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川角太閤記切腹直前の豊臣秀次将棋指し話実話説(長さん)

江戸時代初期に成立した、豊臣秀吉関連の軍記、太閤
記の類である川角太閤記に、豊臣秀次が秀吉により、
切腹を命じられて切腹したときに、その当日朝食休み
時間帯に、東福寺の僧で自身の仲間の龍(隆?)西堂
と共に、恐らく日本将棋であろうが、将棋を指してい
たとの旨の、かなり良く知られた記事がある。
 この件について従来正直、個人的に私は、

作り話だろうと、思っていた。が史実との説がある

ようだ。以下のurlにpdfファイルで、その旨が
紹介され、論じられている。

https://www.nara-k.ac.jp/nnct-library/publication/pdf/h27kiyo7.pdf

pdfファイル名は、以下の通り。

h27kiyo7.pdf

表題として”関白秀次失脚自刃事件と木食応其上人”
とあり、執筆者は勢田勝郭、出典は、
奈良工業高等専門学校 研究紀要 第51号(2015)
となっている。
 なお川角太閤記の、この部分の記載については、
古事類苑 30、遊戯部、将棋にも記載がある。
将棋史研究家も、安土桃山時代を語るときには、度々
引用した話題であり、天狗太郎こと、山本亨介氏の、
将棋文化史、筑摩書房1980年にも詳細載っている。
 しかしこれだけでは、大大将棋や泰将棋に絡む等、
太閤将棋を指していただけような、豊臣秀吉に比べて
豊臣秀次の方が、将棋に造詣が深く、後陽成天皇の
王将/大将質問の件で、水無瀬兼成に絡んで豊臣秀吉
が豊臣秀次を恨んでいたのかどうかは、証明困難では
ある。
 何れにしても繰り返すが、日本史の中の位置づけに
於いて、

将棋史が完全無視は、少なくとも出来ない存在である

事だけは、少なくとも証明できているように、私には
益々思えて来た。(2020/09/20)

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中国語の”斜”の意味は日本語と不完全一致(長さん)

以下、斜めと言うときに、日本では角度の45°、
135°、225°、315°を連想するが、
中国語と意味が違うという話をする。中国語で
は”斜”の字は

(x≠0°andx≠90°andx≠180°
andx≠270°)の意味

である。
 では、説明を開始する。
斜の字の意味が日本語と違うのに、私は、
日本風土記を引用した、古事類苑30遊戯部の
記載の読み直しで、最近ようやく気がついた。

”桂馬斜行如象棋之馬”と書いてあるのだが、
馬と同じという書き方で安心して、斜行を読み
跳ばした

ようだ。日本風土記、日本将棋のルール(恐ら
く、博多バージョン・戦国時代)で、後の方の、
棋子歩法で、桂馬が次のように書いてあるので、

日本語と違う事が判った。

桂馬斜行二歩過河陸(=成)金将行歩興金将同
と言った感じに書いてある。つまり、

日本流だと、飛龍の動きと間違えそうだ。

が、元に戻って「桂馬斜行如象棋之馬」を見れ
ば、0°で真っ直ぐ前だとして方位角26°程
度の角度を、中国語では”斜行”と表現してい
る事は、明らかである。冒頭に述べたように、
”斜め”は中国語では、日本語よりも明らかに、
広い意味に解釈し直さ無ければならないようだ。
 なお、日本語の斜めへ行くの表現は、同じく
日本風土記の角行の説明が、斜角四歩になって
いるから、「正方形角へ斜め」にすれば45°、
135°、225°、315°の意味になる事
が判る。
 この違いの影響は、

玄怪録の岑順(小人の戦争)の天馬のルール説
明で、もろに現われる。

東洋文庫の前野直彬編訳で、日本語訳として、
”天馬斜めに飛んで三つを越え”となっており、
より正確には、
”天馬斜めに飛んで三つ目の交点へ行き”と
解釈されるが、この斜めは、

桂馬跳びの意味と解釈出来る事が、はっきりと
判る。

 本ブログでは、以前は曖昧に誤魔化してしまっ
たような説明をした覚えが有るが。 玄怪録の
馬駒が、確かに桂馬跳びと解釈できるのは、
今回述べた理屈による事は、明らかなようであ
る。(2020/09/19)

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今昔物語鈴鹿本の加速器質量分析による年代測定(長さん)

適宜今昔物語集の、成立年代の議論の書かれた
情報を成書なり、webで当ると共通に出てい
る公知の事実として、今昔物語集、鈴鹿本の
物品一部、本の綴じ糸を使った、炭素14同素
体法による、年代測定の議論に行き当たる。
 web上では、下記のurlに1993年頃
に、計測が行われたとの旨の報告ページがある。
https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-05835006/
”加速器C-14年代測定法による古文化財の正確
な年代決定に関する基礎研究”と、webペー
ジの冒頭に、表題が書かれており、名古屋大学
理学部が、加速器質量分析法の機器である、
タンデム加速器で、その測定を行ったとの旨で
ある。
 簡単に結果を述べると、

山姥が、西暦1120年成立に近いという結論に
なるかに見えるもの

であり、

摩訶大大将棋・摩訶大将棋の平安末期成立が、
否定できないとの旨の情報

になっている。今回は、それで良いのかどうか
を論題とする。結論から書く。

否である。

理由は、

鈴鹿本は、「初期の写本」であるから、原本成
立+100年、西暦1220年等に、成立して
いないとおかしい

からである。
 では、説明を開始する。
 近年では破壊型の分析方法ではあるが、
古文書の成立年代も、炭素14年代測定法で測
定されるようになったとの旨の情報は、web
上に複数ある。そしてその結果、

成果が上がっているとされている。

そして、今昔物語集の鈴鹿本のケースは、

写本であるはずの史料が、原本の成立年代と
ほぼ同じという主旨の結論になっている

という事は、冒頭のページを見ても、適当に
成書にあたっても、そのように書いてある。

だから、話のツジツマは合っていない

と本ブログでは考える。名古屋大学理学部は、
当時、今昔物語集の成立年代の通説と、
今昔物語集鈴鹿本のサンプル試料測定年代が
ぴたりと一致して、ほっとしては、いけない
のに気がつかなかった疑いが濃いと、私は懸
念する。
 つまり、あくまで鈴鹿本は、初期の写本と
いう話だったはずであるから、

西暦1120年よりも、数十年なり百年位新
しい年代測定結果が出なければおかしかった

はずだ。
 そもそもこの写本、今昔物語集の鈴鹿本は、
本への書き込みから、西暦1440年代まで、
誰かに読まれた形跡が無いと、今昔物語集の
研究成書に、書いてあるようだ。普通なら、
その直前、間にもう一回位、書写更新がある
位のペースであろう。
 以上は本ブログで、前に成立年代への疑念
を3点述べた際に、一番最後に指摘した事柄
である。なお、そもそも、それほど古い現物
が、更新書写一回も無く、今に伝わるのも不
思議なほど、保管条件が良かったのであり、
それだけでも、今昔物語集の鈴鹿本は、国宝
にするに値するだろう。
 この矛盾を説明する比較的簡単な方法は、

鈴鹿本は写書本ではなく原書(の一部)だ

と見る事だと私は思う。そして、読まれる
どころか、鈴鹿本が作られてから西暦14
40年頃まで、保管場所でいじられた形跡が
ない、すなわち放置された理由は、余り遠か
らずの前まで、単なる白紙の束と、糸巻きに、
とじ糸が巻きついた、未使用状態の糸の組合
せに、すぎなかったからだと考えると、
ツジツマが合いやすいと、私見する。つまり、
和紙や糸の購入経緯を知っていた今昔物語集
の作者は、

鈴鹿本の綴じ糸の成立年代に合わせて、その
年代に成立したかのような、書物を作成した

と考えれば、名古屋大学による、今昔物語集
鈴鹿本の、綴じ糸の年代測定結果は、一応説
明ができるという事である。
 ようするに、現在まで鈴鹿本は残るほど、
保存環境が良かった場所に在るのだから、
たとえば資材の時代にも、糸巻きに巻いてあっ
た鈴鹿本の綴じ糸はその状態で西暦1120
年から、

たとえば西暦1340年頃まで、保管場所に
資材として置いてあって、劣化は無いとして
も、何ら不思議は無いのではないか

と、私が疑っていると言う事である。
 恐らく、測定してみればわかると思うが、
物語りを書いた和紙もその程度の、だぶつい
て、鎌倉時代を通して白紙のままであった、
寺社の資材だったのではないのだろうか。
 元々、今昔物語集というのは、鈴鹿本が
保管されていた場所の関係者が、余り物の資
材で作成した、手慰みのつもりのものだった。
ので、書写履歴や前書き、奥付等一切無しで
書誌的事項の、無いものだったのではなかろ
うか。
 よって最初に読まれたのは、むしろ
西暦1440年代より、余り古くない時代に、
鈴鹿本を原書として今昔物語集自体が成立し、

何かが書かれているようだから、とにかく読
んで見た人間が発生したからなのではないか。

以上のように、やはり私は依然、通説の今昔
物語集成立年代、西暦1120年頃との説を、
かなり疑って見ているのである。(2020/09/18)
(参考文献)今昔物語集を学ぶ人のために、
小峯和明編、竹村信治、千本英史他著、
世界思想社、西暦2003年

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本当にオークチャトラングの副官は王女か(長さん)

カンボジアの将棋(象棋)には、シャッツロン
というゲーム名とオーク・チャトラングという
名称の2種があると私は聞いている。世界の
将棋の梅林勲氏の紹介したものが前者で、
大阪商業大学アミューズメント産業研究所
の研究員の、高橋浩徳氏が著作した、
”伝統ゲーム大事典”朝倉書店・2020年に
紹介されているのが後者である。梅林氏による
と、シャッツロンはチャッツロンとも聞こえる
らしい。ので、チャトラングと大差は無いのか
もしれない。
 今回は、上記ゲームは同一名の訛りとしなが
ら、梅林氏のをⅠ型、高橋浩徳のをⅡ型と仮に
名付け、ガセネタを掴まされて、ルール内容が
違っていた梅林氏のⅠ型を、正しく修正しても
なお、駒格子交点置きか升目置きかの差は別と
して、

構成駒の名称に差が有り、かつ高橋浩徳氏の
Ⅱ型の副官名が奇妙

である点について述べる。
 結論を先に書いておく。

恐らく王女は西洋チェスに影響を受けた
俗称なのであろうが、Ⅱ型で行きわたっている
とすれば艶っぽすぎて不自然であり、一般的で
は無い

と考えられる。
では論を開始する。
 Ⅰ型は9路、Ⅱ型は8升目と紹介されている
が、ルールとしての構成駒の並び形はⅠ型とⅡ
型で差は無く、副官駒が2枚なのか1枚ずつな
のかの差だけのようである。どちらも、タイの
マークルックと、初期配置を基準とした駒の動
かし方ルールは同じと、今では見られている。
 問題は駒名であるが、
Ⅰ型は王、官吏、象、馬、船、魚なのに対し、
Ⅱ型は王、王女、柱、馬、船、魚と、
Ⅰ型はミャンマーシットゥイン型、Ⅱ型は、
マークルック類似で、副官駒、象駒が変形して
いる。この差は地域や成立時期の差であり、
Ⅰ型もⅡ型も、ゲーム自体は、それぞれ確立さ
れているとみて良いのであろう。
問題なのは、

Ⅱ型の副官名の具体的内容である。

つまり、

兵が副官限定成りのカンボジア将棋では、
西洋チェスと違い、”たくさん発生する王女”
が、一夫多妻の性豪の王を連想させてしまい、
話が艶っぽすぎて妙だ

という点である。
 西洋チェスのポーンは、ルールブックに、
兵駒以外のどれでも成りと、

表現されるので、道徳的問題が見えにくかった

という事である。
 更に女王ならゴマカシが効くが、魚が成って
王の奥さんが、後半にたくさん出来るゲームと
いうルールに、カンボジアでは本当に、イメー
ジの良し悪しとして、しているのかどうかが、
謎だという意味である。だから、
 恐らく、カンボジアのオーク・チャトラング
の副官が王女だというのは、高橋浩徳氏等が聞
き取った際に、

現地の聞き取りの相手が西洋チェスと、話を、
ごちゃごちゃにしているのかまたは、聞き違い
の疑いが濃い

のではないか。以上のように私は考えている。
 だからひょっとすると、象駒の柱と合わせて、
マークルックの種と根のように、オーク・チャ
トラングでは副官駒を、何か日本人の感覚で見
ると、奇想天外な駒名にしている可能性も、
カンボジアではタイと同様有るのかもしれない。
つまり、

Ⅰ型とⅡ型の本質的差は、駒の名前がありきた
りの大臣、象型なのか(Ⅰ型)、種、根変性型
(Ⅱ型)なのかの差ではないか

という事である。
 仮にもしそうだとすれば、カンボジアのオー
ク・チャトラングまたはシャッツロンも、タイ
のマークルックと同様Ⅱ型は、地方によっては

副官駒と象駒を伏せ駒名にしているという点で
も、類似のゲームとみなせる

のではないかと私は疑う。
 なお、私の認識では、象が居ないので駱駝に
したユーラシアの北の地域を除いて、ローカル
に駒名を、大幅に変えた地域は、

日本、タイ、そして恐らくはカンボジアの3
カ国に限られる

と、事実認識している。木村義徳氏は持駒使用
の謎の中で、駒名は各国固有との認識を取られ
ている。が実際には王、大臣、象、馬、車、兵
が、増川宏一氏が、将棋Ⅰで書いているように、
事実としては、基本形なのではないだろうか。
確かに西洋チェスも加えると、大臣が女王だし、
象は僧侶、戦車や船は城、兵は農民だから、
木村氏の言う通りだが。統一されているという
点で、イスラムシャトランジ時代といっしょで
はないかと疑う。ローカルな突拍子も無い駒名
に、他の国では変性していない。
 だから日本、タイ、カンボジアに限られる
異常現象は、事情が違うのであり、元々は、
中国雲南の平安小将棋での駒名再編成が、話の
発端だというのが、本ブログ固有の認識である。

タイとカンボジアでは上座部仏教の為、蓄財に
ネガティブ感覚。なので大衆としての兵が金将
に成るのを避けるため、伏せ駒名を作成したと
見る

という事である。なお、その種明かしもろ出し
なのは、今では大乗仏教の流れの国である、
日本将棋だけだというのが、本ブログの固有の
見方だ。
 上記3カ国以外の、残りの世界中の国では、
副官駒名と象駒名を、玄怪録記載の宝応将棋を
除いて、平安小将棋タイプには進化させなかっ
た。つまり、金・銀・玉を将棋盤上に盛る蓄財
将棋はしなかった。ので、基本形の修飾程度の
ままだという事である。
 かつてモンゴル帝国時代にタイ人は、雲南か
らインドシナに、大理国原始平安小将棋の記憶
を携えて、13世紀を中心に南下したと本ブロ
グでは見ている。ので大乗仏教から上位座仏教
へ切り替えるためには、蓄財を宣伝している、
文字通りの歩兵成り金=金成りルールを伏せる
ため、金将と銀将を、伏せ駒名に変化させる必
要が有った。以上のように、本ブログでは見て
いると言う事である。
 象駒の柱に対応して、副官駒を、カンボジア
オーク・チャトラング、シャッツロンでは、
伏せ駒名としては何にしているのか。現時点で
私にははっきりしないが、更に情報が増えるよ
う期待したいと考える。(2020/09/17)

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山姥物語りは今昔物語集に有る模様(長さん)

本ブログではこれまで、摩訶大将棋・摩訶大大将棋
の成立年代の下限(古い)を決める、成立年ギリ
ギリに成立した要素として、古猿の成りの山母(山
姥)を挙げてきた。その際世阿弥の能の「山姥」が
言葉の初出だとし、西暦1440年代前後成立の根
拠と言う事にした。しかるに最近、西暦1120年~
西暦1449年の間の成立で、西暦1120年の方
に恐らく近いのではないかとされている、今昔物語
の27巻(本朝及び霊鬼)15番に、山に住む老婆
の姿の人喰い鬼の話「産女南山科へ行き、鬼に値ひ
て逃ぐる語(話)」が載っているのを知った。今回
は、それによる論の修正の必要性の有無について報
告する。
 結論から述べると、

今昔物語の成立期が不確定なので、山姥の内容は確
かに書いてあると見るが、論の修正は不要なのでは
ないか

と本ブログでは考える。
 では説明を開始する。
 世阿弥の能の山姥以外に今昔物語集に、山の別荘
に棲む、人喰い老婆の鬼の話が有るのを知ったのは、
私のケースは、以下の成書の、山姥の項に紹介され
ていたからであった。
日本説話伝説大事典(編集者)志村有弘、諏訪春雄、
勉誠堂出版、西暦2000年。
そして以下の成書に、今昔物語集の元の鈴鹿家蔵本、
「産女南山科へ行き、鬼に値ひて逃ぐる語(話)」
が確かに載っていた。
新日本古典文学大系37今昔物語集五、森正人校注、
岩波書店、西暦1996年。
 小学館の国語大辞典では、山姥という単語が無け
れば引用されないので、当然国語辞書に、今昔物語
集の、この話は出ていなかったという事である。
 そこでまず、今昔物語集の第27巻(鈴鹿本)に、
山姥の話が出ていると言えるかどうかに関してだが、
本ブログでは、

Yes,出ていると考える。

山姥の姥の字は、”年老いた女”そのままであるし、
今昔物語集の第27巻の「産女南山科へ行き、鬼に
値ひて逃ぐる語(話)」の鬼は、我々が現在、山姥
と呼んでいる妖怪と、ドンピシャであると認めざる
を得ないような描写が、はっきりと出ている。

この話から、じきに「山姥」とか「山母」(ひっか
け)いう単語は生まれるだろうと私も思う。

なお、原書の表題で、「産女」は妖怪ではなくて、
私生児を出産した、普通の被害者女性として描かれ
ている。
 だから、

今昔物語の第27巻(鈴鹿本)が、西暦1449年
より、本当に相当に前の成立なら、今までの本ブロ
グの見解は、明らかに修正が必要だ

とみられる。
 他方、一般には今昔物語が、室町時代の成立では
なくて、平安時代の末だとされている。その根拠は、
前九年の役、後三年の役に関する説話を収録しよう
とした形跡が見られるのに、保元の乱、平治の乱、
源平合戦などの重大事な歴史的事件に関連した説話
が、いっさい収録されていない点からだとの旨、私
は聞いている。
 しかしながら、そもそも

「今は昔」で始まる説話を作った人間が、相当慎重
に、成立年がばれないように、話を組み立て無いと
したら、おかしな事

なのではないかと私は疑う。

保元の乱、平治の乱、源平合戦は、わざと書かなく
ても、作者の勝手だとすれば、特に不思議ではない

のではないか。むしろ、南北朝時代の動乱を目の当
たりにして、世の無常を感じた編集者だったから、
これらの鎌倉幕府成立の起因となった合戦の記載が、
無いのかもしれないとも私は思う。だから、

今昔物語集の成立年代は1120年~1449年と、
今の所、本ブログでは幅広く見なしておきたい。

そもそも西暦1120年時点で起こった、その時代
の人間しか判らない史実が、いろいろ書いてある書
物だという話が、特には無いにも関わらず、
成立年代が”ほぼ平安末期に決まりだ”というのは、

やや無理筋だと、個人的に私は感じる。

それに加えて、その時代から200年以上、書籍群
の存在に関して記録が無いのも、これだけ大きな書
物の場合は、かなり妙な話のような気がする。更に
素人情報程度だが、鈴鹿家蔵本には、書写更新に関
する情報が、私の手元には入っていない。以上の3
点の不自然さから、

あくまで、本ブログ内だけでしか、通用しないかも
しれない

のだが。今昔物語集の成立年代問題に関しては、慎
重に扱った方が良いように、今の所私は個人的には
思っている。以上のような次第で、冒頭述べた結論
にしたのである。(2020/09/16)

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中将棋の玉駒。幕末には王・玉型(長さん)

本ブログでは、尊敬閣文庫蔵、色葉字類抄
二巻物(八木書店発行、西暦2000年)
にあるように戦国期の西暦1565年時点
で、中将棋の玉駒は、双玉が恐らく正統と
見ていた。これが、佐藤敬商店、西暦
1970年程度作成の玉・王1:1の、
中将棋駒に、切り替わった境目が、いった
い何時なのかについては、

江戸時代の出土駒に、中将棋の玉・王が
多数ある訳でもないので、物証があるのか
どうかという点で、充分明確な訳でもない

と認識していた。
 が最近、増川雅人氏著作の将棋駒の世界、
中央公論新書1869(2006)に、

前沢碁盤店が保存している幕末の中将棋駒
で、”安清駒”という類の将棋駒の写真が、
同書19ページに記載されているのに、遅
ればせながら気がついた。これは、上記の
問題を解く証拠の一つとして、とても

貴重

に思えた史料だった。成書の写真から、

幕末時点で、中将棋も玉・王1:1型が、
存在

した事が判る。
 個人的には、徳川家治が将軍だった、
西暦1779年頃に、後桃園天皇から、
閑院宮流の光格天皇に切り替わった所で、
”中将棋を指す

藤原摂関家は、双玉将棋駒を使用”の旨の
記憶が完全消失

したと、個人的に見ていた。奥御用で活躍
するほどに、将棋の家の者の権威が上がり、
将棋三家という将棋文化を仕切る担い手が
現実存在するので、皇族は問題から手を引
いてよいという空気が出来たためと、解釈
したからである。
 冒頭の保存され続けた将棋駒史料は、
水無瀬兼成の中将棋駒や、著書の
将棋纂図部類抄が双玉な事と合わせると、

切り替わりが江戸時代中の事であるを確定

させる。ので、掘り出す苦労が無かったか
らと言って、この前沢碁盤店保存の中将棋
駒セットは、

疎かに出来ない重要史料の一つ

だと私は考える。(2020/09/15) 

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なぜ桂馬の桂に横点の有る駒が出土する(長さん)

かなり前に1回言及したが、不明でそのままに
なっていたと記憶する出土将棋駒の字体問題に、
桂馬の桂に”桂ゝ”と横点が付いたような将棋
駒が有るという事実がある。諸橋徹次の
大漢和辞典(㈱大修館)にも、そのような漢字
は出ていないし、井上辰雄監修の
”日本難字異体字大字典-解読編-”にも、
そのような字は発見でき無い。出土駒について
は汚れや、間違った伝承も疑われるが、理由が
有ってこう書いているとしたら、何でだろうと
いうのが今回の論題である。結論から書く。

圭の字が玉の意味を含むので、剪断の剪が刀を
余計に付けたのといっしょで、王を玉に替えた
気持ちで桂に横点を、誰かが平安末期程度に、
比較的気まぐれに入れたのを、単に真似たもの

とみられる。では、論を開始する。
 まず史料がどうなっているのか、事実につい
て振り返る。web上で、一乗谷朝倉氏遺跡
資料館の考古資料検索システムで、将棋駒を
検索する事が出来、それをすると、13枚桂馬
がヒットする。ので、それを調べてみると次の
事が判る。
 うち、右側が欠けていて、横点が有るかどう
か判定不能な桂馬駒が4枚有り、残りの9枚に
ついてが考察対象になる。実際に調べてみると、
”桂ゝ”桂馬駒が4枚、
”桂”桂馬駒が4枚、
どちらか判定困難な汚れ駒が一枚
であり、

汚れで付いた点とは考えにくい。

中には、掘り込んである点の付いた駒もあるよ
うであり、わざとであると、一応結論出来る。
 私が知る限り天童の将棋駒と全国遺跡出土駒
に載っている、中尊寺境内金剛院遺跡出土駒の
桂馬駒(142番)が、それらしいものの最古
のようである。逆に例えば、興福寺出土駒、
西暦1058年バージョン、1098年バージョ
ン共に、はっきり断定できるほど明確ではない
が、点が有ると判定される出土駒の桂馬は無い。
 なお太宰府条坊遺跡出土の”桂馬・香車・
歩兵”木簡の桂馬は、下の字とかぶっていて、
何だか良く判らない。前後するが中尊寺遺跡の
次は、秋田県手取清水遺跡の成り今金桂馬の桂
が”桂ゝ”になっており、その次が兵庫県の
玉津田中遺跡の成り一文字金桂馬の”桂ゝ”
あたりかもしれない。何れにしても、全部汚れ
とは、到底考えにくいだろう。
 そこで理由を解明するためweb上で、桂馬
の桂のツクリの圭の漢字の意味を調べてみると、
ずばり

玉の類似意味をも含む漢字

である事が判る。
 今の所私が知る中で、これが一番、桂馬の
桂に横点を付ける動機として、考えやすいもの
である。
 元々玉将を王将と書いても、この王は玉の意
であるかどうかで、将棋駒名では揉めた経緯が
あるのではないかというのが、少なくとも本ブ
ログの見解である。だから桂馬の圭に、ダメ押
しで横点を書きたくなるのは、院政期以降の
駒師なら、当然の感覚なのではなかろうか。
 冒頭の剪断力の剪も、”前”に切る意味が、
元々有ったのに、別の意味に使われてしまい、
まぎらわしくなったので、刀を更に加えた漢字
である事位は、昔の人なら皆知っていただろう。
点が無いと、まぎらわしいという意識が有って、
玉類似駒には、点の無いパターンのときには、
点をわざとダメ押しで入れる習慣が、将棋の駒
名書き師にはあった。そのために、

平安末期の平泉中尊寺出土駒の頃までには少な
くとも、王に点を入れる調子で、特に地方では、
桂馬の桂に横点を入れる習慣が発生した

のではないか。以上のような事情のようだと、
さいきん桂のツクリの圭の字を調べてみて、私
は考えるようになって来ている。(2020/09/14)

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将棋の駒はなぜ歩が金になるの(長さん)

表題の件に関しては、既に本ブログでは、
イスラム時代に、インド発の将棋ルールが
簡素化したためであるとの旨、回答して来
た。今回は、多少補強すると同時に、この
件のまとめを行ってみる。結論から書く。

現代の”欧米諸国は先進国”のイメージが、
イスラム・アッパース帝国及び、その後継
中東国家に対して10世紀前後の世界には、
世界中に広がっており、イスラムの習慣は
どこも真似る傾向が有った。そのため、習
慣の一つである、”将棋の歩駒の成りを金
にする”というやり方を、世界中でマネた
のが、日本の将棋の歩兵が金将に成るよう
になった、そもそもの原因である。

 では以下論を開始する。
 基本的に、将棋のゲームデザイナーは、
駒の成りを、具体的にそのようにした理由
を、現実が証明しているように、

記録に残さないもの

だと言ってよい。理由は、
自分自身が、そのゲームをする仲間に、表
明以降、加われなくなる懸念があるためで
あると、

私は考える。

理由を知っている方が、ゲームに勝つため
有利だからなのである。だから吹聴して、

自分の考え出したゲームでは、自分だけ有
利になっているのを、極力宣伝したくない

のである。たとえばごく近年作の将棋ゲー
ムである、5五将棋の成りが、なぜ最奥段
なのか。具体的に考案した人間が、得意げ
に吹聴しているという記録が、もし有ると
でも言うのなら、出してみて頂きたいもの
だと私は思う。

隠匿されているというのが、当たり前

なのではなかろうか。
 だから、基本的にこうした問いには、証
拠を示せないものだと考えた方が良いと、
私は思う。
 しかしながら幸運な事に、個別表題の問
いに関しては、

本ブログのように考えると、状況が旨く
説明できる

という性質があるというのが、今の所

本ブログ独自の見方

だ。
 インドチャトランガは元々相手最下段の
初期配列駒への成りであって、金将すなわ
ち副官成りにはなっていない。ペルシャ人
は、それを継いだようであり、後代の
チムールチェスでも初期配列駒成りのまま。
順序からみて、ペルシャを更に次いだと見
られる、

イスラムの将棋で、始めて副官成り(金将
成りは、日本の将棋での副官)

なのである。だから、

将棋の歩駒が金に成るのは、イスラムシャ
トランジでの改良だと特定可能

だ。ただし、ゲームデザイナーは、

なぜそうしたのかは、このケースも露に記
録に残していない。

 実は、日本の将棋で銀将にあたる駒が、
斜め2升先跳び(飛龍動きと以下表記する)
であったのが、理由なのは、イスラムシャ
トランジを

実際に指してみれば判る。

このゲームでは歩兵を余り進めなくても、
一気に3段目まで跳べる、跳び越え駒が多
いので、歩兵(兵またはポーン)を前に進
めなくても戦闘が始まるのである。
 だから簡単に言えば、
歩兵の成りのルールを、複雑化する必然性
が、イスラムシャトランジにも、その前の
インド・2人制古チャトランガにも無かっ
た。その事にアラブ・イスラム教徒のゲー
ムデザイナーが気がついて、イスラムシャ
トランジのゲームデザイナーは、歩兵の成
りのルールを、行き先の大駒から、副官
(金将系)に、単純化、合理化してしまっ
たと、前にも述べたが考えられるのである。
 しかし、そのような裏の理屈を、真似る
方は、余り深くは考えなかったのであろう。
 たとえばミャンマーのタトン又はパゴー
の、原始シットゥインのゲームデザイナー
は、歩兵を3段目に上げて、成りが頻繁に
起こるようにして、ゲームの進行をそもそ
も早めたにも関わらず、

イスラムが先進国で、文化を真似なければ
ならないと考えて、兵の成りはとにかく
副官にした

と考えられるのである。
 こうして本来なら、個別のゲームに関し
て、それぞれ考えてルール調整すべきだっ
た兵の成りは、

何でもかんでも、イスラムシャトランジに
合わせる傾向が強まった

と考えるのが、今の所

本ブログにだけ書かれている、独特の見方

なのである。そしてこの盲目傾向が収まっ
たのは、本格的に、チェス系ゲームのルー
ル調整が、精密に行われるようになった、

西洋チェスや、中国シャンチーの成立時代(
前者は15世紀、後者は12世紀)である。

他方、日本の将棋は成立年代は、伝来期そ
のものが11世紀であるから、その点では、

イスラムシャトランジの習慣そのまま

だ。
 以上で、問いに対する回答に、このケー
スはなっているはずである。実際には更に、
もっと言いたいことはある。が、問うた者
が複雑な言い回しを期待しているはずも無
いので、本稿では、こう結論して論を判り
やすいままにして、止めて置く。
 よって冒頭に述べたように、将棋の歩駒
が金に成るのは、先進国イメージが、イス
ラム・アッパース帝国等に対して10世紀
前後の世界には世界中に広がっており、イ
スラムの習慣は、世界中で何でも真似る傾
向が有ったため、”将棋の歩駒の成りを、
金将にする”というやり方を、世界中で
マネたので、その時代の習慣が残る、日本
将棋では、歩兵の成りは金将であるという
のが答えになるのである。
 実は、西洋チェスのポーンの成りが、自
分自身以外の駒のどれでも成り可だったの
で、欧米従属主義のわが国では、個別この
問いの発生そのものが、大きく遅れたとい
う事情が、明らかに有ったと私は思う。
それも手伝って、この問いの答えは、諸説
ありどころか、ルール作成のの裏事情は、
基本的なものは、公開されにくいという情
報の学会内普及を利用し、”解明無理”が
遊戯史界では、暗黙の常識と見られていて、
答えずで、済ましてしまいがちなのである。
 しかしながら傍から見れば、そのやり取
りは、学際の見栄えを外面上悪くしてしま
うという効果を、明らかに持つ物なのであ
ろう。
 だからこの問い方は、ある意味初学者に
顔を向けて発してみるのには、旨いやり方
だったとも言える。つまり

好キラー・クエスチョンを考えたものだと、

考えた方に私は、常々感心しているという
事である。(2020/09/13)

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日本の将棋具はなぜ彩色されていないのか(長さん)

中国シャンチーの駒が典型的だが、同じ字駒
でありながら、日本の将棋駒とは異なり、色
で敵味方を区別している。色料が入手しやす
かったとの説明がなされているが、火山国の
日本でも、色料の原料となる鉱物資源には、
少なくとも古代末期程度ならば事欠かなかっ
たはずである。では、にもかかわらず、何故、
日本の将棋駒が墨書であるケースが、特に発
生から中世に関して圧倒的なのか。今回は、
以上の点を論題とする。回答から書く。

将棋が一生ものの稽古事だという観念が行渡っ
ていたため、堅牢性の乏しい遊戯具が、日本
では好まれずに淘汰された

と考えられる。
では説明を開始する。
 事実として、色材を使った将棋駒の例とし
て、中世のものでは、神奈川県鎌倉市の
鶴岡八幡宮境内出土駒の、成奔王鳳凰駒の、
行き先を示す朱打点使用の例が、ほぼ知られ
るだけなように思われる。
 近世に関しては、武家用の将棋駒の成りが
朱筆で書かれた例はあると思うが、庶民には
禁制だったと聞いている。
 また当時の朱色顔料は水銀化合物なので、
大量に扱えば毒であり、昔の人も経験的に
それを知っていたはずである。

人生の花の咲いた時期に、賭博としてぱっと
使う遊戯具としては華々しかったが、地道に
長い間愛用するには近世でも彩色駒は不向き

だっただろう。
 賭博用具では有ったが、一生ものの稽古事
という建前が武家中心時代の長かったわが国
では、武芸と関連して優勢に存在していた。
そのため将棋具が特定の個人に関して、永年
使用される傾向が、外国の同系統の遊戯に比
べて著しかったのではないかと私は推定する。
 一時期やめても、道具がその間に劣化せず、
趣味を再開したら、又使用できる必要が、
日本人の場合には有ったのであろう。
 ところが、化学合成による色材が無く、天
然の色材のみで着色した時代の遊戯具は、彩
色がされている場合には、作りたての頃には
華やかでも、耐性堅牢性が乏しく、耐光劣化
も著しかったはずである。中国人等外国人の
ように、博打で儲けたいときに、たまたま
シャンチー駒が有れば良いという事情なら、
色で敵味方を区別する駒は、手ごろで使いや
すかったのだろうが。日本人のように長い人
生に於いて一時期止めても、歳を取ってから
又、将棋を指す事が多いといった文化の場合
には、間が長い時間とんでいても、その間に
遊戯具の色が無くなってしまわない将棋駒が
必要であり、その方が、水墨画風で地味でも、
選択的に使用されたのであろう。
 そのため、実際には例えば青色で字を書い
た五角形駒といったものが、一時期有ったと
しても、長い間に淘汰されて廃れてしまい、
墨一色で、成りと元駒で、字体を変えた将棋
駒が残ったのではあるまいか。
 以上のように、今の所私は推定しているの
である。(2020/09/12)

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高知市大手筋遺跡の発掘報告書に無い将棋駒(長さん)

以前高知城の将棋盤を、本ブログで紹介した。
高知県高知市の高知城関連では、未確認だが、
城の旧大手筋で、江戸時代の将棋駒が出土し
たという話が、これとは別にweb上にある
ようだ。
 情報の出所は、以下のpdfファイルに
記載されている。
平成24年度 高知南国道路外埋蔵文化財発掘調査業務委託
田村北遺跡 記者発表及び現地説明会資料.pdf
2.64メガバイトのファイルで、取得す
るためのサイトのurlは、以下の通りで
ある。
まず、
”高知県立埋蔵文化財センター”のページで、
”刊行物”のコーナーへ行く。
刊行物のurlは以下の通り。
https://www.kochi-maibun.jp/documents6_4.html
そこで、前記の刊行物をさがために、発行日、
”2013.12.01”の所まで、順番に上から見て
ゆくと、上記のpdfファイルに到達する。
 なお、コンテンツの中の文書表題が、

pdfファイル名と、全然整合していない。

”2012.12.01”の所に”本物”があるようだ。
そういうわけで、こちらのpdfファイルは、
たぶんニセモノに相当するのだろうが。この
コンテンツの文書冒頭での表題は以下の通り。
”平成25年度、新図書館等複合施設建設に伴
う埋蔵文化財発掘調査
追手筋遺跡 記者発表及び現地説明会資料”
 内容は田村北遺跡に関してでは無く、この
2.64メガバイトのファイルは、高知市中
心部の、

追手筋遺跡の発掘調査の記者発表資料である。

 この発表資料の”主な出土遺物”の木製品
に”将棋駒”が入っている。ところが、
対応するとみられる、以下の発掘報告書に、

将棋駒の出土報告が無い。

16969_1_追手筋遺跡.pdf
なお、こちらの方は、
”高知市文化財調査報告書第40集追手筋遺跡
新む図書館等複合施設建設に伴う埋蔵文化財
試掘確認調査報告書、2016.3
高知市教育委員会”が、コンテンツの表題に
書かれた文書名である。
pdf名から、こちらは奈良文化財研究所の
発掘報告書データベース、全国遺跡報告総覧
に収録されているものと見られる。
 後者の報告書の出土木製品一覧には将棋駒
の記載は特に無いようである。

出土したが、未整理で発掘報告書に無いのか?

事情は今の所判らないが、残念な事である。
なお、発掘は西暦2012年頃に行われたと
後者の報告書に記載が有るため、約8年前の
事のようである。出土しているとして、ほぼ
江戸時代の将棋駒である事は間違いあるまい。
(2020/09/11)

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