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豊臣秀吉は1595年5月頭物品を振舞う(長さん)

以下、御湯殿の上の日記の秀吉の大将将棋の話
の続きである。
 本ブログでは、先に述べたように方広寺鐘銘
の豊臣秀次版のような働きを、後陽成天皇の使
用する将棋駒の玉駒問題が演じたのではないか
と、今の所疑っている。ずはり言ってしまえば、
後陽成天皇が”双王将で日本将棋を指したい”
と欲しているのに、豊臣秀次が”双玉に替える
よう”に主張して譲らなかった。そのため

豊臣秀吉が腹を立て、豊臣秀次に関白を辞して
豊臣秀頼に譲るように命令していたが、秀次は、
従わないのでトラブルになったというストーリー
を予想

しているのである。なお豊臣秀次と後陽成天皇
間のイザコザに、豊臣秀吉が割って入って来た
のは、水無瀬兼成が、後陽成天皇へ日本将棋駒
を贈呈した西暦1590年が、関白職に関して、
豊臣秀吉から豊臣秀次に交代する、ちょうど、
境の時期だった為と見られる。
 今回は続群書類従補遺三の御湯殿の上の日記
の、西暦1595年5月5日前後の記載を調査
し、その結果、

豊臣秀吉という人名が出てくるのが、5月3日
と5月5日に2回の計3回だけである

との旨と、豊臣秀次対後陽成天皇の間に仲違い
があり、間に入る意図が、豊臣秀吉に有りそう
だとの旨を以下に述べる。では説明を開始する。
 続群書類従の補遺三に御湯殿の上の日記の
1595年の記載が全部あり、問題の5月5日
付近の前後を見ると、豊臣秀吉とみられる人物
名は、5月3日と5月5日にしか出てこない。
5月5日のうち、後半の太閤(豊臣秀吉)が、
天皇の将棋を”大将へ王将を替えろ”との主旨
である。
 その他の2回は、皇室に判るように何らかの
物品を、300羽引き出物として配ったとの旨
(1595年5月3日)と、同じく何らかの物
品を1000疋、振舞った(1595年5月5
日)という記載である。振舞ったのは、

関白と皇室との間で、何か気まずい事が有った
ので、お詫びのために、贈答品を出した

と取れる。また、豊臣秀吉の存在を強調したと
も取れる。
 前者に関しては、簡単に言うと後陽成天皇の
使用する将棋の玉駒を巡って、後陽天皇成側は、
水無瀬駒の玉将を王将に替えてほしいと主張し
たが、豊臣秀次が”そのまま玉将で良い”と主
張して

譲らなかったので、喧嘩になった

という事があるとすれば、説明が簡単であろう。
だから、喧嘩両成敗のつもりで、

”それなら(皇族の使う)将棋の玉は大将では
どうですか”と言ってみた(1595年5月5
日の御湯殿の上の日記後半)と考えれば、説明
が簡単

だ。そして重要な点は、かたくなな豊臣秀次が、
①藤原隆家が後一条天皇へ手配した原始黄金
玩具将棋の玉駒が、ネフライト製ホータン玉駒
である事を、子孫の婿養子の水無瀬兼成から聞
いていて知っているし、
②白河天皇の時代に大江匤房が、9×9升目の
標準型平安小将棋を制作した時点で、双王型に
したのだが、勝手にそうしただけだという事も
知っているし、
③関白として藤原忠実の流の一人ある豊臣秀次
としては、双玉を推薦する立場に本来あるとい
う事も、豊臣秀吉と違って知って居た。

つまりは①~③が全て、お見通しだったと、恐
らく仮定できるという点

だろう。つまり、知識が余りに有りすぎる人間
同士によって、16世紀も終わりごろになって、
11世紀の日本の将棋の玉駒を巡る

院政期の院対摂関家のイザコザが蒸し返された

という事なのではないのだろうか。
 これでは、天皇も抱きこんで、大坂幕府を安
定化させようとするのが自身の立場の、

豊臣秀吉が怒るのも、当然と言えば当然だった

のであろう。つまり、秀次切腹の顛末について、

豊臣秀次が、余りに将棋史に詳しかった事が、
豊臣政権にとって、命取りになった可能性も、
全く無いとは言えないのではないか。

以上のように大胆だが、依然本ブログでは以上
のような疑いを持つのである。(2020/10/30)

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