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藤原行成1020年将棋駒成金草書と太宰府に不指導(長さん)

以前「新潮日本古典集成」の大鏡、161ページ
の藤原行成伝説を紹介したときに、南北朝時代に
麒麟抄の著者偽藤原行成は、この記載をヒントに、
銀将から歩兵までの成りの金将を、極崩した草書
で書くように、行成が指示したような話をでっち
上げたと指摘した。動機は、麒麟抄と大鏡の記載
は将棋駒と献上扇とでは違うが、話を整合させて、
(A)「麒麟抄が、さもさも藤原行成著作である
かのような雰囲気を醸し出すため、将棋駒の裏側
の字は、草書で書くと、藤原行成が麒麟抄を著作
して主張しているかのように、表現する」という
姑息な細工をしているというのが、本ブログの解
釈であった。
 その後行成が、太宰府権帥を藤原隆家と西暦1
020年前後に交代して着任しているため、(B)
「将棋駒書き字の指導は、(場所は九州ではなく
て、京都の世尊寺であっても)史実のようである」
と、本ブログではみなした。更に、麒麟抄の本当
の著作者の生きていた南北朝時代に、将棋伝来の
経緯が判っていただけでなく(C)「太宰府権帥
(1020時点)の立場として藤原行成が部下に、
武芸を上達させる観点で、作戦を練る技術を学ば
せるために将棋を指せるよう、

太宰府・博多の駒師に将棋駒の字書きの指導をし
て、最初期の日本の将棋の普及に手を貸したとの
事実が、伝説として南北朝時代までは幾分か残っ
ていた」ようだ

と考えるようになった。なお先任者の、将棋導入
責任者と疑われる藤原隆家自身が、将棋を指した
ように見える事は、彼の嫡男が長者の藤原道長に、
玉将を連想させる玉帯を、自身の元服の儀の返礼
品として西暦1018年に贈っているという、
御堂関白記の記事から、更に疑うようになった。
 では、藤原行成は、自身が将棋駒師に、将棋の
駒字の書き方を指導するような事が有ったとして、

(D)「麒麟抄の言うように、成りを極崩した金
と書くように指導した可能性がある」のかどうか

を今回は、論題とする。回答から書く。

(D)に関してNo.、すなわち”ほぼ無い”

と考えられる。
 では論を続ける。
 根拠は乏しいが、例えば出土駒について、鎌倉
時代の駒、神奈川県鎌倉市雪ノ下の成り一文字金
桂馬の、金が、幾分崩してあるものの、草書とま
では行かない点などが挙げられる。
 むろん、鎌倉時代の将棋駒の例えば桂馬の中に
は、今の崩し金も、秋田県の手取清水遺跡駒のよ
うに、有るのではあるが、

ばらばらである。

だから、鎌倉時代には、特に成り金が統一されて
いたという形跡が無い。

誰かが、試行錯誤でやってみて、便利なので、
南北朝時代までには普及してきた

と、見るべきなのではないかと私は疑う。
 そもそも、麒麟抄が出た後でも、それが完全に
徹底されたかというと、室町時代の出土駒も、
石名田木舟駒のように、そうなっていない。
ただし、鎌倉時代末には、新安沖沈没船出土駒の
銀~歩の裏の金は、と金状に崩してある。また、
鶴岡八幡宮境内出土の歩兵に、成りが”と金”の
ものがある。だから麒麟抄の出版の影響が、一時
的に有った疑いは残る。
 何れにしても。藤原行成がその一人ではないか
と、本ブログでは疑っている初期の日本の将棋の
書き駒の指導者は、(D)’「金将の将の字を略
して書いて、元駒の金将と区別する事位は教えた」
としても、今回参照した文献「新潮日本古典集成」
大鏡、校注者・石川徹。発行・新潮社(2017)
の161ページの記載に韻を踏ませて、藤原

行成の一条天皇宛献上扇のように(D)「将棋駒
裏面を、草書ですばらしく書くように、実際に指
導した」とは考えにくい

のではないか。よって(A)「麒麟抄の将棋駒成
り金は極崩した草書」の旨の記載は、後の研究者
に、麒麟抄が11世紀成立であるかのように、間
違って認識させようという意図が、ホントの著作
者である偽藤原行成に有って、該書にそう表現さ
れているのに、過ぎないのではないか。
 以上のように、やはり私は現時点で、疑うので
ある。(2020/10/10)

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