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恐らく修文殿御覧や太平御覧の項目名は象経(長さん)

先だって増川宏一氏の”ものと人間の文化史”
将棋Ⅰ(1977・法政大学出版局)で、
北宋代10世期成立の太平御覧に、象棋の
項目が書いてあるように述べているという謎
を、調べて見る事にした旨書いた。

 現在の所、疑問は解決していない。

 ただし、木村義徳著、持駒使用の謎、
日本将棋連盟、2001年の第2章・”六世
紀の(北)周武帝の『象経』は象棋で
はないが、間接的にその存在を示している”
の47~48ページを読む限り、

修文殿御覧や太平御覧の項目名は”象経”

の可能性が有るように、私には見える。
 というのも、(北)周書(西暦569年)
に、そもそも北周の武帝は、”象経”を制作
した旨が書いてあり、修文殿御覧や太平御覧
は、同じ事を書いている可能性が、最も高い
からである。つまり、

増川宏一氏の将棋Ⅰ、88ページの書き方が、
誤解を生む表現になっている

と疑われるという事である。
 しかし、

実際にこれら修文殿御覧や太平御覧の書で、
確認していないので私には断定できない状態

である。
 また、持駒使用の謎によると、唐王朝初期
成立の”芸文類聚”という文献があり、今に
伝わる史料で、”武帝の象経”が、”
武帝の象戯”と表現されているとの事である。
 従って、藤原道長が修文殿御覧を見ると、

項目名”将棋”が探せるかどうかについては、
多分否だろうが依然私には正確には判らない

という状態である。なお、修文殿御覧は北周
武帝の直前の、他ならぬ武帝自身に滅ぼされ
た北斉の、その時代の文献と聞く。(2020/10/21)

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藤原道長は”将棋”を知っていたかもしれない(長さん)

うっかり読み落としていて、ss-blogの、
middrinn氏の”けふもよむべしあすもよむべし”
https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/index/2
の西暦2020年10月18日付け記事、
”201018読んだ本”で気がついたのだが。
本ブログで、伝来将棋と混載されていたのでは
ないかと疑っている、藤原道長の孔雀が卵を産
んだときに、”孔雀は雄が居なくても有精卵を
産む”と言いたいらしい記事を1015年4月
10日の日記(御堂関白記)に書いた藤原道長
自身は、その知識を、太平御覧の元文献である、
修文殿御覧の孔雀部で調べたと、同日日記に書
いている、ないしそれが判るようだ。
倉本一宏”藤原道長「御堂関白記」”(下)
(講談社)。
ところで、ものと人間の文化史 将棋Ⅰ、
増川宏一氏(1977・法政大学出版局)の
88ページで私は知っているだけだが、

中国北宋代の百科辞典である太平御覧には、
象棋の項目がある

と言う事らしい。という事は、藤原道長は、
日本に有った修文殿御覧を見ているわけだから、
将棋・象棋という単語は、知っていた事になっ
てしまう。
 修文殿御覧や太平御覧の時代には、中国シャ
ンチーが成立していないが定説なので、

これはいったい、どうなっているのか。

太平御覧に、幻の北宋将棋の説明が有るという
ケースだけでも、かなり奇怪な話である。なの
で今後、増川宏一氏の将棋Ⅰの、この箇所の真
偽や、太平御覧の情報を良くチェックしてみる
必要が有りそうだ。
 ともあれ”けふもよむべしあすもよむべし”
には、今回かなり助けられた。2020年10
月20日まで、私の自宅近くの御堂関白記の置
いてある図書館が確か休館なので、そのあとで
御堂関白記から、先ず確認したい。(2020/10/20)

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玄海録が嬉遊笑覧まで日本文献に出現せぬのは何故(長さん)

本ブログでは、玄怪録岑順の収録された中国
北宋代の太平広記が、西暦1000年前後から、
京都の陰陽寮に有ったと仮定している。ただし
証拠立てる史料は無い。
他方、”解明・将棋伝来の「謎」”(大阪商業
大学アミューズメント研究所叢書・2014)
で著者の松岡信行氏は、日本に記録が継続して
存在したので、初めて嬉遊笑覧に”玄怪録”と
いう単語が載ったとしている。(同書150ペー
ジ)。そして国内に記憶が継続した事を、自身
の内製説に関連付けて強調している。しかし、
後半の継続して国内情報保存仮説に関しては、

本ブログは反対

する。

忘れ去られていたが、江戸時代に中国から再
輸入された

だけと考える。では、仮に本ブログ解釈の方が、
先ずは正しいとして、平安時代の西暦1000
年既に存在に言及した記録が、関係者の日記に
無いのは何故なのかを、今回は論題とする。
つまり、啓蒙する元が無いから、鎌倉時代以降
は、伝来しないと見ると言う事である。
回答から書く。

原始平安小将棋の作者は外国人なので、日本
国内で、元ネタの玄怪録に言及する平安時代の
日本人は居なかったから

である。
 では、論を開始する。
本ブログで、松岡説に反対なのは、19世紀の
嬉遊笑覧の時点で、遊戯史として既に

中国にはシャンチー史論が存在し、それが幕末
に輸入されたと見るのが、尤もだと認識する

からである。元々嬉遊笑覧の著者は、中国文献
に現われる各種ゲーム史を通読していたと、私
は認識している。また19世紀初当時既に中国
では、中国シャンチーの起源論で、玄怪録岑順
が論じられていたと見ている。それは18世紀
半ばに、太平広記の黄晟黄氏巾箱本が出回った
結果、中国では日本の嬉遊笑覧の成立の半世紀
前に、宝応将棋が確認されていたからだという
事情と見るのが、合理的であると私には思える
からである。

中国清王朝時代19世紀初の中国シャンチー成
立論を、嬉遊笑覧の著者は確認した。それだけ

なのではないかと私は疑う。
 そこで、私の推論が正しそうなので、続ける
と、では松岡信行氏の論の方向が正しく、平安
時代に太平広記が、日本の陰陽寮等にもあるか
ら玄怪録は、日本の陰陽師に知られていたはず
なのに、なぜ記録に出てこないのかが問題に
なると思う。
 そこでその理由は、

玄怪録岑順を参照して出来る将棋は、8升目型
のマークルック様の象棋でしかなく、原始平安
小将棋に当るのだが、デザイナーが日本人では
なく、雲南省の白族の王族(タイ民族に近い)
なので、生い立ちを日本人は誰も、発明者とし
て、ひけらかさないから

だと考える。つまり、日本には
”原始平安小将棋は、玄怪録岑順の宝応将棋が
元の発展形である”と、説明する立場の発言主
体のゲーム・デザイナーが、そもそも国内に存
在しないからという事である。
 宝応将棋と原始平安小将棋との親子関係に
平安時代の知識人が、仮に気が付いても、

臭いなで終わり、それ以上追求できる中国の、
日本人知識人にとっての権威書は存在し無い。

だから、日本の小将棋と宝応将棋との関係に、
彼の日記等では、敢えて言及する事も無いから
玄怪録という単語も現われないという訳であろ
うと、私が見ているという事である。
 なお、玄海録の宝応将棋の内容を、
平安大将棋デザインの責任者の高位の陰陽師、
一例を挙げれば安倍泰長は知っていたから、

平安大将棋を、陰陽寮が主体になってデザイン
するときに、横行を自陣の玉将前に置いた

という論も以前に何回か、本ブログ内では繰り
返した。
 よって以上まとめると、冒頭に述べたように、
得意げにゲーム開発の経緯を話す、原始平安小
将棋のゲームデザイナーが日本人では無い。そ
のため、少なくともゲーム発祥の経緯に関して、
玄怪録の岑順「小人の戦争」が先祖形との旨の
情報が、平安時代の貴族等の日記に、記載され
る機会も無かった。だから歴史上日本では、
玄怪録という単語は、江戸時代の末、19世紀
にならないと出て来なかった。以上のように、
本ブログでは考えているのである。(2020/10/19)

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ブログ”日本中世史を楽しむ♪”が再開(長さん)

元寇の後の鎌倉幕府衰退~滅亡が御専門であるが、
史料が希少化する日本の、中世前期の内乱史全般
に明るく、例えば承久の乱頃の歴史人物に関する、
私の如くの日本政治史素人への平易な解説が印象
的な歴史学者、

細川重男氏(東京都)が、闘病生活を終えられ、

自身のブログへの書き込みを、開始されている
ようである。サイトは以下の通り。
https://ameblo.jp/hirugakojima11800817/
特に、中世前期の日本の歴史史料の確度に関する
知見を得るには、今の所、この先生に聞くしか、
私には無い状態。
 ”栃木県小山市網戸の寒川神社に、結城朝光の
子孫の、網戸朝村だけが、寒河尼といっしょに
祭られているという『言い伝え』があっても、
小山・長沼・結城で、寒川・網戸を分割相続しな
かったという証拠にはならない。よって、
小山朝政、長沼宗政が、寒河尼の息子でないと言
う確たる証拠は無い”と、先生との間で会話、や
り取りをしているうちに納得できたのも、この方
のおかげ。何れにしても、お体の不調が回復され、
たいへんめでたい事である。(2020/10/18)

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甲府城下町遺跡角行。柳町一丁目と日向町は別(長さん)

以前に述べたが、甲府城下町遺跡では、中将棋と
疑われる駒3枚が、柳町一丁目遺跡より出土して
いる。が、紛らわしいが、

角行が日向町遺跡第二地点井戸にも記録

がある。結論を述べると、

たぶん裏龍馬角行は別地点1枚づつである。

では、報告を開始する。
奈良文化財研究所の発掘報告書のデータベースの
全国遺跡報告総覧の中に、今回報告する日向町第
二地点又は、日向町遺跡第二地点の報告書も存在
する。
pdfファイル名は、以下の通り。
7292_1_甲府城下町遺跡日向町遺跡第2地点.pdf
そこの107ページのPL-59”木製品”の
写真の中に、

オモテ面だけであるが、日向町遺跡第二地点の方
の角行駒が載っている。

向きが、前に紹介した、山梨県埋蔵文化財センター
のパンフレットと少し違うが、行の字の最後の画
の出だしの左曲がりが、確かにこの発掘報告書の
写真にも有る。

パンフレットには柳町中将棋駒とは別の角行駒を、
たまたま使っていたのだ。

なおこちら日向町の角行は、幕末から明治時代
草創期頃の遺物のようである。通常の日本将棋の
駒である可能性が、極めて高そうだ。
 危うく、甲府の出土駒を一つ落す所であった。
最後に言い訳を蛇足ですると、山梨県では将棋頭
という遺跡が著名で、検索で山梨県がhitする
と、私には読み飛ばし癖があった。山梨県でも、
甲府の発掘報告書ケースには、気をつけるべきだっ
たと、今回深く反省させられた。(2020/10/17)

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甲府城下町遺跡。日向町第2地点でも角行?(長さん)

以前、甲府城下町遺跡の旧柳町一丁目地点から、
中将棋の金将、猛豹駒と、中将棋かもしれない
角行駒が出土したという記事を書いた。
 最近web上に、そこから少し北の、
同じく甲府城の付近の表題の日向町第2地点で
も、角行駒が井戸跡から見つかったらしいとの
記事を見つけた。

甲府市日向町第2地点角行.gif

角行の最後の画の最初が、左に少し折れており、

旧柳町一丁目地点の角行駒と、日向町第2地点
(?)の角行は別の遺物なのかもしれない。

残念ながら、最近見つけた、webの記載は、
一般向けのパンフレットの類のようであり、
日向町第2地点の井戸から将棋駒も出土してい
るという

情報の信憑性が、今ひとつ無い。

パンフレットは、山梨県埋蔵文化財センターが
作成したようである。
pdfファイル名は以下の通り。
h21_mokuseihin.pdf
webサイトは、以下の通りである。
https://www.pref.yamanashi.jp.c.aao.hpcn.transer-cn.com/maizou-bnk/mai-bun_center/documents/h21_mokuseihin.pdf
以前は同じ物の写真写りの差と見ていて、余り
注意していなかったので、気がつかなかった。
前記の点で、筆跡が少し違うようなのだが。
本当に別物なのかどうかは、私には依然はっ
きりとはしない。(2020/10/16)

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水無瀬兼成の西暦1585年の駒納入日誌は無い(長さん)

以前に、水無瀬駒の発祥年に関して、よみがえる
中世2”本能寺から天下一へ大坂”(1989)
平凡社に10年の誤記の有る疑いがある旨述べた。
西暦1595年発祥ではなくて、西暦1585年
水無瀬兼成が72歳のとき、奮起して、まとまっ
て、将棋駒を水無瀬兼成は書き始めたのでは無い
か、との旨であった。その後、webの情報を当っ
たところ、将棋駒の作者として著名な熊澤良尊氏
のブログに、

西暦1590年以前に、将棋馬日記(駒納入記録)
が無く、不明

との旨が判った、サイトは次の通り。
https://blog.goo.ne.jp/ykkcc786/s/
熊澤良尊の将棋駒三昧
2010-03-31 01:06:07”将棋駒工房”

”将棋駒工房の看板。1年前の写真を使って、ブ
ログの書き込みテスト・・・。
◇23日付 日本経済新聞 文化面  原文 
   「水無瀬駒・王道の歩み」   熊澤良尊”

ブログの記事内容から西暦2010年3月23日?
の日本経済新聞 文化面にも、同じ記事が載った
ようである。

結論は表題の通りで、史料が無い

ようである。言い伝えが、何処かにあったのを、
よみがえる中世2”本能寺から天下一へ大坂”
(1989)平凡社では、そのまま書いた疑いが
濃そうだ。
 ちなみに後陽成天皇に、西暦1590年に、
水無瀬兼成が将棋駒を贈った事は、確からしい。
その時点で、正親町上皇に薦められた可能性は否
定できない。そのケースには5年、言い伝えに錯
誤が有ると言う事になるのだろう。(2020/10/15)

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水無瀬駒の由緒の情報が謎(長さん)

水無瀬兼成に関して、水無瀬駒を作成し始めた
経緯についての伝説の要約と見られるものが、
平凡社の”よみがえる中世”シリーズの2、
”本能寺から天下一へ大坂”(1989)に載っ
ている。
 が、元の伝説がおかしいのか、換算のときの、
紹介者の計算ミスか、よく判らないが。年号が
西暦・元号共に、10年おかしい。紹介箇所は、
ずばり、”水無瀬駒”と表題の付いた、第5章
都市のなかの職人・商人の174ページである。
”正親町天皇の勅諚を受けて水無瀬兼成が将棋
の駒作りに揮毫したのが、82歳で1595年
だ”と言うのだが。西暦1593年に
正親町天皇は崩御している。1595年は確か
に文禄4年で合っているが、豊臣秀次が切腹し
た頃なので、水無瀬兼成は、その前に将棋駒を
作成している。
 増川宏一氏の将棋の歴史にも”水無瀬兼成の
将棋駒の字書きの開始は、西暦1590年頃か
ら”との旨出ており、ほかならぬ、よみがえる
中世2”本能寺から天下一へ大坂”にも増川氏
の、今述べた研究が、西暦1590年の年号と
共に、同書の175ページに引用されている。
 西暦1585年で天正13年。正親町天皇の
即位最後の年頃に水無瀬兼成が、72歳の時、
将棋駒書きを開始したというのが、ひょっとし
て、正しいのではないかと思うのだが。今の所
正しい情報が私の所には無い。水無瀬宮に行く
と多分、そこでは確実に今の情報は、手に入り
そうな気がする。後で別のサイト等で情報をチェッ
クしてみようかと思う。(2020/10/14)

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将棋纂図部類抄に立馬畧頌等は何故有る(長さん)

今回は、著作者の水無瀬兼成が豊臣秀吉の治世
の安土桃山時代に、泰将棋等の駒数多数日本将棋
を紹介した自身の著作、将棋纂図部類抄で、初期
配列の覚え方と称して、漢詩の形式を真似たよう
な、七文字形式の立馬畧頌(摩訶大大将棋版)、
大将棋畧頌(大将棊畧頌・泰将棋版)を何故加え
たのか、動機自身を論題とする。回答から書く。

権勢者には珍しく、パトロンの豊臣秀次が漢詩が
作れたからである。

では、論を開始する。
 大将棋畧頌の存在は多少尤もらしいのであるが、
摩訶大大将棋の立馬畧頌の存在が不自然であると
言う点は次のとおり。

空升目が記載されていないので、判りにくい。

通常、初期配列図を描いて、将棋類の初期配列は
説明するのが、判り易くて便利なので、巻物の
体裁としては、尤もらしかったのかもしれないが、
存在が、多少無駄である。
 そこで今回、前に紹介したが、豊臣秀次の伝記
を調べてみた。成書名は前にも紹介したが以下の
通り。
人物叢書”豊臣秀次”藤田恒春、吉川弘文館、
2015年。
 そこの第6章(秀次の)関白就任、
三.学文の奨励の113ページに、”信長・秀吉・
家康は、漢詩文に対して関心がなく、かつ素養も
無かったが、豊臣秀次にだけ(4人の中では)合っ
た”との旨が書いてある。
 大名の中には、中国の古典に興味を持つ者も、
多かっただろうと個人的に思うのだ。、豊臣秀次
は漢詩作者と、人的繋がりまで有ったように前記
成書に書いてあって、一歩踏み込んでいる。
 記録は乏しいようだが自分でも、漢詩を作って
いたのであろう。
 他方、本ブログでは、水無瀬兼成が
将棋纂図部類抄を著作したのは、将棋の普及の為
と言うよりも、為政者と繋がりを付けて、家業を
隆盛させるためと私は見ている。つまり、

将棋纂図部類抄は、豊臣秀次サロン向け非売品の
イメージに近い

と、ここでは見ているという意味である。だから、
サロンの代表者の趣味に合わせ、将棋纂図部類抄
に漢詩モドキの、初期配列覚え方詩を、かなりの
分量を割いてつけた。以上のように考えて、特に
矛盾は無いように私には思える。
 恐らく後代、為政者と繋がりを強化して家業を
補強するという考え方が、大局将棋駒の作者にも
引き継がれたのであろう。

豊臣家用に作成した泰将棋を、徳川に再紹介して
も筋が通らないので、大局将棋を新たに考案した

と考えればツジツマが合う。だから、大局将棋の
成立が加速したのは、恐らく将棋自体に趣味の傾
倒のあった徳川家治の時代であろうと、推定も出
来るし、

水無瀬兼成の将棋纂図部類抄のターゲット読者が、
豊臣秀次だったと見る点にも、矛盾は生じない。

だから冒頭のように、秀次の趣味に兼成があわせ
ているのではないか。以上のように、私は考える
のである。(2020/10/13)

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豊臣秀吉と秀次は1595年5月4日に会っている(長さん)

本ブログでは、西暦1595年5月5日の
御湯殿の上の日記は、豊臣秀次の切腹に関し、
寄与する情報と見ている。豊臣秀次の回答
原案が気に入らなかった豊臣秀吉が、後陽成
天皇の”皇族は双王将の日本将棋を指したい
のですが駄目ですか”との旨の、質問に対し、
関白の豊臣秀次を差し置いて、大将使用を薦
める旨を、回答したものと、ほぼここでは断
定する。
 ところで、豊臣秀吉の在所の伏見城へ、
回答日と思われる、西暦1595年5月4日
に、豊臣秀次がたぶん、呼び出されて、豊臣
秀吉の所へ、出向いているそうである。
 以下の成書に、その旨の記載がある。
人物叢書”豊臣秀次”藤田恒春、吉川弘文館、
2015年。今回は、秀次が秀吉に、何故呼
び出されたと、考えられるのかを論題とする。
回答から書く。

関白を辞するように命じられた。

では、論を続ける。
つまり、

”天皇も双玉を使用して良いのではないか”
という豊臣秀次の回答は、秀吉が関白を辞め
るように命じる、口実の一つとして使えるの
ではないか

と、本ブログでは疑っている。前記成書には、
西暦1595年には、4月までの間に、
豊臣秀次が秀吉の所へ2回訪問し、逆に、
豊臣秀吉も秀次の所へ1回訪問したとされる。
その程度なら、普通であるが、前記成書によ
ると、

5月4日以降から、豊臣秀次が豊臣秀吉に会
う、つまり呼び出される回数が、急に増えて
いる

という。

豊臣秀頼へ、豊臣秀次の権限を総じて譲るよ
うに、豊臣秀吉が命じ、秀次は素直に従って
いないのではないか

と取れる旨、少なくとも前記参照成書は、推
定していると、取れるように思う。
 4月までは回数が少なく、5月第1週から
増えているのであるから、

方広寺鐘銘の豊臣秀次版のような働きを、
天皇の使用する将棋駒の王駒問題が演じた

疑いも、無いとは言い切れないのではないか。
以上のように、豊臣秀次の伏見城呼び出しに
関して、私は大胆だが依然、裏の経緯を疑う
のである。(2020/10/12)

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