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1006年おおかみ座超新星。安倍吉昌宣伝は無い(長さん)

以前に、朝廷内の天文道や暦道担当は、西暦
1000年から西暦1140年頃まで業務の
世襲化を狙って、注目すべき天体の位置観測
情報を隠蔽し、京都市内等の世間に対し広報
を、あまりしなかったとの旨を、本ブログで
述べた。
 西暦1006年ユリウス暦(以下同)5月、
中国と、日本の安倍吉昌が発見し、著しい
現象となった、おおかみ座1006年超新星
も”西暦1200年過ぎに、藤原定家の日記
に現われるのが初見”という指摘を、少なく
とも本ブログでは過去にした。がこれは、
誤りだったというのが、今回の論である。
ようするに、ずっと後ではなくても、その時
代の

藤原道長の、御堂関白記にも書いてある

ようだ。しかし、安倍吉昌の報告内容(密奏)
のコピーが、道長の日記に書かれているので
はなく、曖昧である。

興福寺の僧の、京都への押しかけ強訴に関連
して、超新星についての勘文の内容が、御盆
の過ぎ頃にチェックされ、今後の対応が検討
された事(宣明暦:寛弘3年(西暦1006
年)7月13日)、

客星の件について、占い師に吉凶を、同年の
ユリウス暦8月満月後に判断させた事(宣明
暦:寛弘3年(西暦1006年)7月19日)。

以上の記載と、”しぶしぶ”だったようだが、

一条天皇に、仕事をさっさとするように催促
されたので、客星の出現が原因で決定された、
特赦の人選に、藤原道長がOKサインを出し
たという、同9月の記事
(宣明暦:寛弘3年(西暦1006年)8月
26日)

の3箇所である。従来は客星が、同時に2個
以上表れる確率も、ゼロとは言えないので、
御堂関白記の記載は、天文史学からスルー
されたのだろう。が当然だろうが、興福寺
方向に超新星が見えるので、興福寺の強訴と
京都から見て南の空低くに現われる超新星は
関連するのであり、更にはその意味を占い師
に占わせたのだろう。以上の事から興福寺の
強訴の、約1週間後に道長が占わせた客星が、
当時京都市内から見て南天低い宵空の”客星”
であるのに間違いはあるまい。だからこれは、

ほぼ、”おおかみ座超新星1006”の事と
特定できる

と私も思う。なお、御堂関白記には、問題
の客星が、興福寺僧兵軍団が押し寄せたとき
に、突然記載が現われるという、大きな特徴
も示している。日食予想が5月1日昼間に出
ていた旨を書いており。天文現象一般に関し
て、日記に記載をしない訳もなさそうである。
つまり実際には、超新星が既に見つかってい
る期間なのに、藤原道長は、日食については
日記に書いても、超新星については伏せてい
たと疑われる。
 興福寺は京都市内の南の、近鉄奈良線の
奈良駅のすぐそばであり、”奈良の御光さま”
として

強訴のときに、僧侶が超新星を、演出効果と
して使用したのは明らか

であろう。だから強訴の約1週間後に、遅れ
ばせながら藤原道長が、意味を占い師に占わ
せたとしか、少なくとも私には思えない。
 なお変な話だが、探しても今述べた事実に
ついて、述べている先行文献が、私にはなか
なか発見できない。”超新星は、藤原定家の
日記初見”のきめ付け、ないし”理科離れで、
この件自体に日本人の関心が誰にも無い”が、
21世紀の現在、すっかり定着し、他民族に
は、日本の記録を、元々探す事も少ないのだ
ろう。そのために、

”日本の超新星記録と言えば藤原定家の日記”

という以上のような認識が、今やすっかり、
グローバルに、広がってしまっているようだ。
なお、ロバートバーナムJrの星百科大事典
(地人書館)に、出典不明で上記のうち、
宣明暦:寛弘3年(西暦1006年)7月
13日の記事の内容とみられるものが、載っ
ているようだ。研究者は気が付いて居ないの
ではなく、識別する事について、特に天文学
的意味を余り感じて居ないので、区分けした
議論が、恐らく無いままなのだろう。
 所で、おおかみ座超新星を、強訴のときに、
興福寺軍団の錦の旗印にするには、おおかみ
座が見ごろの頃強訴する方が良い。おおかみ
座の宵の見ごろは、言うまでもなく

梅雨時

だ。厳密に言うと、歳差の補正をすると、
12~13日程度、今より見ごろは早くなる。
 所が、お盆現8月の満月の少し前頃になっ
て、実際には強訴している。お盆の頃の前の
夏休み入の頃は、その準備で1000年前の、
興福寺の11世紀の僧も、忙しかったのかも
しれないが。また、午後から超新星の光の点
が、青空の中に有って、それなりに現8月満
月直前頃は、説得性は有ったのだろうが。事
おおかみ座に関する限り、史実として興福寺

強訴は、見ごろの盛りを、少し過ぎた頃

の御盆直前に起こっている。ちなみに興福寺
の要求は、どうやら道長のやり方の改善では
なくて、大和国国司を解任し、奈良における
興福寺権力の確立を目指す為という内容のよ
うである。だから時期を前倒ししても、余り
”支障”は無いと判る。なお見えている期間
が新星に比べて長い超新星は、その年の初冬、
また明け方に現われたという事に、なったと
聞く。
 何れにしても、

梅雨のすぐ前の6月の頭か、夏休みに入った
ばかりの頃が強訴には、夜半前南の低い空か
ら、京都市内を睨みつけるように輝く、おお
かみ座超新星を利用するというのなら、より
時期が良いはず

なのに遅れて使われたと見なせる事は確かだ。
なお、12~3夜の月明かりも、厳密には無
い方が、良いかもしれない。
 実際には、おおかみ座超新星は繰り返すが、
5月の頭に見つかっているから、現代社会な
ら、6月頭頃には、フィーバーだっただろう。
 しかし、実際には強訴は現8月の満月過ぎ
であるから1~2ヶ月半遅い。これはやはり、

安倍吉昌が発見してから、皆が気が付いて、
何が起こったのか理解するまで、1ヶ月近く
かかった証拠

のように私には思える。つまり京都から見て
真南の寺、興福寺の強訴が現6月や現7月で
はなくて、超新星が輝くのが夕方少しの時間
しか無くなる現在の8月だったのは、

陰陽道担当者が、超新星の宣伝を、能動的に
はしていなかった、やはり証拠

なのではないかと、私には疑える。何れにし
ても、ボディーブローのようにそれが利いて、
囲碁が衰えるのは、その90年ほど先にはなっ
たようだが。(2020/02/20)

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