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1058興福寺木簡酔像の像もと中国ゲームは何(長さん)

現在の主流の解釈は、興福寺木簡”酔像”は
仏具であろう。しかし本ブログでは従来より、
中国象棋ゲームの敵味方区別のための、象と
像の書き分けのマネとの解釈を取る。細い根
拠だが、問題の木簡に酔像の他、酔象と疑わ
れる字が有るようだと見た事があるのが、今
の所唯一の根拠である。
 では、仮に本ブログの論が正しいとして、
西暦1058年の中国シャンチー未成立の時
代に、興福寺は渡来僧等から、何を聞き取っ
て、酔象と酔像の敵味方書き分けをしたのか
が、今回の論題である。回答から書く。

北宋象棋の可能性と、字駒のイスラムシャト
ランジの可能性の両方が有るが、後者の可能
性の方が少し大だと考える。

では、論を開始する。
 主流と考えられる、仏具説は奈良県立
橿原考古学研究所の清水康二氏が、発見当時
に提唱したものである。詳細は現時点で私の
手元に無いので不確かだが、確か増川宏一氏
の成書、将棋の起源、平凡社、西暦1996
年に引かれる等、広く知られる有力説だ。だ
が、酔像の他に木簡に、酔象が書かれている
という本ブログだけの主張が、万が一正しい
と、それは何故なのかを、別途考えなければ
ならないという難点が、多少出てくるとみら
れる。
 他方本ブログの論は、中国シャンチー駒に、
象の他に相、馬の他にニンベンの馬、車の他
に俥という駒が、現実として存在するという
点を出発点にしている。ただし西暦1058
年に、中国シャンチーが成立しているとは考
えにくい。一般には北宋象棋の時代とされて
いるからである。
 北宋象棋の時代は中国広将棋等の時代とも
重なる為、いわゆる中国シャンチー型の字駒
は有ったと考えて無理は無い。駒数多数象棋
が存在出来たのは、中国でも日本のパターン
と同じく、このケースは多少早く11世紀に、
書き字駒が中国シャンチー以外のゲームにも、
使われていたからであると考えると、説明し
やすいと思われるからである。ただし全体形
は、今のように円(筒)だったのかもしれな
いし、菱形だったのかもしれないし、正方形
だったのかもしれないし私には良く判らない。
 イスラムシャトランジも、中国ではテスト
としてプレーする際には特に、書き字で自作
されたのではないかと見ても、極端な不自然
感はあるまい。ただし、では興福寺は、本当
に中国のイスラムシャトランジ字駒を真似た
のかと言えるかどうかは、当然問題になる。
ちなみに、本ブログは興福寺駒は取捨て将棋
用との立場だ。
 ともあれ論を先に進めるとポイントは、

猫叉動きのイスラムシャトランジの大臣駒は、
人間である点を除いて、一字の漢字で表しに
くい

という点だと私は思う。つまり、大臣駒は

臣や宰が妥当だろうが、相でもだいたい通る
という事

である。つまり、中国人は敵味方を区別する
ために、士駒は、士と仕にするとして、象は
象と像にした方が、イスラムシャトランジの
中国字駒翻訳の場合は良いという事である。

相はイスラムシャトランジに関しては、大臣
のようでもあるし、象のようでもあるという
意味

である。イスラムシャトランジの王の横に
置いてある駒の意味が、中国から見て外国の
概念なので、完全に明解とまでは行かないの
ではないかという事である。だから中国では、
イスラムシャトランジの中国対応字駒を作成
したときに、繰り返すと

大臣は士と仕にしただろうし、象は相と象で
はなくて、象と像にしたのではないかと考え
られる

のである。それに対して、西暦1058年時
点で北宋象棋が成立していたとしても、士駒
としての、仕、偏、裨が元々中国の概念なの
でしっかりしており、象駒を象と相としても、
紛れは少なかったのではないかと疑われる。
 よって、北宋象棋に関しては、象駒に像を
充てる可能性が、やや少ないのではあるまい
か。
 以上の事から確定させるのは土台無理だが。
興福寺の酔像の像が、敵味方駒の象と像の書
き分けだと仮に仮定すると、そのアイディア
の元ゲームは、中国北宋象棋ではなくて、
中国字駒翻訳の、イスラムシャトランジでは
ないかと疑われるという結論に、一応はなる
という事である。(2020/08/24)

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