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小澤・増田PDFの平安時代囲碁大会記録リスト(長さん)

今回は、以前に引き続いて、大坂商業大学
アミューズメント産業研究所の小澤一徳氏・
増田忠彦氏による、日本古代の囲碁史に
関わる文献リスト(雑誌名不明、277ペー
ジから315ページ)を紹介する。今回は、
集計項目として、同じ平安時代だが、日記
等の記録ではなく、今で言う囲碁大会記録
に相当するとみられる、
”囲碁の賭物・碁手銭・儀式の碁盤”の
集計結果を記載する。このリストは上記
PDF文献の、300ページから310ペー
ジに載っているようである。
 結果から書くと、以下のようになり、

西暦1050年~1099年は、やはり少
ない。

800年~849年:5件
850年~900年:3件
900年~949年:24件
950年~999年:14件
1000年~1049年:15件
1050年~1099年:3件
1100年~1139年:8件
1140年~1149年:記載無し
 なお1140年以降は、政情不安により、
大きな囲碁大会が、無くなったのであろう。
1140年以降は1件も無いようだ。
 なお、1050~1099年の3件は、
1050年ちょうどのイベント1件と、
天皇家儀式の文献集が、完成したため発生
したとみられる記録1件、

白河天皇が主催した囲碁大会(1087年
宣明暦2月5日)の記事の1件

の、合計3件である。また、1100年か
ら、1139年の方にカウントされたが、

大江匡房の主催した大会が1件、大会の運
営方法に関する大江匡房の考察記事1件が、

おなじ、1100年ちょうどに有るそうだ。
 以上の事から、ひょっとして、その時代
の藤原長者の藤原師通は、囲碁を打たなかっ
たのかもしれないが。
院政に関係の深い、白河上皇と大江匡房は、
恐らく実際に存在した西暦1050年~
1100年頃の囲碁の低迷期に、確かに
囲碁復活に尽力したようだと判る。
 内裏内ではこの2人位しか、囲碁に熱心
では、なかったようだ。なお大江匡房は、
囲碁の怪奇話が出てくる、
吉備真備の入唐伝説でも、紹介者として
よく知られている。
 また本ブログでは従来より、

いわゆる平安小将棋(標準型の9升目タイ
プ)は白河天皇と一例大江匡房の作である

と見ている。
 他方、ゲームで名人を決めるというカテ
ゴリーのボードゲーム総体が、集計から見
て天体の位置観測からの、社会の遠ざかり
により囲碁が衰退し、その影響で、その類
そのものが、11世紀後半宮中では

白河天皇と大江匡房という、特定の人物だ
けの関心事になるまで、後退した可能性

が、どうやら有るようである。
 ただし言うまでもなく少なくとも興福寺
では、小将棋でかつ、本ブログの推定では
8升目型がたいへん盛んだったとみる。そ
して他方、摂関藤原氏自体には、名人位を
争うというパターンの、ボードゲーム自体
が低調なため、一時期将棋も誰にも指され
なかった疑いがある。そのため当時の将棋
界は、ひょっとすると、

朝廷と興福寺等の博打師との間の、小将棋
の標準化の主導権争い

の様相を、あるいは本当に、呈していたの
かもしれないと、疑われるようになって来
たという事になるようだ。(2020/02/26)

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