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平安後期の天文道家安倍家等。流星雨は隠したか(長さん)

以前に、月と惑星の接近、惑星と惑星の接近、
惑星と明るい恒星の接近(何れも見掛け)は、
コンペチター(業界競合者)の観測技術向上
につながるため、賀茂家の光平の時代と、
安倍家の泰長の時代、西暦1140年頃まで
は西暦1000年過ぎより、その技術に関し
て隠匿行為が行われたと述べた。また超新星
についても、同様だと述べた。
 それに対して大彗星の接近データは、元号
を変えさせる等、陰陽道の力の見せつけに繋
がるので、西暦1096年程度からは積極的
に広報したとした。ただし彗星の観測が、
天体位置観測技術の取得には、余りつながら
ないので、囲碁や大将棋の挙動に無関係だと
した。ここでは、残りの天文現象、特に流星
についても、漏れがあると気持ちが悪いので
述べる事にする。
 具体的には流星雨と、明るい流星(火球)
がある。このうち火球は、数秒以下の現象を
見逃すと、見逃した大衆は、隕石になって、
降ってこなかったため無事だったという結果
を聞くだけなので、影響力は弱いとみられる
ので除く。大流星の経路記入観測をしたとし
て暦の改革等の作用も無いので、議論にとっ
て泡沫的である。
 それに対して、流星雨の方は、2~3時間
の間に情報が入れば、個人も観測できる。ま
た、彗星同様の怪現象である。そこで答えか
ら述べると、

彗星同様、西暦1094年より少し後からは、
賀茂光平、安倍泰長等が積極的に、流星雨観
測結果を広報した

形跡がある。具体的にしし座流星雨について
述べると、以下のような史料がある。
 西暦1094年の少し後に成立の扶桑略記
には、西暦967年10月14/15日の放
射点(または、輻射点)上昇後の流星雨の、
(私の見立てでは、数万/時程度の)出現を
記録している。
 西暦1050年~西暦1200年のどこか
で成立の日本紀略には、西暦1002年10
月14/15日の放射点(または、輻射点)
上昇後の流星雨の(私の見立てでは、数千/時
程度の)出現を記録し、翌10月15/16
日にも同様に、放射点(または、輻射点)
上昇より少し後の、午前0時から薄明少し前
までの流星雨の(私の見立てでは、同じく
数千/時程度から後に数百/時程度の)出現
を記録している。また、西暦1035年10
月14/15日に(私の見立てでは、数千/時
程度の)出現を、比較的長時間記録している。
 西暦1180年前後、平安時代末期成立の
本朝世紀には、西暦967年と西暦1002年
のしし座流星雨について、何らかの言及の後、
”西暦1002年のしし座流星雨は西暦967
年の流星雨と同様である”との旨、記載され
ている。
 以上は又聞きなので、成書名を挙げて置く。
岩波新書207(西暦1982年)
”星の古記録”、斉藤国治。
 なお日付は、ユリウス暦日のようであるが、
 本能寺の変の年、西暦1582年に
実施した、切り替え時の約10日の跳びが煩
わしい。彗星の吉田誠一氏のサイトに、固定
分点の太陽黄経が、967年、1002年の
初日の方、1035年で、220.5、
220.3、220.1と、階段で下がると
の情報がある。木星の引力の影響が小さいと
きに、流星雨になりやすいというパターンで
あろう。脱線するが将棋史と違い、流星雨の
史料はダブついていて、これ以上は無くても、
実は平気だ。

年と、固定分点の太陽黄経λが判れば宣明暦
やユリウス暦の月日は、頭がこんがらがるだ
けなので忘れても良いとの、研究者の声無き
声が聞こえる。

なお太陽黄経の分点は西暦1950年元旦で
やった文献も多い。西暦2000年元旦と、
0.7差(1950が小さい)だが、気をつ
けたい。
 一応ユリウス暦日に斉藤国治氏が換算した
のかどうかを、検証すると以下のようになる。
西暦1799年の流星雨が11月12日。
太陽黄経λが232.8前後になっている。
グレゴリオユリウス1582シフトが10日。
恒星年ユリウス年差600年で4日恒星年大。
恒星年グレゴリ年差220年で3日恒星年大。
1799年対967年のラムダ差約12日分。
全部足すと29日になるので、11月12日
の29日前は10月14日でつじつまが合う。
外挿グレゴリオ暦日だと1000、1100、
1300、1400、1500が閏抜きなの
で、967年だけ10月14/15日ユリは、
10月19/20日グレゴリオ。1002年
と1035年の10月14/15日ユリウス
は、10月20/21日グレゴリオであろう。
このとき、1582年シフトをキャンセル計
算する必要がある。吉田氏のブログの”?”
の付いた西暦年月日は外して読む必要がある。
以上はともかくとして。
 文献でハレー彗星のときと、しし座流星雨
と、パターンが一緒である。つまり扶桑略記
が1100年より前の疑いが強いので、西暦
1140年の安倍泰親の時代よりは、早い。

だから、大彗星と大流星雨は、傾向が同じと
見てよい

と私は考える。現象が奇怪なので、西暦10
35年のしし座流星雨では、後一条天皇の詔
により、特赦が行われたと、前記成書に書い
てある。特赦という政策に関与できたので、
安倍家で言えば、安倍晴明を初代として3代
目の、安倍章親(次男)が、実績を作れた
という事になるのだろう。だから、西暦11
00年より少し前の、扶桑略記の時代に、
5代目の安倍泰長が、

安倍家の流星雨の観測と言う過去実績を、盛
んに宣伝していたとみなせる。

なお、西暦1066年のハレー彗星接近につ
いては、4代目当主、安倍有行の観測を、
5代目の安倍泰長が宣伝したと見なせる。
 よって、大彗星と、少なくともしし座流星
雨とは一緒で、月と惑星、惑星と惑星、惑星
と恒星、以上の各会合現象、超新星のように、
隠匿しては居ない。
 以上で説明はだいたい終わるが、流星雨に
ついては、しし座流星雨という現象の本質を、

平安時代に、自然科学的な見方で発見できな
かったのは何故かという問題提起が、今から
80~90年前程度に、なされている。

問題の提起者は、小惑星の族の発見で天文学
では著名な、東京天文台の平山清次氏である。
これについては、私は、

冷泉天皇、一条天皇、後一条天皇が共に、
藤原摂関政治との関連が深い天皇だったため
に、運悪く発見できなかった

と考えている。西暦967年の流星雨は、
村上天皇のときに一時停止した摂関制度が、
6月に復活し、冷泉天皇の即位4日後である。
西暦1002年の流星雨は一条天皇の即位時。
また西暦1035年のしし座流星雨は、
後一条天皇の即位時である。
 だから村上天皇、三条天皇、後三条天皇等、
藤原摂関と離れた天皇の時代にしし座流星雨
が出現しておれば、無作為に見えたのかもし
れないが。たまたま藤原摂関政治最盛期、
藤原道長の孫の、後一条天皇が、亡くなる1
年前に出たのが、西暦1035年のしし座
流星雨等だった。そのため当時の目には、こ
の流星雨が、西暦1015年の一件のように、

国軍を、私的な唐物を都まで運ばせる為だけ
一時期、持ち場を離れさせるような政治は、
いかがなものかと”天”が首をかしげている

ことによって起因するように見え、テンペル=
タトル彗星が、約33年の周期で、塵を放出
しながら、太陽周辺に回帰している為のよう
には見えなかったと見られるのである。
 事実、上で紹介した史料、特に年差とλを
よく読めば判るが平山清次氏の言うようには、

西暦967年の流星雨と1002年の流星雨
とは、自然現象として似て居ない。

前者が西暦1966年のアメリカの流星雨型、
後者が西暦2001年の日本の流星雨型類似
だからである。
 なお本朝世紀が、考慮しているかどうか不
明だが、西暦1035年の後一条天皇の時代
の出現パターンは、西暦1002年と似るが、
テンペル=タトル彗星の周囲部だけが、木星
接近して、宇宙空間ダスト分布に、強い分布
変化が起こっている回帰のときで、母彗星の
回帰後2年ないし4年経ったところで、毎時
数千個規模の流星雨の起こる、特殊なケース
のようである。そのため、”西暦1002年
のしし座流星雨は、西暦967年の流星雨と
同様である”という旨の本朝世紀記載を、少
なくとも斉藤国治氏の解説を私が読む限りは、

平山清次氏は、自然現象としての現代天文学
的類似性の記載だと、意味を取り違えている

ように私は感じる。それは本当の所は”同じ、
藤原摂関政治を、

天が批判する、何かが有る”と、平安時代の
末期に、本朝世紀が指摘しているという意味

の史料だと、この自然現象の、詳細から私は
考えるのである。
 よってもし、この3イベントについて即位
天皇の性格に関して無秩序に、しし流星雨が
出現していたのなら、

当時でも、単なる自然現象では無いかと、
平清盛のごとき才能の有る人物には、疑われ
る可能性も有ったのかもしれない

のだろう。しかしたまたま、しし座流星雨の
西暦967年、1002年、1035年の出
現が、摂関藤原氏寄りの、天皇の時代ばかり
だったので。いかにも藤原摂関政治を批判す
る天命のようにしか、しし座流星雨の出現が
見えなかったに違いないと私は思うのである。
 さしもの小惑星の族を発見した平山清次氏
も、今から90年前では、学際分野の全く違
う日本史までは、フォローしにくかったのか。

平安時代後期には小惑星だけでなく、天皇に
も族が有る

という事実を、うっかりと見落としてしまっ
たように私には見えるのである。(2020/01/20)

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