SSブログ

高知城横の下屋敷跡の幕末将棋盤は2001年発掘(長さん)

文化庁発行の発掘された日本列島、2006
に、表題の高知城下屋敷跡で発掘された
日本将棋の将棋盤が紹介されているという話
題を以前に本ブログに記事にした。その際、
発掘は2005年頃と述べたが、web上に
発掘報告書が出ており、2001年の発掘
である事が判った。pdfファイル名は、
高知城伝下屋敷跡 高知地家簡裁庁舎敷地埋蔵文化財発掘調査報告書.pdf
である。
このpdfをダウンロードした元urlは、
以下の通りである。まず以下のurl.で、
高知県埋蔵文化財センターへ入る。
https://www.kochi-maibun.jp/
ついで、”刊行物”に入り、
”高知城”と入力すると、
”埋蔵文化財発掘調査報告書の方”に、表題
の2002年発行の、発掘報告書が出てくる。
 この報告書にも、将棋盤の写真が末備から
10ページ前後前に載っていて、裏の墨書に
よれば、

賀代代永という人物の作

との事であるらしい。所有者名は、はっきり
としないように報告されている。裏には、

□三岡田□□□様賀代代永

等と書かれていると、発掘者よって読まれた
との事である。

高知城下屋敷跡将棋盤.gif

なおこの写真とは別にスケッチが、66ペー
ジに載っている。が、”岡田”は地名ではな
くて、

所有者が岡田氏

のように私には見える。
 なお盤の厚みは1.8cm程度との事だ。
 また前に問題にした、共出土した”コマ”
とは、遊戯用の回すコマである。スケッチに
は3個程度、コマっぽいのがあるが、本文に
は1個だけのように書いてある。
 将棋盤やコマの成立年代は、出土地層から
の判定で、近世末期から近代草創期との旨の
ようである。(2020/08/31)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

愛知県豊川市羽根遺跡より江戸時代頃の成龍馬角行(長さん)

これも奈良文化財研究所の発掘報告書データ
ベース、全国遺跡報告総覧に収録されている
が、表題の愛知県豊川市萩町の羽根遺跡にて、
西暦2008年頃、東海道の宿場町、赤坂の
跡とみられる町場の、江戸時代の寺のお堂で、
使用されたとみられる将棋駒、角行駒が一枚
出土したとの事である。報告書はpdfファ
イル名で、以下の通りである。
1634_1_羽根遺跡.pdf
発行者は、愛知県埋蔵文化財センター、
将棋駒のスケッチが、68ページ付近の、
図54に載っている。
巻末の方に写真もある。

愛知県豊川市羽根遺跡角行.gif

奥付けには、成立年代として戦国時代から
江戸時代となっている。はっきりとした年代
決定は困難なのであろう。現物を見ても、何
とも言いがたい感じがする。ただし、字の”
角”が現代漢字なのは、近代の駒を入れても
珍しい。
 私は、見たのは初ではないかと疑う。昔の
人は、”角”の字体を余り、気にしていなかっ
たのであろう。(2020/08/30)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

完全なシャトランジⅡ型は元代以降の成立か(長さん)

イスラムシャトランジの駒数多数ゲームタイプ
の一つに、表題の”完全なシャトランジ”こと、
シャトランジ・アツ・タマームⅡ型がある。
梅林勲・岡野伸著”世界の将棋”将棋天国社、
2000年で、このゲームは詳しく紹介されて
いる。
 以前に、イスラムシャトランジの兵駒が2段
目配列である事を議論したが、このイスラムゲー
ムは、

日本将棋と同じく兵が3段目配列

である。なお、まぎらわしいが
完全なシャトランジⅡ型の他に、
完全なシャトランジⅠ型があり、こちらの方は、
兵が2段目配列だという事である。ペルシャへ
のインド将棋の伝来伝説で、10×10升目、
40枚制のゲームも有ったとされるが、前記
Ⅰ型・Ⅱ型は、それに対応している。イスラム
シャトランジは1段目の配列を、日本の将棋風
に書くと、
飛車、八方桂、飛龍、猫叉、玉将、飛龍、八方桂、飛車
となるのだが、完全なシャトランジⅡ型では、
飛車、八方桂、飛龍、前牛、猫叉、玉将、前牛、飛龍、八方桂、飛車
になるという事だ。前牛は和将棋の駒で、玉将
と動きが同じで、勝敗に関連しない駒。なお
Ⅰ型は少し違い、
飛車、八方桂、飛龍、猛牛、猫叉、玉将、猛牛、飛龍、八方桂、飛車
との旨記載されている。
 繰り返すが、ポーンがⅡ型では10升目象棋
の3段目に、一列に10枚配列されていて2段
目が空いており、Ⅰ型では2段目に配列される
ので、隙間が無いという事である。
 今回論題にするのは、この、
完全なシャトランジⅡ型の成立年代である。
回答から書く。

中国の北宋時代から明代のどこかであり、元代
より遅いとは、確定し辛い

ように私には思える。
 では、論を開始する。世界の将棋には残念な
がら前記、完全なシャトランジの成立年代に関
する情報が無い。
 他方、本ブログでは過去、通常の
イスラムシャトランジがイスラム圏では、元代
より前には強く流行っていたとの認識を提示し
た。この事から、

完全なシャトランジⅡ型は通常の
イスラムシャトランジが強かった、北宋代には
成立し得ないのかと言えば、否だ

と考える。つまり成立する可能性がある。
理由は、

日本将棋が強かった日本の江戸時代の江戸でも、
中将棋は存在はした

のと、同じパターンだとみられるからである。
メインのナショナルゲームが8升シャトランジ
であっても、

当時の文明国であるイスラム圏では、ゲーム・
デザイナーの知識レベルは高く、ペルシャへの
10升目将棋伝説をも参照しながら、
”完全なシャトランジⅡ型”位は、通常のシャ
トランジが絶対視された時代でも作れただろう

と個人的に疑っているからである。世界の将棋
のゲームの記載順序を見ると、チムールチェス
の前、ビザンチンチェスの後ろに、
シャトランジ・アツ・タマームⅡ型を記載して
いる。のでその点でも、元代より前か後ろかは、

まるではっきりしない。

よって冒頭に述べたように、世界の将棋からし
か、今の所シャトランジ・アツ・タマームⅡ型
に関する情報を得ていない私には、このゲーム
の成立は、中国史に対応させると、北宋時代か
ら、明代の何処かだとしか、言いようも無いよ
うに見える。
 なお、シャトランジ・アツ・タマームⅡ型が、

ミャンマーのシットゥイン系の古ゲームを知っ
た上で作成されている事は、ほぼ確か

だ。理由は、世界の将棋に、このゲームの
”猫叉駒(副官、大臣、または将軍)が、

常に1枚しか存在できない”と記載されていて、
それが現行のミャンマー・シットゥインと酷似

しているからである。更には、世界の将棋には、
前記で前牛と私が表現した、余分に加わる駒が、

Ⅱ型では、名称が砲(ダッバーパ)、動きが
前牛と記載され、中国シャンチーの砲に、名前
だけが近似している。

というよりシャトランジ・アツ・タマームⅡ型
は、駒種の字ヅラがほとんど中国シャンチーだ。
いづれにしてもシャトランジ・アツ・タマーム
Ⅱ型はイスラム圏から見て、東方のゲームを広
く情報収集した上で、恐らくイスラムの象棋ゲー
ムのデザイナーによってデザインされた事が明
らかである。
 なお、話は前後したが、兵駒を3段目に上げ
た事自体、このゲームが、シットゥインの考え
方を取り入れたことは、明らかである。だから
インドを飛び越して、かなり早期の段階で、当
時の文明国イスラムの情報網は、世界に充分に
広がっていた事が伺われる。
 なお完全なシャトランジのⅠ型とⅡ型の違い、
猛牛と前牛の違いは、Ⅰ型のルールのままⅡ型
を3段目兵にすると、初期配列で身動きできな
い駒が、猛牛×2、飛龍×2と4枚になるので、
閉塞感が生じ、2升飛び駒の枚数を減らすため、
ミャンマーシットゥインの象、すなわち銀将動
きを参照して、その象駒である、動き銀将と同
じ隣接升目動きの前牛に、付け加えた双方2枚
の最下段の駒を交換したのであろう。なお、付
け加え駒の名称は、Ⅰ型では砲ではなくて駱駝
になっている。その点でⅠ型とⅡ型はゲーム名
称が同じであっても、趣が少し違い、Ⅰ型の方
については、北方のシャトランジ系ゲームの混
入を思わせる。
 何れにしても。
 たとえモンゴル帝国に攻められ、反省により
世界の将棋を、イスラム世界が取り入れたとみ
られる前であったとしても。知識人としてのゲー
ムデザイナーの情報網は、イスラム諸国内に留
まらずに従来より、相当にグローバル化してい
たのであろうと、疑ってかかるべきであると私
は考えている。(2020/08/29)

nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

なぜイスラムシャトランジ兵の高上がりが無い(長さん)

よく知られているように、日本将棋は歩兵
3段、西洋チェスのポーンは2段目置きで
ある。本ブログの見解では、日本将棋の
歩兵段の源は、ミャンマー・シットゥイン
の9世紀の古いバージョンにあり、パゴー・
タトンの海岸交易都市国家で、インドから
の伝来ゲーム、2人制古チャトランガの勝
負を早く付けるための、兵駒の前進が端緒
であると見ている。
 それに対し、西洋チェスがポーン2段目
配列なのは、イスラムシャトランジがそう
であるからだというのが通説である。
 さて以下は、本ブログならではの見方で
あろうが、

前記のミャンマーでの変化は、ゲームを
面白くするという観点からごく普通である

と見ている。ようするに日本がまっとうで、
西洋が特殊という意味である。つまり、
イスラム圏で中世イスラムシャトランジの

兵を高上がりさせなかった事の方が訳有り

だと、見ているのである。
 そこで、以上の立位置から出発し、では、
中世にイスラムシャトランジの兵は、なぜ
初期配列3段目置き等にならなかったのか
を今回は論題とする。回答から書く。
出版物が多数出た事によるゲームルールの
固定化や、隣接するインドで兵成りが、初
期配列対応大駒である事も影響したが、

モハメットが”イスラム帝国を作るときに、
まさに「その」シャトランジで戦術を練っ
た”という類の啓蒙が普及し、そのため、
ゲームが固定化される結果になったとみら
れる影響が最も大きい

と考える。
 では論を開始する。
 この論題は、本ブログでは過去バラバラ
かつ断片的に議論した内容である。そこで
今回は、まとめるという意味で以下論じる。
 現行のシットゥインやエチオピアのセヌ
テレジを見ても明らかだが、兵の高置きは、
序盤の駒組みを省略して、早く中盤に移行
させる効果を持っている。本ブログでは、
日本将棋の伝来ルートを、インド→ミャン
マー(パゴー・タトン)→バガン→都市国
家ピュー→中国雲南→ヴェトナムを素通り
→(中国人の船で)日本と見ている。ので、
日本の将棋はミャンマーが源流なので、兵
高配列だと言う見方となる。博打に将棋を
使うとすれば、早く勝負を付けたい訳で、
序盤の手数を少なくするために、兵を3段
置きにするというのは、

改善の動機として普通

だと考える。ただし、10世期中国雲南に
於いて、盤上に”成り金”、”と金”とし
ての金塊があるのを鑑賞して楽しみたいと
いう動機で、インド飛車動きの象は数を減
らされ、桂馬も2方向のまま固定、車も横
に走れなくなった事については、別途2番
目の理由として考慮する必要がある。
 兵駒の高上がりは、兵段で成るルールに
するとすれば、”と金”が、殺されずに増
えるという点でも好都合なので、10世期
以降の雲南から先については、ミャンマー
のパゴー・タトンでの9世紀頃の改善が、
2重の意味で継続されたのである。
 そこで話をミャンマーに戻すと、だから、

イスラムシャトランジの方が妙なのであり、
シャトランジの兵が、2段目配列でなけれ
ばいけない積極的理由は特に無い

と私は見る。線対称配列で、先手が少し有
利なら、相玉左置きに変えて、点対称にす
れば良い程度である。
 また他方、本ブログでは中国や日本で遅
くまで将棋類が無いのは、囲碁でゲームの
出来の良し悪しを良く知っていた為

”イスラムシャトランジ系ゲームは出来の
悪い物”として、中国・日本で相手にしな
かった為

と繰り返し主張してきた。以下の点も既に
述べているが、よって逆に言うと

イスラム圏でイスラムシャトランジが指さ
れたのは、創始者のモハメットゆかりのゲー
ムであるとして、尊敬されていたからだ

としか、少なくも私の感覚としては考えら
れない。
 だから、冒頭に述べた理由で、
モハメットにゆかりの、そのシャトランジ
しか、指そうとしない、宗教国家独特の空
気があったから相当長く、一定のゲームが
指されたとしか考えられない。つまり、

モハメットの指したゲームでは無いという
理由から、兵をたとえば3段目に上げたゲー
ムはイスラム圏で、中世の少なくとも
モンゴル帝国に、イスラム諸国が征服され
る前までは、あまり指される社会的雰囲気
が無かった

と私が見ているという事である。

西洋チェスは、そのイスラムシャトランジ
の痕跡を残しているから、つまりポーンは
2段目にあるのではないか

と特殊視するのが、本ブログ独自の見方で
ある。
 なお、イスラムシャトランジの高段者が、
執筆した啓蒙書を多数出して、8~9世紀
のその時代にゲーム自体を普及した事も、
増川宏一氏の著書、ものと人間の文化史
110、チェスに詳しい。日本でも江戸時
代以降は、多数の啓蒙書および、将棋家元
制度の普及で、日本将棋のルールの変化は、
それ以前に比べてかなりゆっくりになって
いる。このような同じ理屈の効果も働いた
のだろう。ようするにゲーマーが増えると、
ルールをどんどん変えにくくなるのは、自
明と見られるという事である。
 それに加えて、かなり後まで、イスラム
の国と、東南アジアの間には、敵陣最奥で、
初期配列駒に成るインドの将棋圏が存在し
ていた。相手陣奥で、強駒に成る場合、兵
は下段に後退させて、攻撃力を調整する必
要があるとみられる。こうした国が間に居
た点でも、イスラムシャトランジの、兵の
初期配列での高上がりの、結果としてそう
させる進化の妨害原因の一つになったので
あろう。
 なお、イスラムシャトランジが西洋に伝
来して、西洋チェスとなったとき、クイー
ンやビショップという、斜め走りを含む駒
が増加した。その結果、ポーンが3段目で
は、斜め走り駒を出すための、道開けの着
手をすると、相手兵との間に、兵同士の
”ぶつかりすぎ”の感覚も生じた。そのた
め、西洋チェスとなって斜め走り駒が増え
ると、兵は上がるのではなくて、第1手目
には1歩でも2歩でも良いと、ルール調節
される結果になった。こうして西洋チェス
では、駒の働きの強化が起こると同時に、
兵の高上げ配列は根拠を希薄にして、東洋
のゲームとは異なり、兵は2段目に据え置
かれるようになったと考えられるのである。
(2020/08/28)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

興福寺から桂イ馬や香俥はなぜ出土しないのか(長さん)

興福寺出土木簡に書かれた酔像の意味は、仏教的
信仰心を高めるための仏具で無いと、言えるほど
の情報は無いのであるが。西暦1058年時点で、
そこで酔象と酔像の駒のある小将棋具で、将棋が
指されていた事を示唆するようでもあると、従来
から本ブログでは述べて来た。
 そもそも、像や象ではなくて、酔像、酔像と2
文字にしたから、駒の乱雑な回転で、敵味方駒が
紛れる事が無くなっているというのが、日本の将
棋の二文字記銘の意味だとは、みられるのだが。
駒の色を変えるわけでもないため、現行の中国シャ
ンチーの一部の道具のごとくに、字そのものを、
敵味方で変えれば、取捨てルールだとすれば敵味
方駒の区別がより、付き易い事も確かではある。
 では、そうした観点で、酔像という駒名が、仮
に作られたとするならば、どうして桂馬の他に、
桂イ馬、香車の他に香俥が、興福寺で出土しない
のか。酔象だけを、字体変更したようにも見える
のは何故なのかを、今回は論題とする。回答から
書く。

桂馬と香車は、西暦1058年時点で不動。
酔象が入る平安小将棋が、比較的マイナーだった
ので、酔象の字体を微調整する余地が有った

と考えられる。では論を開始する。
 まず他の以下否定すべき解釈として、”取り捨
て将棋の道具なので、桂馬や香車は、相手陣奥で
存在しにくく、酔象だけ相手陣で暴れる角行動き
とみられる興福寺の大理国再型の原始平安小将棋
では成り金になっているので、区別の効果が薄い
ため”という理屈付けが考えられる。しかし、
たぶんこの理由付けは駄目であろう。理由は、

香車の不成を許すような将棋も、テストで興福寺
では11世紀に指す可能性が有り、香車のほかに
出来れば香俥も作りたいところ

だったろうと考えられるからである。にも関わら
ず、そのような駒を作らなかった理由は、

伝来して40年強経ち、香車という駒名が揺ぎ無
くなっていて、字体を変えると誤解を招く状態だ
ったからだ

としか考えられない。恐らく、桂イ馬、香俥、
歩卒等は、西暦1058年時点で、興福寺内でも
使ったら意味不明だったのだろう。つまり、なん
だかんだ言っても、

原始平安小将棋の方が大理国再現型原始平安小将
棋よりも、西暦1058年時点で全国的には著名

だったのであろう。ゲーム性としては、興福寺の
将棋の方が一般型よりも上だったので、奈良県で
は指したとみられるのだが。11世紀の日本の将
棋棋士のレベルは、興福寺には恐らく上級者が集
まっている状態だったのだろうが、その他の地域
では概ね黎明期であり、角行走り駒を1枚だけ入
れて大理国型の小将棋に回帰させるだけの実力が、
全国的にそこまでは無かったのであろう。その為、
中国のゲームデザイナーの、テスト駒名のパター
ンを真似るにしても、象駒だけ真似るのが興福寺
でも限度だったのではないだろうか。
 現代でも、中国シャンチーで、敵味方同士で、
駒の区別が、帥/将、士/仕、象/相、兵/卒だ
けであり、砲(炮)、馬、車は同じであるような
ゲーム具も実存在する。だから、それと同様のパ
ターンで、書き換え可能な象だけを、相手方像に
したような将棋駒セットを仮に用いたとしても、
極端に奇妙な道具の使用とまでは、行かないのか
も知れないと、私は考えるのである。(2020/08/27)

nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

島根県高浜遺跡の□将の写真(長さん)

以前に、日本最古の小将棋の将棋盤で有名な、
2010年前後に発掘された、島根県出雲市
高岡町の高浜遺跡の発掘報告書に、将棋盤の
のスケッチ図と共に、□将と読まれた将棋駒の
記載がある旨、本ブログでは述べた。
報告書は奈良文化財研究所の発掘報告書データ
ベース、全国遺跡報告総覧に収録されていると
見られ、
36069_1_高浜Ⅰ遺跡3区.pdf
である。この報告書の
”高浜Ⅰ遺跡(三区)”で、48ページに、
問題の将棋駒のスケッチが載っている。
 さいきん、別冊子の報告書であるが、この出
土駒の写真を発見した。こちらの方の報告書も、
全国遺跡報告総覧に収録されていると見られ、
pdfファイル名は以下の通りである。
23253_1_高浜Ⅰ遺跡.pdf
両方共、web上で公開されている。
なお写真は、巻末の図版21の左上にある。

出雲市高浜□将.gif

正直やはり、駒名は私には判らない。この駒は
屋敷跡の地面の下から出たようである。
 少し離れた所から出たと見られる将棋盤と
共出土の木簡とこの駒も同じ時代だとすると、
成立が1506年前後と見られるので、飛車か
角行だと貴重だが、証拠は余り無いようである。
なお、発掘者により表題のように”□将”と
読まれている。
 なお、もう一枚の出土駒の写真も、今回紹介
したpdfファイルに収録されているが、こち
らの駒名も私にも全く読めなかった。出土地点
に関し同じ遺跡内だが、将棋盤、口将駒、不明
駒は全部互いに捨て場が、ばらばらだという事
である。(2020/08/26)

nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

中国シャンチーの”相”は何処から来たのか(長さん)

以前に述べたように現代において中国シャンチー
の駒は、王駒を帥と将、副官駒を士と仕、象駒を
象と相、馬駒を馬とニンベンの馬、車駒を車と俥、
兵駒を卒と兵、砲駒を砲と炮と書き分けて、色だ
けでなくて字で、敵味方を区別する事がしばしば
行われている。このうち

象について、なぜ相と象なのかを、今回は論題

にする。私の国語力では、相は首相の相が最も
近く、

王、軍師、相と並べて、ナンバー3が”相”とい
うイメージであり、動物の象と繋がらない

からである。回答から書く。

(仮説)大理国小将棋の銀将が源だ

と本ブログでは考える。では以下に論を開始する。
 議論の全体像から述べてしまうと、本ブログに
於いてインドの今に残るチャトランガ、ミャンマー
のシットゥイン、タイのマークルックの、象、

象根駒が銀将動きなのは全部中国雲南大理国起源。

中国シャンチーの象のペアーが相、宝応将棋の

象駒が名称上”上将”なのも、雲南南詔国や大理
国起源。

朝鮮チャンギの漢/楚と士駒が同じルールなのも

もとはと言えば、南詔国や大理国の小将棋のせい

と考える。そしてこれらの事実の根底に有る物は、

財宝を道具にゲームをして、金持ちになりたいと
いう庶民の願望が、インドより東のアジアで共通
の世論

だったからという事である。なお、日本の小将棋
の象駒が銀将なのは、本ブログによると、伝来元
が雲南そのものであるからなのだが。つまりは、

貴族の贅沢三昧体質が、大理国のそれと平安期の
王朝貴族でいっしょだからお似合いだと、中国人
に見られて、これ見よがしに将棋ゲームを押し付
けられたのが、そもそもの馴れ初めだったからだ

と、本ブログ流にいうと、そういう事になる。
 ”後一条天皇は、贅沢オモチャより藤原行成の、
コマの方が好きだった”と、院政期成立の大鏡が
揶揄してみせたのは、そうした”勝手な解釈によ
る押し付けられ感”が、平安時代にも有ったから
なのだろう。
 なお、そもそも雲南南詔国で金将、銀将が発生
したのは、前にも述べたが同国の建国伝説に於い
て、南詔徳化碑に記録として残る、金帯の大将軍
という英雄の存在や、南詔国で将校クラスの兵士
に対して金帯を、かなり多数付与されるという習
慣が有ったと、中国の記録に残る事実に端を発し
ていると、本ブログでは以前より見ている。現代
の銀将ルールのおおもとの起源は、歩兵の成りを、
南詔国原始平安小将棋=宝応将棋の銀将から金将
に変えようとして、玉将を大理国時代に、後付し
た結果の”成駒名ルールの変更”であるというの
が、本ブログの論である。
 何れにしても以上の事から、唐、北宋、明、と
いった漢民族国家は、格下の南詔や大理に、象棋
については、相という駒字を残したという1点だ
けだが、大国自身が見習った実績があるという事
になる。
 国家の上層部は、それを潔しとしなかったのだ
ろうが。金持ちになりたいと考え、象棋駒を穴を
空けるなどして貨幣に準えてゲームをする傾向の
あった、大衆世論に押され、

結局は象の半分を、銀将のほぼ言い換えにあたる、
相に結果として、せざるを得なかった

というふうに考えると、このケースは判りやすい。
 朝鮮チャンギでは、それが取り入れなられなか
った代わりに、日本の将棋が後に影響したのか。
玉将相当の副官という、古代インド・チャトラン
ガ型の副官駒ルールに、何時の間にか切り替わっ
て、漢/楚と士の動きが全く同じになったようで
ある。
 しかし中国では、ゲームの内容を、科学技術的
大国に合わせるという国是が、宋・元代に優勢だっ
ただろう。イスラムシャトランジの象駒のルール
である飛龍動きは、結局最後まで変更されなかっ
た。しかしながら、シャンチーの相、チャンギの
士に列して

大理国の絢爛たる将棋道具に目を見張った他の国
々では、大国インド諸侯を含めて、象駒のルール
自体が銀将に置き換わり、それを支持し呼応した

と私は見る。以上が本ブログの見方である。なお
東南アジアの一部の国の、古い象棋駒に、象駒を
象に乗った兵士で表したものがあると、増川宏一
氏はものと人間の文化史、将棋Ⅰで書いておられ
る。

この将棋駒の形への影響も、おおもとは大理国

だというのが、私の意見である。象と、それに乗っ
た相や上将と、表現するのが適切とみられる兵士
とでは、本来違いが有るからである。
 よって、冒頭のように、将棋具が財宝だという、
羽振りの良い他国の貴族の姿に対する、世俗の憧
れの感情という世論の持つ普及力が、中国王朝よ
り本来格下の、雲南省の古代国家のローカル将棋
の駒名である、国家ナンバー3に当る銀将相当の

”相”という字を、中国シャンチーの象の対局相
手方のペアーの駒名に定着させた根本的原因。

以上のように、私は推論するのである。(2020/08/25)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

1058興福寺木簡酔像の像もと中国ゲームは何(長さん)

現在の主流の解釈は、興福寺木簡”酔像”は
仏具であろう。しかし本ブログでは従来より、
中国象棋ゲームの敵味方区別のための、象と
像の書き分けのマネとの解釈を取る。細い根
拠だが、問題の木簡に酔像の他、酔象と疑わ
れる字が有るようだと見た事があるのが、今
の所唯一の根拠である。
 では、仮に本ブログの論が正しいとして、
西暦1058年の中国シャンチー未成立の時
代に、興福寺は渡来僧等から、何を聞き取っ
て、酔象と酔像の敵味方書き分けをしたのか
が、今回の論題である。回答から書く。

北宋象棋の可能性と、字駒のイスラムシャト
ランジの可能性の両方が有るが、後者の可能
性の方が少し大だと考える。

では、論を開始する。
 主流と考えられる、仏具説は奈良県立
橿原考古学研究所の清水康二氏が、発見当時
に提唱したものである。詳細は現時点で私の
手元に無いので不確かだが、確か増川宏一氏
の成書、将棋の起源、平凡社、西暦1996
年に引かれる等、広く知られる有力説だ。だ
が、酔像の他に木簡に、酔象が書かれている
という本ブログだけの主張が、万が一正しい
と、それは何故なのかを、別途考えなければ
ならないという難点が、多少出てくるとみら
れる。
 他方本ブログの論は、中国シャンチー駒に、
象の他に相、馬の他にニンベンの馬、車の他
に俥という駒が、現実として存在するという
点を出発点にしている。ただし西暦1058
年に、中国シャンチーが成立しているとは考
えにくい。一般には北宋象棋の時代とされて
いるからである。
 北宋象棋の時代は中国広将棋等の時代とも
重なる為、いわゆる中国シャンチー型の字駒
は有ったと考えて無理は無い。駒数多数象棋
が存在出来たのは、中国でも日本のパターン
と同じく、このケースは多少早く11世紀に、
書き字駒が中国シャンチー以外のゲームにも、
使われていたからであると考えると、説明し
やすいと思われるからである。ただし全体形
は、今のように円(筒)だったのかもしれな
いし、菱形だったのかもしれないし、正方形
だったのかもしれないし私には良く判らない。
 イスラムシャトランジも、中国ではテスト
としてプレーする際には特に、書き字で自作
されたのではないかと見ても、極端な不自然
感はあるまい。ただし、では興福寺は、本当
に中国のイスラムシャトランジ字駒を真似た
のかと言えるかどうかは、当然問題になる。
ちなみに、本ブログは興福寺駒は取捨て将棋
用との立場だ。
 ともあれ論を先に進めるとポイントは、

猫叉動きのイスラムシャトランジの大臣駒は、
人間である点を除いて、一字の漢字で表しに
くい

という点だと私は思う。つまり、大臣駒は

臣や宰が妥当だろうが、相でもだいたい通る
という事

である。つまり、中国人は敵味方を区別する
ために、士駒は、士と仕にするとして、象は
象と像にした方が、イスラムシャトランジの
中国字駒翻訳の場合は良いという事である。

相はイスラムシャトランジに関しては、大臣
のようでもあるし、象のようでもあるという
意味

である。イスラムシャトランジの王の横に
置いてある駒の意味が、中国から見て外国の
概念なので、完全に明解とまでは行かないの
ではないかという事である。だから中国では、
イスラムシャトランジの中国対応字駒を作成
したときに、繰り返すと

大臣は士と仕にしただろうし、象は相と象で
はなくて、象と像にしたのではないかと考え
られる

のである。それに対して、西暦1058年時
点で北宋象棋が成立していたとしても、士駒
としての、仕、偏、裨が元々中国の概念なの
でしっかりしており、象駒を象と相としても、
紛れは少なかったのではないかと疑われる。
 よって、北宋象棋に関しては、象駒に像を
充てる可能性が、やや少ないのではあるまい
か。
 以上の事から確定させるのは土台無理だが。
興福寺の酔像の像が、敵味方駒の象と像の書
き分けだと仮に仮定すると、そのアイディア
の元ゲームは、中国北宋象棋ではなくて、
中国字駒翻訳の、イスラムシャトランジでは
ないかと疑われるという結論に、一応はなる
という事である。(2020/08/24)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

鶴岡八幡宮境内遺跡の出土歩兵駒はなぜ大きい(長さん)

本ブログでは、成り飛車金将かともされている
かなり劣化した表題出土駒の一枚を、成り崩し
金歩兵と解釈している。その関係で、表題
鶴岡八幡宮境内遺跡の、13世紀中葉から14
世紀初に掛けての成立とされている5枚の駒で、
最も形の大きいのは、歩兵だという事になって
いる。今回は鎌倉時代後半に、弱い駒を小さく
作らない習慣が、鶴岡八幡宮境内の将棋の作成
作業場で、なぜ有ったのかを論題とする。
回答から書く。

たまたま、持駒ルールの平安小将棋を、鎌倉で
はここでだけ、しなかったから

だと考えられる。では論を進める。
 鎌倉市の出土駒では、今小路西遺跡の、武家
地から出土した、不明駒が、金将よりも小ぶり
の恐らく別種駒であり、持駒ルールで鎌倉駅近
辺では平安小将棋が、指されていたのではない
かと言う推定を、本ブログでは以前にした事が
ある。神奈川県鎌倉市の今小路金将駒等の成立
年代は、鶴岡八幡宮境内遺跡の出土駒よりも、
実は少し早く、

今小路西の不明駒と金将駒は、13世紀第2四
半期から中葉だとされている。
(集成 鎌倉の墨書、鎌倉考古学研究所、西暦
2017年)

 実は、鶴岡八幡宮境内遺跡の出土駒が成立し
た頃には、ルール上、動きの小さな弱い駒ほど、
駒を小さく作るという現代まで続く傾向が、
他の鎌倉市の遺跡を含めて他の遺跡の遺物でも、
明解に現われ始める時代であった。だから、

鶴岡八幡宮境内遺跡の歩兵が大振りすぎる事は、
かなり目立つ事実

である。他方今の所、本ブログでは、駒の大き
さに差を作らない将棋駒セット遺物は、
平安小将棋だとすれば、取捨てルール用であっ
たためと、統一して考える事にしている。厳密
に議論するには根拠が、実際乏しいのだが。
 よって、今の所だが、鶴岡八幡宮境内遺跡の
歩兵駒の中に、平安小将棋に使われる駒がある
とすれば、

鶴岡八幡宮境内では当時、取捨ての平安小将棋
が、この場所でだけもっぱら指された

と解釈するよりも、しかたのない状況という事
になる。
 よみがえる中世、武士の都鎌倉に、当時の
鎌倉は、今の鎌倉駅を境として、鶴岡八幡宮側
が官庁街、海に向かった方向が大衆的な町場だっ
たとの旨の記載がある。鎌倉駅付近は今の新宿
歌舞伎町のような歓楽街だったのではないかと、
本ブログでも、前に推定を述べた。
 つまり、鶴岡八幡宮境内では、小将棋系は、
いわば今様の霞ヶ関ルールで指されていたと言
う事なのではないだろうか。この事から、持駒
ルールは、伝来した平安時代11世紀初当初の
ルールを標準としていて、この標準正式ルール
から外れたものと、鎌倉時代には考えられてい
た疑いが浮上して来ると私は見る。(2020/08/23)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

バングラデッシュに象棋類は無いのか(長さん)

インドでは、チェスの発祥地としてチャトランガ
との名でチェス類が振興されている。また、
ミャンマーにはシットゥインが有る。では、中間
のバングラデッシュには、バングラデッシュチェ
スのようなものは有るのかどうかを、今回は論題
とする。回答から書く。

衰微してしまい、少なくとも近年には有力で無い

ようである。では、説明を加える。バングラデッ
シュのボードゲームに関しては、以下の成書で
紹介がある。
 民族遊戯大事典、株式会社大修館書店、西暦
1998年、代表編者、大林太良。広島の高田と
いう大学の先生が、バングラデッシュの項を執筆
している。がボードゲームで、チェス類の言及は
無く、ショログティという名で、十六ムサシの類
のゲームの存在が紹介されている。なおこの成書
には、ミャンマーシットゥインの項も無く、パキ
スタンで、ずばりの西洋チェス、マレーシア、
インドネシアで、チャトル名の西洋チェスが指さ
れているとの旨の、紹介がインドシナ各国分につ
いては、あるのみである。
 バングラデッシュに象棋類があっても、少なく
も、インドシナのチャトル、恐らくはタイの
マークルックよりも、流行が乏しいのであろう。
なお、タイのマークルックの紹介も、私の読み落
としが無いとすればだが、無かったように認識し
ている。本書は前世紀末の成書であり、増川宏一
氏も執筆者に加わっている。が増川氏の日本の将
棋への近似性という点でのマークルックへの関心
は、将棋Ⅰを読む限りは、大内延介氏等に比較し
て前世紀段階では、格別とは言えないとの印象が
有る。その為に、この成書では担当者の言及も、
たまたまであったのだろうが、特に無かったのか
もしれない。
 以上の事から、インドからミャンマーのバガン
等への伝来経路に有り、交易商人が古代には象棋
類の、運び屋になっていたはずであるが。ミャン
マーのシットゥイン同様、現時点でのバングラデッ
シュの伝統象棋ゲームは、残っていたとしても、
ほぼ絶滅に瀕した状態に、なってしまっているよ
うに思われる。(2020/08/22)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー