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安倍泰長作平安大将棋の伸長は泰長一人芝居(長さん)

以下、西暦1100年頃に安倍家が陰陽寮
へ進出した結果、当主の安倍泰長の責任で
作成できた平安大将棋(二中暦記載)は、
天文道職の独占の思惑から、天体観測結果
が安倍泰長によって隠匿され、為に囲碁道
が一時衰退し、それにより更にゲームの出
来に対する目が失われて、出来の悪いのに
気が付かれずに平安貴族の間に広まり、後
の、大将棋文化の伸長につながったとの旨
の、”風と桶屋風”の話をする。
 本ブログのこれまでの論によれば、天文
道の隆盛と囲碁文化とは正相関し、初期の
ゲーム性能の劣る、初期将棋の広がりは、
逆相関するという事だった。
 そして以前に、安倍晴明を初代と数えて
それから5代目の安倍泰長の頃には、天文
道の職を、安倍家(後の、土御門家)で独
占する過程の時代であり、天体観測結果の
社会への広報を情報の一族内での”お抱え”
を狙って怠り、天文道に対する、大衆の関
心は、西暦1094年を中心に、概ね西暦
1000年~1140年程度まで、衰えた
との史料があるとの旨で、東京天文台の、
斉藤国治氏の月や惑星の会合に関する研究
史料を紹介した。
 この事から、ものと人間の文化史59碁
で、増川宏一氏が紹介している、囲碁の西
暦1094年前後の一時的停滞が、説明可
能との旨述べた。
 他方本ブログによれば、横行の初期位置
等の事実から、二中暦の大将棋、すなわち
平安大将棋は、安部泰長を頭目とする、宋
王朝の太平広記に接触可能な当時の朝廷内
陰陽寮の関与が疑われている。原案を陰陽
寮が作成してから、藤原頼長よりも少し先
代の藤原長者、恐らく藤原忠実のグループ
がチェックしたとみられるとの意味である。
ところが、この平安大将棋(二中暦大将棋)
にはゲーム性に難が有り、

攻め駒が少なすぎて、ゲームを終了させに
くい事は、明らか

である。そして13世紀になると藤原定家
も、ゲームの出来が不出来である事を示唆
する内容を、日記・明月記で示唆している
ようだというのが、本ブログ説である。
つまり、

出来が悪かったが、しばらくゲーマーの目
が肥えていなかったので、西暦1200年
時点で二中暦に記載されて、生き残った

という事である。だから、家業を代々独占
しようとして、安倍泰長が天文道の世間に
対する広報を怠った結果、天文道のブーム
が去り、その結果囲碁が衰退して、貴族等
のゲーマーの、ゲームの出来に対する目が
失われ、他方安倍泰長自身のゲームの出来
に対する目も失われた結果、藤原氏の依頼
で、出来の悪い、平安大将棋を作ってしま
った。しかも、ゲームの出来の良し悪しに
関する目が有る人間が、11世紀の終わり
頃から西暦1140年まで減少したために、

平安大将棋を成長させてしまった

という事になる。ようするに安倍泰長一派
が、平安大将棋を盛んに出来たのは、自身
の天文道技術のしまい込という業が、回り
回ってもたらした、一人二役芝居のためだっ
たという事になる。
 他方、10世記の末頃までは、安部晴明
自身が駆け出しの頃であり、賀茂家も晴明
に対して、さほどの警戒感も持っておらず、

10世記に天文道は、賀茂家によって良く
宣伝されていた

のであろう。だから、原始平安小将棋が西
暦1015年に伝来した時点では、ゲーマー
は枕草子や源氏物語から啓蒙されて、囲碁
を盛んに打ったのであり、ゲームの出来に
対する目は厳しかったと予想される。
そのため、

小将棋の伸長は、ゲーマーの大理国原始平
安小将棋への改善能力が高く、”裸玉勝ち
の自殺手負けに対する優先”という改良が
直ちに行われて、ゲームが伸長した

のだと見られる。つまり、南詔国や大理国
の恐らく王族による、ある程度のゲーム改
善のお陰で、ゲームの出来がソコソコになっ
ていたので、ゲームの出来にうるさい日本
人も、平安小将棋の方は、原始タイプ(8
升目)については、受け入れたとの意味で
ある。
 他方、西暦1110年時点での、日本人
の囲碁のブームの停滞による、ゲームの出
来に対する眼力の低下は、西暦1015年
頃よりも影響が深刻だった。そのため、
安倍泰長とその少し前の当主がもっと、
天文道の一般普及に熱心だったとすると、

当の安倍泰長の平安大将棋は、西暦120
0年の二中歴の成立まで、モタナかった疑
いがある

と私は思う。その効果は将棋が小将棋だけ
になってしまうという結果を生むため、

日本の将棋の伝統は、より筋細になり

もしかすると、朝鮮チャンギ等の侵攻を、
鎌倉時代初期に許す結果になったかもしれ
無かったのかもしれない。実際にはそうな
らなかったのは、平安大将棋、奇跡の生き
残りのためもあるのだろう。
 そして、実際には安倍泰長から6代目の
安倍泰親に代替わりすると、土御門家の、
天文道への独占は、ほぼ完了し、再び天文
道普及にポジティブになって、囲碁優勢が
西暦1200年頃までには蘇った。その結
果ゲーマーのゲームの出来の良し悪しに対
する目は、西暦1210年過ぎには再び厳
しくなった。そのため、平安大将棋の粗は、

囲碁をした記録をも、明月記に記載し、碁
にも熱心だったとみられる、鎌倉時代初の
藤原定家の時代に、問題視

されるようになったとみられる。なお、藤
原定家自身については、明月記の”四位の
葉室仲房?・云・・云・・”の条(西暦
1213年4月27日)に、定家自身が、
平安大将棋の欠陥に気がついていて、それ
について述べているというのが、本ブログ
の従来からの見方である。何れにしてもそ
の結果、それ以降は、徳島市川西大将棋へ
と、大将棋が進化しながら継続したのであ
ろう。
 なお、藤原定家が天文道にも関心が有っ
たという事は、興福寺出土駒(早いほう)
の時代頃の、西暦1054年に爆発出現し、
定家自身の時代には消えた天文現象、

”おうし座のかに星雲”の超新星爆発を、
明月記で記載している事

から明らかに判る。
 以上をまとめると、本ブログとしては、
西暦1110年前後の

平安大将棋の継続は、天文道と囲碁の、
一時的衰退により、ゲームの出来に対する
眼力の低下が寄与している

と考える。
 天文道の人気が衰退してくれたお陰での
隆盛は、よって大将棋に対しては有り、
小将棋には余り寄与が無い。しかし、トータル
としてみると、作責任者かもしれない安倍泰長
自身が、一人二役芝居でやった事のように、
本ブログでは疑われるが、一時、

月と星を世間が見なくなった事は、その結
果、風と桶屋のパターンで将棋ゲーム種に
厚みが出来たという意味で、多少その後の
将棋の隆盛にはプラスに寄与した。

以上のように、結論出来るように思われる
のである。(2020/01/14)

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