碁
を盛んにするのかという事だろうが、

彗星はぼんやりしていて、位置天文学を
進展させないので、ドロドロとした陰陽師
の呪術の手助けはするが、囲碁の隆盛には
結びつかない

のではないかと、私は疑う。
 事実、西暦1145年の藤原頼長の台記
で、彗星の位置情報の話が出てくるのは、
ハレー彗星が遠くて、まとまりが有る姿だっ
たので陰陽師によって計測できた、最初の
方の1箇所だけである。後は、

巨大な姿に成長してしまったため、何時に
どっちに見えるのか、書いてある程度

である。他方、異様な姿を、頼長が怖がる
記載は随所に現われる。
 つまり、彗星は元々質量の大きい大彗星
が、太陽と地球に接近したときに注目され
るのであり、そのときの姿は、天に大きく
広がって、尾を伸ばして、見掛け姿が広大
である。
 また動きも速く、何れにしても完全な、
気まぐれに見えるものであり、文字通り、
当時は位置を把握しようにもつかみどころ
もないはずである。
 こうした天体の情報を公開しても、他の
天文道に新規参入しようとする後発の家の
観測技術の向上の知識に、賀茂、安倍家伝
来の観測技術が流用される事の、少ない情
報だと考えられる。
 だから、大衆に対して位置天文道を余り
啓蒙させずに、

陰陽道特有の、恐怖感だけを与えるのに、
ちょうど良い天体

である。よって、陰陽師にとっては、この
天体現象は吹聴し、改元にまで持っていけ
れば、むしろ自己の成果になる。だから、

巨大彗星の接近現象についてだけは、他の
天文現象と異なり、1094年前後に陰陽
師は、むしろ積極的に普及した

のであろう。
 よってこの事からも、西暦1094年頃
の状況は、天文道が衰退して囲碁が流行ら
なかったのではなくて、有能な人物が居た
他家が延びて、過去の栄光だけの自分の一
族に都合の悪い場合は、既得権の有る老舗
の陰陽師が、沈黙して情報を隠匿するよう
な時代だったのだろうと、私には思える。
以上で、彗星については終わる。
 次に、別の天文現象である超新星につい
て考える。すなわち彗星とは違い、超新星
現象については、西暦1006年、西暦
1058年と、-9等、-5等の顕著な現
象が現われたにも係わらず、この2つの天
体への注目は、西暦1230年11月8日
の藤原定家の明月記が初出だった。
 原簿(諸道勘文の類)は、恐らく現存し
ないだろうと、”ドキュメント超新星爆発”
(岩波書店、1988年)で野本陽代氏が
述べている。同成書によればカシオベア座
に、恐らく超新星が西暦1181年に出現
したが、これも、西暦1230年の定家の
記載が、日本では初出のようである。むろ
ん、陰陽師が諸道勘文を書いたから、定家
はそもそも元々コピー出来たはずである。
 ちなみに史料でその前は、恐らく西暦
722年、725年、745年の3つの
新星を記載した、私が未確認の、9世記前
後の古文書とみられる。具体的には西暦
840年頃成立の日本後記などであろうか。
 なお西暦877年と891年にも新星が
出ているが、”かに星雲の話”、石田五郎、
小田捻他著、中央公論社(1973)によ
ると、それも西暦1230年の、藤原定家
の明月記が、私は確証できないが、たぶん
だが初出らしい。
 ちなみに西暦1181年までの、日本で
観測の新星・超新星のリストについては、
下保茂氏の”変光星の観測”西暦1970
年、恒星社が今の所一番信用が置けそうだ。
 9ページに、西暦722年カシオペア座、
西暦725年カシオペア座、西暦745年
アンドロメダ座または、さんかく座が記載。
西暦877年アンドロメダ座からペガスス
座のどこか、西暦891年へびつかい座、
西暦1006年おおかみ座、西暦1054
年おうし座ζ星付近、西暦1181~2年
カシオペア座、以上8イベントとなってい
る。
 言うまでも無く1006年のが最も明る
く、最大で-9等で半月位。次が歴代3位
の1054年の、おうし座の、かに星雲の
元であり-5等程度で、金星の明るさ程度
である。どちらも、出現当時の陰陽師の、
諸道勘文が、現代には残らない程度に、

驚くほどひっそりと、上奏されたのだろう。

なお、おおかみ座は南に低いが、天文道担
当者は観測している。たとえば藤原道長が
言及してもおかしくないが、当時の陰陽寮
の担当者は極有名な安倍晴明が、あいにく

前年に亡くなり、2代目で、藤原実資には
褒められているようだが、より注目度が低
い、次男の安倍吉昌に交代していた

ようだ。そのため、13世紀になって位置
天文道や囲碁の人気が復活し、どちらにも
興味が有った藤原定家が、西暦1230年
に自身の日記に書いて始めて西暦1006
年の、おおかみ座超新星の陰陽師の観測は、
日の目を見る結果になったという事に、ど
うやらなっているようだ。なお、webに
よると、定家の記載の発端は、西暦123
0年の彗星出現だったらしい。
 以上の事から、月・惑星・輝恒星の会合
と超新星は、天球内での位置観測練習にな
るので、技術は家伝にしてしまい、陰陽師
は、その結果について、11世紀頃~西暦
1140年頃までの期間限定で、明らかに
隠匿傾向が存在したようだ。(2020/01/17)

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大将棋作は藤原忠実の父への大江匡房辱めヘ仕返(長さん)

以前に述べたが、西暦1094年暮れ時点
での囲碁の衰退を示唆する史料として、
藤原宗忠の中右記の西暦1094年~95
年(年初)12月11日(宣明暦)の記載
がある。ものと人間の文化史59”碁”
(法制大学出版局、西暦1987年)の中
で、増川宏一氏が内容を具体的に紹介して
いる。
 それによると、

囲碁衰退は嘆かれており、嘆いているのは
直接者としては大江匡房

である。つまり、江戸時代の本朝俗諺誌で
日本将棋の作者とされ、本ブログによれば、
9×9升目36枚制標準型平安小将棋の作
者という事になっている、大江匡房が囲碁
の衰退を嘆いているのを、藤原宗忠が転記
しているのである。中右記の

藤原宗忠自身の意見では無い。

この事から、囲碁はこの時代に実際に、衰
退していたのは確かなのかもしれないが、
大江匡房が、打たないので特に憂いている
特定の人物が、存在する可能性が高いと、
裏読みする事も可能である。
 そこで今回は、特に囲碁をしない人物と
いう”ブラックリスト”に載ったのは誰な
のか、及び

大江匡房に苦言を呈される事によって、
何が起こったのか

を論題とする。答えを書く。

①時の藤原長者の藤原師通が、余り碁をし
なかった事が、なじられている疑いが濃い。
②藤原師通の息子の次代の藤原長者、

藤原忠実が、

大勢の目の前での、父親に対する大江の辱
めを、約16年間恨んでいて、標準型平安
小将棋に、旦代の難点が発覚したときに、

平安大将棋成立のプロジェクトを、さっそ
く立ち上げた疑いが濃い

と考えられる。
 では、以下に論じる。
 増川宏一氏は内容を成書で紹介するとと
もに、中右記の日記の解釈法について論じ
ている。それによると、大江匡房は、西暦
1094年時点で廃れつつある文物として、
囲碁と特定の着衣物のようなものを挙げて
いるとされ、相互に関連性は薄いと解説が
出ている。以下私見だが、御ふざけの掛詞
のような言い方のように、私には見える。
目下を卑下する感じの言い方である。この
事から、主として囲碁をしないために
なじられている人物は、大江匡房が目下と
見ている事に関して、回りが皆、認めてい
る人物だと推定できる。そしてそれは、
西暦1094年時点での藤原長者である、

藤原師通と見るのが自然

だと思われる。何故なら、大江匡房と
藤原師通とは、師弟関係だからである。
つまり、

大江匡房発言は、堀河天皇派の藤原長者の
藤原師通を、白河上皇派の自分が揶揄して
みせた

という意味のものなのだろう。ようするに、

”白河上皇様が囲碁を打とうと思っても、
昨今の藤原長者ともあろうものが、囲碁
も知らないとは、呆れたものよのう”

という含意なのではなかろうか。藤原宗忠
は、藤原忠実(当時15~6歳)や、その
他大勢の、藤原一族貴族の者が居る前で、
藤原忠実の親が大江匡房から皮肉られるの
を聞いて、日記に書いたのではないかとい
うのが、私の推定である。
 当然だが、息子の藤原忠実は、西暦10
94年時点で、大江の発言には”ムカッ”
と来たに違いない。そしてその後少しして、
大江匡房が、白河上皇が天皇時代の西暦
1080年頃に、興福寺の僧の将棋の作法
が、気に入らなかった等が発端で作成した、
9×9升目36枚制の標準型平安小将棋に、
旦代の難点が発生した事が発覚すると、
天文道のポストの独占を狙って、忠実自身
に擦り寄ってきていたとされる(陰陽道の
発見、山下克明)陰陽寮の安倍泰長と、
その一派を利用して西暦1110年前後に

平安大将棋を作成して大江の鼻をあかそう

と考えたとしても、少しも、おかしくない
ように私には思えるのである。
 なお実際に、崇徳天皇の前で”大将棋を
指した”のは、藤原忠実のお陰で、一時期
藤原長者になれ、ついで、保元の乱で敗れ
て亡くなった、藤原頼長であった。戻すと、
むろん大江匡房とその一派、藤原忠実と
その一派、つまり原案作成者団体としては、
安倍泰長と陰陽寮の仲間のどちらにも、ゲー
ムデザインの名人級の人物が居なかった。
そのため、

標準型平安小将棋、二中歴平安大将棋の
どちらもが、出来の悪いゲーム

に終わったのであろう。つまり院政を始め
た白河上皇は、天文・囲碁道が中国文化圏
の王朝にとって、皇帝体制を支えるアイテ
ムに挙がっているという、結果論を知って
いたから、囲碁の復興希望を持ち出したの
であろうが。当時から既に、ドロドロした
呪術をする事だけが、余りにも有名になっ
ており、隠れた場所で天文道担当者が、他
家からは出ないようにするという、”陰湿”
な情報操作をも同時に陰陽道師の安倍泰長
らがしていた事を、考慮に入れなかった為、

囲碁を復活させ、ゲームデザイン力を上げ
るには、実際には何をどうするのかが、白
河上皇時代には、上皇を初めとして、臣下
の誰にもよく判らなくなってしまっていた。

以上のような経緯に、どうやらなっていた
という事の次第のようである。(2020/01/16)

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高知城横の下屋敷跡で2006年幕末将棋盤発掘(長さん)

山形県天童市将棋資料館作成の、天童の将棋駒
と全国出土駒の発行後なため、余り知られて居
ないが、東京の溜池山王遺跡以外にも、江戸時
代の将棋盤は出土しているようだ。一例として、
かなり前だが、西暦2005年頃に、高知県
高知市の高知城横の、地方裁判所の敷地を発掘
したところ、江戸時代末期に使われた、日本
将棋の盤が出土したらしい。(発掘された日本
列島、2006、文化庁)。
 紹介文書の写真によると、

高価なものではなく、実用の為のものであり、
聖目は無く、3~5段目で二つに割れたものの
片方の出土

である。なお、同書によると、裏に贈答先と、
作成者の名前があるらしい。場所は、高知城の
城主の親類の屋敷とされ、幕末であって、古く
は無いという。なお、発掘された日本列島20
06、60ページに共出土品の写真と説明も有
り、羽子板や焼き塩を入れる瓶等は、同時代の
ものらしい。いっしょに出土したものの中に、
”コマ”が有るとも本文中に記載されているが、
将棋駒か回すコマの事が、私には良く判らない。
”コマ”の写真は、前記成書には載って居ない。
 将棋盤といっても、極薄手のもので、大名の
姫様の輿入れの、三面の分厚い高級将棋盤のイ
メージでは全く無い。
 裏に作者の名前を書くほどのものとは、余り
見えないが、その点が謎であろう。この将棋用
物品は、高知県の埋蔵文化財センターで、保管
されたらしい。(2020/01/15)

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安倍泰長作平安大将棋の伸長は泰長一人芝居(長さん)

以下、西暦1100年頃に安倍家が陰陽寮
へ進出した結果、当主の安倍泰長の責任で
作成できた平安大将棋(二中暦記載)は、
天文道職の独占の思惑から、天体観測結果
が安倍泰長によって隠匿され、為に囲碁道
が一時衰退し、それにより更にゲームの出
来に対する目が失われて、出来の悪いのに
気が付かれずに平安貴族の間に広まり、後
の、大将棋文化の伸長につながったとの旨
の、”風と桶屋風”の話をする。
 本ブログのこれまでの論によれば、天文
道の隆盛と囲碁文化とは正相関し、初期の
ゲーム性能の劣る、初期将棋の広がりは、
逆相関するという事だった。
 そして以前に、安倍晴明を初代と数えて
それから5代目の安倍泰長の頃には、天文
道の職を、安倍家(後の、土御門家)で独
占する過程の時代であり、天体観測結果の
社会への広報を情報の一族内での”お抱え”
を狙って怠り、天文道に対する、大衆の関
心は、西暦1094年を中心に、概ね西暦
1000年~1140年程度まで、衰えた
との史料があるとの旨で、東京天文台の、
斉藤国治氏の月や惑星の会合に関する研究
史料を紹介した。
 この事から、ものと人間の文化史59碁
で、増川宏一氏が紹介している、囲碁の西
暦1094年前後の一時的停滞が、説明可
能との旨述べた。
 他方本ブログによれば、横行の初期位置
等の事実から、二中暦の大将棋、すなわち
平安大将棋は、安部泰長を頭目とする、宋
王朝の太平広記に接触可能な当時の朝廷内
陰陽寮の関与が疑われている。原案を陰陽
寮が作成してから、藤原頼長よりも少し先
代の藤原長者、恐らく藤原忠実のグループ
がチェックしたとみられるとの意味である。
ところが、この平安大将棋(二中暦大将棋)
にはゲーム性に難が有り、

攻め駒が少なすぎて、ゲームを終了させに
くい事は、明らか

である。そして13世紀になると藤原定家
も、ゲームの出来が不出来である事を示唆
する内容を、日記・明月記で示唆している
ようだというのが、本ブログ説である。
つまり、

出来が悪かったが、しばらくゲーマーの目
が肥えていなかったので、西暦1200年
時点で二中暦に記載されて、生き残った

という事である。だから、家業を代々独占
しようとして、安倍泰長が天文道の世間に
対する広報を怠った結果、天文道のブーム
が去り、その結果囲碁が衰退して、貴族等
のゲーマーの、ゲームの出来に対する目が
失われ、他方安倍泰長自身のゲームの出来
に対する目も失われた結果、藤原氏の依頼
で、出来の悪い、平安大将棋を作ってしま
った。しかも、ゲームの出来の良し悪しに
関する目が有る人間が、11世紀の終わり
頃から西暦1140年まで減少したために、

平安大将棋を成長させてしまった

という事になる。ようするに安倍泰長一派
が、平安大将棋を盛んに出来たのは、自身
の天文道技術のしまい込という業が、回り
回ってもたらした、一人二役芝居のためだっ
たという事になる。
 他方、10世記の末頃までは、安部晴明
自身が駆け出しの頃であり、賀茂家も晴明
に対して、さほどの警戒感も持っておらず、

10世記に天文道は、賀茂家によって良く
宣伝されていた

のであろう。だから、原始平安小将棋が西
暦1015年に伝来した時点では、ゲーマー
は枕草子や源氏物語から啓蒙されて、囲碁
を盛んに打ったのであり、ゲームの出来に
対する目は厳しかったと予想される。
そのため、

小将棋の伸長は、ゲーマーの大理国原始平
安小将棋への改善能力が高く、”裸玉勝ち
の自殺手負けに対する優先”という改良が
直ちに行われて、ゲームが伸長した

のだと見られる。つまり、南詔国や大理国
の恐らく王族による、ある程度のゲーム改
善のお陰で、ゲームの出来がソコソコになっ
ていたので、ゲームの出来にうるさい日本
人も、平安小将棋の方は、原始タイプ(8
升目)については、受け入れたとの意味で
ある。
 他方、西暦1110年時点での、日本人
の囲碁のブームの停滞による、ゲームの出
来に対する眼力の低下は、西暦1015年
頃よりも影響が深刻だった。そのため、
安倍泰長とその少し前の当主がもっと、
天文道の一般普及に熱心だったとすると、

当の安倍泰長の平安大将棋は、西暦120
0年の二中歴の成立まで、モタナかった疑
いがある

と私は思う。その効果は将棋が小将棋だけ
になってしまうという結果を生むため、

日本の将棋の伝統は、より筋細になり

もしかすると、朝鮮チャンギ等の侵攻を、
鎌倉時代初期に許す結果になったかもしれ
無かったのかもしれない。実際にはそうな
らなかったのは、平安大将棋、奇跡の生き
残りのためもあるのだろう。
 そして、実際には安倍泰長から6代目の
安倍泰親に代替わりすると、土御門家の、
天文道への独占は、ほぼ完了し、再び天文
道普及にポジティブになって、囲碁優勢が
西暦1200年頃までには蘇った。その結
果ゲーマーのゲームの出来の良し悪しに対
する目は、西暦1210年過ぎには再び厳
しくなった。そのため、平安大将棋の粗は、

囲碁をした記録をも、明月記に記載し、碁
にも熱心だったとみられる、鎌倉時代初の
藤原定家の時代に、問題視

されるようになったとみられる。なお、藤
原定家自身については、明月記の”四位の
葉室仲房?・云・・云・・”の条(西暦
1213年4月27日)に、定家自身が、
平安大将棋の欠陥に気がついていて、それ
について述べているというのが、本ブログ
の従来からの見方である。何れにしてもそ
の結果、それ以降は、徳島市川西大将棋へ
と、大将棋が進化しながら継続したのであ
ろう。
 なお、藤原定家が天文道にも関心が有っ
たという事は、興福寺出土駒(早いほう)
の時代頃の、西暦1054年に爆発出現し、
定家自身の時代には消えた天文現象、

”おうし座のかに星雲”の超新星爆発を、
明月記で記載している事

から明らかに判る。
 以上をまとめると、本ブログとしては、
西暦1110年前後の

平安大将棋の継続は、天文道と囲碁の、
一時的衰退により、ゲームの出来に対する
眼力の低下が寄与している

と考える。
 天文道の人気が衰退してくれたお陰での
隆盛は、よって大将棋に対しては有り、
小将棋には余り寄与が無い。しかし、トータル
としてみると、作責任者かもしれない安倍泰長
自身が、一人二役芝居でやった事のように、
本ブログでは疑われるが、一時、

月と星を世間が見なくなった事は、その結
果、風と桶屋のパターンで将棋ゲーム種に
厚みが出来たという意味で、多少その後の
将棋の隆盛にはプラスに寄与した。

以上のように、結論出来るように思われる
のである。(2020/01/14)

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11世紀の碁の停滞記録は、天文道の停滞反映か(長さん)

今回は、増川宏一氏が、ものと人間の文化史
59、碁で紹介している、”11世期の碁の
一時期停滞”文書の真偽性、仮に真だとした
として、本ブログの論のように日本の天文道
が衰退したと、考えられるのかどうかを議論
する。結論から述べる。本ブログでは

11世記末の碁の一時停滞は真

と見る。理由は、

天文道の成果の社会普及が、西暦1000年
~1140年にかけて、極端に悪かったとい
う事実が実在する

と認識するからである。
 では、以下に論じる。ものと人間の文化史
59”碁”によると、碁停滞を指摘する古文
書は

1つだけであり、西暦1094~5年年初の
12月11日(宣明暦)付け、中右記という
藤原宗忠の日記の記載

だとされる。だから史料数が少なく、真偽が
極めて怪しいと、見て取れる。日本の囲碁は、
この古文書の存在により、

11世紀に一時期落ちて、直ぐに戻った

のかもしれないと、増川氏の書き方ではみら
れているのである。なお、落ちる前で有名な
のは、後三年の役で、囲碁に夢中で訪問武者
を無視したので戦争が始まったという、西暦
1184年の史話であり、復活した後の方は、
西暦1144年8月4日の藤原頼長の台記に、
囲碁が盛んに打たれているように書いてある
というものである。なお、西暦1095年と
西暦1144年の間に、”碁の道具の存在を
証明する史料が2つ有る”と、ものと人間の
文化史59”碁”(増川宏一)には同じく記
載がある。
 他方、本ブログでは、中国王朝古天文道が
支配する状況下で、

暦学者が、暦の改善をするように、アマチュ
ア天文家に月と星との相対位置を、中国星座
に準拠し真面目に見るように働きかける事が、
社会に囲碁が盛んになるメカニズム

であると、これまで主張している。
では、働きかけが悪いので、
天体観測結果に興味を持つ日本人の数が、
11世紀に、極端に減ったという証拠がある
のかと言うと、

明快に、そのような事実が存在する。

月と星、惑星と惑星や星が、食したり接近し
たりする記録を、東京天文台の斉藤国治氏が
以前調査したのは有名だが、次の成書に残っ
た記録の数が、

9世記は20~30件、10世記は数件、
11世紀は1件、12世紀の40年までは、
ゼロ、40年以降の12世紀は数十件

と載っている。
㈱同朋社、西暦2015年、”平安時代
陰陽道史研究”山下克明”観測技能、精度の
問題”末尾表(247ページ以下)。
なお、天文台の斉藤国治氏のチェックによる
と、上記の時代の間、天文道担当者の

観測精度は落ちて居ない。

精度が落ちるのは、13世紀に入って、鎌倉
時代になってからである。だから、

能力があるのに、観測しなかったか、結果を
隠して、世間に知らせなかったから

である。後者とみるのが妥当である。つまり、

普段から真面目に観測しているので、精度が
落ちないのであり、世間の注目が無いだけ

だとみられる。注目が無いのは結果を隠して
いるためだとみられ、理由だが、

後継者を公募せず、一族で独占しようとする。
つまり安倍(=土御門家)の天文道世襲成立
時期に、観測情報を隠匿したから

である。一旦、独占に成功すると、積極的に
観測結果をアピールして、世襲を安定させよ
うとしているのである。
事実、12世紀の1140年から後の記録は、

初代安倍晴明の5代下で次男の、六代目当主
安倍泰親による広報記録

である。なお安倍泰親は、”大将棋を指した”
の日記で有名な、台記の藤原頼長とも関連が
深い人物である。
 また本ブログでは、平安大将棋原案作の、
最高責任者は、安倍泰親の父親である、
五代目の当主、安倍泰長と見ている。
 なお、天文道の安倍氏の独占が完成したの
は、NHKブックス、”陰陽道の発見”、
山下克明(2010年)によれば、12世紀、
安倍泰長の頃からであり、その前は賀茂家に
圧倒されていたとされる。賀茂家が天文道と
暦道の独占をしたのは、西暦1065年頃と
され、西暦1065年~1140年程度まで、
暦道と天文道に、共に強かったようである。
安倍晴明が天文道の中心だったのは、1代だ
けで、2~4代目は、賀茂家に圧倒されてい
て、独占を目指した活動が、続いたようであ
る。他方賀茂家も、安倍晴明の子孫に、天文
道を取られないように、一族内で、情報を
キープしようとしたとみられる。その結果が、

我々の見る、天文現象観測記録の噂の件数差

のようである。賀茂氏が天文道の観測結果を
アピールしなかったのは、安倍家2~4代目
当主の腕を、上げないようにするためと、

暦道の独占を安定化させるため、宣明暦から
の改暦に有利な情報に関する広報のブロック

だったのであろう。当時から、月食や部分
日食の予想は、出しすぎで、はずれが多かっ
たはずである。

ごたごたさせると、世間の別の所から、作暦
の名人が現われては、賀茂家にとった迷惑

だと言う意味である。
 当然だが、それよりずっと前の9世紀まで
は、得意な役人が、暦編纂をするという、
大和王権内にも、公平な人事システムが、
ある程度は、機能していたに違いない。
 以上の事から、事情詳細には不確定性が
あるとしても、

11世紀に、暦編纂一族の他は、天体観測に
係わらせたくないという空気がたぶんあって、
現実として観測結果の広報に、当時の専門家
が、後ろ向きだったと推定できる

ように、私には思える。そのため、

世間に広く、囲碁の必要性をアピールする
動きが、役職奪取の闘争の結果一時期に停滞

したと考えても、大きな矛盾が無いような

史料が、実際に有る

ようである。
 従って11世紀末に、枕草子や源氏物語が
一段落した時期に、囲碁をする空気が、

少し衰えたという事が、実際に有ってもおか
しくは無い。

以上のように、私には結論されたのである。
(2020/01/13)

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2000天狗谷窯発掘調査速報に陶器の角行(長さん)

一部の検索エンジンでhitするものの、
元ページがリンク切れで正体が不明だった
表題の、所在地:佐賀県西松浦郡有田町白
川、調査主体:有田町教育委員会、西暦
2000年発掘とみられる、裏龍馬角行駒
の出土5W1Hの実体が、最近になって、
ようやく判明した。

有田焼き.gif

発掘風景の写真の方に、元リンクのurl
が張ってあったのを、私が見落としていた
ようだ。江戸時代初期の駒とみられている
らしい。天童の将棋駒と全国出土駒の出版
に、間に合う発掘年パターンだが、この
裏龍馬角行駒は、成書には記載が無いよう
である。
 天狗谷窯跡は、有田焼の釜の跡で、九州
では木製の将棋駒だけでなく、陶器の駒も
出土する事自体については、以前より良く
知られていた。この出土駒も初期とは言え、
江戸時代のもの(西暦1630年頃)であ
るから、残念ながらさほど古くは無い。し
かし、今後も数が増えそうな予感のする、
先々何か、新しい情報が出てくる可能性を
示唆する明るいニュースである。(2020/01/12)

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