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契丹(遼王朝)でも囲碁は打たれた(長さん)

昨年2019年の11月21日のことであるが、
モンゴルにチェス文化が遅れたのは、北元まで、
全部囲碁文化圏内だったためだと述べた。
 しかし、突厥国→
ウイグル国→遼(=契丹)国→金王朝→
モンゴル帝国→北元国→オイラート国
と、カラコルム付近の、支配国家の推移を述べ
たときに、遼(=契丹)国の囲碁の証拠だけ
見当たらないと述べた。突厥国とウィグル国も、
著名な美人画がどちらの所属なかなのも、実は
謎ではある。遼代に囲碁が有った事については、
次のキーワードで検索hitするサイトの
PDFの208ページと223ページの2枚に、
碁盤の壁画が書いてある事が、さいきん判った。

”遼代壁画資料”

なおサイト名は、アクセスするとただちに、
PDFのダウンロードの可否が、指示される
パターンのwebサイトなので、私には良く判
らない。恐らくだが、徳島大学のサイト内の、
何処かにあるものとみられる。
コンテンツ名は、”徳島大学総合科学部 
人間社会文化研究 第14巻(2007)133-
231”の中の208ページと223ページの
2枚の壁画図だが、
論文の題名は”遼代壁画資料”、東潮氏著とな
っている。
 具体的な壁画名は、208ページの壁画図は

法庫葉茂台兼義墓(墓門右壁)

のようで、”考古1989-5より”とある。

223ページの壁画図は、

宣化下八里7号張文藻墓(通道門)

のようで、”文物1996-6”の注がある。
”碁遊庵”という囲碁史のサイトの次のurlで、
後者に関して”13路の碁盤”と書いてあるよう
だ。が碁盤の線が何本あるのかは、紹介した徳島
大学のpdfファイルを見ても、暗くて私には、
良く判らない。
 以下碁遊庵の、宣化下八里7号張文藻墓の説明
のあるサイト名は
エイチティティピー:
//goyukai.aquifer.jp/miscs/topics/topic05.html
である。ともあれ。
 徳島大学の紹介したpdfの本文中の説明から、
どちらも遼代の、囲碁盤の絵だとみられているよ
うである。
 なお、遼王朝で、シャンチーが指されたかどう
かは、依然として私には良く判らない。(2020/02/22)

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