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八条院跡出土”中兵”駒は健寿御前日記と関連(長さん)

本ブログではかなり後になって八条院跡遺跡
で、鎌倉時代後期成立とみられる”中兵”駒
が、西暦1995年前後に、出土していた事
を知った。更にそれに加えてうっかりしてい
たが、西暦1183年にそこに住んでいた、
八条院暲子内親王が、貝覆と将棋を指してい
た事は、健寿御前日記で知られている。なお、
日記自体のその部分は、回想し西暦1220
年頃に書いたらしい。

時代が異なるので”中兵”は後代に八条院跡
に居た、別の者が使ったものに違いなさそう

だ。なお、健寿御前日記の作者の健寿御前
こと、健御前、or健春門院中納言、
or八条院中納言は、

藤原定家の姉の一人(同腹)

との事である。それどころか”健寿御前日記”
の後半部分は、藤原定家の編集加筆によるも
のだそうだ。ただし、問題の部分は健寿御前、
健御前が、”八条院中納言時代”つまり、
八条院暲子内親王に仕えた時代の日記を、
たまたま自分で書いた部分らしい。情報源は
以下の成書にある。
新日本古典文学大系”とはずがたり・たまき
はる”校注三角洋一、岩波書店、1994年。
なお、この成書の”たまきはる”という書名
と、”健寿御前日記”は同一だ。
 蛇足だが、藤原定家や健御前(健寿御前)
は、両親が若年で他界して葉室家の養子になっ
た、藤原俊成の子供であるという事である。
そこで将棋が出てくる、明月記の”四位仲房”
は、本ブログでは前に勝手に決め付けてしまっ
たが、葉室仲房がイミナである疑いが、やは
り濃そうである。
 さて上記成書で、前後の文脈を読むと、

八条院暲子内親王の好みは、囲碁より将棋の
疑いが濃い。だから、八条院跡は将棋ゆかり
の可能性が、やはり相当に高そうだ。

 というのも、”健寿御前日記”には、碁道
具が5回も出てくるが、皆八条院暲子内親王
の所ではなくて、後白河天皇の皇后で、
高倉天皇の母の御平滋子の居た、健春門院に
有ったと書いてあるからである。特に二番目
に記載の、新日本古典文学大系”とはずがた
り・たまきはる”で言うと、271ページの
真ん中頃、5行目に書いてある”碁”は、
囲碁をしているとの旨であり、大番所の人間
も打った事が判り、平家の関係者も、将棋は
依然謎だが囲碁はしたと見られるようである。
 更に以下蛇足だが。西暦1220年の時点
で、藤原定家は出家していたようで、囲碁・
将棋は僧職は禁止なのだろう。自分の執筆部
では、両方とも一度も、囲碁・将棋に触れて
居ないようである。何れにしても、明月記に
関連して、”健寿御前日記”の著作者である
健御前(健寿御前)も、将棋を指した可能性
は、かなり高そうである。記載箇所の前後の
文脈も、日ごろの奉公の苦労を労うために、
健御前の好きな、貝覆や将棋をしているよう
にも取れその可能性は更に高いと感じられる。
もっとも、指された将棋種は良く判らないが。
私の勝手な予想では、健御前(健寿御前)自
体は、藤原定家や葉室仲房に教わって、

両方指せ、かつかなり詳し

かった疑いがある。そして、日記のように
健御前(健寿御前)対八条院暲子内親王では、
標準型平安小将棋。それに対してその子息と
指す、
健御前(健寿御前)対春華門院(昇子内親王)
では、平安大将棋自陣4段型ないし、
徳島県川西大将棋を指した。そのため、
”皇族は平安小将棋を、双王で指すべき”と
の、昇子内親王の乳母、民部卿の局の主張と
衝突して、結局健御前は、

春華門院(昇子内親王)養育係を下ろされた。

そこで更に、”思い出深”く、後の語り草だっ
たのかもしれないと私は疑う。なお、日記に
手を入れて助成したのは、藤原定家が、平安
大将棋の改善推進に、やはり関与して、
春華門院(昇子内親王)養育のときに、将棋
のルールを変える原因となっている事に対す
る、罪滅ぼしからかもしれない。
 何れにしても藤原定家と健御前は、趣味が
近いのであろう。
 ちなみに、文書に対応する遺物が存在する
例は、場所が同一なら良いと条件を緩めても、
相当に少ない。八条院跡出土駒は、その種類
が特殊である以前に、今述べた点で、明らか
に大きな価値がある。(2020/03/15)

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