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インドカナウジ将棋駒に紀元前2世紀の車駒か(長さん)

以下、urlでエイチティティピー:
//history.chess.free.fr/library.htm
中にある論文情報の続編である。
今回は、

紀元前2世紀から(後)3世紀の間に成立
の、インドの将棋駒が疑われる車駒の話題

である。論文の著者は、ドイツミュンヘン
のRennte Syed氏で、2000
年頃のものである。”カナウジ発掘のテラ
コッタ~棋士存在か~”(Early
Terracottas from Kanauj
ChessMen?)に記載されている。
 問題のテラコッタの車駒とされたものは、
以下のような姿であり成立はチャトランガ
の推定成立期、西暦600年より有意に早
く、西暦前2世紀から3世紀とされる。
正確な地理が私に、個人的につかめないが、
発掘場所はHastinaplaで、na
のaの上に-が入っている。西暦1954
年頃に、発掘されたようである。

カナウジ近郊車駒.gif

 なお今問題にしている、Syed氏の
論文には、カナウジの将棋駒と疑われる
出土立体造形物が、全部で9個前後紹介さ
れている。なお、サイトの都合で写真だけ、
別のPDFに保管されていた。
 文字列検索から、この車駒については、
他の発掘品と、成立年代がおおきくズレて
いる点につき、Syed氏は論文中で、詳
しく説明は、していないようである。
 以下は、本ブログの見解である。

この車駒または、砲駒にも見える物品は
将棋駒では無い

と、考える。根拠は

写真の右の方に見える”穴”

であり、糸を通して引っ張って遊ぶ玩具に
私には見える。
 この遺跡自体は、かなり、いろいろな年
代のものが、層ごとに出てきて、たまたま
3世紀以前の層に、問題のテラコッタは有っ
たのだろう。が、

この時代にインドチャトランガが有るとの
証拠は、これだけでは希薄

だと、私は見る。このケースは、史料に

穴が開いていなかったら、車ないし砲駒が、
インドに紀元前2世紀程度に存在したとの
説を、否定しにくかった

だろう。
 日本の鎌倉市出土物品の中に、そのお陰
で将棋駒ではなくて、札だと確定した例が
あったように記憶するが。考古学史料は、
特に小物のケース、”穿孔がして有る”と
言う点が往々にして、重要な手がかりを与
える場合があるようだ。(2020/02/19)

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12世紀二人制古チャトランガ駒動きは古文書本文(長さん)

今回は、以前の本ブログの解釈の訂正から
始める。マナソラーサを元文献とした、
12世紀インド二人制古チャトランガの、
駒動きルールは、

戦法図から割り出した結果を示したのではない。

インドの古文書であるマナソラーサの本文
中の方に、駒の動かし方ルールは記載され
ているようである。
ボックラーミンクのThe varieties of
 Indian chess through
the ages
(”インドチェスの通史”1995年)
309ページから331ページまでの文献
の、311ページに、そのように取れる記
載がある。ただし、マナソラーサ原文の英
訳は載っておらず、ボックラーミンク氏の
解釈だけが載っている。
 以下、説明を続ける。
 問題の箇所は、上記論文の3ページ目に
あたる、311ページの1段目から、下に
続いている。”文献マナソラーサに書いて
ある”と著者は記載し、兵駒について、
特に細則まで詳しく述べている。が、本ブ
ログの注目点はむしろ馬の動きであって、
その”馬”について述べると、

西洋チェスのナイトである旨が、論文には
簡単に書いてあるだけ

である。
 以下は私の想像であるが。
原文には、”第3の升目の隣”等、ありき
たりに、書いてあったのだろう。

「マナソラーサ」(12世紀)も、新たな
知見は、さほどは含まれていなかった

事がほぼ判る。論文の311ページの認識
に基づいて、ボックラーミンク氏は324
ページの、駒の動かし方ルール図(マナソ
ラーサ12世紀インド)を作成したようだ。
 次に、駒組一例図についてであるが。
問題にしている”インドチェスの通史”
1995年の312ページを読むと、
「マナソラーサ」には、歩兵の配置しか、
書いていなかったようだと判る。これも、
論文の312ページの先頭のから、続いて
書いてある。
 結局、

馬の配置を含めて、論文325ページ下の
駒組図はボックラーミンク氏が、
想像で書いたものでしか、実は無かった

ようだ。彼が頼りにした、イスラムシャト
ランジの、戦法に関する類似の駒組図では、
馬が桂馬跳びしていて、ボックラーミンク
の論文の325ページの上の、イスラムシャ
トランジの戦法駒組の配列図は、
下のマナソラーサについてのそれよりも、

ずっと、尤もらしいもの

である。ただし、「マナソラーサ」原文
は、馬が八方桂っぽい雰囲気の記載が、
仮にあったとしても、余りおかしくないよ
うに私は思う。そもそも猫叉大臣に、兵が
成るように、ボックラーミンク氏の論文に
書いてあるようだからである。

つまり、相手側の対応初期配列駒には、
インドのゲームのくせに、最奥段で兵は
成らないとの事

だ。これ自体、時代が古代であっても、
最近であっても、どちらにしても

インドの将棋、らしからぬ感じである。

マナソラーサの著者は、インド人であって
も、ペルシャびいきだったのだろう。その
ため、

将棋に関する情報は、やや希薄で

その代わりに、

ナルト(盤双六)の情報が充実する結果

になったのかもしれないと私は思う。
(2020/02/18)

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インド16世紀14×14チャトランガは特定配列(長さん)

以前、増川宏一氏の著書、ものと人間の文化史
134遊戯・その歴史と研究の歩み(2006)
の248ページに、アンドレアス・
ボックラーミンクの、
”インドのチェスと関連した盤上遊戯の文献資料”
(1995)の紹介があり”ミャンマーの象棋、
シットゥインの自由陣形ルールは、インド起源か”
という旨の表現を私はして、増川氏のコメントに
対し、賛成の意見を述べた。
 今回は、
”インドのチェスと関連した盤上遊戯の文献資料”
(1995)を実際に捜索し、増川氏の紹介の通
り、16世紀の
”Hariharacaturanga”
(ハリハラチャトランガ)が、アンドレアス・
ボックラーミンクの、該当論文とみられるものに
載っていて、

種類は多いが初期配列は特定の旨が書かれている

との紹介をする。
 アンドレアス・ボックラーミンクの、その論文
らしいものは、前に述べたwebのサイト、
エイチティティピー:
//history.chess.free.fr/library.htmにあり、
論文の名前は、
”The literary sources
 of Indian chess and
 related board games”
だとみられる。ページは、112ページから124
ページだが、雑誌名は不明である。この時点で、
ボックラーミンク氏は、ドイツの大学に所属して
いたようである。
 論文中には、15世紀末から16世記にかけて
の、インドのチャトランガ類としては、前記の
ハリハラチャトランガしか載って居ないので、

増川氏の指摘するゲームが、
ハリハラチャトランガの事を指す可能性は、
極めて高い

とみられる。ハリハラチャトランガは、インド版
チムールチェスとみられる。が、初期配列図が、
問題の論文には4つ載っていて、確かに一定して
居ない。
 しかしながら、ハリハラチャトランガについて、
ボックラーミンクが論じた問題の論文の、115
ページの21行目に、以下の記載が有るのを、私
は見つけた。 

”Depending on the specific
 opening position 
 chosen at the beginning of
 the game

 even more pieces would be
 used on the board.”
上の記載から、後期大将棋に近い、升目の多いゲー
ム盤を使う、駒数64枚(個)程度のこの駒数多数
チャトランガゲームの初期配列は複数あるが、

無制限にある訳では無い

事が判る。従ってこのゲームが、

ミャンマーシットゥインに繋がる可能性は低い

と結論できるようだ。
 以前の本ブログの論は、

今の所、証拠の無い推定

と結論したい。
 ミャンマー象棋の自由配列が、インド起源である
可能性は、なおも捨てきれないが。ボックラー
ミンクが、そのような例を紹介している可能性は、
よって遠退いたと、私には思われる。(2020/02/17)

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インド11~12世記マナソラーサの4配置図の正体(長さん)

以前増川宏一氏の著書から、本ブログでは
インド2人制古将棋類(チャトランガを含む)の、
初期配列による4種類のゲームの存在を疑ってい
た。以下はその件の続報である。
 少なくとも、一つは、古チャトランガの途中の
局面を指している事が判った。具体的に最初に書
いてしまうと、以下のようになっている。
4段目:口、口、兵、口、口、口、兵、口
3段目:口、兵、車、兵、兵、車、兵、口
2段目:兵、口、口、馬、馬、口、口、兵
1段目:口、口、象、王、臣、象、口、口
マナソラーサの文献を解釈したものだが、解釈者
は、欧州人のボックラーミンクで、1995年の
事である。以下に、説明を加える。
 雑誌名が不明であるが、著者ボックラーミンク
の居所が、オランダのアムステルダムと記載され
たコンテンツの309から331ページに、以上
の情報がある。325ページに問題の配置図が記
載されているとみられる。題名は、
The varieties of
 Indian chess through
the ages(”インドチェスの通史”か?)
である。なお、ボックラーミンクは別文献だが、
ドイツ語でも論文を書いている。オランダ語は発
見されていない。国籍は良く判らないがオランダ
人は、かなりドイツ語が出来るので、ドイツ人の
方ともオランダの方とも断定できないと見られる。
 なお、雑誌名はともかくとして、以下のurl.
にコンテンツがある点が、重要である。

エイチティティピー://history.chess.free.fr/library.htm

私は、本ブログをたまたま読まれた有志の方より、
上記のサイトの存在を教えてもらった。

情報の提供者の方に、深く感謝したい。

ところで。
 ボックラーミンクは324ページの図の記載で、
11~12世記のインドの2人制チャトランガの
各駒の動きにつき次のルールと解釈しているよう
である。(本文中の説明はまだ読み取れて居ない。)
王:玉将。大臣:猫叉。象:飛車。馬:八方桂
車:シャンチーの相/象。兵:ポーンに加えて
2升目前方に、制限された香車の走り。ただし、
ボックラーミンクの文献を良く見て居ないので、
2升目前方移動が、最初の位置からだけなのか
どうかは、まだ私には個人的に判らない。その他、
西洋チェス同様、ステイルメイトがこの時点で、
古チャトランガにも有ると、ボックラーミンク
は、見ているようである。今問題にしているイン
ドの古文書マナソラーサに、終盤近くの局面部分
例があるとボックラーミンクは言っているようだ。
 ところで少なくとも上の配列へ、普通の2人制
古チャトランガの初期配列から移行できることは、
車の位置から確実とみられ、その際、特に特記す
べき点は、

馬が八方桂馬でなければならない事と、兵が、
ほぼポーン動きである点

と指摘できる。何れにしても、4種類有ると、
増川宏一氏が彼の成書で書いている、ボックラー
ミンク解読の、11世紀~12世記インドの文献
マナソラーサの配列のうちの、少なくとも1配列
は、インド2人制古チャトランガの、途中局面図
であるようだ。なお、終盤部分局面図も、前記の
英文”アムステルダム発・文献1995”には、
マナソラーサの分として2枚載っている。だから
残りの1つは、増川氏の言うようにインド2人制
古チャトランガの初期配列だとすれば、問題の”

3種類のゲームの配置図”は、全部チャトランガ
の途中局面図の可能性も濃い

とみて、間違いないようである。
 以上で、本題の説明は終わる。
 以下に、少なくとも12世紀の初め頃には、
インドも、イスラムシャトランジのように、
”馬が八方桂の動き”だと、確定した件について
コメントする。
 まずこの結果は、11世紀の4人制チャトラン
ガを再現していると本ブログでは見る、4人制の
成立時期、11世紀初時点のものと、本ブログで
見るルールよりは、動きが桂馬ではないから

馬に関して、西洋チェスのナイトである。

インドが元々、日本の将棋に近い馬駒の動きだっ
たと仮にしたとして、
少なくとも12世紀に入る頃には、たぶんイスラ
ムシャトランジに、より近くなり、結果西洋チェ
スにも近くなったと、結論せざるを得ないとみら
れる。インドの今の残る2人制チャトランガへは、

ビルーニ反転の前に、馬が八方桂、もしかすると
車が角行から飛車へ、先祖返りするという事が、
マナソラーサ期には起こった

と、ボックラーミンクの研究結果を正しいとする
限りは、そう考えざるを得ないのであろう。なお、
前記の駒組図で、象を角行動きと仮定したケース
でも、角道が空いているので、

ボックラーミンクの象駒の推定(飛車)は間違い

である可能性も、有ると見られる。その際には、
ビルーニ反転と、走り駒のついての象/車の角→
飛車の変化は、実際には本ブログで、従来考えて
いるように、同時の可能性も残ると見る。しかし、
八方桂化は、それ以前と考えざるを得ない。その
原因は難しいが今の所、11世紀に、そもそも
アル=ビールニがインド訪問をした頃、訪問自体
を可能にした

トルコ系カズニー朝のインドへの侵攻が、インド
にイスラム化を、それなりにもたらしたからだ

とでもしないと、さしあたりは旨く説明できまい。
今後は以上の、2段階のインドチャトランガ→
イスラムシャトランジ化(”古チャトランガ”→
”今に残るチャトランガ”への転換)仮説を、本
ブログでは取る事にしたい。
 なお、冒頭付近に記載した、ボックラーミンク
解読のインド2人制チャトランガの配置図の戦法
は、かなり消極的であり、個人的には、この駒組
は、実戦として、余り尤もらしいとは思えない。

馬は守り駒ではなくて、このゲームのケースは、
先制攻撃駒だと、個人的に私は考えている

からである。この”戦法図”を見る限り、マナソ
ラーサのチャトランガ説明部のボックラーミンク
による解析結果の方式は、ヘビーゲーマー以外の
人間の作った、チャトランガ解説書の中の、尤も
らしいが”作り物の作戦図”ではないかと個人的
に、私には疑われている。(2020/02/16)

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弾碁仮説”沈香木画双六”ゲームチェック結果(長さん)

以前述べたように、東大寺正倉院の用途不明
ゲーム盤”沈香木画双六盤”を、本ブログでは
弾碁の一種用のゲーム盤とみなした。
 サイコロを振る代わりに、駒を指で弾いて、
有る程度の自分の意思で、盤双六パターンの、
合法手を指すようにし、相手側の3升目×2段
の中に、8枚の自陣の駒を全部移したら、勝ち
というものである。このとき、相手側に上げら
れる前の駒が残っている場合には、小プレミヤ
が、1枚も相手陣に入って居ないと大ブレミヤ
が、以上の2つが両方起こった場合、特大プレ
ミヤが付くのであろう。今回は実際に、簡便に
ゲーム盤を作り、碁石を使用して、以上の仮説
に矛盾が無いかどうか、ゲームをやってみたの
で報告する。
 結論から書くと、

次の2点を考慮する必要が有った。

①弾いたが元の升目のままである場合は、振り
出しに戻らなくても良い事にする。(パスも可
能。)
②振り出しの位置から弾いたとき、たまたま駒
が転がって、思わぬ升目に入った場合はOK。
合法移動とする。

では、経過を説明する。
以下は、縁の20升目のうち、印の付いた所に
駒を入れた、初期配置である。駒は8枚ずつで
あり、黒は上部の相手白陣への移動を目指し、
白は下部の相手黒人への移動を目指してゲーム
を開始する。

沈香木画初期.gif

 ゲームが進むと、一例では以下の状態に到達
し、この例では黒勝ちで、白にスタート台への
取り残され駒が一つ残存しているので、小ブレ
ミヤ勝ちである。このようになるのに、
各100投位必要である。かなり、のんびりし
たゲームである。

沈香木画打終.gif

なお、白の斜め右上隅の駒は、盤双六でいう、
蒸されたような状態であるが、相手の駒がライ
ンに出ない範囲で、強く弾き

遠くまで転がして、無理に脱する事も出来る

としないと、ゲームが固まってしまうという、
難点が有る事が、実際にプレーしてみて判った。
 どちらの升目に、駒のより多くの部分が入っ
ているのか。移動先を迷うケースが、結構多かっ
たので、もし実際にこんなゲームであってかつ
賭博に使うと、トラブルが多くて、廃れたのか
もしれないと思われる。(2020/02/15)

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奈良時代正倉院沈香木画双六局は将棋盤で無い(長さん)

本ブログでも、将棋の伝来が奈良時代では
無いとの立場を取る。ところで奈良東大寺
正倉院に、用途不明の遊戯盤が存在する。
表題の、沈香木画双六局である。双六盤の
ように、2列に12ずつの升目があるわけ
でもなく、囲碁のように19路の線がある
わけでもない。3×5の15升目に、面積
のせまい、20のヘリ升目があり、とりあ
えず、15升目の日高駒よりも更に大きな

規格外に大きな将棋駒を使う、駒数少数型
の将棋盤のように見えなくも無い。

奈良時代に、将棋の類が有ったとしたら、
定説は大きく覆る。が、将棋駒を使う将棋
盤ではないという証拠が、具体的に何か有
って、否定できるのかどうかを今回は論題
とする。回答を書く。

将棋盤では無いとみられる。

根拠は、角の花形紋に接続された短線が斜
めであり、駒が奇数角形の駒で無く、具体
的には

8の倍数角形ないしは円柱であり、五角形
将棋駒は使わないゲームと推定されるから

である。
 では、論を開始する。
このゲーム盤が奈良時代の成立であるのは、
今の所、同系統の正倉院の宝物から見て、
そう考えるしか無いだろう。だから、将棋
盤の類だとすると、伝来時期が大きく遡っ
てしまい、定説は完全に覆る。
 そこで、この遊戯盤の模様を観察すると、

周囲補助升目の花形紋に短線が付いている。

問題は、そのうちの角の花形紋であり、下
の部分拡大図のように斜めに書かれている。

沈香木画双六局.gif

この事から、使用する駒は奇数角形の、そ
れ自身で方向が判る形の物ではないと推定
できる。花形紋に短線を描かないと、駒の
向きが判らないような、形態の駒を使用す
る遊戯用と考えるのが自然である。
 また、短線の向きが盤の端線に垂直な
ものもあり、角以外で垂直。また、升目自
体が四角であるから、駒は一例で、

正多角柱で8の整数倍か、円柱

のはずである。なぜなら、45°回転させ
ても支障が無いから、短線方向が盤縁線に
垂直なものと、そこから45°回転したも
のの、2種類があるとみられるからである。
よって、このゲーム盤は、

推定される駒の形から、少なくとも現在の
形の五角形駒を使う、日本の将棋の系統に
使う遊戯盤では無い

事が判る。
 以上で証明は済んだが、この盤が何なの
か、一応の推定はしてみよう。

たぶんだが、一種の弾碁の盤で、このケー
スは、相手の駒に当ててはいけないような、
特殊なルールのもの

であろう。ルールは盤双六を、混ぜたよう
なものなのかもしれない。
 最初に、8枚づつ双六の駒を持ち、花形
紋の所で、長方形の部分に2個、四隅に
1個づつ初期配列するのではなかろうか。
陣地は、中央3升目が中間段であり、残り
の2列6大升目を、プレーヤーが左右どち
らかずつ持つのだろう。四つ角の花形紋の
短線の両方に2つずつ、花形紋が余分に有
るのは、四つ角に駒を置くと、方向短線が
隠れてしまうのを、補うつもりなのだろう。
 ゲームは駒を指で弾いて進め、ラインに
乗ったら面積の大きい方へ、入れなおして
整頓して良いのだろう。ただし最初だけ、
弾く方向が、短線方向と決められているの
かもしれない。
 また弾いて他の駒をその升目の外へ出し
てしまった場合は、普通の弾碁とは逆に、
ヘリの出発点に、戻されてしまうのだろう。
他と干渉せずに、別の升目に弾けたときだ
け、升目を移動できる。このとき、自分の
駒だけの升目か、相手の駒が1枚しかいな
いか、駒の無い升目ならば移動でき、相手
の駒が2枚以上の所へ、間違って入れた場
合も、ヘリ升目へ戻されてしまうのだろう。
落下したり、中央15大升目以外へ入って
しまった場合も、振り出しに戻りだろう。
なお一つの升目には、4個程度しか駒は、
入らないとみられる。以上のエラーのケー
スは、スタート地点5箇所のうち、空いて
いれば、自分で出戻り先を決めてよいと見
られる。
 ただし、相手の駒が一枚だけの升目へ、
移動できた場合は、相手の駒を相手陣の縁
升目のどこか、自分に好きな所へ押し込む
事ができるのだろう。囲碁と違い、初期縁
升目に駒が残っている場合でも、升目数が
双六盤より少ないため、差別しても無駄だ
から、どの駒も弾いて動かせるのだろう。
 そして、それを互いに繰り返し、相手の
陣地の6升目のどれかへ、自分の8枚の駒
を全部移動できたら、そのプレーヤーの勝
ち、かつ形勢差によりさらに、ブレミヤが
付くというゲームなのではないだろうか。
 一般に弾碁の盤は、双六盤に逆L型の足
が付いていて、中央が盛り上がったものが
よく知られている。弾碁盤は双六盤に似て
いるわけであるから、恐らくこの正倉院の
ゲーム盤も、その類の可能性が大きいよう
に私には思える。(2020/02/14)

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刀伊の入寇を国家戦と見た藤原隆家主張は通る(長さん)

本ブログでは、日本の平安小将棋の流行りは、
藤原隆家の後一条天皇への説示の、ほぼ一言
が発端だという事になっている。刀伊の入寇
は、対外国国家間戦争の一環であり、将棋は
それを模したものであって、帝、皇族の将、
征夷将軍にとって、必要な武芸であるという
主張である。古代インド、バルダナ朝の、
ハルシア王伝説とも合っているので、説示の
内容として、そもそもの違和感は無いのだが。
実際には刀伊の入寇は、女真族の大規模海賊
によるものであり、国家間戦争とは、女真国
が11世紀には存在しないので、厳密にはみ
なせない。
 にもかかわらず、双方に玉駒があるゲーム
が、海賊討伐作戦にまで役立つと、藤原隆家
が主張して通ったのはなぜなのか。本ブログ
の仮定に、今述べた点で矛盾が無いのかどう
かを論題とする。回答から書く。

矛盾は無い。新羅の入寇が、遣唐使を廃止
する頃にあり、新羅国は基本的に日本と百済
敵国。それに対し日本と高麗の関係は中立だ
が、両者が急速に関係悪化した局地戦に準え
れば、刀伊の入寇のような戦闘がそれに当る
と、言えなくも無いから

である。
では議論を開始する。
 現場の戦闘の具体的な内容は、

西暦1019年の刀伊の入寇と、西暦894
年前後の寛平の韓寇とさほどの差は無かった

と考えられる。

高麗と日本の戦争は、歴史上ほぼ無かったが、
友好関係は、百済と日本よりは下、新羅と日
本よりは上、渤海と日本の程度だったと、
高麗国そもそもの建国経緯からみなせる

だろう。だから、

藤原隆家が、刀伊の入寇を寛平の韓寇に準え
ても、後一条天皇等には、へんだとは当然
感じられなかった

のではないか。
 つまり、賊が百済の賊であり、百済と日本
との間の国家間戦争に、原始平安小将棋が
準えられたのだとしたら、後一条天皇も、
藤原頼通も、藤原実資も変に思うのだろうが。
対日関係は並である高麗の海賊は、国王の
命令とはとても思えないにしても、
西暦1001年や、話をしている最中の、
西暦1020年12月頃にも、日本に押し寄
せていたと、web上には出ている。
藤原隆家は”太宰府では平素から、こうした
問題に対処していている”という意味で、述
べたのであろう。
だから、

女真海賊と高麗海賊をいっしょくたんにして
藤原隆家が論じても、日本では統一新羅王の
関与を疑っている、西暦894年頃の”
寛平の韓寇”を覚えていてくれてさえいれば、
それなりの説得力は有った

のではないかと私は考える。
 なお藤原実資は「小右記」で、西暦1001年
の海賊を”高麗国の賊”と敢えて明確化して
いるとされ、対朝鮮半島王国間戦争を、従来
より懸念していたと取れる証拠が有る事が判る。
 よって、

高麗国と日本との国家間戦争を最悪のケー
スは想定

し、それに備える意味で、武芸に励むのが
道理だと、藤原隆家が、他の朝廷メンバー
にも伝わるように、後一条天皇に説示したら、

おかしな話だと、感じる者はほぼ無かった

のではないかと思える。よって、刀伊の入寇
に対処するために、玉駒が2枚有り、国家間
戦争を明らかに模したものである小将棋に励
む事は、刀伊の入寇を首尾よく鎮圧した例か
ら見ても、一般的に日本の防衛に寄与したと
主張して、当時の上流階級・貴族層に通るの
は明らかだと、私は以上のように考えるので
ある。(2020/02/13)

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なぜ盤双六の存在は初期象棋をブロックしない(長さん)

本ブログでは、日本に西暦666年頃から
西暦1015年の間にイスラムシャトランジ
は、伝来すると直ぐに、廃れたと考えている。
囲碁のゲームの出来の良さを良く知っている
ので、出来の悪いイスラムシャトランジ系
ゲームは盛んにならなかったと見たのである。
ところで、出来の良いゲームとして、盤双六
があり、ペルシャや欧州ではイスラムシャト
ランジ時代に盛んであった。しかしイスラム
シャトランジがこれらの地域で日本のように
廃れると、西洋チェスが存在し無い事になり、
事実に反する。そのため、囲碁は初期将棋の
キラーになるが、盤双六系はキラーには、
ならないと考えなければならない。なら、
なぜゲームの出来の良い盤双六からは、初期
象棋であるイスラムシャトランジの出来の悪
さが発見できないのかを、今回は論題にする。
回答を先に書く。

棋力がAとBの対局で、Aが少し大きいとき、
囲碁ではA勝ち、初期象棋では勝負付かず引
き分け、盤双六ではAとBが勝ったり負けた
りになる。

ゲームが勝ち負けが確定して終わるという点
で、囲碁と盤双六は初期象棋より優れるが、
AがBより棋力がすこし上という点が、反映
されないという点で、囲碁より劣りかつ、

盤双六と初期象棋はその点で同じ。なので、
前者が後者よりも優れているように見えない
から

である。
 では、以下に論じる。
 言うまでも無いが、盤双六が流行ったのは、
上記の例で、Aの方がBより少し優れていた
とき、

Aが勝つことが多いが、Bも時として勝てる

からである。だから、頂点に居る名人が誰な
のかを決定するには、囲碁の方が盤双六より
優れているが、盤双六には

弱者Bが、たまたまの運を信じてプレーして
くれるので、賭博としては面白く、盤双六は
それなりに流行る要素が有る

と考えられる。だから、盤双六を会得してか
ら、初期の時代の象棋、例えばイスラムシャ
トランジをした場合は、囲碁のように、棋力
の差がスッパリ出るゲームが、囲碁が有る場
合とは違って、別には無いと考えられる。
そうすると、トーナメント戦を繰り返して、

名人が誰なのかを問題にする意識が、生じに
くかった

と考えられる。ゲームとは、実力の他、運も
左右するのが、当たり前と認識されるため、
”匠”は居ても、頂上”トップ”を決めよう
とは、しないからである。
 こうした意識を持っている限り、勝つのは
運だから、イスラムシャトランジに、ゲーム
の終端状態に達しにくく、引き分けが多いと
いう欠点は、

余り苦にならない

と当然だが考えられる。玄怪録の岑順のセリ
フではこれが曖昧に、宝応将棋に援用されて
おり、”勝利はときの運であり精霊が決める
こと”と、文学表現されているとも考えられる。
 それはともあれ。
 ペルシャや中世の欧州のゲーム界は、その
ような状態だった。だから、イスラムシャト
ランジが、囲碁のある東洋の中国、朝鮮半島、
日本のように、ブロックされなかったのでは
ないかと考えられる。
 なおインドでは、盤双六が余り、流行らな
かったようである。本ブログは”盤双六の謎
を解く”目的のものでないため、

なぜ古代インドで盤双六が余り盛んでなかっ
たのか

に関して、詳しくは述べない。簡単に書くと、
古代インダス文明の流れをくむインドでは、
”国の文化であるから、特定のゲームをする”
という、”思想”というもの一般が、そもそ
も流行らず、

賭博の、本質的意義の有無が問題にされた

とみる。その結果、ハイリスクならハイリター
ンで無ければならないと考えられ、二人制
賭博ゲームは、概して流行らなかった。とい
うのも、インド人に言わせると

一人づつカモにしてゆくのでは、金を巻き上
げるのに”効率”が低すぎると考えるため

である。その結果、ゲームの良し悪し以前に、
2人制ではだめとされ、賭博は四人制
チャトランガのように、3人以上のゲームに、
早くに移行したのではないかと、私は考える。
 何れにしても棋力世界一という事が、価値
有るものだと認識されるには、現実として、
最善手を選択するのに、高度な実力が必要な
ゲームが、囲碁という形で現実に出現しない
と生じないし、又囲碁のように、悪手をちょっ
とでも打つと、名人戦では勝ち抜けないよう
なもので、なければならなかった。

現実にそうした性質を充分に供えた囲碁が現
われて、第2番手のイスラムシャトランジは
遅れを取って、東洋では囲碁にブロッキング
された

のであろう。
 以上の点から、棋力が結果とイコールにな
り、かつ最善手の選択に相当な鍛錬が必要に
なるという両方の条件のうち、

盤双六には前者の性質が、たまたま欠けてい
た。そのためたまたま、対イスラムシャトラ
ンジへのブロッキングゲームになれなかった。

私は以上のように、考えるのである。
(2020/02/12)
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なぜ日本将棋が金、銀、銅3種にならなかった(長さん)

日本将棋の駒が玉将、金将、銀将なのは今更
であり、銅将をなぜ入れなかったのかを本格
的に問うた、先行研究があるとも聞かない。
が今回はこの、駒名の選択に関して日本将棋
に関し、玉将が当選して銅将が、落選した
理由を本格的に考察する。回答から書く。

大理国の王族は後漢書を読んでおり、金銀銅
ではなくて、金銀に価値を、隣国の大国、
漢王朝が持っていたのを、知っていたという
対外的体裁

からである。
 では、以下に論を開始する。
 実際の大理国では、複数の将棋が11世紀
に有ったのかもしれないが。前20世紀の、
中華人民共和国雲南省当局の、日本人研究者
による、研究調査時の対応の歴史からも推定
されるように、銀細工師と北宋商人との間の
交易を管理する、大理国当局としては、外国
に自国を良く見せる効果の有る物品だけ、
輸出するように、11世紀には管理していた
だろうと推定される。他方後漢書のテン国の
記載から漢民族が、雲南に関して金属のうち、

金と銀の産出が特筆されると、考えていた

と読めるのは明らかである。従って大理国当
局からみると、国のイメージを上げるものは、
貴金属のうち、特に金と銀の2種を選択した
ケースだと、当然認識し得ると考えられる。
 そのため、貴金属を使用するような遊具は、

そもそも、富裕層の所有物だとみなせる

のだが。更に銅、鉄の入った遊具よりも、

大理国のイメージアップには、金と銀が限定
して2種類だけ入ったものが、大理国の特徴
を良く表したものであるように見える

と考える事が出来るだろう。それに加えて、
玉将については、細工物が当時の大理国の
特産品だったとみられ、

将駒が3種必要であっても、玉将を入れれば
それの好きな、中国人への印象が、すこぶる
良いだろうとの想定が、容易にできた

と見なせる。
 以上の事から、大理国原始平安小将棋の他
に、別の将棋種が雲南では並立存在していた
としても、大理国当局によって、小将棋だけ
が、国のイメージアップに繋がる物品として、
選択的に許可されたと推定できる。すなわち、
小将棋だけ

大理市金銀細工職人共同組合等から北宋交易
商人の(一例)周文裔への売り渡しが、当局
にスムーズに、許可されたのではないか。

当然、今の日本将棋は、この大理国原始平安
小将棋の後継であるし、産地がわかった上で、
古代・中世の日本の将棋史の実質的な愛好家
が、後漢書のテン国の記載を見れば、

五宝のうち、金と銀がテン国付近で特に名産
品だったので、選択したのは判って支持した

であろう。その結果、末裔の日本将棋には、
玉、金、銀、銅、鉄を、どこかで区切るとす
れば、銀と銅の間で区切る習慣が定着し、

銅将が入らなかった。

以上のように考えられるのである。
 なお、日本に関して後漢書には、翡翠とも
とれる青玉と、辰砂と真珠の産地と書いてあ
り、平泉の金鉱の発見等は遅れたようである。
 そのため、少なくとも将棋には強い興味を
示さず、興福寺の将棋博打場など、考慮に入
れずに焼き討ちにしてしまった、平家の閣僚
層は、後漢書の東夷の倭は読んでも、西南夷
のテン王は、読み飛ばしてしまったのだろう。
つまり当時の

中国人の銀相場感が法外に高く、金>銀≧銅
ではなくて金>銀>銅であるのを、そのため
に知り得なかった

ようだ。その結果平家政権時代にも、宋銭の
輸入のために、法外に日本の銀を、大陸に対
して銅原料を得るために放出してしまった
らしい。逆に言うと政情不安で、のんきに将
棋を指して遊んでいられなかったのも、ある
のかもしれないが。

平家の一族の間では、平安末期に極端に将棋
が流行った事はやはり無かったのではないか。

以上の傍証の一つに、あるいはなるのかもし
れないと、私は考えている。(2020/02/11)

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後漢書で南夷をテンのように表現の他例は無い(長さん)

以前、後漢書で、テン国王一族の記載が、
贅沢三枚で、領土内で金銀の鉱産資源を有
し、馬牛が多数居るという3点で、日本将棋
の伝来元として、相応しいとの旨を述べた。
しかし単にテン国の後漢書の記載だけでは、
漢王朝が周辺民族一般に対し、しばしば、
上記3点を、決まり文句で記載しているの
かもしれず、証拠として適当かどうかの
疑念もあった。特に史記では”中国王朝に
初めは逆らって反乱を起こしたが、平定さ
れて皇帝を尊敬している”は決まり文句だ。
 そこで、今回は、

リファレンス情報として、周辺民族一般を
漢王朝が、一般的にどう表現しているのか
を、とりあえず産物が類似の、西南夷の章
について、後漢書でチェックしてみた。

以下が、人の性格と特産品に絞った、
”西南夷”についての、本ブログが把握し
た範囲での、後漢書の記載である。

タン人国:人食い人種である。
越しょう国:白い雉が居る。
黄支国:犀を中国に献上した。
ベトナム:雉とウサギが居る。
邑国:犀と雉を中国に献上した。
巴郡の豪族:虎狩をする。勇猛である。
昆明:遊牧民。王は居ない。
夜郎国:原始宗教を信じる。牧畜蚕業が無く
貧しい。こうろう木の皮をはいで食している。
哀牢夷:鼻や耳に穴を空け、体に竜の刺青を
描いている。雲南省の奥地に住み、かつては
弧立。土地は肥沃で五穀が採れ、蚕業が盛ん。
織物業が盛んで麻布、桐の木の”むく毛”の
織物が有る。

金、銀、銅、鉄、鉛、錫、真珠、琥珀、水晶、
瑠璃、翡翠等の鉱産資源がある。

孔雀、犀、象、ショウジョウ等の動物が生息。
首に瘤の有る、特殊な種類の牛状家畜動物が
いて、肉が多い。また鹿が居る。象牙や象を、
漢王朝へ献上した。漢王室に、ここの手品師
が来て、”自分はローマ帝国の末裔だ”と、
名乗っていた。
きょう都夷:平原で稲作地。道楽者で合唱が
好きである。
作都夷:山岳地帯の民。民族音楽がある。
宗教的な彫刻を作る。
ぜんぼう夷:寒く不毛な地で麦が取れるだけ。
牧畜業を営む。牛、馬、羊、鹿、ジャコウ、
鶏、ショウジョウが居る。特産の織物がある。
肉食なので、住民は太っている。
白馬氏(てい):土地が険しく麻畑が続く。
馬、牛、羊が居る。漆を産する。養蜂をする。
川のほとりに住む。向こう見ずで恐れを知ら
ず、命がけで高利貸しを営んでいる。
(以上が、人種の特徴と、特産品についての
抜書き結果。)

以上の事から同じ雲南省で大理市より山奥の、

”哀牢夷”以外、テン王同様、鉱産資源の豊
富な場所等との記載が無い

事が判る。なお、net上の記載を見る限り、
哀牢夷=白衣蛮のように、私には見える。
 以上の結果から、テン国王のような記載が、
漢王朝から、見た当時の蛮族一般に対して、
決まり文句で与えられている訳でもない事が、
明らかである。
 しかも、哀牢夷の王はテン国王とは異なり、

”国王は耳に穴を空けて、肩まで耳が垂れて
いる”等と未開人のごとくに表現され、黄金
に囲まれて暮らす、バイキングの王族系とい
う、テン王イメージとは又、別な表現

のようである。
 よって、後漢書の周辺民族列伝に関しては、
少なくとも、日本の将棋の伝来元に関する、
傾向証拠を全く含み得ない、他民族の記載が
画一化している情報とは、とても言えないの
ではないか。
 テン王以外の、西南夷に関する後漢書の記
載から、私は以上のように考えるのである。
(2020/02/10)

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