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日本将棋が13世紀末無かったと確定できるか(長さん)

以前述べたように、滋賀県文化財保護協会
の三宅弘氏の、将棋史研究ノート9によると、
飛車・角行が成立したのは、13世紀中ごろで
ある。本ブログも大将棋で、これが導入された
としているので、賛成である。では、飛車・角
行が出土しているのに、小将棋の現代版

日本将棋がなぜ無いと言い切れるのか

を今回は論題とする。回答から書く。

裏が龍王、龍馬の飛車・角行が、鎌倉期に出土
しないうちはそう言えるだけである。

では、論を開始する。
 日本将棋の早期成立論として以下の例が有る。
 先行研究で著名なのは、明治時代の幸田露伴
の将棋雑考であり、二中歴で書き忘れただけだ
と指摘している。
 次に早い成立説は、木村義徳氏で、将棋纂図
部類抄を根拠に、曼殊院将棋図の成立時に、
日本将棋は有ると見ているというものである。
 また最近では、色葉字類抄二巻物、尊敬閣文
庫蔵本の、第1分冊/4冊末尾の一覧表、
”小将碁馬名”の成立年を、平安時代末と見て、
”日本将棋の成立が早いのではないか”と疑う
見解が、大阪電気通信大学の高見友幸氏から出
ている。
 本ブログでは、今の所、これらの見解を取ら
ず、戦国時代初期、西暦1500年前後が、
日本将棋の成立期と見ている。
 本ブログでこれらを否定できるとみる見解は、
幾つかの傍証であり、そのうち最有力なのは、

鎌倉時代末の状況を反映している麒麟抄

だろうと見ているのである。崩して書く成りに
関して、”金”のケースしか、指摘して居ない
からである。なお”麒麟抄に龍王、龍馬成りが
無い旨の示唆が有る”と、最初に指摘したのは、
増川宏一氏と認識する。増川氏の指摘当時は、
麒麟抄の成立が、平安時代の藤原摂関全盛期頃
と考えられていて、たとえば室町時代の小将棋
の実体は今より、更に曖昧だった。
 しかしながら、まえから判っていた事だが、

麒麟抄の記載は、鎌倉鶴岡八幡宮の成奔王の存
在事実を無視している

という点は、明らかである。つまり成りが金以
外のケースでも、”たまに”である程度なら、
それで良いと、麒麟抄は見ているのである。
 だから、

たまに、龍王や龍馬に成る、飛車や角行が、
鎌倉時代後期に有ったとしても、麒麟抄には、
成立年代をごまかすために書かない恐れもある

と言うことであろう。
 実は、新安沖沈没船出土駒と、石名田木舟駒
という、南北朝時代と室町時代前期に、まとまっ
て駒が出土したケースのみを集めても、将棋駒
の数は20枚前後にしかならない。この条件で、
角行と飛車が、1枚も出ない確率は13%はあ
る。つまり、飛車・角行が無いとは、出土駒の
統計では、今の所完全には確定しない。
 他には、普通唱導集の小将棋に飛車や角行の
記載が無い事、

栃木県小山市神鳥谷曲輪の角行駒の裏が、龍馬
と読める形跡が、ほぼ無い

事があるだけである。なお、木簡研究の32号
(2010)にも、小山市神鳥谷曲輪駒の記事
があるらしく、そこでは角行の成りは不明になっ
ているらしい。
 ほぼ1文字であり、馬の可能性は無く、金か、
二文字であるとすれば、”金(小さく)也”か
のどちらかだろうというのが、私の現物目視と、
赤外線写真の対応状況から受けた印象である。
ただし、

堅田B駒の裏が角行だと仮にしたら、大きく状
態は変わる

だろうとは思う。なお、戦国時代の静岡県焼津
市の小川城の出土駒が、私が知る限り、初出の

成り2文字目馬角行駒で、馬はeの字を、ひっ
くり返したように、崩したパターン

になっていたと認識する。
 堅田Bでは龍の形をとどめようとして、崩し
て書かないようにしているという点で、焼津駒
とは感じが違うが、仮にこれが焼津角行駒と、
そっくりだったとしたら、13世紀半ばに
日本将棋は無かったとは、言い切れなかったに
違いない事は確かである。
 よって冒頭のように、

龍馬に成る角行が、出土していないとされるう
ちは、日本将棋は鎌倉時代ではなく、戦国時代
初期の成立でも矛盾は無いと、今の所は言い逃
れ出来る状態

なだけのではないか。以上のように私は疑うの
である。(2020/03/07)

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