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11世紀末陰陽師は彗星の観測は啓蒙した。(長さん)

これまで、月と惑星の接近、惑星同士の接
近等の今に伝えられた、観測数の増減から、
西暦1094年前後に陰陽師は天体観測の
啓蒙を社会に余りせずに、技術を隠匿した
と、本ブログでは主張してきた。天体の
中国星座内での位置を観測する事に関して
啓蒙しなくなるので、囲碁と民意が離れて
しまい、囲碁は停滞し、平安大将棋は生き
延びたという論だった。今回は、以上の論
理でいっけんしては説明できない事実が有
る事を、明らかにしたい。陰陽道の指導者
の賀茂光平や安倍泰長が、西暦1094年
年末の大江匡房による囲碁衰退指摘の頃に、
彗星の観測を、流行らせていた形跡を示す
史料があるようだ。
 では説明を開始する。
 長谷川一郎氏の著書、”ハレー彗星物語”、
恒星社(1984)で紹介している、西暦
912年、西暦989年、西暦1066年
のハレー彗星の近日点回帰のときに、日本
の陰陽寮での観測を記録したと、記載して
いる史書、

扶桑略記(僧、皇円撰)が、西暦1094
年より少し後の成立

だと見られている。これは、賀茂光平や
安倍泰長が、西暦1094年前後に、天体
のうちで、

彗星だけは、世間に大きく紹介した証拠

とみられる。何故なら、これより前の彗星
観測、又聞き情報古記録古文書が、

西暦870年頃成立の続日本後紀まで見当
たらない

ので、飛びぬけているからである。
 なお、続日本後紀には、西暦837年の
ハレー彗星回帰の記録が載っている。
 さて扶桑略記の後には、続々史料が登場
し、西暦1050年~1200年のどこか
で成立とされる、日本紀略が西暦912年
西暦989年の回帰を記録。またすこし後
のマトメだろうが、群書類従の諸道勘文が、
西暦989年、西暦1066年の、ハレー
彗星の回帰を記録しているという。次は、
藤原頼長の台記の、西暦1145年の条で
あり、ユリウス暦日で5月14日から、同
6月18日まで、22日程度のハレー彗星
の姿が記載されていると前述、長谷川一郎
氏の成書に有る。ついで、同じく長谷川一
郎氏の成書によれば、平安末成立の、
本朝世記に、西暦1145年のハレー彗星
の記載がある。
 以上の事から、10世記から1094年
ころまで、確かに彗星人気は下火だったが、
西暦1100年頃には、人気が戻った疑い
が濃い。

立ち上がりは、月と惑星の会合は西暦
1140年頃からだったが、彗星だけ西暦
1094年より、少し後だったようだ。

前記、長谷川一郎氏の著書によれば、実は、

西暦1097年、1106年、1110年、
1145年と4回、大きな彗星が現われて、
年号が変わっている

という事である。だから、西暦1094年
暮れには、間に合わなかったが、2年後の
西暦1096年頃には”大彗星が現われた”
と、賀茂光平や安倍泰長が騒いで、
彗星天文学を啓蒙した結果、不吉なので、
年号が変わったと考えられる。蛇足だが、
西暦1145年のケースがハレー彗星であ
り、藤原頼長も騒いだのが、年号が変わっ
た原因だったのは明らかであろう。
 では、天文道ならどんな天体でも、囲碁
を盛んにするのかという事だろうが、

彗星はぼんやりしていて、位置天文学を
進展させないので、ドロドロとした陰陽師
の呪術の手助けはするが、囲碁の隆盛には
結びつかない

のではないかと、私は疑う。
 事実、西暦1145年の藤原頼長の台記
で、彗星の位置情報の話が出てくるのは、
ハレー彗星が遠くて、まとまりが有る姿だっ
たので陰陽師によって計測できた、最初の
方の1箇所だけである。後は、

巨大な姿に成長してしまったため、何時に
どっちに見えるのか、書いてある程度

である。他方、異様な姿を、頼長が怖がる
記載は随所に現われる。
 つまり、彗星は元々質量の大きい大彗星
が、太陽と地球に接近したときに注目され
るのであり、そのときの姿は、天に大きく
広がって、尾を伸ばして、見掛け姿が広大
である。
 また動きも速く、何れにしても完全な、
気まぐれに見えるものであり、文字通り、
当時は位置を把握しようにもつかみどころ
もないはずである。
 こうした天体の情報を公開しても、他の
天文道に新規参入しようとする後発の家の
観測技術の向上の知識に、賀茂、安倍家伝
来の観測技術が流用される事の、少ない情
報だと考えられる。
 だから、大衆に対して位置天文道を余り
啓蒙させずに、

陰陽道特有の、恐怖感だけを与えるのに、
ちょうど良い天体

である。よって、陰陽師にとっては、この
天体現象は吹聴し、改元にまで持っていけ
れば、むしろ自己の成果になる。だから、

巨大彗星の接近現象についてだけは、他の
天文現象と異なり、1094年前後に陰陽
師は、むしろ積極的に普及した

のであろう。
 よってこの事からも、西暦1094年頃
の状況は、天文道が衰退して囲碁が流行ら
なかったのではなくて、有能な人物が居た
他家が延びて、過去の栄光だけの自分の一
族に都合の悪い場合は、既得権の有る老舗
の陰陽師が、沈黙して情報を隠匿するよう
な時代だったのだろうと、私には思える。
以上で、彗星については終わる。
 次に、別の天文現象である超新星につい
て考える。すなわち彗星とは違い、超新星
現象については、西暦1006年、西暦
1058年と、-9等、-5等の顕著な現
象が現われたにも係わらず、この2つの天
体への注目は、西暦1230年11月8日
の藤原定家の明月記が初出だった。
 原簿(諸道勘文の類)は、恐らく現存し
ないだろうと、”ドキュメント超新星爆発”
(岩波書店、1988年)で野本陽代氏が
述べている。同成書によればカシオベア座
に、恐らく超新星が西暦1181年に出現
したが、これも、西暦1230年の定家の
記載が、日本では初出のようである。むろ
ん、陰陽師が諸道勘文を書いたから、定家
はそもそも元々コピー出来たはずである。
 ちなみに史料でその前は、恐らく西暦
722年、725年、745年の3つの
新星を記載した、私が未確認の、9世記前
後の古文書とみられる。具体的には西暦
840年頃成立の日本後記などであろうか。
 なお西暦877年と891年にも新星が
出ているが、”かに星雲の話”、石田五郎、
小田捻他著、中央公論社(1973)によ
ると、それも西暦1230年の、藤原定家
の明月記が、私は確証できないが、たぶん
だが初出らしい。
 ちなみに西暦1181年までの、日本で
観測の新星・超新星のリストについては、
下保茂氏の”変光星の観測”西暦1970
年、恒星社が今の所一番信用が置けそうだ。
 9ページに、西暦722年カシオペア座、
西暦725年カシオペア座、西暦745年
アンドロメダ座または、さんかく座が記載。
西暦877年アンドロメダ座からペガスス
座のどこか、西暦891年へびつかい座、
西暦1006年おおかみ座、西暦1054
年おうし座ζ星付近、西暦1181~2年
カシオペア座、以上8イベントとなってい
る。
 言うまでも無く1006年のが最も明る
く、最大で-9等で半月位。次が歴代3位
の1054年の、おうし座の、かに星雲の
元であり-5等程度で、金星の明るさ程度
である。どちらも、出現当時の陰陽師の、
諸道勘文が、現代には残らない程度に、

驚くほどひっそりと、上奏されたのだろう。

なお、おおかみ座は南に低いが、天文道担
当者は観測している。たとえば藤原道長が
言及してもおかしくないが、当時の陰陽寮
の担当者は極有名な安倍晴明が、あいにく

前年に亡くなり、2代目で、藤原実資には
褒められているようだが、より注目度が低
い、次男の安倍吉昌に交代していた

ようだ。そのため、13世紀になって位置
天文道や囲碁の人気が復活し、どちらにも
興味が有った藤原定家が、西暦1230年
に自身の日記に書いて始めて西暦1006
年の、おおかみ座超新星の陰陽師の観測は、
日の目を見る結果になったという事に、ど
うやらなっているようだ。なお、webに
よると、定家の記載の発端は、西暦123
0年の彗星出現だったらしい。
 以上の事から、月・惑星・輝恒星の会合
と超新星は、天球内での位置観測練習にな
るので、技術は家伝にしてしまい、陰陽師
は、その結果について、11世紀頃~西暦
1140年頃までの期間限定で、明らかに
隠匿傾向が存在したようだ。(2020/01/17)

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