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(コラム)天文年鑑2020長田和弘氏指摘は誤解(長/軌道)

天文年鑑2020の流星観測結果に、ジャコビニ流星
群の、2018年佐藤幹哉予想のはずれの件が書いて
ある。が、佐藤氏の計算は合っている。流星群ではな
くて準流星雨になったのは、1985年や1998年
の計算結果図と、2018年の計算結果図とを、単に

佐藤幹哉氏が、よく比べてないだけ

である。1998年等と2018年は、さほど計算結果
傾向に差は無く、

2018年は、佐藤氏の指摘する時間帯に”準流星雨”
と予想が出て当然

だ。次回2024年については、アメリカの研究者に、
この件事前に良く調べてもらい、アメリカの長田和弘
(熱心な流星観測者の代表と言う意味)に、よくチェッ
クして貰うと、よかしかろうと私は考える。なお西暦
2005年頃だったと思うが、EUの某軌道計算家が
web上に、”西暦2011年と西暦2018年は、
流星計算テスト粒子の地球落下数が多く、どちらも
ジャコビニ群は準流星雨を予想”と、既に指摘してい
たと記憶する。(2020/02/05の2)

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平安の理科離れ曼殊院の諸将棋図成立まで続いたか(長さん)

以前、本ブログでは、斉藤国治氏の天文道家
の月惑星、月輝星、惑星惑星の会合観測の精
度から、理科離れは15世紀いっぱい続いた
と述べた。ところで、曼殊院の将棋図は西暦
1443年だから後ろの方で、この期間に入
る。それに対し、
伊達宗行著の”理科で歴史を読みなおす”
(ちくま新書、2010年)に、足利義満
時代の西暦1400年前後に、銅の精錬が
国内で盛んになり、理科離れ終焉との旨が書
いてある。

つまり約100年誤差が有る。

上記伊達宗行氏の著書を良く読むと、
西暦1453年に、明へ銅を輸出している
記録が根拠である。何れにしても、銅精練で
は、曼殊院の諸将棋図成立の頃には、科学が
日本で再び、重視されてきている事を示して
いる。では、

どちらが正しいのか、境目をはっきりさせる

事を今回は論題とする。
回答から書く。

西暦1400年頃で、平安の理科離れは終わ
り、曼殊院の諸将棋図成立は、回復期である。

では、論を開始する。
 以前にも紹介したが平安時代陰陽道史研究、
思文閣出版、山下克明、西暦2015年に、
斉藤国治氏の、伊達宗行氏の紹介と

合わない情報が載っている。

”月星、惑星対惑星の会合現象に関し、記録
の臨界角が甘くなっている状態が、西暦
1500年まで続く”と載っているのである。
 それと関連する事実とみられるが、惑星-
惑星間会合で、惑星名間違いをする、安倍家
15代目当主、安倍有季と、同族の安倍有重
の記録が載っている。が、

これは、補強材料にならない

というのが、本ブログの見方である。逆に、

理科離れ回復期の、証拠なのではないか

と本ブログでは見ている。理由を結論から言
うと、

安倍有季と、同族安倍有重の2人だけの怠慢

の指摘と取れるからである。根拠は容易で、

古代中世惑星間違い8件のうち4件この2人

だからである。
 以下更に詳細に述べる。彼ら2名のした間
違いの4件は、時系列順に内容を述べると、
次の通りである。

①西暦1444年宣明暦の4月27日の前後
に安倍有重は、夕方に木星が西に低くいて、
その少し東の所で、金星と土星が会合してい
る時に、”金星、土星、水星が会合している”
と報告し、木星を水星と間違えた。
②西暦1444年宣明暦の閏6月1~3日に、
安倍有季と安倍有重は、明け方の空で、
木星と土星が会合しているのに”木星と火星
が会合している”と報告し、土星を火星と間
違えた。
③西暦1453年に安倍有重は、惑星名を
間違えている。
④西暦1454年宣明暦の6月26日頃に、
安倍有季は、明け方の東南の空の、おひつじ
座の東付近で、火星と木星が会合しているの
に、”土星と木星が会合している”と報告し、
火星を土星と間違えた。
なお、①~④の指摘者は賀茂在貞等、暦道の
賀茂氏を名乗る人物になっている。

賀茂在貞は15代目で土御門氏移行期の安倍
当主、安倍有季らを、かなり罵倒している。

なお、webの土御門有宣は16代目である。
これに対し、山下克明氏はようするに、意地
悪く、”賀茂が安倍に、

暦を貸さなかったのが原因か”

との旨述べている。そこで私は、

山下克明氏は正しいが間違う言訳にならない

と考える。

暦が無くても、惑星のどれが、どれなのかを、
普段天体観測している人間は概ね間違わない

ということである。つまり惑星がどれなのか
を、そもそも気にして居ないような、間違え
方だという事である。なぜなら、
①で木星を水星に間違えたのを指摘されれば、
②の月日の当りで、

2か月前に水星と間違えた木星に、土星が接
近して会合する事を天文家は予め予想できる

という性質のものだからである。なお、火星
は、夜中頃に赤く明るく見えたはずであり、
15代目で土御門の安倍有季が、金星と水星
が居て、会合現象が確率的に起こりやすい、
宵の西空と明けの東空を、

ちらりと観測して、夜中は見ずに、日ごろ天
体観測を手抜きし誤魔化していたのは明らか

とみられる。その証拠に、④で、2年1ヶ月
20日毎に、一定の時刻に決まった時角に
なる火星は、8年6カ月20日と、10年
8ヶ月10日の、だいたい3/4時点の10
年ちょうど程度で明け方の南東の、おひつじ
座の東に来るのを、西暦1444年宣明暦の
閏6月に、衝になっている姿を見落とした指
摘から、察する事が出来たはずなのに、それ
が出来ずに、更に土星と間違える事から見て
も明らかである。
 またそれ以前に、西暦1444年の宣明暦
1月から3月の宵の頃に、良く見えたはずの、
木星と土星の居る星座が恐らく、ふたご座~
かに座付近であり、東に土星、西に木星と並
んで見えていたのを、よく見て居ないから、
①の間違いをしたのである。
 つまり、そのときの5惑星の、惑星の動き
の性質は、若いときに先達等から以下のよう
に、学べたとする。

すなわち、星座に対して木星の公転周期が、
約12年で、土星の公転周期が約30年で
ある事を学んで知っている。
火星と地球の会合周期が約2年1カ月20日
であるのを知っている。
金星と水星は、太陽から、余り離れない。
金星が太陽に対して東西45°前後まで。
水星は、フレが約10°有るが、その半分程
度の23°が平均である。また両者は、
明るさが大きく違う。より暗い水星は太陽か
ら離れ無いので、めったに見れない。
春分少し前の夕方の水星か、秋分少し後の明
け方の水星で、太陽に対して、離角が大きく
なったときが見やすい。
 以下は、史料の注釈として少し詳しく書く。
立夏の頃の宣明暦の4月の夕方は、仮に
東方最大離角になれば、北に傾いた軌道の
縁先に、水星が乗る形(水星の軌道要素の
昇交点黄経Ωは45°位)で、好条件要因
が追加される。が、同1月頃の東方最大離角
状態に比べて常用薄明時間が長く、後者の悪
条件要素も作用し、そうなっていたとしても、
発見は必ずしも容易ではない。尚水星軌道の、
昇交点黄経Ωの歳差込変化は、誠文堂新光社、
天文年鑑の2000年版によると、550年
位で約6°増で無視可能。
以上は①の参考のために、水星は少し詳しく
書いた。
 全体として、水星は一年に3回、宵、明け、
宵、明け、宵、明け等と出現を常に繰り返す。
金星は俗に、”8年前の見えと同じ”と言わ
れるように、ほぼ1.6年が会合周期。5回
の会合周期で8年ちょうどに、ほぼなる。

以上の基本の心得があれば、

賀茂氏に、意地悪く暦を隠されても、惑星
を間違う事は、先ず無い

という性質のものである。なぜなら、②や④
の明け方の会合では火星がまだ暗く、少し注
意しないと、間違う可能性は無いとは言えな
いが、外惑星はこの頃逆行せず、かつ、火星
は太陽より少し遅いが、太陽を追いかけて星
座を順行する動きが、独特の決まったパター
ンだからだ。
ちなみに西暦2020年2~4月頭に、火星、
木星、土星がいて座~やぎ座付近で並んでお
り、上記がよく判る状態になっている。水星
が2月頭は、宵の西空低くに見え、宵の明星
の金星を目印にして、見ごろだ。
また10年前に起こった木星と土星の会合が、
その年起こる事も無い。1/{(1/12)-
(1/30)}は、約20年である。だから

これらの一連のはずし方を、時系列でよく見
ると、暦を伏せられたからではなくて、天文
道家としての、基本がなって居ないから、
起こる間違い

という性質のものである。
 そもそも、少なくとも金、火、木、土が、
その日何処にいるのかが判らないと、気にな
るようでなければ、天文道家とは言えまい。
安倍家15代目当主の安倍有季と、同族の
安倍有重には、そのような様子が、間違え方
のパターンから見て、私には感じられない。
 今述べた事は、だいたい1日の学習と、心
がけ次第で身につくはずである。だから、
たまたまだが、安倍家の15代目の安倍有季
と、同族安倍有重の2人は、

仕事のやる気が、もともと無い人物達だった

のだろう。さすがに

他の安倍氏に、このような人間は居ない

と疑われる。その証拠に、歴代の間違いで、
他のは、たまにの、記録ケアレスミスのよう
で全体で4件だが、この2人に限って全体の
50%の、4件のミスが発生して、合計8件
になっている。
 この賀茂在貞等、暦道の賀茂氏を名乗る人
物の指摘記録のケースは、少しでも、やる気
の無い天文道家が居れば、賀茂氏の暦家は、
ただちに文句を言ったと見て、日本の

暦道家の断固たる姿勢を、褒めるべき

ではないのだろうか。少なくとも1440年
から1450年に、暦家に、そのようにうる
さく言う人物が居たため、

囲碁には同じ頃、碁打ち衆、上手衆と言われ
る集団が存在した

ようになったのではないか。
 また将棋でも、ゲーム性能の議論はこの頃
も依然盛んであり、

水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の元になった、
曼殊院の将棋図もその頃に成立したとされる。

よって、更に事実の蓄積が必要だろうが、

西暦1400年までで、平安時代から続いた
日本の理科離れがどうやら終わった可能性も、
結構な確率で存在する

のではないか。以上のように、本ブログでは
結論するのである。(2020/02/05)

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