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豊臣秀吉と秀次は1595年5月4日に会っている(長さん)

本ブログでは、西暦1595年5月5日の
御湯殿の上の日記は、豊臣秀次の切腹に関し、
寄与する情報と見ている。豊臣秀次の回答
原案が気に入らなかった豊臣秀吉が、後陽成
天皇の”皇族は双王将の日本将棋を指したい
のですが駄目ですか”との旨の、質問に対し、
関白の豊臣秀次を差し置いて、大将使用を薦
める旨を、回答したものと、ほぼここでは断
定する。
 ところで、豊臣秀吉の在所の伏見城へ、
回答日と思われる、西暦1595年5月4日
に、豊臣秀次がたぶん、呼び出されて、豊臣
秀吉の所へ、出向いているそうである。
 以下の成書に、その旨の記載がある。
人物叢書”豊臣秀次”藤田恒春、吉川弘文館、
2015年。今回は、秀次が秀吉に、何故呼
び出されたと、考えられるのかを論題とする。
回答から書く。

関白を辞するように命じられた。

では、論を続ける。
つまり、

”天皇も双玉を使用して良いのではないか”
という豊臣秀次の回答は、秀吉が関白を辞め
るように命じる、口実の一つとして使えるの
ではないか

と、本ブログでは疑っている。前記成書には、
西暦1595年には、4月までの間に、
豊臣秀次が秀吉の所へ2回訪問し、逆に、
豊臣秀吉も秀次の所へ1回訪問したとされる。
その程度なら、普通であるが、前記成書によ
ると、

5月4日以降から、豊臣秀次が豊臣秀吉に会
う、つまり呼び出される回数が、急に増えて
いる

という。

豊臣秀頼へ、豊臣秀次の権限を総じて譲るよ
うに、豊臣秀吉が命じ、秀次は素直に従って
いないのではないか

と取れる旨、少なくとも前記参照成書は、推
定していると、取れるように思う。
 4月までは回数が少なく、5月第1週から
増えているのであるから、

方広寺鐘銘の豊臣秀次版のような働きを、
天皇の使用する将棋駒の王駒問題が演じた

疑いも、無いとは言い切れないのではないか。
以上のように、豊臣秀次の伏見城呼び出しに
関して、私は大胆だが依然、裏の経緯を疑う
のである。(2020/10/12)

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