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なぜモンゴル帝国時代に囲碁は西進しなかったのか(長さん)

以前に述べた、メトロポリタン美術館蔵の象棋図
は、美術館のサイトを見る限り、ゲーム種は
シャトランジのようである。しかし人物は、王と、
その左右の10人が、モンゴル人のようである。
元王朝で囲碁が打たれたのは確かであり、多分、
中国シャンチーも健在だったはずである。モンゴ
ル帝国がモンゴル共和国発だとしても、モンゴル
にも囲碁は有ったはずであり、元王朝は、典型
中国暦法の授時暦であるから、イスラムシャトラ
ンジは、元王朝内で指されない事は確かである。
メトロポリタン美術館の象棋がイスラムシャトラ
ンジなのは、イルハン国が、ナシル・エッディン
を台長にして、イスラム天文学式マラゲ天文台を
立てるほどに、イスラムびいきだったからなので
あろう。であるからにしても、元とイルハンの真
ん中の、オゴタイ・ハン国や、チャガタイ・ハン
国位では、元王朝の影響で、囲碁や中国シャンチー
が流行っても良いはずである。しかし実際には、
中国暦法の使用は元時代も、内モンゴル自治区の、
トンホワンあたりが西限だったようである。だか
ら逆にウルムチ博物館蔵のイスラムシャトランジ
のゲーム盤を連想させる、”将棋盤”が、元王朝
時代のものと疑われてくる。そしてタクラマカン
砂漠で、中国シャンチー駒が出土したという例は
あるもののたとえば13世紀に、サマルカンドに、
囲碁や中国シャンチーが有ったという話は、今の
所無いようである。
 そこで今回は、表題に示したように、このよう
になぜモンゴル帝国時代に、囲碁や中国シャンチー
は、余り西進しなかったのかのか。その原因を、
論題とする。
 回答から書く。
 元王朝のフビライ自体が、むしろイスラム文化
の吸収に、積極的だったからである。
 では、以下に論じる。
 イルハン国に、中国式星座がモンゴル帝国時代
に普及したと言う証拠は知られていないが、逆に
モンゴル帝国時代に、中国元王朝内に、西洋星座
が伝来したという、明確な証拠がある。
薮内清氏の”中国の天文暦法”平凡社(1969)
の232ページに、”『七政推歩』の星表・・”
という表に、例として8つのイスラム圏から、
イルハン国経由で輸入された、恒星の名称が載っ
ている。対応する中国星名は、その表には示され
ていないが、アラビア語をどう訳したのかは判っ
ている。
 中国訳         現代星名
金牛像内第十四星_おうし座α
陰陽像内第一星__ふたご座α
陰陽像内第二星__ふたご座β
獅子像内第六星__しし座γ
獅子像内第八星__しし座α
双女像内第十四星_おとめ座α
天蠍像内第二星__さそり座δ
天蠍像内第八星__さそり座α

中国式表現法は、プトレマイオスのアルマゲスト
の星座名を、そのまま中国語に直訳し、その後に
アルマゲストに、リストされた順序の通りに、
個々の恒星に番号を付けたのだと、薮内氏は説明
している。
 つまり、モンゴル帝国は、イスラム天文学を
取り入れようとしているが、

中国式の星座を特に、西域に拡大する政策を取っ
ている気配がない

とみられる。中国式の天文道は、モンゴル帝国に
侵略され征服されてしまった、南宋の天文担当者
が、元王朝に取り入る事によって、元王朝の領域
だけで、元の時代には採用されたとみられている
ようだ。なおジンギス・カンが、中央アジアの
サマルカンドで採用した暦法は、判らないらしい。
 従って、囲碁や中国シャンチーが、モンゴル帝
国に取り入れられたとしても、今の所その範囲は、
元王朝域内だけであって、オゴタイ、チャガタイ、
イル、キプチャク各ハン国へは、及ばなかったと、
一応は推定して良さそうである。(2020/04/11)

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