SSブログ

(コラム)livedoorの”大将棋の謎”について(長さん)

このたび、so-netのseesaa社への売却に同期して
livedoorのホスト内に、書庫を作成致しました。
ssブログurl→https://chiyoosan.blog.ss-blog.jp/
livedoorブログurl→http://df233285.livedoor.blog/
マクロで見て”ブログの時代”が転換期に入り、大手管理会社
の一部が撤退する流れになった為、継続しているホストで公開
を続ける必要が発生したという経緯からの準備活動です。なお
具体的に、ssブログが閉鎖されるという話は、今の所有りま
せん。

 お手数ですが、livedoorの”大将棋の謎”ブログを
御訪問された方は、前記ssブログのurlへ御移動頂きたく
希望致します。何卒よろしく御願い致します。

すなわちこのブログは現状、ssブログで公開されていますが、
livedoor側では、コンテンツを保管しただけで、
『非公開』の状態を継続しています。と言いますのは現行、
google等の検索エンジンで、本ブログは特定の検索内容
が、かなりの数hitします。が当然ですが、全部ssブログ
のurlの検索結果です。ので、google検索エンジンの
状態を保存する為の措置で、やむを得ず、そう致しております。
 livedoor側のurlで御訪問頂いた方へは、空の内
容を御見せし、誠に見苦しく恐縮致しております。が今述べた
経緯ですので何卒御理解のほど、よろしく御願い申し上げます。
(だい将棋の謎・大将棋の謎ブログの管理人”長”2020/05/31の2)

nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

女王駒の起源は幸田露伴の将棋雑考に説明が有る(長さん)

以前、本ブログで女王駒への大臣駒の転換原因として
スペインでの4人制アセドレフでの問題発生が起源と
の旨の説を述べた。この問題は著名で、日本でも古く
から、先行研究や、その結論が紹介されている。
 以前の紹介では、先行研究の紹介が抜けていたので
追記的だが以下に紹介したい。
 日本での解説で、最も古いのは恐らく、幸田露伴の
将棋雑考であろう。この文面は、結論から言うと、

現在の定説と同じ

である。なおweb上に、原文の方の将棋雑考が載っ
ていて、以下のようになっている。

以下、幸田露伴、将棋雑考の原文のコピー

 女王の馬子は、其名、其性、其力に奇異なる變化を受け
たるなり。當初此馬子は「しゃとらんじ」にては「ふぁるつ」
又は「ふぁるざん」「ふぁるじ」「ふぁるじん」坏と稱せら
れし馬子にして、其名はゝ輔翼者、大臣、將軍等の義を
有せるなり。されば固より女王とは稱さるべくもあらざりし
が、其稱羅甸語化せられて、「ふぁるじあ」又は
「ふぁるしあ」と呼ばれ、佛人に訛られて「ふぃえるす」
「ふぃえるじ」と呼ばれ、「ゐぇえるじゆ」と呼ばれて終に
女子を稱するの語に近似するに至り、轉じて女性となりしと
云ふ。猶他の一説に據れば、從前は「ぱうん」の第八格に
達するや必ず昇級して「ふぁるじん」となりしが、
其情勢佛・蘭・西の「だーめ」の戲に似たりしを以て、
「だーめ」に女子の義あるまゝ、一轉して「ふぁるじん」の
馬子は女性と目さるゝに至れるなりと云ふ。
按ずるに、「だーめ」は我邦の「飛び將棋」「にょいにょい」、
支那の蹙戎(酉陽雜俎續集卷四に見ゆ)の類にして少しく
異なるもの也。
 古は此馬子一格を限りて對角線に行動するのみにして、
常に盤上の弱將たりしなり。然るに今の如く大能力を有する
に至りしは第十五世紀の半よりの事にして、從つて各將及び
歩兵も亦其能力を大にするに至りしなるべし。

以上が将棋雑考の該当部分。
 このうち、翻訳により訛ったという説は有力である。

この定説は、否定困難

であろう。
 本ブログの説は、兵駒の成りに絡んだスペイン起源
説であるから、後半で幸田露伴が紹介している”ダー
メ説”に近い事が判る。なお本ブログで述べた、私の、
4人制アセドレフ起源説を取るためには、4人制アセ
ドレフ自体がコーディクス・アルフォンソより150
以上成立が早くないと、出土チェス駒の事実とは合わ
ない。名称”女王”駒の成立が、西暦1100年程度
と見られるからである。よって本当に女王の起源の謎
に迫るのには、更に史料の蓄積が必要だと見られる。
 ちなみに私の認識では女王を”ダーメ”とスペイン
でも言うが、上記で幸田露伴も言及していないが、
ダーメはドイツあたりが、言葉の中心のようにも、私
には見える。その事からも、問題の解明が、実際には
容易では無い事が判る。つまり、

日本では、欧州でチェスの副官駒をクイーンと言うと
思っている方がほとんどだと思うが。実際には”世界
の将棋”(将棋天国社、2000)、梅林勲、岡野伸
によると、欧州では”ダーメ”の方が、実は多数派と
の事らしい。

 何れにしても冒頭に述べたように幸田露伴の上記文
の内容は、今の将棋史界の認識と、実質的に同一であ
る。(2020/05/31)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

月軌道の地球海水引力理由の拡大の黄経不等への影響(長さん)

天文の成書を幾つかあたると判ると思うが、月は
地球への潮汐作用への反作用で、表題のように、
地球から遠ざかって、黄経が経年で減加速して
いる。一応、その影響がどの程度か、チェックし
てみた。以前に、地人書館の、日の出日の入りの
計算(長沢工)を紹介したが、以下の成書にも、
海上保安庁水路部起点の、月の黄経計算方式の説
明がある。
”天体位置略算式の解説”井上圭典、鈴木邦裕
海文堂、西暦1991年。

月の黄経.gif

長沢工氏著書の紹介と違い、sinが、
”DEF FNc(os)”つまり、cosin
になっているので、元期が-90°または、
270°ズレている。なお上の写真では、内容が
日本電気社製のbasicインタープリターに読
み込ませて実行させる、”プログラム”の形で書
いてある。また西暦1999年12月31日の
0時(UT)を起点として、100年を1として
年月日時刻(T)を計算する”Tが世紀単位”
計算なので、波数の値が全部100倍になってい
る。が、長沢氏の著書と、同じ内容のものである。
長沢氏の記載は、tやTで表される年月日時刻
(Time)がベッセル年型だという意味である。
 こちらの方は、行番号の650に、月の軌道が
地球への潮汐で盛り上がった海水で、引きずり上
げられる項が、-0.00133Tの2乗だと出
ている。赤いアンダーラインの部分であり、長沢
氏の著書では、明確に書かれては、い無かった。

2000年で、0.4°になるので、その程度
月の位置を継続して観測すればだが、1週間、
1ヶ月程度、毎日の観測で出てくる量では無い事
が判る。

 ようするに、上図のようにT=1が100年で
あっても、時間の2乗項だが千分の1の値らしい。
 なお地球の自転周期は不安定であり、2000
年前の今の時計での正午や真夜中は、当時の社会
でまともに暮らしに使える時計では、同じ日だが、
11時30~45分頃と、23時30~45分頃
だったという旨の解説が同成書に有る。地方時を
長安にするか、奈良にするか程度の誤差である。
その点でも、月の潮汐による軌道の遠ざかりは、
別の誤差の中に埋もれてしまって、余り目立たな
いらしい。
 ちなみに地球の自転は、全体としては速度が遅
くなるが、2000年位の間では、自然の摂理に
比べて、考えている時間の長さが短すぎ、遅くなっ
たり速くなったりで、予測不可能との事も書いて
あった。なので、原子時に置き換えられ、最近で
は、”うるう秒”が入れられるようになったとも、
井上圭典、鈴木邦裕氏の著書にも解説がある。
 なお上図で、文番号660、670のfixは、
整数部分を取り出す事を示している。切捨て、切
り上げ、四捨五入の何れでも無い。0°~360°
の間に、数値を収めるための計算をしているとの
事である。また、月の黄経不等の項が、文番号
680番以下リストされているが、文番号710
番と760番は、月の黄道に対する軌道傾斜角が
0になると消える項という理由で、本ブログでは
項番号で数えていない。行番号710番の項が、
そのような”黄緯への効果の黄経への引き直し項”
なのはwebにも紹介されている。行番号760
番の緑線は、たぶんその仲間だと疑われるが不確
か。本ブログの管理人が、

たぶん行番号760番も、月の軌道傾斜角が0な
ら、無い項だろうと思っているだけ

で、数に入れていないだけである。本ブログの
管理人の数え方で、月の黄経不等の”月角差”が、
10番目になったのは、その為である。
 蛇足だが第1項の中心差から第10項の月角差
の中で、最も説明が難しいのは、恐らく食年に関
連しているとみられる、第5項だと考えられる。
第4項まで名前が付いて、第5項が”名無し”な
のは、ひょっとすると、その為かもしれない。
 何れにしても、月が地球の海の水の引力で、軌
道が変わる効果は、

とても有名だが、本ブログの今の議論では無視し
て良い

と結論出来る。(2020/05/30)

nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

本郷東京大学構内加賀前田藩上屋敷跡将棋駒は2枚(長さん)

江戸時代初期のものとみられるが、
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒(2003、
天童市将棋資料館)に、表題の東京都文京区
本郷にある、現東京大学(本郷)の遺跡、
加賀前田藩上屋敷跡遺跡から、王将駒が1枚
前世紀末に出土していると紹介されている。
web上に実は、発掘調査報告書が有り、
スケッチだけだが、この王将駒の他に、無地
の駒がもう一枚、同時期の発掘から出土してい
るとの旨、情報がある。
 情報源は東京大学埋蔵文化財調査室のホーム
ページにある”刊行物オンライン版”である。
ホームページのurlは、以下の通りである。

エイチティティピー://www.aru.u-tokyo.ac.jp/e-book.htm

報告書の名称は、
”東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書13”
で、”医学部付属病院入院棟A地点”。報告書
の第1分冊によると、第1区画と名づけられて
いる場所は、江戸時代初期の旧
加賀前田藩上屋敷跡であるとの旨、説明が有る。
 遺物のスケッチは、pdfファイル名で、
HWA_4a.pdf
であり、分冊の名称は”第4分冊(遺物図版)1”、
その199ページに、2枚の将棋駒のスケッチ
がある。残念ながら写真は”天童の将棋駒と
全国遺跡出土駒”に載っていたが、この報告書
では、確認できない。
 スケッチから、一枚は”天童の将棋駒と全国
遺跡出土駒”の王将のスケッチであると容易に
確定でき、残りの一枚は、

形よりも、やや大振りで有る事が目立つ。
飛車駒と見ても、矛盾は無い

ようだ。つまり、加賀前田藩江戸屋敷てでは
日本将棋が、江戸初期に指されていた事を示す
らしい。
 なお加賀前田藩と言えば、二中歴や、
将棋纂図部類抄の書写で名高い。ので、他の、
特に木製遺物の墨書をチェックしてみた。が、
良く使うような大量に有ったと推定される、
ありきたりの物が、出土しているだけと見え、
尊経閣文庫蔵の書籍の内容のヒントになりそう
なものは、今の所私には見当たらない。
 ちなみに、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒
では前田藩上屋敷の発掘が西暦2000年より、
少し前程度のイメージになっているが。
実際には、西暦1994年に行われたらしい。
なお、前記の発掘報告書が発行されたのは、
西暦2016年らしいから、はるかに後だ。
 これが公開された始めての報告書であったと
すれば、出土将棋駒の枚数はさほどではないが、
墨書史料自体は多いため、この近年発行のコン
テンツには近世日本史研究家には要再チェック
の内容が書かれているとみられる。(2020/05/29)

nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

トルファンの史料で誰が囲碁打ちで誰が象棋指しか(長さん)

以前に述べたように、出土地点がトルファンとい
う街であって共通な史料、囲碁打ち美人図と、
イスラムシャトランジ(?)の象棋盤出土物が
ある。これらは、イスラムシャトランジが盛んに
指された後で、ゲーマーへ囲碁が伝来したケース
には、同じ街で出てくるという事実が説明可能か
もしれないという事だった。つまり、囲碁の伝来
が、”異常に遅ければ良い”という意味である。
 では、史料の成立順序として、

仮に、囲碁打ち美人画が8世紀で、出土象棋盤が
9世紀だったとしたら、それでも説明出来るのか
どうか

を、今回は論題にする。回答から書く。

出来る

とみられる。

出土象棋盤のイスラムシャトランジ指しの民族が、
西暦840年頃まで、ウィグル自治区ではなくて、
モンゴル共和国に住んでいた遊牧民なら良いから

である。では、論を開始する。
重要な点は、囲碁打ち美人画は、日本の奈良時代
の絵画と顔が似ていて、8世紀成立がほぼ確定す
るという事である。それに対してウルムチ博物館
の解説が正しいとすると、出土象棋盤は、7世紀
から9世紀の間のものである。だからこのケース

囲碁が早くて、イスラムシャトランジは遅い

のではないかと疑われる。
 それにそもそも、イスラムシャトランジを指し
たのは、

ウィグル族と見られるが、トルファンに彼らが
やってきたのは、西暦840年のギルギス族との
戦闘の敗北が原因で、モンゴル共和国内から追い
出された為

とほぼ確定し得る。漢人がイスラムシャトランジ
を指した跡とは、他に中国国内から同様な出土象
棋盤が見当たらないため、考えにくいからである。
 つまり、

囲碁の美人画は、唐王朝の最盛期で、トルファン
を支配していた、当地最盛期の漢族が囲碁を打っ
ていた事を示す史料

だと考えられる。それに対して、

象棋盤の出土遺物は、晩唐の時代に唐王朝の支配
力が低下した局面で、キルギス族との戦闘に、た
またま負けて、トルファンへ逃げてきたウィグル
族が、イスラムシャトランジを指していた事を示
す史料

だと考えられる。
 つまり、出土していないが、

更にウィグル族は10世紀になると漢民族の暦文
化圏に吸収されて、イスラムシャトランジは指さ
なくなって、囲碁を打っていた

と考えられる。以上の事から、
トルファンでのイスラムシャトランジ盤の出土物
は、ウィグル族が、モンゴル共和国に居て、突厥
国の支配を受けていた時代に、マニ教と共に、
ペルシャから象棋(具象駒型で、イスラムシャト
ランジ)が伝来して、8世紀にはイスラムシャト
ランジを指す民族になっていたという事を示す。
更には、西暦840年にモンゴル共和国から、
ウィグル自治区のトルファンに遊牧民のウィグル
族が

流入したから、そもそも象棋盤が有る

という事を、同時に示すと考えられる。
 そのため、
囲碁の美人画の方が早いが、このケースは、 

トルファンに当時の”異民族”が西暦840年に
流入したので、囲碁と象棋が共存し、かつ時代の
後先が逆であるかのような史料が出る

というケースであるとみられる。

トルファンへウィグル人が移民して、天山ウィグ
ル国が出来ると直ぐに、唐の暦文化は西暦840
年より直ぐ後から、ただちに流入した

であろう。しかしウイグル人という民族にとって、
初期には突厥国に支配され、モンゴル共和国内に
居て、今のウイグル自治区に、いたわけではない
8世紀に、ペルシャの具象駒型の、
イスラムシャトランジ文化が入ってから、既に
100年経っていた。ので、西暦840年から流
入した囲碁文化は、その後だったのであろう。
 そのため、

ウィグル族は、後に囲碁を打ったが、それが入る
前の初期に、イスラムシャトランジを指した

のではないか。
 以上の経緯をまとめると、囲碁の美人画は、
トルファンが唐王朝全盛期で、漢民族が住んでい
て囲碁を打っていたから、8世紀に描かれたので
あり、象棋盤とは、唐が衰退して街が廃れた後、
流入したウィグル人の使ったものというふうに、
所有者が別である。なので後先が逆でもウィグル
人にとって、イスラムシャトランジが先で、囲碁
が後という順序には影響が無い。その為、

囲碁の美人画が8世紀で、イスラムシャトランジ
の象棋盤が9世紀で、後先が逆でも、このケース
には、たまたま矛盾が起こらない。

以上のような事になっていると、私は考えるので
ある。(2020/05/28)

nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

如何にしてトルファンではシャトランジと囲碁が共存(長さん)

以前述べたように北宋代に天山ウィグル国の支配地
内だったとみられる、トルファンでは、囲碁と
イスラムシャトランジが共存していたと見られる、
史料がある。大内延介氏、西暦1986年メコン社
の、”将棋の来た道”84ページと85ページの写
真で示された、ウルムチ博物館所蔵の、囲碁を打つ
中国美人画と、”象棋盤”出土品の対である。
本ブログの、囲碁とイスラムシャトランジの非共存
論にとっては、

致命的となりかねない史実

である。今回は、囲碁の存在下で、ゲーム性に難の
あるイスラムシャトランジが指されたり、回教の戒
律で、占いが禁止されているはずなのに、囲碁が同
時に打たれたとか見なし得ない事実史料が、いった
い何故有るのかを、

本格的に問題にする。

結論から書く。

イスラムシャトランジが先行して流行った場合は、
イスラム圏の辺境で、中国暦法にポジティブな、
純粋回教国では無いとみられる天山ウイグル国では、
囲碁が受け入れられたとみられる。

では、論を開始する。
 大概の場合はそうだが。歴史的に発生が、象棋よ
りも早かった囲碁の方が、日本や中国を例に取れば
そうだが、先に有り、そのあとでイスラムシャトラ
ンジ等、将棋・象棋が入ってくるパターンだったと
考えられる。
 しかし、仮に天山ウィグル国では、中国暦法に
転換する前にイスラム暦を使用しており、トルファ
ン付近では、唐王朝の中期以降になって、中国暦が
入り、囲碁も玄宗皇帝の時代以降に入ったとしたら、
イスラムシャトランジの方が、囲碁よりも早い事に
なる。
 そこで、日本や中国とは異なり、ウィグル自治区
の今の住人に関しては、囲碁の伝来がたまたま遅かっ
たと仮定してみる。
 そうすると、イスラムシャトランジが相当に指さ
れる状態で、唐物として囲碁文化が入り、唐美人画
が描かれると同時に、当地の上流階級を中心に、囲
碁が打たれる事になろう。慣れれば、囲碁に比べて、
イスラムシャトランジが、ゲームとして貧弱なのは、
たぶんゲーマーには、判って来るのであろうが。

相当にゲーム性に関し囲碁との間に差の有ったとみ
られる、六博の例から見ても、惰性でしばらくは、
イスラムシャトランジが消えなかった

のではないか。つまり、天山ウィグル国地帯の彼ら
にとって、イスラムシャトランジは、新たに受け入
れるか無視するかを選択をすべき文化なのではない。

既に有るので、否定されれば、痕跡も残らないとい
う質の文化では無かった

のではないかと、一応疑える。たぶんだんだんに、
囲碁に、そして宋王朝時代には、タクラマカン砂漠
で出土例があるように、中国シャンチーに転換して
いったのではあるまいか。
 つまり、たまたま囲碁の伝来が、大きく遅れると
言う事が仮にあって、イスラムシャトランジが社会
に、それ以前に定着していたという、特殊な社会で
は、

日本や中国の囲碁文化とは経緯が異なるので、囲碁
とイスラムシャトランジの史料が、共出土するとい
う事が、もしかすると有るのかもしれない

と、私は疑ってみようと思った所である。(2020/05/27)

nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

西洋チェス。なぜ大臣の他”女王”が発生したのか(長さん)

現在のチェスは、副官駒がクイーンであるが、
その元になったイスラムシャトランジでは、
概ね大臣であった。取り立てて、ルールを変え
たからといって、駒の名前を変えなければなら
ない強い必然性は無いとみられるのだが。どう
して、女王を大臣とは別に作ったのかを、今回
は論題とする。回答から書く。

起源がスペインの13世紀の4人制アセドレフ
であり、盤斜め置きだったので、ダイヤ型升目
盤で、嗔猪動きをする駒を、大臣とは別に作る
必要があったため

だとみられる。では議論を開始する。
 チェスの女王駒の起源が、イスラムシャトラ
ンジの13世紀のスペイン駒名の大臣であった
という事は、コーデックス・アルフォンソとい
う著名な史料があるので、前から知られている。
紹介は、ものと人間の文化史110、チェス、
増川宏一、法制大学出版局、2003年等にあ
る。ところで、梅林勲、岡野伸著書の”世界の
将棋(改定版)”2001、将棋天国社による
と、4人制アセドレフの兵成りを、そのゲーム
では存在しない大臣から、女王(ダーマ)に
変えたのが、どうやら女王という駒名の起源の
ようである。イスラムシャトランジがコーデッ
クス・アルフォンソの時代には共存していたの
で、コーデックス・アルフォンソでは大臣を、
女王と呼んだのかもしれないが、イスラム教徒
は、大臣のままだったと見るのが自然である。
 そうすると、4人制アセドレフの成り兵を
大臣にしなかったのは、大臣だと何か、都合が
悪い事があったのではないかと、私には思えて
くる。
 考えられる事は4人制アセドレフは、他の3
人のプレーヤーから効率的に金を巻き上げる
賭博用であったろうから、ルールの厳格化が必
要だったとみられる。つまり成り兵のルールが、
猫叉動きで、徹底させる必要があったのだろう。
 ところが、4人制アセドレフでは、盤が斜め
置きのため、

大臣成りだとすれば嗔猪動きが妥当だとする
プレーヤーが発生して、トラブルになった

のではないだろうか。そのため、

ダイヤ型の升目盤で嗔猪動きをする駒を女王
と定義する

というルールがスペイン4人制アセドレフ連盟
(仮称)によって、当時厳格に決められたに違
いない。
 その結果、

女王という駒は、大臣の斜めが縦横に変わった、
北宋将棋(司馬光版)における偏駒のような動
きというイメージが、欧州で定着した

のではないかと私は疑う。それが後代に、混同
されて、

縦にも横にも動く駒になり、ついで王の類だが
王と違って、奔王動きだというので、女王と解
釈し直されてチェスの女王という名称になった

のではないだろうか。つまり、大臣から女王が
生まれたところをみると、13世紀にスペイン
では、

4人制アセドレフは、意外に流行っていた

という事を、意味しているのかもしれないと、
私は疑うのである。(2020/05/26)

nice!(1)  コメント(2) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

島根県高浜Ⅰ遺跡の出土将棋駒は”口将”(長さん)

島根県出雲市の高浜Ⅰ遺跡は、戦国時代の小将棋盤
の出土が著名である。その他、将棋駒も少数出土し
たとされたが、書いてある駒名の字が読めなかった
とされてきたと認識する。
 しかるに最近だと思うが、web上に紹介された
その当時の発掘の報告書によれば、

出土した駒は、裏不明の口将らしい。

では紹介する。
 将棋駒は、web上にpdfファイルで、スケッ
チが公開されている。私には、正直そう読めないが、
発掘者により、下の字が”将”と読まれた模様であ
る。よって”口将”であり、一例として金将の疑い
がもたれる。
なお、文献名は島根県教育委員会(2019年3月)
の”高浜Ⅰ遺跡(三区)”で、48ページに、
多少小さい小将棋の将棋盤のスケッチ図と共に、
問題の将棋駒が載っている。pdfファイル名は、
次の通りである。
36069_1_高浜Ⅰ遺跡3区.pdf
 何れにしても、戦国時代とみられる将棋駒の字が
読めてきた事は、たいへんありがたい事である。
(2020/05/25)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

月の黄経不等の第4項、年差の周期は何故長い(長さん)

以前、囲碁の日本での立ち上がりと関連して、儀鳳暦
の”ツイタチ”決定の為の朔瞬間を計算する天体力学
上の、”月の黄経に関する不等”を議論した。その際、
第3項の二均差までは、奈良-長安間の月黄径の時差
誤差の0°.5よりも大きいが、第4項の年差は、
0°.19程度であり、これより小さいので無視、
しえるとの旨を本ブログで述べた。しかしながら、

この第4項には、周期が365.26日と跳びぬけて
長いという謎がある。

すなわち第1項の中心差が近点月の27.5546日、
第2項の出差が朔望月から朔望月近点月差を逆外挿し
た31.8日。第3項の二均差が朔望月である
29.53059日の1/2の14.76530日。
第10項の月角差が、29.53059日(朔望月)で
ある。振幅は記載を繰り返すと、中心差が6.29、
出差が1.27、二均差が0.66、年差が0.19、
月角差が0.03の、それぞれ角度の度である。
間違いかと思ったので、何点か成書をあたったが、
間違い無さそうであった。そもそも、太陽地球間距離
が変わると第2項の出差が変動しそうであり、周期は

朔望月+(朔望月-近点月)

であるから、近点月や朔望月と年差が関係してもよさ
そうなものだ。特異な状況と見て、追加で理由を調査
してみた。が、結論を述べると、よく判らなかった。
なお、長沢工氏の”日の出日の入りの計算”に
海上保安庁の黄経不等の計数表が載っていて、
第4項の年差よりもかなり小さく、振幅0°.06
程度で第7位になるようだが、出差の地球軌道扁平
の影響と見られる、出差と周期の近似している項が
あるようだ。

長沢氏日の出日の入り.gif

以前のシミュレーションの状況から、太陽が近づくま
たは遠ざかると月の軌道が、わずかに拡大収縮して、
全体として公転周期が近点年の365.26日で、
フラツイていて、何れにしても何か、

その誤差が第4項年差として見えているのではないか

と疑われた。では、論を続ける。
 月の黄経不等に関しては、以前述べた古在由秀氏
執筆の恒星社、1979年”月と小惑星”だけでなく、
荒木俊馬氏執筆の”現代天文学事典”、1971年
恒星社の”第33章 太陰理論”も読み返してみた。
 後者で式の展開の途中で、出差と年差がくっつけて
あるので、何か関連性が有りそうだが。”セクション
442の黄経の時間による表現”は、さいしょの方
が、私には良く判らず、その後を読んでも年差の周期
の謎は解けない。
 結局、以前シミュレーションしたときの様子から
判断して、公転周期が月の黄経不等の第4項の年差が
ある場合と無い場合とで4~5ヶ月間位、”系統的に、
黄経がズレるのだろう”と、想像するより仕方ない
との結論になった。
 地球の公転軌道の離心率が0.017程度と小さい
ので、太陽がその分接近したり離れたりしたときに、
黄経不等のサインカーブに生じる、第2項の出差によ
る”唸り”の状態の変化が、現われそうなものだが。
結果には大きくは現われずに、月の軌道が相対的に、
太陽の作用がわずかに変化する事で、膨らんだり縮ん
だりして公転周期が変動して、黄経に僅かな系統差が
出た状況だけ、年差として見えているのではないかと、
疑う事にしたと言う事である。
 尤も月の軌道の近地点は、前後に揺れながら、全体
として年に40°程度も前進している。だから、その

大局的前進の、1/200程度が振動して見えても、
地球の公転軌道に約1/60程度の離心率があり、
1/20程度、太陽潮汐摂動力が年変動するとみられ
る場合には、特に不思議も無い

のかもしれない。
 ちなみに、荒木俊馬氏の説明を読んで、私は気が
ついたのだが、e=(4/3)×m、ただしeは、月の
離心率、mは太陽と月の平均日運動角比が、
だいたい成り立つのが、私には不思議に見えた。
このため中心差の振幅と、年差の振幅の比が、2×e’
(ただし、e’は地球の公転軌道の離心率)に近い
のである。
 ここまで来ると、webの情報網も頼りになるとは、
私にはとても思えなかったので、web内を懸命には
調査しなかった。そこで少なくとも本ブログでは、月
の黄経不等の第4項”年差”の、周期が跳びぬけて長
いという謎については、以上のような解釈を、取りあ
えず、さしあたっては取る事にしようと決めたという
事である。(2020/05/24)

nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

月の黄経不等の第3項、”二均差”の確認(長さん)

だいたいの話であるが、月の朔瞬間に影響する
黄経不等には、大きい方から中心差、出差、
二均差、年差、月角差(太陽視差項)がある。
これらは、西暦666年前後に百済が崩壊し、
唐暦の儀鳳暦の供給に、不安定感が出たときに、
暦の消失のリスクを回避し、万が一の国内自作
を担保する為に、月位置の観測時の表現に関連
する天文学用語を供給する囲碁の文化を、
政権トップが、官職に学び、囲碁を禁止するど
ころかむしろするように、奨励する政策をする
よう作用したはずである。その結果藤原京時代
に、囲碁が盛んに打たれたというのが本ブログ
の論である。
 以前述べたように、第1項の中心差、第2項
の出差については、議論したので、今回は第3
項の二均差の実体の把握を試みた。結論は、

国立天文台暦計算室のページに記載されている
通りで合っていて、

黄経不等は軌道の形が全体として歪む効果によ
る、朔望月の半分の周期の、サインカーブ変動
になる。
 では、議論を開始する。
 中心差、出差、二均差、年差、月角差(太陽
視差項)については、周期と振幅が、成書に載っ
ている。日本に於ける”元ネタ”は現時点で、
(故)古在由秀氏の記載とみられる。恒星社、
現代天文学講座2”月と小惑星”(1979)
の古在氏執筆部分が源流なのであろう。それ等
によると、各々次の通りであるという。
 第1項の中心差は近点月周期27.5546
日であり振幅は角度(以下同じ)の6°.29
である。
 第2項の出差は本ブログではたびたび述べた
が、朔望月と近点月の差の分だけ、近点月と
は反対に、朔望月よりも長く約31.8日周期
で振幅は1°.27で、第1項の1/5程度で
ある。これにより黄経不等成分のsinカーブ
は、約205日周期の、AM及びFM変調成分
を持つ。
 第3項の二均差は、朔望月の半分の周期で、
月軌道の形の変化が、そのまま出たに近いもの
であり、振幅は0°.66である。
 第4項の年差は地球軌道が楕円であるため
太陽潮汐摂動力が年周期変化をするためで、
周期が、1(地球の太陽に対する)近点年、約
365.26日で、振幅が0°.19である。
5番目~9番目は、確認できない。
 第10項の月角差は、朔望月(29.53059日)
周期で振幅は0°.03。この項は、地球と
太陽との間の距離に反比例して、太陽系が小さ
いほど大きくなる。
 所で以前シミュレーションしたときに、
新月近日点で、近点角の前進に合わせた回転
座標で座標計算し、かつ新月近日点がズレない
ような軌道を計算した。この軌道はこの回転座
標から見て、ほぼ”恒常的”なので、前記の
月の黄経不等の第3項、二均差をチェックする
のに適している。つまり、三日月近日点や、
有明月近日点と異なり、この時点で月の軌道は
細長くなったり丸くなったり変形しないのであ
る。話は戻って、くどくなって恐縮だが、以前
本ブログで述べたように、月の黄経不等の第2
項である出差は、国立天文台の暦計算室のペー
ジにあるように、

新月または満月近日点で、太陽潮汐摂動により、
軌道が細長くなるのでは無い。

三日月または寝待ち月近日点で、太陽潮汐摂動
により、軌道が細長くなる効果なのであった。
 なおその、三日月近日点等での軌道離心率の
増加等がそもそも起こる理由も、本ブログの管
理人にもようやく、つかめてきた。すなわち
遠地点で、月が太陽潮汐摂動力に引き戻される
効果が、近地点で太陽潮汐摂動力に同じく引き
戻される効果よりも、

作用時間が長い上に、距離も遠いために、
遠地点での月に対する太陽潮汐型摂動力の引き
戻しが近地点のそれよりも、卓越している事が
原因

だと、ここに来て気がついた。
 何れにしても、軌道自体が回転する事を我慢
すれば、新月、満月、半月近地点軌道の状態は
不動なので、軌道自体の形を見るには適してい
る。そこで新月近地点のときの軌道と、本来の
月の、ケプラー楕円軌道とを、軌道傾斜が6°
以下の月では、黄経に真近点角がほぼ近いを使
い、黄経を真近点角に等しいとみなして後者に
関する比較を行い、差分をプロットすると、
半朔望月周期の二均差曲線が描けるのかどうか
を、前に作成したプログラムで行った。つまり、
太陽潮汐摂動を抜いた2体問題の軌道へ、
リファレンス軌道を調整したうえで、それと、
新月近日点の太陽摂動有りの月軌道とで、
真近点角、つまりは、だいたい黄経について、
比較しているという意味である。
 近点角差、つまり概ね”黄経不等”は、以下
の図のような曲線になった。

二均差の曲線.gif

これはまさに、二均差の曲線が分離された姿

である。以上の事は、以下のようにして、確か
めた。つまりそこで、上の方の図の曲線が、確
かに二均差カーブである事をチェックするため、
近点月の周期で振動するサインカーブを引き算
する、ケプラー楕円軌道の周期は同じで、離心
率をわずかにズラし、多少多めだが中心差成分
を混ぜたケースも、以下の図のように作成して
みた。

二均差+中心差0.2.gif

 上図のグラフをよく見ると、近点月周期の
主要サインカーブに重なって、それの1/2
よりも少し長い、

朔望月の半分の周期の、副サインカーブがある

事で、最初の図が、朔望月の半分の周期のサイ
ンカーブの”二均差の曲線”である事が判ると
思う。つまり下の方の図で、副極大が出たり、
それが移動する点からみて明らかである。だか
ら今回、上の方の図では多少歪んではいるが、
二均差項が一応分離できたと見なせるであろう。
 つまり二均差は、古在由秀氏や国立天文台の
暦計算室のページにあるように”軌道の形の変
化のダイレクトの効果”に、こちらの方に関し
ては、間違いが無さそうだ。
 なお、第3位の二均差は、第2位の出差の、
振幅は半分の0°.66あるので、西暦600
年代の

暦国内自作化準備の政策では無視できない

とみられよう。

但し、0°.5の誤差で大体、長安と奈良の
地方時の差分の暦誤差

になる。だから、これ以下の振幅の0°.19
の年差と、太陽と地球の質量比を求めるには
大事だが、0°.03の月角差の項は、

年差と月角差は西暦600年代の、おおらか
だった、わが国社会には考慮不要

と考えられるのであろう。以上から、だいたい
であったが、太陽潮汐型摂動で、月の黄経不等
のうちの多体問題からみの効果で、囲碁文化の
隆盛原因と見られる月の黄経不等出差と二均差
について、本ブログの管理人にも、ようやく
実体の理解が、射程距離内に入ってきたと感じ
られるようになってきた。(2020/05/23)

nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー