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宮城県新田遺跡の五角形木札に人姿の絵?(長さん)

奈良文化財研究所の発掘報告書のデータベース
全国遺跡報告総覧の中にあって以前紹介した事
のある、根付のように穴の開いた将棋五角形の、
鎌倉時代の結構古い将棋駒を象ったとみられる
木札の模様について、今回は書く。

以前に紹介したとき、何が書いてあるか不明と
述べた。が、そうではなくてよく見ると、人の
姿の絵が、薄く描いてある可能性がある。

私がざっと書くと絵は、下のような感じである。

宮城県新田遺跡駒絵.gif

なお遺跡の名称は、宮城県多賀城市の新田遺跡
で、以下の発掘報告書のpdfファイルがwe
b上にある。
9690_1_新田遺跡.pdf
五角形木札は、終わりの方の図37に写真が有
る。西暦1985年頃と、かなり古い時代の
発掘結果である。将棋駒とは認められなかった
ので、大きく知られる事は無かったようだ。
 14世紀初成立の”出土駒”であるとの旨、
報告書には記載されているようである。
 絵から今でも、男子トイレの使用中の札とし
て使えそうな感じが、私にはするが。実際に、
何に使用したのかは、残念ながら手がかりにな
るものが、余り無いようである。
 解読が進めば、残念ながら将棋駒で無い事が、
ますます明らかになってきそうだ。(2020/09/30)

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新安沖沈没船に”ままこ立て”荷札?(長さん)

成書に、流通品の識別荷札として紹介されて
いるように思えるが、スケッチを小さく転記
したような、遊戯類の”ままこ立て”記載木札
が、以下の成書に出ている。
図解・日本の中世遺跡、小野正敏編集、
東京大学出版会、西暦2001年。
この成書のⅥ流通と消費、1焼物の流通・消費
の170ページの中段左の方に、左2枚の、明
らかに物品名や数量を書いたフダの、右隣中央
に、”まここて”のようでもあるし、読みよう
によっては、

ままこ立てのようにも見える、ゲーム具の種類
を表示したようにも取れる札

がある。

新安沖ままこ立て.gif

なお、更に右の2枚は、流通品か、符号か何か
かもしれないし、次は私には、呪術札が混ざってい
るようにも見える木札のようなものが、記載さ
れているようである。
 船内からは、碁石が確か出土しているし、
15升目の将棋盤(?)も出土しているので、
新安沖沈没船の船内でゲームが暇つぶしに、行
われたという、別の証拠史料になるかもしれな
いと、私は淡く期待する。(2020/09/29)

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岩手県台太郎遺跡より別富塚駒(?)(長さん)

岩手県盛岡市向中野の台太郎遺跡より、西暦
2013年頃に、磁器製の将棋駒(近世)が出
土したとされるのだが、以下は、箸置き等の破
片のようにも見え、将棋の駒が出土したという
点に関して、残念ながらかなり疑わしい情報で
ある。
 情報源は遺跡2015年に盛岡市教育委員会
等が出した発掘報告書で、いつも通り奈良文化
財研究所の発掘報告書データベース全国遺跡報
告総覧に収録されている。web上に公開され、
pdfファイル名は以下の通りである。

32813_1_台太郎遺跡フローラルアベニュー向中野2丁目宅地造成に伴う緊急.pdf

駒名は以下のように、別富塚等と、裏表面だけ
でなくて、側面にも書いてあると読み取れる。

岩手県向中野別富塚.gif

記載場所は、発掘報告書の出土遺物写真等の最
後の部分に紹介があり、本文中に近世のものと
の説明が有る。
 が一見して五角形将棋駒のように、私には見
えない。恐らく、近代の箸置きの切れ端のよう
な物品なのではないかと、私は疑う。この遺跡
はメインが平安時代前後のもののようであり、
問題の遺物は、それよりずっと後代の時代の、
生活物品等であって、どうやら遊戯用では無い
と、私には思える。(2020/09/28)

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桂馬/香車名の元である将棋盤材質は何(長さん)

本ブログの仮説によれば、日本将棋の馬駒と、
端車駒が桂馬、香車なのは、たった一回の
伝来「黄金将棋具」の将棋盤が香木の桂材に、
升目を入れたものだったからだという事に
なっている。”高貴な方を御守りするる軍隊
の、軍事訓練用の将棋ゲームの馬駒、車駒の
冠詞として相応しい”という景気づけの気持
ちを込めて、最初期の日本の将棋のゲーマー
達が、日本で作成した駒名称だというのが、
ここでの独自推定になっている。
 そしてそのゲーマーとは、西暦1015年
当時に太宰府に駐屯していた、藤原蔵規等や
更にその配下の、”やんごとなき武者”達の
事だというのが、本ブログの仮説だ。
 では後一条天皇と、ここでは見る”高貴な
方”用の黄金の将棋盤が、一例周文裔等、北
宋代中国人の説明に起因する、中国語の桂製
だったとして、それはモクセイなのか、桂皮
なのか。いったい何の木の材なのか、正確に
確定させる事を、今回は論題とする。回答か
ら書く。ずばり

白檀の方形材に、升目を書いたものだった

とみられる。では、説明を開始する。
 漢和辞典を当れば、桂の中国語の意味が、
モクセイないし桂皮だという事は直ぐに判る。
日本の桂の木は、桂の漢字の使い方が、中国
語とは異なると、通常漢和辞典には記載され
ている。日本語の桂の木は、日本特産であり、
シナカツラも、中国では桂の木とは言わない
らしい。だから、モクセイか桂皮木だと言う
事になるのだが。しかしながら、両方とも、
将棋盤の材だったとすれば、

おかしい。

なぜなら、モクセイは花に芳香が有るのだし、
桂皮は木の皮であって、材ではない。
 だから、現代の漢和辞典の中国語の、桂の
意味では無いと考えざるを得ない。そこで仮
にだが、昔の中国語、たとえば唐王朝時代頃
から北宋期程度までは、”桂”は代表的な

南国の香木を指していたと、ひとまず仮定

してみる。そうすると、以下の成書等から、

将棋盤材は、沈水香か白檀のどちらか

だという結論になる。
香木の基本図鑑、山田英夫著、世界文化社、
西暦2019年。
 上記成書には、前記の2種類の樹木が、
香木の代表であるとの旨が、記載されている。
 このうち、

沈水香は、朽木が樹脂の香りを発する

のようである。であるから、将棋盤にするに
は向かないだろう。形のしっかりした将棋盤
材自体が、香りを漂わせていたとすれば、

白檀の木を材料にして加工した将棋盤だった

としか、考えられないようである。事実、
前記成書には、繊細な模様を施した、箱や
扇子や、調味料入れと見られる物品等への、
白檀材の加工品の写真が、幾つか掲載されて
いる。本ブログでは、冒頭で述べたように、
”高貴な人物”として、

具体的に、後一条天皇を想定している

が、天皇への一品であれば、一辺が30セン
チ前後の、方形の大型加工品としての白檀製
の将棋盤が贈答されたとしても、白檀が比較
的に簡便に、取引できたとみられる平安時代
には、不自然感は、余り無いのではないかと
考えている。
 まもなく天皇になる、オモチャを所望の王
子に贈る将棋盤の材が、白檀と決め付けるほ
どの根拠も薄いが。
 成書の写真を見る限り、将棋駒が、純金や
銀や、白檀そのものの馬の形の加工品等であ
るとすれば、将棋盤の材が白っぽく、さほど
硬い必要も無い白檀材でも、ツゲの駒で叩く
わけでは無いため、特に問題は無いのではな
いかと、私は考えている。(2020/09/27)

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何故将棋に跳び猛牛・飛龍動で空升進み駒が無い(長さん)

以前に、数世紀頃のインドには、現在の飛び将棋
のような動きのルールのゲーム駒があり、インド
2人制古チャトランガの馬駒や車駒へ代用として
使用されたとの旨の、仮説について説明した。
 しかし、考えてみると飛び将棋駒は、普段は
嗔猪や猫叉のような動きで、相手駒が隣接升目に
有る時、猛牛や飛龍動きになるものの、更にその
前に、もう一枚相手駒が有るときには、踊りの猛
牛や飛龍とは違って、相手駒を2枚取りできずに、
動けないルールである。つまり2升目先の升目は、
空き升目でないと、直ぐ隣の相手駒は捕獲できな
い。その点で猛牛や飛龍と違うし、

そもそもそのようなタイプの駒は日本将棋に無い。

 そこで、インド2人制古チャトランガのような
将棋型のゲームに、元の飛び将棋型の動きが、
完全に同じ形では取り入れられず、移動先の升目
に相手駒が居るときには、取ってその升目に進め
るようになったのは、何故なのかを今回は論題と
する。回答から書く。

単に後代に後調整して、取り入れなかっただけだ

と考えられる。では、論を開始する。
 そもそも、日本の天竺大将棋では、江戸時代の
古文書の文面を解釈しなおして、ごく最近に
大将駒の跳び先は空升目で、間の相手駒は何枚で
も取れるというルールで、指される試みが、現在
では行われている。
 つまり確かに、途中の駒を取って、跳び先は空
升目の場合に移動出来るだけだという駒は、日本
将棋、チェス、インドのチャトランガには、どれ
にも無いのだが、

日本の駒数多数将棋の天竺大将棋と、大局将棋の
ある種のバージョンには現存在する。

だから、数世紀のインドで、飛び将棋型の駒を、
インド二人制古チャトランガに代用したときにも、
元ゲームのルールを適用するローカル・ルールも
ひょっとするによると、試されたのかもしれない。
が、

たまたま、調整の過程で採用されなかっただけだ

と見るのが、ツジツマの合う見方であるように
思われる。
 そもそも、間だけの駒を取って、その向こうの
升目に跳び越える駒のルールは、走り駒に適用し
辛いし、駒枯れになれば、猛牛・飛龍型の飛び将
棋駒は、嗔猪や猫叉と同じ歩み駒と実質同一なの
で、変化が緩慢になりすぎていまう。
 更には、終盤相手に、端の方に王駒と共に、
相手駒を固めて囲いを作られると、攻めようが無
くなる。よってチェスや将棋型のゲームの場合に
は、今では普通になった、移動先の升目の相手駒
を単純に取る方が、ゲームのバランスを取るのに、
適しているので採用され続けた。
 以上のような試行を経て、元々のゲームの駒の
動きは採用されずにチェス・将棋・チャトランガ
流の、移動先の相手駒を取るルールが、たまたま
2人制古チャトランガのゲームでは、数世紀に於
いて、維持された今に至っただけなのではないか。
 以上のように、私は結論を下すのである。
(2020/09/26)

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古2人制チャトランガ駒の他ゲーム駒で代用動機(長さん)

以前に述べたように、本ブログでは、インド
始原将棋ゲーム、インド二人制古チャトランガ
のゲーム駒は、原初には戦場で使用した実際の、
ミニュチュア模型を使い、更に軍隊外の市中に
普及したときには、別ボードゲーム駒を代用し
たと見ている。8升目盤、アシュタパタ名で、
チャトランガが、古文献では呼ばれる事から来
る不思議さも、それで解けるためもある。が、
他に尤もらしい根拠が有るのかどうか、ここで
は更に考えてみる。回答から書く。

有る。

たまたまインド二人制古チャトランガの、馬と
戦車が、1升目跳びだったので、飛び将棋型の
間跳び越え、競争ゲーム等に使用される駒が、
2種類、馬と戦車駒として連想容易で、2種類
確保すれば、残りの調達が王(大臣)、兵、象
の残り3種類程度となり、負担が軽い為

そのようなやり方を思い付きやすかったからだ

と考えられる。では、以下に論を開始する。
 軍人以外には、司令官の作戦用のミニュチュ
ア模型は、インドカナウジに於いても、二人制
古チャトランガに、転用はし辛かったであろう。
 だが、だからと言って駒は別ゲーム駒の中か
ら選ばなければならない、必然性も無いだろう。

駒に代用出来るミニュチュア置物位は、当時の
都会のインド・カナウジには有ったに違いない。

 そうしなかった理由の一つには、幾つかのゲー
ムが、後にインド古チャトランガのゲーム盤と
して使用される事になる、アシュタパタを共通
で使うため、サイズがぴったりだったという、
理由が有ったのだろう。
 しかし、それを自然にするには、容易に思い
付け、いかにも尤もらしく、その組合せでゲー
マーの多くが納得できる、別の理由が無いと、

徹底が出来なかった

だろう。そこで着目したいのは、インド二人制
古チャトランガには、1つ升目の跳び越え駒が、
全体の1/3の、2種占めているという事実で
ある。つまり、

馬と車駒は飛び将棋型の1升跳び越えが出来る
競争や戦争型の、単一駒種型ゲームの駒が2種
類有れば、それぞれの駒を連想して使えば良い

という事実がある。残りは、王、大臣、兵、象
の4種類なのだが、さいしょの2つは、古チャ
トランガでは、実質同じに近い動きである為、
ミニュチュア湯のみ茶碗状の、ままごと物品に、
王だけ、ミニュチュア国旗を立てて使えば良い
程度である。残りの兵は狐と猟犬のゲームの、
猟犬の駒のようなゲームの駒を使えば良いし、
象駒は、はさみ将棋型のゲームの駒を使えば、
ルールが近いので、連想が容易である。なお、
王と大臣は狐と猟犬の狐を使い、一方の狐に、
印を付けて王にしても、もちろん良い。つまり、
馬と車について、対応ゲームが、いかにも容易
に見つかりそうである為、全体として、別の
ボードゲームから、王・大臣・象・馬・車・兵
それぞれのチャトランガ駒として、個別に連想
容易な

物品を探す負担が、たまたまだったが、さほど
大きくならなかった

という事情が有るように私には思えてならない。
 その為、升目のメッシュのだいたい似通った、
既存のボードゲームの駒を、インド・カナウジ
で捜索して使う事は、馬、車が予めキープ出来
る為、徹底も容易で、その予想から私には

実際にこの方法は、少なくとも一部では使われ
たのではないかと、疑われる

のである。
 従って、そのような代替は実際に起こってそ
の結果、駒種類複数戦争ゲームとしてのインド
二人制古チャトランガの隆盛を、助ける結果に
実際になったのではないか。以上のように、私
は現時点で考えているのである。(2020/09/25)

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カナウジ時代インドチャトランガ駒形はどんなか(長さん)

チェス・将棋・シャンチーその他すべての
将棋・象棋・チェスゲームの祖であるインド
チャトランガには、インドからペルシャへ
伝来した時代の駒形が、同形で大きさの差だ
けだという点が、数少ない史料に基づく通説
として現在普及している。しかし、この説は、
人間の記憶の仕組みからみて、駒形を

記憶しゲームそのものを把握する事が困難で
あり、いっけんして変

である事は明らかである。今回は、たくさん
のチャトランガ棋士を養成するには当然必要
と考えられる、駒の固定をどうしていたのか
を論題とする。回答から書く。
 ペルシャ王宮への寄贈品が、たまたまの大
きさの差による、駒の区別だっただけである。
実際には、カナウジ時代のチャトランガは、
ヘビープレーヤーや上級者の間では、

その駒の由来元ゲームで駒種が記憶されてお
り、かなりの種類のボードゲームが並存する、
ゲーム天国の街ならではの、やりかただった

と考えられる。では、論を開始する。
 通説を疑うのは、特定のコマセットだけで、
何万、何億のすべてのプレーヤーが指すなら
別であるが、相似であって合同ではない、
所有者が異なる別ゲームセットに交換しても、
特定の駒種が、複数の遊戯場でチャトランガ
を指す、熱心なプレーヤーに認識出来る理由
を説明できないという点である。つまり、

全体として大きさが変わると、同一の大きさ・
形の駒同士が、Aゲームセットでは馬に、
Bゲームセットでは象にと、別々の駒種を表
している事になってしまう

からである。
 さて今回の考察では、増川宏一氏の前世紀
の研究がよく知られる。競争ゲームが先行し
ており、それがダイスを使う、
四人制チャトランガに進化したのだろうとい
う仮説である。しかし、この論では、

王、大臣、象、馬、車、兵という、多種類の
駒が何処から来たのかを特に説明していない。

たとえば競争ゲームは、単に双六駒型で模様
ないし色の違う、一例円筒形駒を2個用意す
れば良いだけである。なお、戦争ゲームでも、
挟み将棋型のゲームは、駒は盤列数だけ要る
が、種類は2種類だけで足り、碁石で代用で
きる2色の駒群が必要なだけだ。

 多種類駒使用の戦争ゲーム駒の起源論は、
明確な物が無い

と、見て良いように私は思う。
 本ブログでは、現在広く行き渡っているよ
うに、インド二人制古チャトランガは、実際
の戦争のシミュレーション・ゲーム(合戦を
模したもの)として、インドで数世紀に成立
したとの説を取る。さらに踏み込んで、最初
期の駒は、

戦争で参謀が実務で実際に使っていたものを、
流用したもの

と考えている。問題は、そうだとすれば、
チャトランガは、単に古代インド軍の内部の、
不良兵士が暇つぶしに指して、じきに消滅の
運命になったはずだと言う点である。だから、
実際にはマニアが、別のゲームの駒を組合わ
せて、8×8升目盤(アシュタパタ)で、チ
ャトランガをカナウジで数世紀に指したから、
ゲームは継続したと見るのが、自然なのでは
ないかと、私は考えたのである。
 例えば挟み将棋が日本将棋から、特に生ま
れたものではないように、その別のゲームは、
軍の内部で、作戦用の道具をくすねて遊ぶと
いう事で発生したチャトランガとは、ゲーム
内容としては、無関係で良いのだろう。だか
ら、駒は戦争ゲームでなくても、元々包囲ゲー
ム用のものでも、競争ゲーム用のものでも、
特に問題はなく、ただし、

幾つかのゲームの駒を、方々から集めて来る
必要が有った

と見るのである。そして仮に、インドの古代
都市

カナウジが、いろいろなボードゲームの天国
のような街であったとしたら、それは容易

であったはずである。つまり各駒は、それぞ
れが別々のゲームでは、よく知られていれば、
あのゲームのあの駒が象で、このゲームのこ
の駒が馬だというふうに決まってしまうので、
所有者が別々のゲーム具でも、それで初めて
ゲームをするインド・チャトランガの上級者
には、直ぐに使えた。そのためチャトランガ
自体が、そうしてほうぼうで指す、マニアで
かつ、概ね上級者の普及の努力によって益々、
カナウジ市中に広がっていっただろうと、推
定出来るという事である。
 実際にそうした中でインドから、ペルシャ
の王室にチャトランガを紹介する際には、あ
りあわせの駒セットを贈るわけにも行かず、
他方ベルシャの王室内部でだけ、駒毎の区別
が出来れば良いと考えて、大きさの違う宝玉
で、駒種類を区別する方式にして、たまたま
贈っただけだったのではなかろうか。
 そして更に、チャトランガが流行ると、遂
にはその駒を作る専門の職人(駒師)が、仕
事として成り立つので現われた。そうして、
現在出土する、テラコッタ型の駒を、インド
チャトランガ専用に作るようになったのでは
ないか。つまりまとめると、数世紀にインド
のカナウジ市に、チャトランガが成立した際、
盤はアシュタパタを使い続けたとしても、
その将棋駒は、
Ⅰ:軍上層部参謀の作戦用の模型ピース→
Ⅱ:当時既存の別のボードゲーム用駒の流用→
Ⅲ:インドチャトランガ専用テラコッタ駒
の成立→イスラムシャトランジ駒等への進化。
以上のような段階を踏んで、普及したのでは
ないか。目下の所、以上のように私は、将棋
型ゲームの道具としての変化の道筋について
は、考えているのである。(2020/09/24)

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なぜ玄怪録の岑順が肩入れした軍隊は金象将軍軍か(長さん)

晩唐の時代に、伝えるところによけば政治家
牛僧儒が書したという玄怪録の、岑順の物語り
中で、主人公の岑順に取り憑いた亡霊軍隊の名
は、金象将軍の軍隊という事になっている。
これは本ブログでは金銀将軍をもじったもので、

宝応将棋の王と大臣が、金将、銀将という名称
であった事から来ている

と推定している。なお、簡単に言うと、この時
代の金将は玉将、銀将は金将と本ブログでは見
る。後に宝応将棋に玉将が入って、役割が1つ
ずつズレ、日本の平安小将棋(原始8升目型)
になったと見るのだ。だが、銀将のはずの大臣
駒を、象駒と混ぜて象将軍と作者が呼んでいる
点については、作者の御ふざけであろうという
程度に解釈して、今まで厳密には議論して来な
かった。
 そこで今回は軍隊の名称に関して、大臣駒と
象駒がごちゃまぜになっているのは、どういう
事情と推定できるのかを議論の対象する。
 回答から書く。
インド系将棋は、9世紀にはインドで象軍が
廃れたため、象駒は象で表されなくなり、代わっ
て大臣駒の乗り物として、造形上、将棋の雰囲
気を醸し出すため、象が使われるようになった。
そのため、

宝応将棋では大臣は、駒の造形上”象将”と呼
んで相応しいように、(伝)牛僧儒に見えた為

である。
 では、議論を開始する。
 象は体の大きさによらず臆病なため、敵に体
当たりさせようとしたときに、戦いの際生じる
大音響によって、怯えて制御が利かなくなり、
武器としての機能が失われやすいと私はweb
上等で認識している。ローマ帝国時代の戦いで
得られたそうした経験は、ペルシャを通って、

インドには9世紀には届いていた

とみられる。少なくとも15世紀頃に成立した
インドの絵画では、戦象は、武器としてではな
くて、大将の乗り物のように描かれている。そ
れより更に時代は下るが、19世紀に成立した、
今に残るインド2人制チャトランガ(新チャト
ランガ)の駒とみられる象棋駒の写真を見ると、

大臣が象に乗っており、象駒は駱駝に乗った将
として描かれているとの説明が、日本のインド
歴史に関する、以下の成書に有る。

ラージャスターン駒.gif

図説世界文化地理大百科「インド」小谷汪行編、
朝倉書店(西暦2001)、147ページ
”チェス”の写真の説明。
 つまり、今述べた説明に誤りがないとすれば、

牛僧儒が金銅製と物語り中で表現している、
こうした美術工芸品の宝応将棋駒が、その当時
実際に有って、それを牛僧儒が見ているとすれ
ば、大臣駒を銀将という正式名称では呼ばず、
象将と呼んでも、おかしくはない

という事であろう。戦象が9世紀には使用衰退
しつつあったので、駒師は、象駒で造形として
使うのではなくて、副官、大臣駒の乗り物とし
て象を掘り、将棋駒の感じを出したという意味
である。更に、象はしばしば駱駝と交換された
し、チャトランガのペルシャ伝来話によれば、
”完全なチャトランガ”は10升目40枚制で、
象と馬の間に、駱駝が有るとも取れたので、
そうした伝説の横ブレを利用して、少なくとも
19世紀には、駱駝に乗った上将の象駒をも、
写真に有るように彫ったのであろう。
 ”中国の深い山奥”の9世紀の象も、インド
の19世紀の象と同じという論法は、乱暴に見
えるかもしれないが。本ブログでは雲南の将棋
は、インドからの直線伝来と仮定されかつ、言
い伝えで、近代にも高級駒として、インドでは、
そのような上将象の有る将棋具も、作成された
のかもしれないとみれば、起こり得ない話では
無いと見る。
 このように戦象が兵器として難があり、後に
衰退したために、将棋駒を作成するときの象の
使われ方に、不合理な所があって、大臣である
はずの銀将が、牛僧儒の小説では立体駒の形か
ら来る見た目の印象から、”象将”にされても
おかしくは無い。
 以上のような経緯であったのではないかと、
私は考えるようになったのである。(2020/09/23)

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宮城県大和町下草古城跡より1994年頃将棋駒出土(長さん)

宮城県の出土駒としては、仙台市で玉将駒等、
複数の駒の出土が、本ブログでも紹介した通り
よく知られる。が西暦1994年とわりと以前
に、仙台市から少し入った、黒川郡大和町でも、
安土桃山時代程度成立の将棋駒が出土している
との事である。
 これも、発掘報告書が奈良文化財研究所
の発掘報告書データベース全国遺跡報告総覧
にも収録されている。web上に公開され、
pdfファイル名は以下の通りである。

9982_1_下草古城跡ほか.pdf

なお、遺跡からの出土将棋駒のカタログ本、
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒には無いようで
ある。
 場所は正確には宮城県黒川郡大和町鶴巣下草
の下草古城跡で、伊達政宗(安土桃山時代)関
連との事のようである。
 写真も、前記発掘報告書に載っている。

宮城県下草古城.gif

残念ながら、近世型の将棋駒であるという以外、
何の駒かは写真のように、よく判らない。
 仙台市の近郊を掘ると、将棋駒は今後、まだ
出てくる可能性が、有るかもしれない。
(2020/09/22)

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今昔物語29巻末備話記事で時刻計算よりの成立時期(長さん)

次に、摩訶大将棋(摩訶大大将棋)の成立年代の
特定に関連して、今昔物語集の成立時期特定に関し
ての考察結果を書く。
 以下では今昔物語集で最後に近い時期に書かれた
とみられる部分の、成立時期について考察している。
原本は、鈴鹿本だけを頼りにする事にする。結論を
書くと、

29巻第39話(/40話)の時間から時刻を換算
しているとみられる表現から、
鎌倉時代中期以降~戦国時代までになる。

では、論を開始する。前にも述べたように、今昔
物語集の鈴鹿本は、原本に近い書写本とされ、
第29巻まで残っている。ので、今昔物語集(全
31巻)で最終成立したと確認できるのは、第29
巻の末備部分であろうと推定できるだろう。
 そこで29巻を見ると、第39話と第40話が最
後であり、そこには”悪行を働く蛇を題材”にした、
対の話が書かれていて、同一人物作のように、私に
は思える。それでその巻が終了している。ここでは、

第39話を問題にする。

題名は「蛇見女陰発欲出穴当刀死語第・・」である。
 第・・なのは、鈴鹿本に番号記載が無いからで、
編者が最後に39~40話を、持ってこようとして
いるための、ナンバリングの抜けのようである。
つまりこの話は、全集本を完成させるための即興作
だったようにも私には見える。表題は官能小説風で
あるが、辰の時に発生して、その4時間後の午の時
に異変が通報されたとする事故話のようであり、一
種の急病人の処理に関する話であるようだ。ちなみ
に、最初に目撃した子供が、事故の時間経過解明に
活躍している。
 ここで注目するのは、今述べたように事件発生か
ら発見までの時間差を、物語中ではっきりと、

4時間である旨、ダメ押し表現した下り

である。つまりその結果、時の奏のやり方が、
鎌倉時代後期型であるとの旨の、ボロを出したよう
に私には見えるというのが、本ブログの論法である。
 それでは説明を開始するが、平安時代には、太鼓
と鐘を鳴らす等して、時刻が少なくとも京都市内で
は、知らされていたとされる。が問題は、平安時代
末頃までなら、時刻は、28分48秒ごとか、また
は、30分00秒ごとに太鼓と鐘で示されるので、
”辰の時”と表現しても、実時刻(地方時)が、

7時00分ないし、8時55分12秒までの範囲で
曖昧

なはずなのである。
 つまり文中では、
”辰の時許(ばかり)の・・”と表現されていて、
値域が0~4範囲の補助単位である刻(点)表現が
無い為に、これがもし平安時代の感覚だとすれば、
事故発生が7時00分から、8時55分12秒と、
巾を持った、どこかという表現になっているという
意味である。だからその、

2とき(時)後つまり4時間後は、11時00分前
後ないし、13時過ぎ程度なので、平安時代感覚
では「午”どき”ないし、未”どき”」のはず

なのである。ところが、物語中では、”2とき(時)
が経ちであるから(4時間後は当然)午の時(に成
りにけり)”と誤って決め付けてしまい、平安時代
とは別の感覚だと、バレているという訳である。
 これは、この物語りの作者が現代人と同じで、
辰の時の鐘は、辰の正刻つまり8時00分に撞くし、
午の時の鐘は、午の正刻つまり12時00分に撞く
と決め付けていると考えると、何故間違えたのかを
説明しやすい。
 つまり、第29巻第39話に書かれた時間から時
刻へ換算する感覚が、

平安末ではなくて、鎌倉時代中期以降感覚だから、
29巻39話の成立は、鎌倉時代中期が古い限度

だという論法が成り立つのである。
 ついでながら、鐘を正刻に打つのは、たとえば
鎌倉時代なら、寺が読経の時刻を決めているので、
その合図で、寺の鐘を撞くのを、時刻を知る目安
にしている場合等が考えられる。
 それは平安時代の街の時の奏が、鎌倉時代中期以
降は衰微しているので、代わりに大寺院の時の鐘を
時刻を知る目安にしているというような、ケースで
ある。

だから、少なくとも今述べた第29巻第39話は、
平安時代に成立した話としては不自然で、実際には
鎌倉時代中期以降に成立した

ように、私には思える。
 実際には、時の奏の無い中世に、平安時代も同じ
だったと勘違いして、

辰の鐘の2時間後程度は、平安時代でも午の時で
あると、決め付けたのが敗着手だった

のではないと、私は評論しているという意味である。
 思えば、鎌倉時代後期から南北朝時代の頃ではな
いかと私には疑われる今昔物語集、第29巻39~
40話の作者は懸命に、物語りを平安時代に見せか
けようとしたのかもしれないが。恐らく、半日に当
る時間巾で、物語りを表現して充分な事故発生・発
見処理間の時間経過描写に、「4時間」という表現
や、午どき(時)という表現を、ことさら細かく持っ
てきた所が、失敗の始まりだったと思う。だから、

物語の作者は中世に、大寺院の鐘撞きを、担当した
事が有った者なのかもしれない

と作者の素性まで、淡く見えてしまっているのでは
ないかと私は疑う。
 以上の事から、「蛇見女陰発欲出穴当刀死語第・・」
は、時の鐘を、寺院で読経の時刻の目安にする目的
で、たとえば正刻に一回鐘を撞くようになった、
”時の奏”制度の崩れた、平安時代とは別の時代の
ものであり、よって

鎌倉時代後期から西暦1446年の間頃に成立した
もの

であると私は考える。そしてそれは平安時代の時刻
表現を、第29巻第39話の作者が不完全に理解し
ている事から、その事が起こっているのではないか
と、私は現在疑っている。
 同じ鈴鹿本の山姥関連の話(第27巻第15)を
含めてその他の話が、これと大きく成立年代が違わ
ないとすると、

今昔物語は西暦1440年代より、はるかに以前の
話であるという通説には、やはり疑問を感じざるを
得ない。

以上のように、私には結論されるのである。
(2020/09/21)
参考文献:岡田芳朗編”暦の大事典”、朝倉書店
(2014) 

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