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大将棋作は藤原忠実の父への大江匡房辱めヘ仕返(長さん)

以前に述べたが、西暦1094年暮れ時点
での囲碁の衰退を示唆する史料として、
藤原宗忠の中右記の西暦1094年~95
年(年初)12月11日(宣明暦)の記載
がある。ものと人間の文化史59”碁”
(法制大学出版局、西暦1987年)の中
で、増川宏一氏が内容を具体的に紹介して
いる。
 それによると、

囲碁衰退は嘆かれており、嘆いているのは
直接者としては大江匡房

である。つまり、江戸時代の本朝俗諺誌で
日本将棋の作者とされ、本ブログによれば、
9×9升目36枚制標準型平安小将棋の作
者という事になっている、大江匡房が囲碁
の衰退を嘆いているのを、藤原宗忠が転記
しているのである。中右記の

藤原宗忠自身の意見では無い。

この事から、囲碁はこの時代に実際に、衰
退していたのは確かなのかもしれないが、
大江匡房が、打たないので特に憂いている
特定の人物が、存在する可能性が高いと、
裏読みする事も可能である。
 そこで今回は、特に囲碁をしない人物と
いう”ブラックリスト”に載ったのは誰な
のか、及び

大江匡房に苦言を呈される事によって、
何が起こったのか

を論題とする。答えを書く。

①時の藤原長者の藤原師通が、余り碁をし
なかった事が、なじられている疑いが濃い。
②藤原師通の息子の次代の藤原長者、

藤原忠実が、

大勢の目の前での、父親に対する大江の辱
めを、約16年間恨んでいて、標準型平安
小将棋に、旦代の難点が発覚したときに、

平安大将棋成立のプロジェクトを、さっそ
く立ち上げた疑いが濃い

と考えられる。
 では、以下に論じる。
 増川宏一氏は内容を成書で紹介するとと
もに、中右記の日記の解釈法について論じ
ている。それによると、大江匡房は、西暦
1094年時点で廃れつつある文物として、
囲碁と特定の着衣物のようなものを挙げて
いるとされ、相互に関連性は薄いと解説が
出ている。以下私見だが、御ふざけの掛詞
のような言い方のように、私には見える。
目下を卑下する感じの言い方である。この
事から、主として囲碁をしないために
なじられている人物は、大江匡房が目下と
見ている事に関して、回りが皆、認めてい
る人物だと推定できる。そしてそれは、
西暦1094年時点での藤原長者である、

藤原師通と見るのが自然

だと思われる。何故なら、大江匡房と
藤原師通とは、師弟関係だからである。
つまり、

大江匡房発言は、堀河天皇派の藤原長者の
藤原師通を、白河上皇派の自分が揶揄して
みせた

という意味のものなのだろう。ようするに、

”白河上皇様が囲碁を打とうと思っても、
昨今の藤原長者ともあろうものが、囲碁
も知らないとは、呆れたものよのう”

という含意なのではなかろうか。藤原宗忠
は、藤原忠実(当時15~6歳)や、その
他大勢の、藤原一族貴族の者が居る前で、
藤原忠実の親が大江匡房から皮肉られるの
を聞いて、日記に書いたのではないかとい
うのが、私の推定である。
 当然だが、息子の藤原忠実は、西暦10
94年時点で、大江の発言には”ムカッ”
と来たに違いない。そしてその後少しして、
大江匡房が、白河上皇が天皇時代の西暦
1080年頃に、興福寺の僧の将棋の作法
が、気に入らなかった等が発端で作成した、
9×9升目36枚制の標準型平安小将棋に、
旦代の難点が発生した事が発覚すると、
天文道のポストの独占を狙って、忠実自身
に擦り寄ってきていたとされる(陰陽道の
発見、山下克明)陰陽寮の安倍泰長と、
その一派を利用して西暦1110年前後に

平安大将棋を作成して大江の鼻をあかそう

と考えたとしても、少しも、おかしくない
ように私には思えるのである。
 なお実際に、崇徳天皇の前で”大将棋を
指した”のは、藤原忠実のお陰で、一時期
藤原長者になれ、ついで、保元の乱で敗れ
て亡くなった、藤原頼長であった。戻すと、
むろん大江匡房とその一派、藤原忠実と
その一派、つまり原案作成者団体としては、
安倍泰長と陰陽寮の仲間のどちらにも、ゲー
ムデザインの名人級の人物が居なかった。
そのため、

標準型平安小将棋、二中歴平安大将棋の
どちらもが、出来の悪いゲーム

に終わったのであろう。つまり院政を始め
た白河上皇は、天文・囲碁道が中国文化圏
の王朝にとって、皇帝体制を支えるアイテ
ムに挙がっているという、結果論を知って
いたから、囲碁の復興希望を持ち出したの
であろうが。当時から既に、ドロドロした
呪術をする事だけが、余りにも有名になっ
ており、隠れた場所で天文道担当者が、他
家からは出ないようにするという、”陰湿”
な情報操作をも同時に陰陽道師の安倍泰長
らがしていた事を、考慮に入れなかった為、

囲碁を復活させ、ゲームデザイン力を上げ
るには、実際には何をどうするのかが、白
河上皇時代には、上皇を初めとして、臣下
の誰にもよく判らなくなってしまっていた。

以上のような経緯に、どうやらなっていた
という事の次第のようである。(2020/01/16)

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