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大内裏の火災時、藤原道長金銀処理は小右記記載(長さん)

藤原道長の御堂関白記は、三条天皇時代の
西暦1014年の部分を欠いている。この年
2月9日に内裏が火災で焼失し、藤原道長が
翌日焼け跡から金銀を回収させたと言われる。
今回は、この史実がweb上では、
https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/4/42832/
20170426094124502469/Shijin_3_54.pdf
の、広島大学とみられる下向井龍彦氏の
”『小右記』こぼれ話麝香は「へそ」と数える”、
史人、第3号、2011にあり、

藤原実資の”小右記”が出典である

点について確定したので述べる。以下、論を
開始する。
 本ブログでは、日本への将棋の伝来は、
天皇家へ大理国から将棋具が輸送された事に
よって起こり、それは西暦1014年2月の
内裏の金銀の火災焼失による補填と、後一条
天皇(当時皇太子)による、大鏡記載の
オモチャ要求が、動機だとしている。従って、
火災のときに、金銀が焼失した事実と、その
補填と、孫へのオモチャの用意の必要から、
一例北宋商人周文裔へ、”黄金宝玉、玉将、
金将、銀将付き立体駒将棋具”の手配要求が、

藤原道長に動機づけとして存在しないと、
都合が悪い。

他方御堂関白記は、残念ながら西暦1014
年分を欠いている。藤原道長が火災の翌日に、
”焼失した内裏の金銀を、回収させた”と指
摘する記事はweb上に私も発見していたが、

前に見つけたときには出典を、チェックしな
かった

そこで今回、出典のチェックを行ったところ、
冒頭のurlの広島大学で、小右記を講義で
使用している関係とみられる下向井龍彦氏に
よる、藤原実資の、西暦1014年分を含む
日記”小右記”に、その旨を記載した下りが
有るとの旨の紹介記事を発見した。よって私
は原典未確認だが、今紹介した記事によると、

『小右記の西暦1014年2月9日前後に、
”左大臣道長は焼け跡から金銀を回収させた”

と書いてある』との旨の事である。
以上、出典史料が完全にわかって、私もほっ
と一息だ。
 下向井龍彦氏によると、西暦1015年の
9月頃、三条天皇の元への唐物の到着が別途
あり、藤原道長の御堂関白記には無いが、

唐物を、博多から藤原隆家が搬送してきた事
についての記事が西暦1015年9月24日
の小右記のところに、はっきり書いてある

との事である。
 1015年9月の件の内容は、皮籠8つに、
香を収めて、藤原隆家が搬送してきたという
もので、香の中身は、「種々香、丁子百余両、
麝香十へそ、甘松、衣香、甲香、沈香。ウコ
ン、薫陸が収められていた」と書かれている
との事である。9月のときに、黄金将棋具が
献上されたとの記載は無いようだ。なお、同
webページには、ずっと後だが周文裔が、
1015年9月パターンの唐物を持って来た
ような、別の例が有り、麝香の数の数え方が
”へそ”で同じだとも書かれている。

以上の事から、周文裔等の渡来させた唐物を、
太宰府権帥または太宰権帥時代の藤原隆家自
身が、搬送してきた事が有るという事実例が
存在した可能性は、かなり高そう

だ。三条天皇が西暦1015年1月前後の、
何者かの来日のときの唐物で、藤原蔵規経由
の物品・動物うち、孔雀を藤原道長に与えた
のは既知だ。が、余り公家の日記等に残され
て居ない、同時期の

後一条天皇への分配物が大鏡記載の藤原行成
のコマのプレゼントと関連して、この付近の
頃全く無かったとすれば、相当に不自然な話

のはずであると私は考える。(2020/03/10)

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