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なぜ日本風土記日本将棋は双王又は双玉でない(長さん)

最近気が付いたのだが、観音寺城下町出土駒
の時代の成立と見られる、明王朝期の中国の
書”日本風土記”に、日本将棋の玉駒が玉/
王一一であると書いてある。その時代滋賀県
では、双王を示唆する出土史料が、前記遺跡
より発掘されている。そこでなぜ日本風土記
の記載が、双王や双玉でなくて、日本の戦国
時代に、玉/王一一なのかを、今回は論題と
する。
 回答から書く。

九州博多付近の状況を、中国の中世文書は
反映するからだとみられる。

では、論を開始する。戦国時代に、地方た
とえば、福井県の一乗谷朝倉氏遺跡では、

日本将棋は成立し、かつ玉駒は玉/王一枚づ
つだった

とみられる。しかしながら、京都近郊では、
日本将棋は双王、中将棋以上が双玉だったろ
うというのが、本ブログの予想だ。朝廷で、
一例後奈良天皇の頃に、そのような状況だっ
たのだろう。中国王朝で、それが摘めない理
由だが、ずばり

中国人は博多に多かったから

であろう。戦国時代なので、博多から京都
への旅行も、外国人には億劫だったとみられ
る。
 だから、日本では地方で、日本将棋の玉駒
が、玉/王一一だったとしたら、地方の一で
ある、中国人が滞在している博多も、そうで
あったであろうと考えるのが自然である。だ
から日本風土記に、日本将棋の博多ローカル
ルールが記載されていたとしても、余り不思
議は無い感じが、少なくとも私にはする。
 なお博多または福岡では、中世成立の玉将
駒が既に発掘されている。であるから京都の
日本将棋と、日本風土記の日本将棋がズレて
いても、少なくとも史料として矛盾は無い。
 ひょっとしたら、以前に述べた、相互入玉
による引き分けルールも、九宮ルールが有っ
て、シャンチーでは玉駒が余り移動できない
との指摘を、中国人棋士から日本の将棋棋士
が博多で指摘されて知って、触発されて出来
た、戦国時代には、まだ博多付近のローカル
ルールだったのかもしれない。
 話を戻すが本ブログでは、鎌倉時代中期に、
西暦1260年型大将棋で、玉/王一一ルー
ルは成立していたと見ている。奔王駒の存在
を説明しやすいからである。しかしその後、
普通唱導集大将棋が滅びた後は、中将棋時代
には、双玉が主流だったとも考える。
 であるから、博多の玉/王一一は、日本各
地に、その習慣が有る事は、戦国時代の棋士
には明らかだったにしても、京都ローカル
宮中ルールを選択しないのには、それなりの
考えがあったのかもしれないとも思う。
その理由の一例としては、博多にはチャンギ
もシャンチーも、日本の戦国時代には知られ
ていたと、考える事である。シャンチーは、
玉駒を帥/将一一にするし、チャンギは、
漢/楚一一が、出始めていた頃であろう。
だから、日本の将棋も真似て、玉駒を別々に
したとしても、戦国時代の国際都市博多が舞
台なら、余りおかしくないのかも知れない。
 日本風土記の中国人著作者にとっては、
玉駒が別々なのは、当たり前に見えただろう
から、日本人が真似た結果だけ、風土記に、
さらりと書いた、だけなのかもしれない。
京都ルールについては、たまたまその時代、
治安が悪くて、たどり着けなかったので、
日本では小将棋はどこでも”日本将棋”の事
である事を確認するに、留めたのだろう。
 以上の事から、日本風土記の戦国時代の
日本将棋は、厳密には京都の日本将棋ではな
くて、博多の日本将棋と考えると、シャンチー
等の玉駒との比較から見て、状況を旨く説明
できるように、私には思えるという事になる。
(2020/03/02)

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