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1015年の周文裔は鳥越憲三郎のような人類学者(長さん)

本ブログでは以前述べた通り、文化人類学上の
理論の一である”稲作弥生人の中国南西部起源説
と、文化の伝来経路説”に従って、あるがままの
自然法則として、そこから将棋が伝来したのでは
なく、文化人類学者としての西暦1015年時点
での北宋商人が、雲南の文物と日本それとの相性
の良さを、当時の中国宋代の、文化人類学からの
知見に基づいて、能動的に売れ筋として割り出し、
日本の朝廷の後一条天皇向けに、道具を転売した
ものが日本の将棋の始まりという事になっている。
西暦1015年は既に歴史時代であり、弥生時代
では無いからである。
 しかしながら、現在の文化人類学の情報量より、
当時は当然劣っているはずであり、一例中国商人
周文裔に、以上の思考能力があるのかどうかを、
検証する必要があると考えられた。そこで今回は
表題のように、西暦1015年時点での一例、
中国北宋商人で、将棋を雲南から運んだと疑われ
る周文裔の持つ知識量は、たとえば、前に、
”中国正史倭人・倭国伝全釈、中央公論新社”の
著者として挙げ、”雲南からの道。日本人のルー
ツを探る”等で、稲作弥生人の、中国南西部起源
説を主張しているとされる文化人類学者の、
鳥越憲三郎氏と同様な思考に、

約1000年前に到達できたのかどうか

を、論題とする。回答を書く。

到達できたと考えられる。何故なら、そのために
必要になる裏付け史料は、唐代までに出揃ってい
たから

である。では、以下に論を開始する。
 webの情報によると、日本の文化人類学者の
鳥越憲三郎氏は成書、中国正史倭人・倭国伝全釈
にもあるように、『論衡』から『旧唐書』にいた
る史書における倭人の記述を読解し、「倭族」が、
日本国の倭国の倭だけではなくて、揚子江上流域
の、四川・雲南・貴州の各省にかけての、非漢族
をも表している事を明らかにした。そしてそこに
は、複数の倭族の王国があったとさえ指摘した。
すなわち、テン国、夜郎国、昆明国、且蘭国、
徙国、キョウ都国、蜀国、巴国等。なお発生地が
漢代の史記からテン国なのは、歴史的順序から見
て、誰にでも判るし、遺跡でも知られるテン池付
近が、倭族の中心地であるとする事位は、
鳥越憲三郎氏同様、1000年前でも可能だろう。
 なおテン池は、大理市ではないが、同じ雲南省
内にあり、昆明市に近い。

日本、任那等を含めて、史記の記載は”倭”である
から、同族なのは、北宋時代でも、『論衡』から
『旧唐書』の倭部分を読めば、納得できるのは明
らか

であろう。
 よって、周文裔は唐より後の、五代十国以降の、
北宋の人間であるから、相手国のようすを、自国
の史記で調べるのは、交易家として自明であろう。
更に奥さんの顔を見る等すれば、東南アジア人と
中国人が混じったような顔をしているのは、中国
南西部の人間と、日本人とでいっしょだと、気が
つくだろうから、史料を疑う要因もない。だから
今から約1000年前既に、

鳥越憲三郎氏の認識に周文裔が到達するのは容易

だと、私は思う。
よって以上の事から、

交易品として使える物が有るのであれば、行くの
は海岸近くと違い、雲南は奥地たいへんではあっ
たが、使ってみようと常々考えていた

と当然仮定できるだろう。
 そして、雲南には砂金に基づく金文化があり、
たまたま大内裏が火災で焼けてしまい、藤原道長
から、”金の飾り物補充をしたいので、どうにか
してほしい”と言われた。また”孫の後一条天皇
に、オモチャを買ってやりたい”とも聞いた。
 そこで、”金将のオモチャ”が、たまたま有る
事を知っていた、北宋商人一例周文裔は、お得意
さんの為なら、ソンコイ川昇り程度は覚悟しよう
と、雲南に出かけた。
 以上のような経緯の推論が、大理市の仏塔から、
武家族系の王族が成就した姿を象ったとみられる
玉、金、銀、銅、鉄仏の出ている事から考えても、
少なくとも絶対無理筋議論とまでは、行かないの
ではないかと私は疑う。
 つまり雲南省の文物は、日本納入物品の、有力
な供給源候補として、文化人類学者としての力を、
文献が現在と同等な所まで達し、豊富であるため
に当然持っていた北宋商人一例周文裔の頭の中に、

予め常時インプットされていたのではないか。

やはり私は、以上のように仮定して良いように、
思えるのである。(2020/02/04)

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