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11世紀の碁の停滞記録は、天文道の停滞反映か(長さん)

今回は、増川宏一氏が、ものと人間の文化史
59、碁で紹介している、”11世期の碁の
一時期停滞”文書の真偽性、仮に真だとした
として、本ブログの論のように日本の天文道
が衰退したと、考えられるのかどうかを議論
する。結論から述べる。本ブログでは

11世記末の碁の一時停滞は真

と見る。理由は、

天文道の成果の社会普及が、西暦1000年
~1140年にかけて、極端に悪かったとい
う事実が実在する

と認識するからである。
 では、以下に論じる。ものと人間の文化史
59”碁”によると、碁停滞を指摘する古文
書は

1つだけであり、西暦1094~5年年初の
12月11日(宣明暦)付け、中右記という
藤原宗忠の日記の記載

だとされる。だから史料数が少なく、真偽が
極めて怪しいと、見て取れる。日本の囲碁は、
この古文書の存在により、

11世紀に一時期落ちて、直ぐに戻った

のかもしれないと、増川氏の書き方ではみら
れているのである。なお、落ちる前で有名な
のは、後三年の役で、囲碁に夢中で訪問武者
を無視したので戦争が始まったという、西暦
1184年の史話であり、復活した後の方は、
西暦1144年8月4日の藤原頼長の台記に、
囲碁が盛んに打たれているように書いてある
というものである。なお、西暦1095年と
西暦1144年の間に、”碁の道具の存在を
証明する史料が2つ有る”と、ものと人間の
文化史59”碁”(増川宏一)には同じく記
載がある。
 他方、本ブログでは、中国王朝古天文道が
支配する状況下で、

暦学者が、暦の改善をするように、アマチュ
ア天文家に月と星との相対位置を、中国星座
に準拠し真面目に見るように働きかける事が、
社会に囲碁が盛んになるメカニズム

であると、これまで主張している。
では、働きかけが悪いので、
天体観測結果に興味を持つ日本人の数が、
11世紀に、極端に減ったという証拠がある
のかと言うと、

明快に、そのような事実が存在する。

月と星、惑星と惑星や星が、食したり接近し
たりする記録を、東京天文台の斉藤国治氏が
以前調査したのは有名だが、次の成書に残っ
た記録の数が、

9世記は20~30件、10世記は数件、
11世紀は1件、12世紀の40年までは、
ゼロ、40年以降の12世紀は数十件

と載っている。
㈱同朋社、西暦2015年、”平安時代
陰陽道史研究”山下克明”観測技能、精度の
問題”末尾表(247ページ以下)。
なお、天文台の斉藤国治氏のチェックによる
と、上記の時代の間、天文道担当者の

観測精度は落ちて居ない。

精度が落ちるのは、13世紀に入って、鎌倉
時代になってからである。だから、

能力があるのに、観測しなかったか、結果を
隠して、世間に知らせなかったから

である。後者とみるのが妥当である。つまり、

普段から真面目に観測しているので、精度が
落ちないのであり、世間の注目が無いだけ

だとみられる。注目が無いのは結果を隠して
いるためだとみられ、理由だが、

後継者を公募せず、一族で独占しようとする。
つまり安倍(=土御門家)の天文道世襲成立
時期に、観測情報を隠匿したから

である。一旦、独占に成功すると、積極的に
観測結果をアピールして、世襲を安定させよ
うとしているのである。
事実、12世紀の1140年から後の記録は、

初代安倍晴明の5代下で次男の、六代目当主
安倍泰親による広報記録

である。なお安倍泰親は、”大将棋を指した”
の日記で有名な、台記の藤原頼長とも関連が
深い人物である。
 また本ブログでは、平安大将棋原案作の、
最高責任者は、安倍泰親の父親である、
五代目の当主、安倍泰長と見ている。
 なお、天文道の安倍氏の独占が完成したの
は、NHKブックス、”陰陽道の発見”、
山下克明(2010年)によれば、12世紀、
安倍泰長の頃からであり、その前は賀茂家に
圧倒されていたとされる。賀茂家が天文道と
暦道の独占をしたのは、西暦1065年頃と
され、西暦1065年~1140年程度まで、
暦道と天文道に、共に強かったようである。
安倍晴明が天文道の中心だったのは、1代だ
けで、2~4代目は、賀茂家に圧倒されてい
て、独占を目指した活動が、続いたようであ
る。他方賀茂家も、安倍晴明の子孫に、天文
道を取られないように、一族内で、情報を
キープしようとしたとみられる。その結果が、

我々の見る、天文現象観測記録の噂の件数差

のようである。賀茂氏が天文道の観測結果を
アピールしなかったのは、安倍家2~4代目
当主の腕を、上げないようにするためと、

暦道の独占を安定化させるため、宣明暦から
の改暦に有利な情報に関する広報のブロック

だったのであろう。当時から、月食や部分
日食の予想は、出しすぎで、はずれが多かっ
たはずである。

ごたごたさせると、世間の別の所から、作暦
の名人が現われては、賀茂家にとった迷惑

だと言う意味である。
 当然だが、それよりずっと前の9世紀まで
は、得意な役人が、暦編纂をするという、
大和王権内にも、公平な人事システムが、
ある程度は、機能していたに違いない。
 以上の事から、事情詳細には不確定性が
あるとしても、

11世紀に、暦編纂一族の他は、天体観測に
係わらせたくないという空気がたぶんあって、
現実として観測結果の広報に、当時の専門家
が、後ろ向きだったと推定できる

ように、私には思える。そのため、

世間に広く、囲碁の必要性をアピールする
動きが、役職奪取の闘争の結果一時期に停滞

したと考えても、大きな矛盾が無いような

史料が、実際に有る

ようである。
 従って11世紀末に、枕草子や源氏物語が
一段落した時期に、囲碁をする空気が、

少し衰えたという事が、実際に有ってもおか
しくは無い。

以上のように、私には結論されたのである。
(2020/01/13)

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