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興福寺から桂イ馬や香俥はなぜ出土しないのか(長さん)

興福寺出土木簡に書かれた酔像の意味は、仏教的
信仰心を高めるための仏具で無いと、言えるほど
の情報は無いのであるが。西暦1058年時点で、
そこで酔象と酔像の駒のある小将棋具で、将棋が
指されていた事を示唆するようでもあると、従来
から本ブログでは述べて来た。
 そもそも、像や象ではなくて、酔像、酔像と2
文字にしたから、駒の乱雑な回転で、敵味方駒が
紛れる事が無くなっているというのが、日本の将
棋の二文字記銘の意味だとは、みられるのだが。
駒の色を変えるわけでもないため、現行の中国シャ
ンチーの一部の道具のごとくに、字そのものを、
敵味方で変えれば、取捨てルールだとすれば敵味
方駒の区別がより、付き易い事も確かではある。
 では、そうした観点で、酔像という駒名が、仮
に作られたとするならば、どうして桂馬の他に、
桂イ馬、香車の他に香俥が、興福寺で出土しない
のか。酔象だけを、字体変更したようにも見える
のは何故なのかを、今回は論題とする。回答から
書く。

桂馬と香車は、西暦1058年時点で不動。
酔象が入る平安小将棋が、比較的マイナーだった
ので、酔象の字体を微調整する余地が有った

と考えられる。では論を開始する。
 まず他の以下否定すべき解釈として、”取り捨
て将棋の道具なので、桂馬や香車は、相手陣奥で
存在しにくく、酔象だけ相手陣で暴れる角行動き
とみられる興福寺の大理国再型の原始平安小将棋
では成り金になっているので、区別の効果が薄い
ため”という理屈付けが考えられる。しかし、
たぶんこの理由付けは駄目であろう。理由は、

香車の不成を許すような将棋も、テストで興福寺
では11世紀に指す可能性が有り、香車のほかに
出来れば香俥も作りたいところ

だったろうと考えられるからである。にも関わら
ず、そのような駒を作らなかった理由は、

伝来して40年強経ち、香車という駒名が揺ぎ無
くなっていて、字体を変えると誤解を招く状態だ
ったからだ

としか考えられない。恐らく、桂イ馬、香俥、
歩卒等は、西暦1058年時点で、興福寺内でも
使ったら意味不明だったのだろう。つまり、なん
だかんだ言っても、

原始平安小将棋の方が大理国再現型原始平安小将
棋よりも、西暦1058年時点で全国的には著名

だったのであろう。ゲーム性としては、興福寺の
将棋の方が一般型よりも上だったので、奈良県で
は指したとみられるのだが。11世紀の日本の将
棋棋士のレベルは、興福寺には恐らく上級者が集
まっている状態だったのだろうが、その他の地域
では概ね黎明期であり、角行走り駒を1枚だけ入
れて大理国型の小将棋に回帰させるだけの実力が、
全国的にそこまでは無かったのであろう。その為、
中国のゲームデザイナーの、テスト駒名のパター
ンを真似るにしても、象駒だけ真似るのが興福寺
でも限度だったのではないだろうか。
 現代でも、中国シャンチーで、敵味方同士で、
駒の区別が、帥/将、士/仕、象/相、兵/卒だ
けであり、砲(炮)、馬、車は同じであるような
ゲーム具も実存在する。だから、それと同様のパ
ターンで、書き換え可能な象だけを、相手方像に
したような将棋駒セットを仮に用いたとしても、
極端に奇妙な道具の使用とまでは、行かないのか
も知れないと、私は考えるのである。(2020/08/27)

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