SSブログ

1672年成立”摩訶大将棊の図”17段路は五雑組情報(長さん)

本ブログでは、安土桃山時代成立と独自推定する
大大将棋17升目の根拠は、古代囲碁の17路で
あり、古代囲碁が17路であった事自体は、
吉備真備が伝来させたとしている。17路の中国
からの情報が、奈良時代から安土桃山時代までは、
それ以外にほぼ日本には、入らないと見ているか
らである。では、西暦1672年成立の

”摩訶大将棊の図”の17升目が、古囲碁の17
路を知っていて、そうする理由の一つになったと
したら、これも吉備真備まで遡るのか

というのが、今回の論題である。回答から書く。

1672年に成立した文書は、そうとは言えない。

なぜなら、五雑組の文選の博奕論の情報からも、
西暦1661年以降なら、古代碁盤17路情報が

得られる

からである。
 では、論を開始する。
 ここで”摩訶大将棊の図”といっているのは、
大阪電気通信大学の高見友幸氏が、
IR*ゲーミング学会ニューズレター38
(2019.6)で紹介している、将棋家の
田中賢一氏所蔵の古文書の事である。なお、

”摩訶大将棊の図”の17段路は、京都の条理を
根拠に、そうしている可能性があるとの見方を、
本ブログでも取る。

ただし、長方形盤でおかしくないかどうか、別の
根拠を、”摩訶大将棊の図”作者は探したはずで
あると考える。
 囲碁は古代には17路、日本の近世には19路
である事を知っていれば、どちらでも良いと判断
できたので、19×17升目で良いとしたはずで
ある。
 その際、吉備真備が、儀鳳暦に変えて764年
から大衍暦を日本に導入したいが為に、こぐま座
アルファー星に歳差による赤緯の+85°越えが
あり、路の2条追加が必要とのいう、囲碁盤路変
化との関係を広報したのが、西暦1672年まで、
残っていたと考えても良いが。 囲碁盤路変化の
情報は、西暦1661年に文献としての五雑組が、
日本に伝来する事により、日本では公知になっ
ている。つまり、

情報源は2つになった

のである。
 特に2つ目の五雑組からの情報は、江戸時代の
知識人一般が、広く目に触れ得る情報だったとみ
られる。
 なお、五雑組からの情報で、囲碁盤路の変化が
知れるというのは、以下の経緯のようである。
Ⅰ.中国三国時代の呉国にて、囲碁に関する理論
である、博奕論が書された。
Ⅱ.6世紀中国、南北朝時代の南朝の一つの梁国
に於いて文選が成立した。その中に博奕論が収録
された。
Ⅲ.唐代に、文選を読んだ李善が、彼所持の書籍
の文選へ”三国時代の魏国の邯鄲淳が、彼の著作
(芸経)に、その時代は囲碁は17路盤である”
旨を書いているという内容の、注釈を書き込み入
れた。
Ⅳ.Ⅲの注釈入りの文選が、明王朝時代の五雑組
に収録され、五雑組が日本の江戸時代初期の西暦
1661年に、日本へ伝来した。
 なお、私は以上の経緯情報を、以下の文献から
知った。
中国最古の棋譜、香川忠夫、雑誌名不明、著作年
不明。web上pdfファイル名:[PDF:1.59MB].pdf
囲碁史の専門書には同様の内容が有ると見られる。
 以上の事から、情報量が増加したと推定できる。
つまり”摩訶大将棊の図”の17段路は、選択の
理由が元々複数有ったとも疑われるが。そのうち
の一つと疑われる、古囲碁の路数17路情報の日
本人取得は、大大将棋の17升目とも同じ理由で
ある、遣唐使吉備真備の情報とは別に、今述べた、
”五雑組ルート”が有り得る。その結果、西暦
1672年より以前に、囲碁盤の盤路は19升目
以前に17升目型が古代には使われたという史実
に関する根拠となる情報源は、合計2つになった
と考えられる。(2020/10/01)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー