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陰陽寮安倍泰長の玄怪録岑順参照は事物紀原から(長さん)

本ブログでは、平安大将棋が西暦1110年頃
に成立した際、2段目中央に横行が入ったり、
日月星辰信仰にちなんで、飛龍、猛虎を導入し
たのは、太平広記の玄怪録の岑順を、陰陽寮の
安倍泰長の時代の者が参照参酌して作成した為
だとしている。しかし、将棋ゲームをデザイン
するのに、陰陽寮に有るとはいえ、怪奇小説に
ヒントがあるのが、いとも簡単に判ったのかど
うか、多少の心配も有る事には有った。そこで
今回は、

どうして、西暦1110年頃に、怪奇小説に、
将棋ゲームデザインのヒントがあることが判っ
たのか

を、論題にする。回答を書く。

北宋神宗の元豊年間(1078~1085)頃
に高承が巽した、”事物紀原”か、その元本の
どちらかが、日本の大内裏に有った

とみられる。
 では、以下に説明する。
 この書に関連して、日本で一般に出回ったの
は明代の出版書であり、江戸時代である。しか
し唐物が豊富な日本の平安時代の朝廷の所には、

太平広記も、初版の事物紀原かその元本も存在
したとみるのが自然

だと、私は疑う。よって、西暦1110年頃に
は、陰陽寮の安倍泰長は、どちらも読めたと
私は推定する。
 所で、事物紀原には将棋の項目があり、
牛僧儒の玄怪録岑順も紹介されているし、”
北周の武帝が象経を著作したので、駒の動きが
日月星辰のそれに則る”も既に出ている。だか
ら、陰陽道流に将棋駒種を決める事や、横行を
導入する事は陰陽寮の安倍泰長等が平安大将棋
を作成する際に、可能だったと見るのは自然で
ある。
 ”新たに将棋ゲームを作成しろ”というのが、
藤原摂関の当時の恐らく、藤原忠実からの依頼
だっただろうから、参考書をあたるのは自明だ。
よって、西暦1110年時点では、

事物紀原かその元本を読んでそれや玄怪録岑順
を参照して、新しい将棋ゲームを作成しようと
する事は、一応可能な状況なのではないか

と私は疑う。なお言い忘れたが、事物紀元につ
いては、問題の部分が、清水康二氏の
”『一条帝宮廷サロン将棋発祥説』批判”の
235ページに、webで見るとすれば、見れ
るようである。”巽者が高承”という事になっ
ているが、それについては、高承の時代に中国
シャンチーが中国完全成立しているかどうかが
謎なので、個人的には元本の書き方を、明代成
立本ではかなり直していないと、話のツジツマ
が合わない感じはする。つまり、
”北周の武帝によれば、『将棋とは』”
ではなくて、”北周の武帝(王)によれば、
『象経の新発明』に於いては”というのが元本
の表現でないと、まだ中国シャンチーが完全確
立されては、いない時代の成立だとすれば、変
だという事ではある。
 が、新猿楽記に将棋が初出した11世紀の末
頃に日本人の京都の上流階級が”事物紀原”の
将棋の項目の存在自体を、よく知っていた可能
性は、結構高いのではないかと私は疑う。なお
繰り返すが、中身はオリジナルと多少違ってい
ても良いが、玄怪録と”日月星辰の世界が駒種”
を紹介してはいたという意味である。すなわち
この時点で、中国シャンチーは、完全成立に近
い状態だったが、広く普及するのは少し後だっ
たのではないかと、今の所本ブログでは疑って
いる。だから項目”将棋”に関して巽者の高承
が、現在の中国シャンチーをイメージして、そ
の項目を解説していては、変だと言う事である。
 そして平安大将棋をデザインするときに、他
に情報が無かったとは断言できないが。陰陽寮
では将棋ゲームを作成するときに、玄怪録を参
照しようと言う動機付けに、事物紀原がなった
可能性が、あるという事は確かだと見るのであ
る。(2020/03/14)

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