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クーリエチェス少し後のイスラム圏グランドアセドレフ比較(長さん)

以前述べたように、12世紀~15世紀中キリスト圏
成立のチェス、クーリエチェスは、科学の暗黒時代の
ものであって、出来の悪いものであった。しかし、
キリスト教がイスラム諸国から領土奪還したスペイン
では、スペイン王のアルフォンソ10世が、一見する
と駒数多数チェスであるという点で、クーリエチェス
と大差ない外観のグランドアセドレフを紹介していた。
今回は、より文明の発達したイスラム圏の方が、中世
12世紀~15世紀中キリスト圏のゲームよりも、優
れている点を確認する事を目的とし、

グランド・アセドレフを指した結果を紹介しコメント
する。

ここで以前にも述べたが、グランド・アセドレフは、
中世スペインのキリスト圏王のアルフォンソ10世著
作のエルサビオの遊戯書にあるもので、13世紀の頃
に存在したとされる、大将棋状のチェスである。
イスラム圏の文化を継承しており、水準は高い。
 以下が、同じく岡野伸氏の自費出版著書
”世界の主な将棋”(1999)で紹介されている、
スペインのチェス型ゲーム、グランド・アセドレフの
ルールである。以下は3年程度前に、同様の文面を、
本ブログで、記載しているものの、再度掲載である。
 このゲームは、次のようなルールになっている。
初期配列は、チェス同様、先手の白が王が中央の右、
後手の黒の王が、中央の左となり、白から黒を見わ
たす向きで、次のように、初期配列される。
一段目:城、ライオン、ユニコーン、キリン、ワニ、グリフォン、
王、ワニ、キリン、ユニコーン、ライオン、城
二段目と三段目は全部、空き升目で、
四段目に兵を合計12枚、配列する。
駒の動かし方のルールは、以下の通り。
王:玉将の動き。ただし初手だけ、大局将棋の玉将
や白象の動きができる。(初期配列からは縦、横、
斜め8方向、2升目まで走りという事である。)
グリフォン:斜め1升目と、そこから縦横に動く。
前の地点と、1筋ズレて走ると言うことである。
ワニ:角行の動き。
キリン:縦横3升目まで走りに加えて、3升目の地
点から、斜めで、遠ざかる2隣接升目へ1升目歩む。
ユニコーン:初期配列位置からは八方桂馬。ただし、
そのとき相手の駒を取れない。別の升目に移動した
のちには、角行と同じ動きに変わる。
ライオン:縦横3升目まで走る。
城:飛車の動き。
兵:チェスのポーンと同だが最初だけ2升目という
ルール無し。
兵だけ成り、そのとき居る列筋の自陣最下段の駒と
同じ駒に成る。(インドチャトランガタイプ)ただ
し、王の段に居る兵はグリフォンに成る。(この点
でも、チャトランガに似ている。)
裸王は負けだが、スティイルメイトもあり、自分の
別の駒と、王との位置を交換する手を特別に指して、
回避できるという、特殊ルールがある。
 なお、世界の主な将棋の文面と上記を読み返すと、
以下の点に違いがあるようである。
キリンは、上記のルールでは、1~3升目先迄走り
で止まれるが、岡野氏の紹介では、そこから斜めに
動かないと止まれない。跳び越え駒のような、塞麒
麟首(?)のある特定升目行きのような、よく判ら
ないルールが書かれている。
ライオンは、隣接升目や2升目先には、止まれない
ように、岡野氏は指摘している。
ここでは、以前の本ブログ方式を採用する事にした。
本ブログの以前の論と矛盾するが、スペイン人は、
中国チャンチー流の馬ルールを、塞馬脚付き八方桂
ではなくて、縦横歩みと斜め歩みの混合と、読み替
えている疑いがあると思われたので本ブログのまま
にした。またライオンについては、跳び駒と見てい
るとは、考えにくい。以上による。
 なお、前にクーリエチェスのときしたように、こ
れらの駒名は、動きの良く似た、日本の将棋名に変
えた。ただし、以下の初期局面の注釈にあるように、
八方桂は1手で角成り。白象王は1手で玉将へ変化。
”割箸走”は猫叉動の後飛車の動きの事とする。
 初期配列は、以下の図のようになる。

グランドアセドレフ初期.gif

 たぶんこのゲームの第1~2手は、以下のように
指すのではあるまいか。

グランドアセドレフ1.gif

ここから、指し進めると、一例として、以下のよう
に先手の勝ちで終わった。

グランドアセドレフ指終.gif

侍従の小駒が事実上無く、王位外は全部大駒なので、

幾分オフェンスが今度は強すぎだがクーリエチェス
のように、少なくとも攻め駒足らずにはならない。

結果的には、大臣を猫叉動から、猫叉+飛車の、図
中で”割箸走”に変えたのは、奔王動きの女王駒を
作ったのとだいたい同じであった。つまり、イスラ
ム教徒は13世紀には、大臣を、極弱駒からウルト
ラ強駒に変えれば、問題が解決する事に気がついて
いた。つまり暗黒時代の欧州中部のキリスト教徒と
は異なり、モンゴル帝国伸長の時代より少し後には、

イスラム圏では問題を、知性の力で解決できていた

という事になると、当然見なせる。(2020/03/31)

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なぜ12×8升目大臣猫叉型クーリエは長寿(長さん)

駒数と升目数の比較的多い、中近世ヨーロッ
パのチェス類のゲームとして、ドイツとフラ
ンスで指されたと聞く、12列×8段升目
48枚制ゲームのクーリエチェスが有る。
12世紀から、近代近くまで、ドイツの一部
で指されていたと岡野伸氏が、たとえば、
大阪商業大学アミューズメント産業研究所の
機関紙、ギャンブリング・
ゲーミング学会ニューズレターNo.20
(2010)で述べている。
このゲームは16世紀初に、画家ルーカス・
ファン・ライデン(蘭)が絵を描いてくれて
いたため、実在がいっそう明白になったので
知られている。ただし、副官または大臣が、
猫叉動きだった時代の絵では、恐らく無いだ
ろう。15世紀中には、西洋チェスの大臣が
女王に変化したので、オランダでは女王の
ルールで指されたはずである。そこでここで
は、ドイツでは12世紀~15世紀中まで
指された可能性の高い、大臣猫叉動きのクー
リエチェスについて、イスラムシャトランジ
型の中世西洋チェスの存在下で、ドイツ・
神聖ローマ帝国において、更にこのゲームが、
改造されるなどして廃れなかった理由につい
てを論題とする。答えから書く。

中世の暗黒時代だったので、ゲームの良し悪
しに関する目が、欧州中央では乏しかった

ので、そのまま指されたのであろう。
 では、説明を開始する。
 このゲームは、イスラムシャトランジ型な
ので、終盤、2枚飛車で玉を追いかけるが、
なかなか捕まらないので勝負がつきにくい
欠陥を持つ。だから、

8世紀から10世期の日本では、流行らない

と予想される。この点の前提が正しいのかど
うかについて、最初にチェックを入れる。
 以下の図は、このゲームを、適宜日本の
将棋等で、等価な動きのものに、置き換えた
としたときの、初期配列である。なお、
オリジナルのクーリエチェスは、期間の前半、
大体においては以下の駒の名称になっている。
2段目:ポーンが12枚
1段目:城、騎士、射手、飛脚、人、王、大臣、道化、
飛脚、射手、騎士、城
 岡野伸氏は、大臣を中世の女王としている。
 なお、上の配列は先手(ホワイト)側であ
り、後手(ブラック)側は王と大臣、人と道
化が入れ替わる。

クーリエチェス初期.gif

ここから、本当は大臣の前の歩兵を2升目
前進させた状態から、ゲームは開始する。
が、今回は、そもそも猫叉の前の兵を上げる
のも、着手の良し悪しという点で謎なので、
このルールを採用せずに、比較的、良い手と
みられる角道を空ける手から、開始して、
終盤がどうなるのかを、チェックしてみた。
一例では以下のようになるとみられる。

クーリエチェス終盤.gif

局面のように、どちらの王も危険な状態であ
る。注意したいのは、青側の玉が、小駒で
持ちこたえている事である。近王と表現され
た人駒や、大臣猫叉駒が無ければ、もっと危
ない状態だと言える。よって、このゲームは、

勝負を付けるのには、小駒が多すぎる

事は明らかである。だから、

イスラムシャトランジに比べて、クーリエ
チェスは、前者の改良ゲームの効果が乏しい。

なお、先手の玉は、後手の2枚の飛車等で、
追い回される展開であり、後手が攻め側になっ
ている展開である。ただし、イスラムシャト
ランジ同様、飛車2枚攻めは、詰みにくい。
よって、角行が2枚加わったとは言え、盤が
広くなっている事と、小駒を安直に増やして
しまったために、このゲームは、8~10世
紀の、ゲームの出来の良し悪しに対する目が、

囲碁の存在によって肥えた日本人レベルには、
受け入れられない程度のレベルのもの

と推定される。にもかかわらず、イスラム
シャトランジに加えてドイツでは、このゲー
ムが、ある程度12世紀から15世紀中まで、
恐らく変質せずに存続し得た。この点を説明
するには、何らかの理由付けが必要であろう。
 つまりは、ゲームの良し悪しを見抜くとい
う点での、中世欧州人のレベルの低さの原因
を、解明する必要があるのは、明らかなので
はないかとみられる。
 そこで考えられるのは、ルネサンス以前の
欧州に於いて、人間性は尊重されず、キリス
ト教に縛られた状態で、文化も、人の知性も
に低迷して、ゲームの改善意識レベルも低下
した、

暗黒時代の存在

を、持ち出さざるを得ない感じが私にはする。
 恐らく13世紀に、モンゴル帝国が攻めて
くると簡単に、負けるほどであったことから
察して、欧米人の知的能力は、今からは想像
できないほど、低下していたのであろう。
そのため、イスラムシャトランジを単に、
肥大化させた程度のクーリエチェスが、しば
らくそのままで存続できたのではあるまいか。
日本人が西暦1230年頃に発明し得た奔王
が、欧州では西暦1450年頃になって成立
し、西洋チェスだけでなくクーリエチェスの
大臣も、女王に改善された。それにより、やっ
とこさ、鎌倉時代の日本人なら相手にする
ゲームのレベルに、200年以上送れて到達
したという状況では無かったのか。
 つまり、人間性の欠落した宗教が絶対的に
支配した中世の暗黒時代ならではの、ゲーム
が旨くいかない事に対する、知性、洞察力の
低下や、改善策のへの思索に対する能力の、
知力障害が、社会的に中世の欧州社会に存在
したのではないか。つまり、以上のように、
私には疑われたのである。(2020/03/30)

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元禄時代、摩訶大将棋は散漫に啓蒙された(長さん)

今回は、さいきん発見された、大阪の将棋作駒
の愛好家等の田中賢一氏所蔵の史料のうち、
摩訶大将棊之図に関して、従来言われているよ
うに”少ない種類数の変種だけ有る”との旨の

大阪電気通信大学高見友幸氏の推定に疑問
を投げかける事実を以下に指摘

する。すなわち、
個々の駒の駒の動かし方のルールに、特定の
史料との一致が特に見られず、

元禄時代には将棋ゲームの研究家は、個人個人
でバラバラに摩訶大将棋のルールを主張してい
た疑いがある

との旨の結論を以下示す。
 では、議論を開始する。
先行研究は、今述べた大阪電気通信大学の
高見友幸氏のIR*ゲーミング学会、ニユーズ
レターNO.38”最近発見された摩訶大将棋
に関する古文書”(8から11ページ2019
年)大阪商業大学アミューズメント産業研究所
である。それによると”はじめに”の文末に於
いて高見氏は、”象戯圖の系統とは違う系統の
文献が17世紀にはまだ存在していたものと思
われる。”と結んでおられる。そこで今回は、
元禄時代に、摩訶大大将棋に関して

個人でバラバラではなく系統があるのかどうか

を問題にする。そこで、初期配列図の駒に記載
されている、具体的な駒の動かし方ルールを、
以下実際に、チェックすると言う方法で、高見
氏の主張の当否を試してみた。
以下に、結果を示す。
(注)”コマ種類:ルールのフォーム”で以下
示す。
玉将:八方歩み。玉将の動き
金将:金将の動き。
銀将:銀将の5方向動き。
桂馬:将棋六種之図式と同じ形式に書いてある。
この時代には、日本将棋の棋譜が成立し、桂馬
は桂馬跳びに確定している。よってこれは、
たぶん普通の桂馬なのであろう。
香車:前方走り。香車の動き。
銅将:四方向、後期大将棋の銅将の動き。
鉄将:銅将の動き・・→特殊。
瓦将:瓦将の3方動き。
石将:石将の2方向動き。
土将:土将の前後動き。
提婆:玉将と同じ・・→特殊。
無明:玉将と同じ・・→特殊。
酔象:後退出来ない酔象の7方歩み。
盲虎:前に行けない盲虎の7方歩み。
猛豹:横へ行けない猛豹の6方歩み。
臥龍:白象の動き・・→特殊。
古猿:銀将の天地逆。古猿の動き。
蟠蛇:銅将の天地逆。蟠蛇の動き。
淮鶏:前進できない金将。淮鶏の動き。
師子:省略されているが、中将棋の師子のよう。
説明書きの、”一”以下を正直に読むと、
中将棋と同じ”師子に関する特別則”を、この
ケースにも適用するように読める。
麒麟:前後左右に2升目だけ踊り。斜め歩み。
・・→特殊。(大阪電気通信大学ルール)
鳳凰:斜めに2升目だけ踊り。前後左右歩み。
・・→特殊。(大阪電気通信大学ルール)
悪狼:書写者が、左側を”悪猪”と誤記。金将
の動き・・→特殊。
狛犬:八方3歩み正行度。”一”部分の説明か
ら後退も可能で、合計3歩以内になれば良いの
で、居喰いが出来るようにも読める。作者の
オリジナルか・・→特殊。
金剛:前後左右3升目だけ踊り。斜め4方向共
に歩み。(大阪電気通信大学ルール)
力士:斜め4方向に3升目だけ踊り。左右だけ
でなく前後にも歩み。(大阪電気通信大学ルール)
夜叉:斜め4方2升目踊り、前歩み。将棋纂図
部類抄、摩訶大大将棋の夜叉である。
羅刹:斜め前に3方向だけ歩める、金将の動き
であって、前方へも歩める・・→特殊。
飛龍:斜めに2升目だけ踊りに加えて前後歩み
・・→特殊。
猛牛:猛牛の前後左右2升目だけ踊りに加えて、
斜め前にも2升目踊り・・→特殊。
嗔猪:前と左右3方向歩み。将棋纂図部類抄の
嗔猪。
猫叉:猫叉と記載。斜めに歩む猫刃猫叉の動き。
なお、右猫叉の前升目に、コピー機でコピーし
たときに出たとも疑われる、左の部分の欠けた、
”猫叉”の一部が書かれている。
盲熊:盲虎の動き。将棋纂図部類抄の摩訶大大
象戯の盲熊の動きだとみられる。
老鼠:前方と斜め後ろの3方歩み。老鼠の動き。
反車:前後走りの、反車の動き。
驢馬:前方2踊り、左右歩み。はっきりしない
が、たぶん踊る点が・・→特殊。
奔王:8方向走り。奔王の動き。
鉤行:飛車2回の動き。相手駒を取ったら、そ
の先に行けない。鉤行の動き。
摩羯:羯は日本式の魚ヘン。角行2回の動き。
相手駒を取ったら、その先に行けない。摩羯の
動き。
龍王:前後左右走り、斜め歩みの龍王。
龍馬:斜め4方向走り。前後左右歩みの龍馬。
角行:斜め走りの角行。
竪行:前後2方向走り、左右歩みの竪行。
横飛:左右走り、斜め4方向歩みの横飛。
横行:左右走り、前後歩みの横行。
左車:右前左後ろ2方向走り、右1歩。前に
走れない・・→特殊。
右車:左前右後ろ2方向走り、左1歩。前に
走れない・・→特殊。
飛車:前後左右走り、飛車の動き。
歩兵:前一歩歩兵の動き。
仲人:前後歩み。普通の仲人になっており、
この図では、横に動けるように書いてない。
なお恐らく、”成り駒のルール図”も有ったよ
うに、注釈部の記載から私は推定するが、残念
ながら、失われたようである。
 以上の結果から。だいたい50種類程度の、
摩訶大大将棋または、摩訶大将棋の駒のうち、
14種類程度が、このバージョンだけの特殊
な動きのルールという事である。そのうち鉄将
のように、単なる誤記の疑いの物も、2~3種
程度は有りそうである。
 しかしながら、

金将の前後逆が定番の臥龍のように、白象動き
にしなければならない理由が、ほとんど不明

なものが、明らかに混じり込んでいる。
 したがって、少なくとも臥龍の動きを、どこ
からか、既存の文献から持ってきたとは、ちょっ
と考えられない、だから臥龍について、単なる

作成者の気まぐれで作った、ルールなのではな
いかと私には疑われる。

このような、原典が有るとはとても思えない駒
の動かし方ルールが、摩訶大将棊之図の中には
存在する事は確かである。
 従って元禄時代に、摩訶大将棋のゲームのルー
ル系統が、有る程度、しぼられている状況だと
すれば、今述べたような

臥龍の動きのような変則例が生じるとは、ちょ
っと考えにくい。

よって元禄時代には、摩訶大将棋のゲームルー
ルについては、啓蒙家が、個々バラバラに勝手
なルールを、自由に公表している状態だったと
考えた方がむしろ、やや自然なのではないのか。
以上のように、私は結論したという事である。
(2020/03/29)

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ポーン動き古チャトランガ起源なら何故歩兵に先行(長さん)

木村義徳氏の”持駒使用の謎”の見解とは異な
り本ブログでは、インド2人制古チャトランガ
の兵は、歩兵のルールではなくて、西洋チェス
のポーンの動きだったとしている。根拠は11
世紀成立のユディヒシュティラとヴィアーサの
38条の4人制チャトランガで、”第5の王”
が、兵駒が成る事により、出来るとすれば、
相手駒を取った時に、たとえば王の前の兵が、
筋移動をしなければ、ならないはずだからで
ある。なお、欧州の研究者は、インドの2人制
古チャトランガを、西洋チェス類と見る傾向が
強いので、本ブログの見解とは一致している。
ので古チャトランガ兵、歩兵説を取るのは、私
が知っている限りは、木村義徳氏だけである。
 では木村氏も指摘するように、明らかに歩兵
よりも複雑な西洋ポーンの動きが、インドで、
たとえば6世紀に、なぜ先に発明されたのか。
”簡単なものが、複雑なものへと進化”しなかっ
たのは何故なのかを、今回は論題とする。
回答から書く。
 アリスタルコス流とみられるガリレオの慣性
の法則が、ギリシャとインドでは中世細々と、
生きていたものの、欧州、イスラム、中国では、
アリストテレス流ないしは、プトレマイオス流
の大地静止観に、大きく置き換わっていた。

つまりインド等で細々と生きていた、現代の
”慣性の法則”が、ポーンを生んだため

である。では、以下に説明を加える。

インドでは6世紀、”運動する物体にはそれ自
身にエネルギーが有る”という理屈によって
天動説をも支えていた、アリストテレスの力学
は、完全には信用されていなかった

と私には疑われる。インド人は、馬車が加速す
るときだけ力を要し、等速で動いているときに
は摩擦の分だけ、小さな力が要るという事実を、
中世も比較的正確に見ていたのだろう。だから、
一方だけが常に手番なため、走ってぶつかった
駒同士で、エネルギーを持つのは、現に走って
いる駒の方だけであるとは、思っていなかった
疑いが有ると私は思う。相対的に運動している
2物体が衝突すると、双方に破壊が起こるのが
普通だとインドでは、

正しく認識

されていたのではなかろうか。等速運動座標な
ら、その中での力学が、静止系と同じというの
が、ガリレオの相対性原理であって、地動説は、
その発見のおかげで16世紀に成立したのだが。
古代ギリシャ時代にアリスタルコスは、地動説
を唱える過程で、

ガリレオの相対性原理と実質同じものを、バビ
ロニア地方までは広めていたとみるのが自然

だと私は思う。ところでインド古代の物理学は、
バビロニア地方から伝来したものと聞いている。
インドでは、アリストテレスの力学も、アリス
タルコスの仮説古代の慣性の法則も、曖昧な形
とは言え伝わっていて、インド人の自然観察力
によって、アリスタルコスやガリレオの方が、
運動物体エネルギー内蔵説(アリストテレス型)
よりも、6世紀に支持されていたと、一応の疑
いが、持てるように思える。そのためインドで
は、中国や南詔国や日本と異なり、

衝突で、元々走っていた方が勝ち、止まってい
た方が取り払われるという、将棋のルールに
関して、走っていた方にだけ、破壊エネルギー
が有ったからではなくて、止まっている方は”
寝込みを襲われた”から、常に相手が排除され
るのだ等と解釈した

のではなかろうかと疑う。つまり、跳び越駒か、
複数升目を走って、相手駒の升目に到達する走
り駒で、相手駒を取る着手の場合には、寝込み
を襲われたので、相手が取られると考えた。だ
が、それでは王と大臣を動かしたときが、説明
できない。そこで更に、より重みのある王や
大臣が、その他の、相手駒の升目に到達したと
きには、”重い物が軽い物を排除する”という
考え方で、相手駒は取り払われると、インドで
は考えられたのではあるまいか。
 今述べたような考え方からすると、一歩前に
動くという意味で、運度しているとは言え、
軽く、時間が掛かって相手が存在に気がついて
しまう駒である兵は、一歩前に進んだだけでは、
相手駒にぶつかっても、相手駒は取れないと
考えるのが、合理的なようにも思える。インド
人は、そのため

刀のような武器で、相手駒を倒した場合だけ、
兵は相手駒が取れるというルールに、彼らの、
ガリレオ型の相対性原理・慣性の法則と、相克
の認識との組合せから、そのように決めた

のではあるまいか。むろん、アリストテレス力
学、すなわち天動説が100%支配していた、
インド以外の中世の大多数の地域では、インド
人のこの、自然観察は、じきに忘れ去られてし
まったにちがいない。
 そのため、イスラムシャトランジが、中国に
伝播して中国シャンチーになるときと、相手桂馬
の高跳びを防ぎ、かつ香車の捌きが必要なため、
ミャンマーの原始シットゥインが南詔国に伝わっ
て、宝応将棋になったときに、兵のポーン動きが、
歩兵の動きに近いものに、入れ替わってしまった。
今の所、以上のように私は推定するのである。
(2020/03/28)

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奈良文化財研究所”平城京墨書土器集成”に角口(長さん)

既に本ブログで述べたとおり、西暦1018年の
御堂関白記の記載から、藤原道長という特定人物
を”玉将”に準えたと疑い得る記事が、存在する
という内容の史料が、将棋の初出文献ではないか
と疑われる。そして以前に、わが国の記録には、
将棋が存在したという気配が、今の所見出せない。
しかしながらそれ以前の、例えば奈良平城京跡の
史料は調査する必要が、有り得るとみられる。そ
してそれは実際に、幾人もの研究者によって、現
に行われている。
 今回は表題のように、奈良文化財研究所西暦
2002年の報告書”平城京跡出土墨書土器集成
Ⅰ・第一分冊”遺物番号592番”に”角行”等
を疑わせる”角口”と記載の、8~9世紀成立の
土器が有るという話題について述べる。
 web上で、今述べた報告書は公開されており、
上記文書名で検索すると、ダウンロード可能な
サイトがhitするはずである。
奈良市埋蔵文化財調査センター資料No.3
”平城京跡出土墨書土器資料Ⅰ”(第一分冊)
2002年、奈良市教育委員会。
以上が、正式文書名である。
PDFfileの遺物番号592番には、以下の
ような旨が記載されている。 
遺構の性質:西二大・W(西の事か?)
土器の種類:須恵、器の種類:杯B
文字の記載位置:底部外函
文字:角口
塗布色材:漆か付着

成立年:8世紀後半

記載ページ第25ページ。
 残念ながら、写真は無いし、2文字目が、
行や鷹の雰囲気があるのかどうかも良く判らない。
 うる覚えだが、東京の葛飾区の帝釈天付近の
遺跡で、一文字”角”の墨書遺物が出たという
話が、どこかの成書に載っていたような記憶があ
る。2文字で”角”の字が先頭らしいのは、
平城京のこのケースが、たぶん始めてだろう。
 しかも、成立年代が700年代であり、将棋駒
名を書いたとすれば、冒頭で述べた年代よりも、
約250年程度遡る。
 本ブログでは、イスラムシャトランジ系統の
将棋が漂着したり、遣唐使が唐の大食人居住区で、
シャトランジを見聞きしたが日本へ持ち帰っても、
ゲーム性能に難があり、日本には、全く定着しな
かったのではないかと、見ていた時代である。
残念ながら上記情報は、第2文字目が不明なため、

全く曖昧な話である

と、本ブログでは結論する。
 なお、今紹介した報告資料には、

No.1052番に”大子”という墨書土器

が紹介されている。太子だとすれば、将棋名でも
太子はある。使用者が誰なのかを書くための物で
あって、遊びの将棋とは余り関係がなく、皇太子
用の器と言ったような意味の可能性の方が強いと
私は思う。
 なお、”大子”と記載の、土器が出土したのは
8世紀後半から9世紀にかけて成立した、古墳に
関連した場所からとのことらしい。”王子”と共
に、大子または太子は、9世紀には言葉として、
わが国に多分だが存在は、したようである。
 その他、将棋駒名とは関連無いが。リストには
No.760番に、フタの内面に”雪女”という
単語が書いてあったとの旨が載っている。web
によると、雪女という妖怪名は、室町時代の西暦
1450年以降の成立だとの旨が、記載されてい
るようである。そこでこれが万が一、同じ内容の
意味だと仮にすると、フタの成立は、当然ながら
奈良時代の西暦700年代との事なので、実に約
650年以上、”雪女”の初出が遡る事になって
しまうとの事になるようだ。(2020/03/27)

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なぜ色葉字類抄の将棋は”象戯”なのか(長さん)

以前、巻の違いで発見が遅れたり、本ブログで
はトラブルが多かったが、色葉字類抄や伊呂波
字類抄の将棋は、巻数に関係なく、みな”象戯”
であった。ところが、指したのが色葉字類抄と同
じ頃の、健寿御前日記(たまきはる)の将棋は、
藤原一族型で将碁だし、源師時の長秋記等の将棊
以外は、それまでほぼ将碁で統一されている。実
は、室町時代の公家の日記に”象戯”は多いが、
色葉字類抄が、元々のようにも思われる。そして、
鎌倉時代までは色葉字類抄以外に、象戯の記載は
余り無い。色葉字類抄がマイナーな熟語を載せて
いるとも考えにくいので、いったい色葉字類抄の
”象戯”自体はどこから来て、鎌倉期にはなぜ、
使われる事が、比較的少なかったのかが、問題に
なるとみられる。今回は、以上の点を論題とする。
 回答から書く。
 西暦1080年頃、唐物の中国書籍に、ヒムリー
図の北宋象棋や、晁無咎(晁補之)の広象棋を
紹介した詳細不明の書籍が有って、平安小将棋の
標準化にも使用された。そこでは”象棋”ないし、
”象奕””象戯”と表現されていた。が、平安時
代の貴族等、上流階級の人間には”世界の将棋”
の語のイメージで、これらは理解された。
 そこで一般に、新作のさまざまなタイプの将棋
類を指す用語として、

標準平安小将棋と平安大将棋以外の将棋ゲーム

に日本式用法で”象戯”が、12世紀半ばに貴族
の間で使われ出した。そして和製辞書である、
色葉字類抄でも、採用されたのが始まりという経
緯だった。標準平安小将棋と平安大将棋が比較的
指され記録されたので、その時代に象戯の用例は、
比較的少ないとみられる。
 では、以下に説明を加える。
 ポイントは、色葉字類抄以外では、中世日本人
は、中将棋を中象戯とイメージしていたと考える
と、話のツジツマが合うという点だろう。なお、
八木書店2000年復刻版発行の、二巻物4冊型
色葉字類抄の、奥付付帯史料、”小将碁馬名”、”
大将基馬名”と、”き”雑物の中将棋と見られる記載
は、西暦1565年に雪竹老人加筆と、ひとまず
ここでは仮定しておく事にする。そうすると。

中将棋は南北朝時代の作だというのが正しいとす
ると、室町時代まで”象戯”の出現が飛んでいる
のは、ゲーム性を工夫した将棋類以外では、余り
使わない言葉と解釈すると良く説明できる

とみられる。だから、少なくとも当初は、
日本将棋、9升目平安小将棋、二中歴平安大将棋
に、日本では象戯を使わない用法だったと考えら
れる。
 日本で8升目32枚制原始平安小将棋が成立し
たのは、本ブログの説では西暦1015年頃であ
る。中国にシャンチーはその時代にまだ無く、簡
単化して議論すれば、イスラムシャトランジだけ、
中国では成立した状態だったとみられる。そして、
その時点で、大理国から原始平安小将棋(一例、
周文裔が銀将追加型)が伝来した朝廷及び太宰府
だけで、

”将碁”や”将棊”が、”将駒の種類が複数有る、
囲碁のように駒を使う遊戯”の意味で成立

したとここでは見る。言葉や漢字の字体を決めた
のは大方、西暦1020年頃太宰権帥であった
藤原行成あたりであろう。
 その状況が続く中で、西暦1080年までには、
中国で北宋象棋と広象棋が成立したと、本ブログ
では更に見る。そしてその頃に、大江匡房や白河
天皇の手元に、中国象棋本が届いたと考えるのが、
本ブログの見方である。そこには、北宋象棋と、
広象棋等が記載されてあって、”象棋”ないし、
”象奕”ないし、”象戯”と説明され、”北周の
武王(帝)が作成した”等と書いたあったと考え
られる。もし、以上のようだとしたら、

正式に標準化しようとしている平安小将棋の将棋
以外は、象棋をモジッた象戯を使おうではないか

という話になったとしても、さほどおかしくは無
いのではないかと私は考える。実際に大江匡房は、
何らかの文書に”象戯”を書き、12世紀半ばに
は、ほぼ上流社会で、定着したのではなかろうか。
そもそも、玄怪録の宝応将棋も、象戯と表現され
ていたようだから、訳が判かっていた当時の貴族
には、その使い方で、皆了解したのだろう。
 その為、特に平安大将棋の改善タイプには俗に
”象戯”という用語が、13世紀になると使われ
出して、貴族の書き物として、稀に見いだされる
ように、なっていたのかもしれない。それを更に、
色葉字類抄が、たまたま和語として、記載したの
ではないのだろうか。
 そのため、玄怪録の象戯が、シャンチーの時代
に、象棋にごっそり全部転換されるという、中国
とは別の用語の使い方になるという道を、日本で
は辿ったのだろう。
 よって、貴族社会には経緯の記憶が、比較的後
まで残っており、中将棋や、水無瀬兼成の、
将棋纂図部類抄には、中将棋、大将棋、大大将棋、
摩訶大大将棋の将棋に、”後作改良ゲーム”とし
て”象戯”の語が、充てられたのではあるまいか。
泰将棋が大将棋にされたのは、正式標準は将棋と
いう使い方を、水無瀬兼成はまだ、覚えていたか
ら、豊臣秀次が作を命令して作成した手前、そう
したのかもしれない。以前に本ブログでは、体裁
の良さや高級感だけを、泰将棋を大将棋と水無瀬
兼成が書いた理由だと指摘した記憶があるのだが。
 だから結論から言えば、日本式の象戯では、

徳島県川西大将棋の辺りからが、大象戯と書いて、
該ゲームの事と理解すると比較的判りやすかった。

以上のように、私は推定すると言う事である。
(2020/03/26)

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摩訶大将棊図と大阪京絹商人息子とは関連(長さん)

以前に、”2019年6月より少し前に、
大阪電気通信大学の高見友幸氏が、大阪
の将棋家の田中賢一氏が所持している、
寛文12年(西暦1672年)成立の
『摩訶大将棊の図』を見出し『新発見史料』
として紹介している”との話題を本ブログ
ではした。
 たいへんうっかりしていたが、この史料
の執筆者とみられる、”亮隆基”と、

井原西鶴とは何らかの繋がりがありそうだ。

というのも、相当前に本ブログで紹介した
増川宏一氏の著書、日本遊戯思想史、
平凡社、(2014)によると、17世紀
に井原西鶴が、彼の友人かどうかは不明だ
が、”知人に京絹の商人が大阪におり、そ
の息子が賢い子供で自分の家で、

『大大将棋』というゲームの盤駒を自作し
て、熱心に遊んでいた”

と、自身の”新可笑記”の中で書いている
とされるからである。つまり井原西鶴の
新可笑記のこの記載を、増川宏一氏は、自
身の成書の、日本遊戯思想史にて紹介して
いる。そして問題の大阪の京絹の商人の息
子は”道路の四つ角の道端に仏像が安置さ
れている、小さいお堂のような場所で(恐
らくその自作の駒数多数将棋類の将棋道具
を置き)通りがかりの人間に声を掛けては、
一緒に指していた”等と、井原西鶴は更に
詳しく、記載しているらしい。
 少なくとも本ブログでは、仏教との関連
が明白な摩訶大大将棋の方が、大大将棋よ
り、仏教施設の一種である小さいお堂で遊
ぶには、ゲーム種としてはより適している
とまえにも書いたように見ている。よって、

亮隆基(”基”との私の読みは怪しい)と
いう人物は、京絹の商人の息子本人か、ま
たは、彼と共に大阪で、17世紀にお堂で、
駒数多数将棋を遊ぶ、仲間かの何れか

ではないかと、疑った方が良いように私は
思う。
 以上の事は、”京絹”から、うっかり
京都の人間を連想してしまい、居住地を
チェックしなかったために、私には気がつ
くのに、だいぶん時間が掛かってしまった。
将棋家の田中賢一氏から聞き取って、判る
かどうかは謎だが。

井原西鶴が話題にする程度なら、西暦
1672年頃には、大阪でこの”大大将棋
研究グループ”は、かなり著名

だったのだろう。亮隆基の正体がわかり、
かつ、それなりに将棋類の研究者として
信憑性があるとなれば、史料の価値は更に
上がるだろう。よって今後、この件につい
ては新可笑記との関連性のチェックが必要
な事は、明らかなように私には思える。
(2020/03/25)

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15C末~16Cハリハラチャトランガのチェック(長さん)

以前に、ボックラーミンクの1995年の論文
にハリハラチャトランガという、いわばインド
の大将棋にあたる、14×14升目概ね64枚
制の将棋があるのを紹介した。元々は、
増川宏一氏、ものと人間の文化史134
遊戯・その歴史と研究の歩み(2006)によると、
ボックラーミンクの発掘した、チムール帝国
少し後頃の、インドのチャトランガ型ゲーム
であって、64枚制の平安大将棋のインド版
というべきものである。初期配列が一定して
おらず、10種類以上のうちから、配列を一
種類選んで指すという点に特徴が有るとされる。
 以下話を見えやすくするため、結論から書い
てしまおう。この

李氏朝鮮の七国将棋風の2人制ゲームは、騎駒
が互いに初期当りしないように選べば、ゲーム
の出来の良し悪しは、どれでもほぼ一緒。国王
が奔王動きなので、玉駒が捕まえにくく、引き
分けに終わりやすく、ゲームの出来は良くない。

では、説明を開始する。
 実の所、ボックラーミンクの2001ドイツ
語論文に、もっと詳しく書いてあるのだが。そ
こに書かれた駒の動かし方ルール等は、実は

ドイツ語が読めないので、本ブログの管理人に
は良く判って居ない。

論文名は、以下のようなもので、紹介サイトは
前に紹介した以下と同じである。
エイチティティピー:
//history.chess.free.fr/library.htmにあり、
論文の名前は、
Das 8. Kapitel des HariharacaturaUga:
ein spatmittelalterlicher Sanskrittext uber
eine Form des “Grosen Schachs”
Annotierte Ubersetzung und Interpretation /
である。
 しかし、駒の動かし方のルール説明図が、
上記の論文に、幸い書いてあるので、以下のルー
ルであると仮定し、指してみた。なお、配列が
一定せず、しばしば最下段が空列になっている
ので、仲人型の動きであるこのゲームの兵駒類
は、この2人制チャトランガでは不成とした。
国王:玉駒。奔王の動き。
弓:七国将棋の弓の動きに類似するが、4升先
までではなくて、6升先まで走る。(正式名称
不明。以下同様、本ブログの付けた仮の名。)
六騎:八方桂の動きに加えて、8方向の何れか
に6升目先にだけ走り、そこで止まる事もでき
るが、更に8方桂の動きを6升目先からする。
ただし、相手の駒を捕獲したときには、更にそ
の先へは跳べずに、そこに止まる。
飛車:飛車の動き。
雨龍:前方だけ5升目先まで走る。そこで止まっ
てもよいし、更に斜め後ろに1升目歩んでも良
い。ただし、相手の駒を捕獲したときには、そ
こで止まり、斜めに後退はできない。
一卒~4卒:前方に1卒は一升歩。2卒は2升、
3卒は3升、4卒は4升迄走るが、相手駒は取
れない。また、何れも後退でき相手駒は取れな
い。相手の駒を取るときには、チェスのポーン
同様、斜め前升目でだけ取り、そのときだけ、
斜め前に進む。
なお、原文の雰囲気からみて、弓駒は本当は、
3種類有りそうである。違いは私にはよく判ら
ない。
 初期配列は、上記論文の図12を使用してみ
た。

ハリハラチャトランガ初期.gif

恐らくだが、六騎が、早く消耗する配列の方が、
性能は上だとみられる。この初期配列だと、
以下のように、簡単に王手が掛かる。しかし、
飛車が利いているので、トン死はしにくく、
六騎は初期消耗(無駄相討ち)しないと、見ら
れる。

ハリハラチャトランガ3手.gif

ゲームを続行すると、大駒が有る程度残り、
陣が崩れると、

国王が玉将の動きだと、寄せの局面に入りそう

であった。

ハリハラチャトランガ指終.gif

しかしこのルールでは、国王が奔王動きなため、

ディフェンス過多で、大方は引き分けとの結果

になった。恐らくだが、中国の七国将棋等が、
インドに伝来する事によって、
ハリハラチャトランガは成立したのであろう。
しかし、ほぼ七国将棋のままの国王だったため、
玉駒が奔王動きでは強すぎて、

出来の悪いゲームで終わった

との結果だったようである。15世紀から16
世紀にかけてのゲームなため、インド亜大陸に
は、ユーラシア全体のゲームが、往来しきった
後だったと考えるのが、やはり自然なように、
私には思える。(2020/03/24)

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鎌倉時代”雲南省の牛”が注目された元は何か(長さん)

本ブログでは、鎌倉中期の将棋のデザイナー
に対して、雲南省の牛または水牛に対する
啓蒙が、中国よりの唐物書籍の一である、
『太平寰(かん)宇記』により有ったとの
仮説を取っている。普通唱導集大将棋に、
”猛牛(牛の猛~国:ムアン)が存在したと
見ているからである。しかし太平寰宇記
に””雲南省の牛から1頭当り、600kgの
肉が取れる”等と書いてあるにしても、

弥生時代までに西日本は牛の産地になって
いたので、輸入牛に対する需要が多くはない

はずである。つまり牛は大量ではないにし
ろ、潤沢に国内に存在するにも関わらず、
中国雲南省から輸入してまで貴重ともとれ
る発想が、日本でなぜ生まれたとみるのか。
将棋のゲームデザイナーに、中国のたとえ
ば雲南省の牛が、産物として、特に注目さ
れたのはなぜなのかを今回は論題とする。
回答を書く。

西暦1012年に、北宋商人の周文裔が、
中国恐らく揚子江以南から10頭の牛を
運んできて、その牛に対し、当時の権力者
藤原道長が良い評価をしたのも要因

だとみられる。では、以下に説明を加える。
 日本に今居る牛は、大陸から伝来したに
しても、北方系であり、朝鮮半島産が伝来
元であると良く言われている。DNA解析
も有ると聞く。他方、中国人の交易商人が、
日本に牛を、もたらしたとするケースは、
寧波の港付近か、それより南の、南方系の
牛を持ってくるものと考えられる。
 つまり、奈良時代以降の中国の交易商人
は、仮に日本に牛を輸入させたとすれば、

西日本に牛は潤沢に存在する状況で、新た
に中国産の牛を持って来たという事になっ
ていたはず

である。だから、品質が日本に古代に存在
した牛よりも、かなり良いと日本人が感じ
る、なんらかの要因が無いと、中国人交易
商人の、たまたま運んできた、中国南部産
の牛は、

特に日本人ゲームデザイナーの注目を浴び
ない

と考える事ができる。
 他方、藤原道長の御堂関白記に次の記載
事実がある。
(1)西暦1012年宣明暦9月2日に、
北宋商人の周文裔が博多に来たとの旨の連
絡を、藤原道長が太宰大弐の平親信(当時)
から聞いて、三条天皇に報告している。
(2)西暦1012年宣明暦9月10日に、
三条天皇へ藤原道長が碁盤を献上している。
中国人と天皇が接触する際の、体裁のため
ではないかとも疑われる。
(3)西暦1012年宣明暦9月21日に、
三条天皇から、藤原道長経由で閣僚へ、”
周文裔は来朝が余りに頻繁なため、追い払
うかどうか皆で結論を出せ”との旨の命令
が下り、翌9月22日に閣僚で協議の結果、
”三条天皇の即位記念という意味も有るの
で、特別に許すべきである”との旨の決定
が有ったとされる。
(4)西暦1012年宣明暦10月30日に、
太宰大弐の平親信(当時)が牛10頭等を
献上してきて、藤原一族で(牛車用か?)
山分けにした。その際、

藤原道長は”まあまあの牛である”の旨を
御堂関白記に書いている。

 以上の事から逆算すると、西暦1012
年の周文裔の博多漂着が西暦1012年の
8月半ば。以下、情報伝達や物品輸送に、
博多~京都間で、半月程度掛かっていると
推定できる。つまり(4)で太宰大弐の
平親信(当時)が献上してきた牛10頭等は、

周文裔が、今回の交易を認めてくれた、
藤原氏閣僚に対する、謝礼挨拶である
と取るのが自然

だと考えられる。つまり、御堂関白記には
明確に書いて居ないが、
(4)で太宰大弐の平親信(当時)が献上
してきた牛10頭等は、周文裔が、中国の
寧波ないしそれより南の、揚子江以南から、

海を渡って運んだ牛であると、当然取れる

と私は考える。そしてそれに対して、

藤原道長が、良(まあまあ)の評価ならば、
民衆のレベルで見れば、特上品

だと考えるのが、恐らく自然だと考える。
 御堂関白記は後代に読まれただろうから、

中国産の南方系の牛は、国産の上品の牛と、
同等だという旨の根拠の一つになり得た

と見るのが自然だと私は考える。つまり、
ほかにも根拠が無いとは言えないが。
恐らく、

平安末期から鎌倉期の貴族の間で”上クラ
スの中国産の牛は、たいそうな良品である”
という根拠として、御堂関白記の西暦10
12年9月30日の記載を引く事が出来た

とは、間違いなく言える事であろうと考え
られる。つまり、

周文裔という人物が将棋道具を運んだのか
どうかは仮説だが。中国産の牛に対する、
日本の貴族の評価を上げた人物だったとい
う点については、史料としての根拠が有る

と、結論する事が出来るのではないかと、
私は考えるという事である。(2020/03/23)

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橘中之楽の仙人ゲームは囲碁と将棋のどちらか(長さん)

以前本ブログで紹介した、平凡社”中国古典文学大系
六朝・唐・宋小説選”前野直彬著(1968)によれ
ば、一例で石井妙子著”囲碁の力”洋泉社、西暦20
02年に記載の、囲碁の別称、”橘中之楽”の仙人ゲー
ムは、将棋・象棋の類(おそらく古チャトランガ系な
ので、本ブログの用語では”将棋”類)となっていた。
今回は、web上で判断する限り、囲碁と将棋とで、
どちらが正しいのかを論題にする。結論から書く。

よく判らないようである。

将棋と紹介するサイトも、囲碁の別称として”橘中の
楽”を紹介するサイトも有り、今の所判定不能である。
 恐らくだが、底本解説書に”(伝)牛僧儒の玄怪録
で、橘中の仙人の物語では、囲碁を2局打っていた”
とするものが、近世中国に存在するのであろう。その
ため、前野直彬氏の橘中之楽と対応する玄怪録の訳と
は矛盾するが、石井妙子氏は、囲碁の別称として、
”橘中之楽”を紹介しているのであろう。
 以下、もう少し詳しく論じる。
 ”橘中之楽”のゲームを将棋とするweb上のサイ
トの方が、囲碁とするサイトに比べて一般に、この説
話を丁寧に述べているという傾向がある。この事から、

将棋説者は平凡社”中国古典文学大系 六朝・唐・宋
小説選”前野直彬著を読んでそのように紹介している

という心象である。それに対し、少なくともweb上
の囲碁説は、元ネタが特定で、

単なるコピーの拡散との心象

を個人的にだが受けた。
 よって、何か元が有るようだが、良く判らず、かつ、
だいたい、特定の記載事実が根拠だと、今の所私には、
推定される。
 そこで、諸橋徹次の大漢和辞典(㈱大修館)第6巻
553ページ(通算6265ページ)を見ると、中国
の”書言故事、博奕類”でも既に、囲碁となっている。
更に、日本国語大辞典(小学館)第4巻の185ペー
ジには、日本の安土桃山時代~江戸時代(西暦161
4年)成立の、”慶長見聞録”で既に日本でも、囲碁
の事になっていたようである。両者の情報を繋げると、
宋代の胡継宗の巽と聞く”書言故事、博奕類”で、
橘中之楽を囲碁とし、慶長見聞録の頃から、”奕棊”
と書言故事に書いてあるから囲碁と、日本では中世末
に決め付けているようにも見える。が、はっきりこの
中国文献が元情報だとまでは、断定できないであろう。
 なお、藁科満治氏の”浮世絵に映える囲碁文化”
日本評論、西暦2012年では”橘中之楽”が、囲碁
の別称との記載は無い。藁科氏は、”爛柯””忘憂”
”坐隠””手談”の4つを、囲碁の別称として挙げて
いるだけである。”橘中之楽”に問題があるのを、
藁科満治氏は、多分知っているのであろう。
 以上の事から”橘中之楽”が囲碁の別称だという論
は、中国文献の”書言故事、博奕類”に、元々はある
と、みるべきなのかもしれず、又は何か、別の近世の、
玄怪録の中国での解説本が元のようでもある。よって
今ところ、玄怪録の出典も太平広記であって、原本で
はないわけだし、橘中之楽の中のゲームは、ゲーム種
を、物語の内容から特定することも、元々困難である。
なので、

囲碁が1/2で、将棋が1/2程度としか、今の所
考えようも無い

ように、私には取れるという結果に終わった。
(2020/03/22)

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