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将棋纂図部類抄に立馬畧頌等は何故有る(長さん)

今回は、著作者の水無瀬兼成が豊臣秀吉の治世
の安土桃山時代に、泰将棋等の駒数多数日本将棋
を紹介した自身の著作、将棋纂図部類抄で、初期
配列の覚え方と称して、漢詩の形式を真似たよう
な、七文字形式の立馬畧頌(摩訶大大将棋版)、
大将棋畧頌(大将棊畧頌・泰将棋版)を何故加え
たのか、動機自身を論題とする。回答から書く。

権勢者には珍しく、パトロンの豊臣秀次が漢詩が
作れたからである。

では、論を開始する。
 大将棋畧頌の存在は多少尤もらしいのであるが、
摩訶大大将棋の立馬畧頌の存在が不自然であると
言う点は次のとおり。

空升目が記載されていないので、判りにくい。

通常、初期配列図を描いて、将棋類の初期配列は
説明するのが、判り易くて便利なので、巻物の
体裁としては、尤もらしかったのかもしれないが、
存在が、多少無駄である。
 そこで今回、前に紹介したが、豊臣秀次の伝記
を調べてみた。成書名は前にも紹介したが以下の
通り。
人物叢書”豊臣秀次”藤田恒春、吉川弘文館、
2015年。
 そこの第6章(秀次の)関白就任、
三.学文の奨励の113ページに、”信長・秀吉・
家康は、漢詩文に対して関心がなく、かつ素養も
無かったが、豊臣秀次にだけ(4人の中では)合っ
た”との旨が書いてある。
 大名の中には、中国の古典に興味を持つ者も、
多かっただろうと個人的に思うのだ。、豊臣秀次
は漢詩作者と、人的繋がりまで有ったように前記
成書に書いてあって、一歩踏み込んでいる。
 記録は乏しいようだが自分でも、漢詩を作って
いたのであろう。
 他方、本ブログでは、水無瀬兼成が
将棋纂図部類抄を著作したのは、将棋の普及の為
と言うよりも、為政者と繋がりを付けて、家業を
隆盛させるためと私は見ている。つまり、

将棋纂図部類抄は、豊臣秀次サロン向け非売品の
イメージに近い

と、ここでは見ているという意味である。だから、
サロンの代表者の趣味に合わせ、将棋纂図部類抄
に漢詩モドキの、初期配列覚え方詩を、かなりの
分量を割いてつけた。以上のように考えて、特に
矛盾は無いように私には思える。
 恐らく後代、為政者と繋がりを強化して家業を
補強するという考え方が、大局将棋駒の作者にも
引き継がれたのであろう。

豊臣家用に作成した泰将棋を、徳川に再紹介して
も筋が通らないので、大局将棋を新たに考案した

と考えればツジツマが合う。だから、大局将棋の
成立が加速したのは、恐らく将棋自体に趣味の傾
倒のあった徳川家治の時代であろうと、推定も出
来るし、

水無瀬兼成の将棋纂図部類抄のターゲット読者が、
豊臣秀次だったと見る点にも、矛盾は生じない。

だから冒頭のように、秀次の趣味に兼成があわせ
ているのではないか。以上のように、私は考える
のである。(2020/10/13)

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