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鶴岡八幡宮境内遺跡の出土歩兵駒はなぜ大きい(長さん)

本ブログでは、成り飛車金将かともされている
かなり劣化した表題出土駒の一枚を、成り崩し
金歩兵と解釈している。その関係で、表題
鶴岡八幡宮境内遺跡の、13世紀中葉から14
世紀初に掛けての成立とされている5枚の駒で、
最も形の大きいのは、歩兵だという事になって
いる。今回は鎌倉時代後半に、弱い駒を小さく
作らない習慣が、鶴岡八幡宮境内の将棋の作成
作業場で、なぜ有ったのかを論題とする。
回答から書く。

たまたま、持駒ルールの平安小将棋を、鎌倉で
はここでだけ、しなかったから

だと考えられる。では論を進める。
 鎌倉市の出土駒では、今小路西遺跡の、武家
地から出土した、不明駒が、金将よりも小ぶり
の恐らく別種駒であり、持駒ルールで鎌倉駅近
辺では平安小将棋が、指されていたのではない
かと言う推定を、本ブログでは以前にした事が
ある。神奈川県鎌倉市の今小路金将駒等の成立
年代は、鶴岡八幡宮境内遺跡の出土駒よりも、
実は少し早く、

今小路西の不明駒と金将駒は、13世紀第2四
半期から中葉だとされている。
(集成 鎌倉の墨書、鎌倉考古学研究所、西暦
2017年)

 実は、鶴岡八幡宮境内遺跡の出土駒が成立し
た頃には、ルール上、動きの小さな弱い駒ほど、
駒を小さく作るという現代まで続く傾向が、
他の鎌倉市の遺跡を含めて他の遺跡の遺物でも、
明解に現われ始める時代であった。だから、

鶴岡八幡宮境内遺跡の歩兵が大振りすぎる事は、
かなり目立つ事実

である。他方今の所、本ブログでは、駒の大き
さに差を作らない将棋駒セット遺物は、
平安小将棋だとすれば、取捨てルール用であっ
たためと、統一して考える事にしている。厳密
に議論するには根拠が、実際乏しいのだが。
 よって、今の所だが、鶴岡八幡宮境内遺跡の
歩兵駒の中に、平安小将棋に使われる駒がある
とすれば、

鶴岡八幡宮境内では当時、取捨ての平安小将棋
が、この場所でだけもっぱら指された

と解釈するよりも、しかたのない状況という事
になる。
 よみがえる中世、武士の都鎌倉に、当時の
鎌倉は、今の鎌倉駅を境として、鶴岡八幡宮側
が官庁街、海に向かった方向が大衆的な町場だっ
たとの旨の記載がある。鎌倉駅付近は今の新宿
歌舞伎町のような歓楽街だったのではないかと、
本ブログでも、前に推定を述べた。
 つまり、鶴岡八幡宮境内では、小将棋系は、
いわば今様の霞ヶ関ルールで指されていたと言
う事なのではないだろうか。この事から、持駒
ルールは、伝来した平安時代11世紀初当初の
ルールを標準としていて、この標準正式ルール
から外れたものと、鎌倉時代には考えられてい
た疑いが浮上して来ると私は見る。(2020/08/23)

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