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後漢書の雲南テン国の記載。北宋代の大理国に酷似(長さん)

以前、鳥越憲三郎氏(中央公論)の成書、
”中国正史 倭人・倭国伝全釈”を紹介した。
が、そのときには、岩波書店(2005)の
後漢書を私は読んでいなかった。この第十冊
には、東夷列伝第75の”倭”が載っていて、
中国の史書として、ほぼ同時代の漢書と同じく
ノイズの多い日本情報だとされている。
しかし史書として早期の、後漢書に、

南蛮西南夷列伝第76の”テン”国も有る

点が重要である。そこで

テン王に関する記載の部分は、大理国王に酷似

という話を今回はする。
 では、以下論を開始する。
 後漢書では鳥越憲三郎氏が指摘するように、
東夷列伝第75の”倭”は、南蛮西南夷列伝
第76の”夜郎”と、似たり寄ったりと冒頭で
表現されている。漢代には日本列島は、海南島
の近くにあると、中国では考えられており、
海南島には、夜郎国と同族人種が住んでいると
されたためである。なお、夜郎国もテン国も、
北宋時代には、大理国領内とみられるので、

統一国家テン国は、小国分裂状態の日本列島
倭国国群の、同族先行国家と言うことになる。

そこで、テン国の様子だが、後漢書には、次の
ような旨が、書いてあるようである。
”テン国にテン王という者が居て、荘嬌将軍の
末裔の者である。西暦0109年に漢の武帝は、
雲南を攻め、漢王朝領の益州郡とした。その後
数年して昆明も征服した。昆明の近くにテン池
があり、雲南省のテン国の中心であり、そこか
ら生じる川は最初流れが緩く、逆さ川のようで
ある。テンとは逆の意のテンである。池の周り
には盆地で平坦な大地が広がり、

オウムと孔雀がおり、塩水湖で漁が盛ん。また
金・銀が多く産出し、畜産業が盛んである。
テン国官僚・富裕層は、贅沢三昧をしていて、
富かな者は、何代にもわたって栄えている。

・・・・
西暦0042年、土地の豪族の棟蚕は、漢王朝
に対して反乱を起こしたが、大軍を派遣される
と、陣地を捨ててゲリラ戦で抵抗。しかし数ヶ
月で平定された。その際、敵12700人が切
られるか、又は捕虜となり、馬3000頭、

牛と羊合計30000頭以上が、漢の物となる。

以上のように反乱軍は、ことごとく鎮圧された。”
 以上の事から、テン国ののちの、ジャン(チュ
アン)国、南詔国、大理国は、仏教の伝来は別
として、テン国と体質は、さほど違わない後続
国家であると、イメージできる。大理国時代に
は、シルクロード地帯との交易も盛んになり、

鉱業(金、銀)、畜産(馬、牛、羊)、魚業、
の他ネフライト(玉)の細工も盛んになった

のであろう。何れにしても

後漢書のテン王国の記載から、そこに将棋駒
の金将、銀将、猛牛駒の元がいかにも有りそ
うなのは、

もっともなのではないか。
なお、私は知らなかったが後漢書の記載から、

藤原道長が西暦1015年の春に、唐物とし
て受け取った孔雀は、少なくとも、かつては
テン国にも居た

ようだと判る。
 北宋時代以前に、後漢書の東夷列伝第75、
南蛮西南夷列伝第76が成立していたのは明
らかである。だから北宋商人(一例)周文裔
が、上記を読んで、宝応将棋の進化型である、
原始平安小将棋(大理国タイプ)の存在を
予め掴んだ上で、

立体駒タイプの平安小将棋を交易品として輸
送して来る行為は、実際にその作業をすると
すれば、”単なる同族内の文物の移動を、
代行して商人がしている”と、意識するに
すぎないという事は明らか

だと、私は考えるのである。なお、大鏡の
藤原行成を記載した、”後一条天皇のオモチャ
の件”等から、倭族については雲南テン国だ
けでなく日本でも、雲南大理国の時代になる
と、富裕層が贅沢三昧し出したので、一緒の
レベルに到達したと北宋商人(一例)周文裔
は、見なしたはずである。つまり冒頭で述べ
たように、テン王も大理国の王侯も、日本の
天皇・藤原一族も同じ倭族であるからいっしょ
だと、北宋商人には、後漢書を読めば、見な
せるということになるのである。(2020/02/08)

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