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なぜ桂馬の桂に横点の有る駒が出土する(長さん)

かなり前に1回言及したが、不明でそのままに
なっていたと記憶する出土将棋駒の字体問題に、
桂馬の桂に”桂ゝ”と横点が付いたような将棋
駒が有るという事実がある。諸橋徹次の
大漢和辞典(㈱大修館)にも、そのような漢字
は出ていないし、井上辰雄監修の
”日本難字異体字大字典-解読編-”にも、
そのような字は発見でき無い。出土駒について
は汚れや、間違った伝承も疑われるが、理由が
有ってこう書いているとしたら、何でだろうと
いうのが今回の論題である。結論から書く。

圭の字が玉の意味を含むので、剪断の剪が刀を
余計に付けたのといっしょで、王を玉に替えた
気持ちで桂に横点を、誰かが平安末期程度に、
比較的気まぐれに入れたのを、単に真似たもの

とみられる。では、論を開始する。
 まず史料がどうなっているのか、事実につい
て振り返る。web上で、一乗谷朝倉氏遺跡
資料館の考古資料検索システムで、将棋駒を
検索する事が出来、それをすると、13枚桂馬
がヒットする。ので、それを調べてみると次の
事が判る。
 うち、右側が欠けていて、横点が有るかどう
か判定不能な桂馬駒が4枚有り、残りの9枚に
ついてが考察対象になる。実際に調べてみると、
”桂ゝ”桂馬駒が4枚、
”桂”桂馬駒が4枚、
どちらか判定困難な汚れ駒が一枚
であり、

汚れで付いた点とは考えにくい。

中には、掘り込んである点の付いた駒もあるよ
うであり、わざとであると、一応結論出来る。
 私が知る限り天童の将棋駒と全国遺跡出土駒
に載っている、中尊寺境内金剛院遺跡出土駒の
桂馬駒(142番)が、それらしいものの最古
のようである。逆に例えば、興福寺出土駒、
西暦1058年バージョン、1098年バージョ
ン共に、はっきり断定できるほど明確ではない
が、点が有ると判定される出土駒の桂馬は無い。
 なお太宰府条坊遺跡出土の”桂馬・香車・
歩兵”木簡の桂馬は、下の字とかぶっていて、
何だか良く判らない。前後するが中尊寺遺跡の
次は、秋田県手取清水遺跡の成り今金桂馬の桂
が”桂ゝ”になっており、その次が兵庫県の
玉津田中遺跡の成り一文字金桂馬の”桂ゝ”
あたりかもしれない。何れにしても、全部汚れ
とは、到底考えにくいだろう。
 そこで理由を解明するためweb上で、桂馬
の桂のツクリの圭の漢字の意味を調べてみると、
ずばり

玉の類似意味をも含む漢字

である事が判る。
 今の所私が知る中で、これが一番、桂馬の
桂に横点を付ける動機として、考えやすいもの
である。
 元々玉将を王将と書いても、この王は玉の意
であるかどうかで、将棋駒名では揉めた経緯が
あるのではないかというのが、少なくとも本ブ
ログの見解である。だから桂馬の圭に、ダメ押
しで横点を書きたくなるのは、院政期以降の
駒師なら、当然の感覚なのではなかろうか。
 冒頭の剪断力の剪も、”前”に切る意味が、
元々有ったのに、別の意味に使われてしまい、
まぎらわしくなったので、刀を更に加えた漢字
である事位は、昔の人なら皆知っていただろう。
点が無いと、まぎらわしいという意識が有って、
玉類似駒には、点の無いパターンのときには、
点をわざとダメ押しで入れる習慣が、将棋の駒
名書き師にはあった。そのために、

平安末期の平泉中尊寺出土駒の頃までには少な
くとも、王に点を入れる調子で、特に地方では、
桂馬の桂に横点を入れる習慣が発生した

のではないか。以上のような事情のようだと、
さいきん桂のツクリの圭の字を調べてみて、私
は考えるようになって来ている。(2020/09/14)

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