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日本の将棋”雲南省伝来説”は大内延介起点か(長さん)

西暦1986年出版された、大内延介氏の
将棋史書、”将棋の来た道”の中国篇に、
雲南省と日本の将棋の関係を示唆している
一節が載っている。今回は、この記載は、

大内延介氏が日本の将棋、11世紀雲南省
よりの伝来説の”祖”と言えるのかどうか

を検証する。なお、本ブログでは、少なく
とも、

大内延介氏が、日本の将棋が雲南省に関連
するという点にも言及はした、恐らく最初

と認識はする。回答から書く。

たまたま将棋の来た道”中国篇”では、
中国国内の地域の名称を、著書の中に取り
入れただけに、近い状態であり、雲南伝来
説の祖というには、余りに主張が曖昧だ

と本ブログでは考える。では論を開始する。
西暦1986年出版された、大内延介氏の
将棋史書、”将棋の来た道”には、いわゆ
る、照葉樹林文化論と、インド南部言語の
海のシルクロード伝播、日本漂着説を取る
と、webの複数情報からみて取れる、
元学習院大学の大野晋氏の、日本語起源説
を、組合せて述べている。
(引用)
もう一つ、”雲南省と日本語”の関係を
研究されている学習院大学の大野晋教授は、
雲南省と日本の文化の共通性を主張して
おられる。多民族間で戦闘を繰り返した西
域とは違い、雲南省は農耕民族、稲作民で
あり、ここの文化は日本にも多大な影響を
及ぼしているのである。将棋も何か関係は
ないか。
(以上)
ここで、インドから日本への日本語の伝来
は、海のシルクロード(マレー半島経由)
であり、さらにマレーシア→フィリピン→
台湾→沖縄→日本と大野晋氏仮定している
とみられる。それに対して、インドから、
バガン→ピュー→雲南→揚子江→寧波
→紅海→日本と続く照葉樹林文化地帯の分
布の事実とが、大内氏の記載ではごちゃ混
ぜで、将棋の伝来に援用しようとした時に、
具体的に伝来する直前の、元将棋繁栄地点
を特定不能である。大野晋氏流では、一般
に南インドで照葉樹林文化は発生して、
バガン→ピュー→雲南→揚子江→寧波→
紅海→日本と伝来するという事も、有り得
ると見ているのかもしれないが、日本語と
いう個別項目については、インド(海を渡っ
て)→マレーシア→フィリピン→台湾→
沖縄→日本と見ているようである。つまり、
結果として稲作等については、雲南もかぶっ
た同じ文化圏が、広がったと主張しただけ
であって、言語伝来に関しては揚子江流域
と日本とで共通性が有るとは述べていない。
だから、インドから日本に来る途中に、
特定文物が

雲南を通ったとも別経路だとも、明確に判
定できる記載を大野説は特に示していない。

従って、大野晋氏の雲南と日本語との関係
を引いても、インドから日本に、文物が来
るとしたときに、雲南経由なのか、マレー
シア経由なのか。はたまた将棋具を所持し
た北宋商人は、ベトナムを通るのか揚子江
を下るのか、詳しい点について判然とはし
ない。よって、大野晋氏の日本語伝来経路
論を、著書”将棋の来た道”の中で引いて、
雲南省と日本の将棋との関係を確かに大内
氏は示唆はしている。が、将棋に関しては、
むしろ雲南からバガンに戻って、
マレーシア→フィリピン→台湾→沖縄→
日本の経路を主張しているだけなのかもし
れない。だからこのケースは、マレーシア
(シュリーヴィジャヤ国)が日本へ、将棋
が伝来する直前に、元将棋が普及していた
地域という意味に、大内氏の主張は、この
一節だけからは取れるようにも思える。
よって大野晋氏の論にに同意したという、
ただそれだけで、

大内氏が、日本の将棋が中国の雲南省から
来た可能性を、はっきりと主張したとは、
結論しにくい。

 ひょっとすると実際に、タイだけでなく、
雲南も伝来元の候補かもしれないと、大内
延介氏は生前考えていたのかもしれないが。

それを明確に証拠立てる成書が、今の所見
当たらないのも事実。

以上のような状況ではないのかと、私は現
時点では推定するのである。(2020/04/02)

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