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和名類聚抄の八道行成に将棋の不存在示唆(長さん)

通説西暦970年代成立(持駒将棋の謎)とされる
和名類聚抄二十巻物には、将棋が記載されていない
という点で将棋史では著名である。つまり素朴に見
ると、将棋の伝来は、西暦970年より後から、
1058年の間という事である。なお本ブログでは、
藤原道長が藤原隆家の嫡男から、西暦1018年に
玉帯を受け取っている点から、その伝来は
西暦970年~1018年の間、特に西暦1015
年年初が最適時期と見ている。
 この点に関しては、冒頭述べた木村義徳氏(西暦
2001年)の持駒使用の謎の反論が、こちらも有
名である。彼は、日本への将棋の伝来は、それより

ずっと早い

と見ているのだ。そこで彼は「識字の出来ない庶民
の間だけに将棋が有り、かつ当時の先進国としての
北宋のゲームと日本の平安小将棋との間に乖離があっ
た。そのため文献引用型の和名類聚抄では、”将棋”
の項が存在出来なかった」との旨の主張が、
持駒使用の謎では、なされていると認識される。
そこで今回は、

木村氏の意見に、本ブログは反対するという立場

から表題のように、和名類聚抄の八道行成に、庶民
の間での将棋さえも、西暦970年には不存在であ
る事が、淡くではあるが、示唆されているとの旨を、
以下述べる。
 何処に記載されているのかから書くと、『

内典伝、蹴鞠擲石打投壷牽道、八道行成、一切戯笑、
悉不観作(二十巻物では”作”は”印”)』と項目
の”八道行成”の冒頭に記載

されている。
 では説明を開始する。
 今述べた内容は、少なくとも”高貴な人間は、下
世話の蹴鞠擲石打投壷牽道、八道行成は、気晴らし
にすぎないものであるから、軽く見ろ”との気持ち
が込められているように、少なくとも私は考える。
なおこの一文は、樗蒲の説明の直後に入っている。
 だから、

下世話しかしない遊戯類の字も、字としては使うの
で、和名類聚抄には入れた

とも淡く取れるのではないかと私は疑う。逆に言う
と従って、将棋は西暦970年時点では、遊戯はやっ
て楽しみ、後には残らない事だけしている下世話の
間でも、少なくとも全くもって流行っていないので、

文書に将棊等と書く事すら無かった事を示している

という事、なのではないのだろうか。
 なお(箋注)和名類聚抄には、後世の書き込みが
大量にあると私は認識する。たとえば囲碁には、こ
の書の二十巻物が、成立した時点でも準備中と見ら
れる、北宋時代の太平御覧が引用されているし、
”意銭”の項には、紫式部日記や徒然草までもが引
用されている。
 
他の巻本にも有る、項目名以下のトップ記載部分だ
けが、西暦970年代までの成立

ではないだろうかと疑う。だが、冒頭に述べた内容
は、そのまさにトップの記載である。この部分は
970年頃には皇族向けに撰者が書いたと、一応見
なせるのではないかと私は考える。なお和名類聚抄
が百科辞典のように見えるのは、箋注和名類聚抄に
ついては、加筆の存在の為らしい。
 そのためか、前記持駒の謎では”和名類聚抄は、
漢和辞典である”と強調されている。そして、たま
たまだと私は考えるが、”百科辞典”と紹介した
増川宏一氏に対し、本筋からは、少しずれてのでは
ないかと懸念するほどの激しい攻撃を、複数回行っ
ているようだとの印象を持っている。しかしながら

それは、増川氏がたまたま、箋注和名類聚抄だけ見
て、そのように彼の著書に書いただけ

の疑いが濃いと私は思う。
 なお実際には、新選字鏡のように、見出し型の
一字漢字が書いてある訳でもないし、個々の漢字の
使い方が書いてあるわけでもないので、現代で言う
”漢和辞典”とも余り言えないのではないかと、私
は木村義徳氏の論を、この点でも疑っている。
つまり和名類聚抄たとえば二十巻物の古写本の類は、

金田一京介監修の講談社現代実用辞典(1967)
や、角川実用辞典(1977)に近いもの

なのではないかと私見する。つまり字を忘れたとき、
どんな字なのかを調べる辞典なのではないかという
意味である。平安時代の当時としては、和名類聚抄
はその目的の為、多くの熟語が載っている辞書とい
うイメージの書物だったのであろう。尚”実用辞典”
については、パソコンの普及した21世紀の現時点
では、余り使われない書物になったと見られるので、
上記に詳しく書名を私は書いたのである。
 本ブログの従来よりの主張の通り、日本の将棋は
西暦970年より後に伝来し、西暦1018年には
ほとんど今の形で、経帙牌が入手しやすい、太宰府
だけでだろうが指されていたと、以上の事から依然
としてここでは考える。そのように思考するのは、
最初から平安小将棋がその

ルールがまるごと伝来したので、後は安価に作成で
きるゲーム具を工夫するだけとなり、そのためだけ
なら、方法を思いつくのに長時間かかるはずも無い

のではないかと疑えるから、1018よりずっと小
さい伝来年を考えなくても良いからである。つまり
11世紀に、ここでの仮称、”太宰府・博多経文
全国発送所”の経帙牌題字作成担当官の手に掛かる
事によって、

伝来将棋の立体駒が、経帙牌が原型の五角形駒にな
るのに数時間であったという説では何故いけないの
か。木村義徳氏は、より正確に示すべきだ

と私は考えるという話に、更になって行くのである。
(2020/11/30)

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松江城下町遺跡の出土駒は6枚(長さん)

以前島根県松江市に西暦2011年にオープン
した松江歴史館を紹介し、江戸時代には敷地内
とみられる、まさにその地点には、松江城下町
遺跡が有って、そこの発掘調査で将棋駒が、少
なくとも4枚出土して、展示もされているとの
旨紹介した。後に奈良文化財研究所発掘報告書
データベース”全国遺跡報告総覧”の中に収録
されている発掘報告書により、その2007年
頃発掘された出土駒は加えて2枚有り、

全部で6枚であるらしい事が判った。

その発掘報告書の表題は、以下の通りである。
(島根県)松江市文化財調査報告書第139集
松江城下町遺跡(殿町287番地)・(殿町
279番地外)発掘調査報告書 本文編
pdfファイルは以下の3つに、たまたま分割
されている。が上の方の二つに出土した将棋駒
に関する情報がある。
14541_1_松江城下町遺跡殿町287番地・殿町279番地外発掘調査報告書.pdf
14541_2_松江城下町遺跡殿町287番地・殿町279番地外発掘調査報告書.pdf
14541_3_松江城下町遺跡殿町287番地・殿町279番地外発掘調査報告書.pdf
 なお、江戸時代初期の松江城の城主は堀尾氏、
将棋駒ははその時代の家老、佐々氏の屋敷がそ
の場所に有って、かつてその者の所有物だった
とみられているようだ。ちなみに、出土地点は、
佐々氏の屋敷域内のうち”殿町279番地外”
とされた方である。そして今回新たに加わった
2枚は、

一つに桂馬駒が別の4枚と共出土して北屋敷に、
石製又は骨製とされる金将駒が、別棟の南屋敷
から出土

しているという。
 最初の方の桂馬駒は、下の図のようなもので
ある。

島根県松江城下町桂馬.gif

成りは普通の、”桂馬裏の一文字『金』”のよ
うに私には見える。形から江戸時代でも初期の
もののようだ。
 上の駒の写真は、一番上のpdfファイルに
あり、記載ページは172ページ付近である。
成立は松江歴史館に展示してある4枚と同じく、
西暦1634年~1637年の江戸時代前期と
見られるようだ。
 もう一枚の石製又は骨製の金将駒は、前記
pdfファイルで2番目の245ページに、
スケッチだけが載っている。彫った駒で墨が
谷間の部分に、込めてあるとの旨の解説も、該
発掘報告書にある。西日本に石製の将棋駒が
江戸初期に有る事は、これで間違い無さそうだ。
 なお松江歴史館に展示してある4枚のうちで、
本ブログが、

戦国時代の混ざり物ではないかと疑った、

細長の香車駒の成りが、発掘報告書のpdfで
一番前のpdfファイルの別の4枚と同じく、
172ページ付近に、写真で出ている。
 裏側の字が戦国時代成立と見られている、

観音寺城下町遺跡の、細長歩兵駒の成りと酷似

の”一文字右上がり『金』”である事が、この
発掘報告書の写真のおかげで私にも良く判った。
 この発掘報告書の中では、実は細長の香車が
貴重だと私は見ている。つまり松江城下町遺跡
のこの10年の間の発掘により出土・発見され
た将棋駒6枚のうちで最も重要な一品は、後に
”石製又は骨製金将”が分析の結果”象牙駒”
との結論に仮になり、金銭的には当然その金将
だという事になったとしよう。
 しかしそうであったとしても、学術的にはや
はり、既に歴史館に展示されているとみられる、
”細長の香車駒”の方が、他でたまたま、余り
発掘されない戦国時代の、成り香車の金の字の
有る”香車駒”であるという点で、ランクが一
段上だと言う事なのであろう。(2020/11/29)

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愛知県豊橋市の吉田城跡から磁器製桂馬(長さん)

以下も、奈良文化財研究所の発掘報告書
データベース”全国遺跡報告総覧”
の中に収録されている、発掘報告書よりの
情報である。愛知県豊橋市の吉田城跡より、
西暦1994年頃に、表題のように磁器製
の桂馬駒が一枚出土しているようだ。
江戸時代成立で武家屋敷跡とみられている。

愛知県吉田城桂馬.gif

発掘報告書の表題は以下の通り。
愛知県埋蔵文化財センター調査報告書
第59集 吉田城遺跡Ⅱ
愛知県東三河事務所地点の調査
1995年、
財団法人 愛知県埋蔵文化財センター。
東三河総合庁舎建設に伴うもので、
愛知県豊橋市の八町通にある遺跡である
という事だ。
web上のpdfファイル名は、
以下の通りである。
17305_2_吉田城遺跡2.pdf
将棋駒の写真は、2つ目のpdfの最後の
方にある”図38”の”近世の遺物(16)
人形類・木製品”に載っている。木製には、
私には見えない。
なお、遺跡の報告書の表題自体は、以下の
名称の別のpdfファイルが前付けで有る。
17305_1_吉田城遺跡2.pdf
説明も下の別ファイルにあり、文字は染付
と記載されている。
正確な成立年代は、判らないようである。
 同様な遺物を本ブログで過去、複数紹介
した。少なくとも愛知県でも近世、磁器製
の駒が盛んに使われた事は、確かなようで
ある。(2020/11/28)

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熊本県の熊本城より泥面子の立体駒出土か(長さん)

以下も、奈良文化財研究所の発掘報告書
データベース”全国遺跡報告総覧”
の中に収録されている、発掘報告書よりの
情報である。
 今回の遺物については、

泥面子のように見えるが、将棋用立体駒か

と疑われているとの事だ。
報告書の表題と、公表年は以下の通り。
熊本県文化財調査報告第303集
熊本城跡遺跡群。
副題によると新馬借遺跡、花岡山・万白山
遺跡群の発掘報告書のようである。
発行年は西暦2014年3月、熊本県
教育委員会の発行とある。
西暦2012年頃に発掘調査が行われたよ
うである。
 発掘報告書のweb上のpdfファイル
名は、以下の通り。
15665_1_熊本城跡遺跡群.pdf
表題の泥面子は、発掘報告書の303ペー
ジに写真が載っている。PL96.出土
泥面子(1)の下の段の右から3番目の、
たぶん頭だけの人物像である。

熊本城泥面子.gif

説明が、同報告書の301ページの下段の
方にあり、将棋用が疑われる旨の記載があ
る。正しければ、

はっきりとした、日本の将棋用立体駒とし
ては初

となる。作られたのは、江戸時代後期と見
られるようである。なお、駒名の書いた泥
面子は合計すると2枚有ると言う事である。
成りに対応して、裏にも柄が有るのかどう
かについては、私には良く判らない。また
残念ながら、画像の鮮明度の都合により、
たまたまなのだろうが、報告書の写真から、
人物の額に書かれていると見られる青字の
駒名は、私には読み取れない。
 泥面子と兼用のような形である事から見
て、将棋駒としても、本当に使用されたの
かどうかについては、今後に残された課題
であろう。(2020/11/27)

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兵庫県の深田遺跡将棋駒の写真記載報告書(長さん)

兵庫県豊岡市日高町水上字深田の深田遺跡で、
1980年代に歩兵駒が出土し、興福寺駒が
知られるまで、最古のレコードであった事は
よく知られている。
 が成書にスケッチの紹介が有っても、書い
てある字が何であるか、判るような写真を、
私は見かけた事が無かった。しかるにweb
上のブログの1ページに、歩兵の字が鮮明に
判る写真の載った、発掘報告書の紹介がある
のを、最近見かけた。
 報告書は、以下のような表題のようだ。
兵庫県文化財調査報告書第99冊
-深田遺跡・カナゲ田遺跡-平成3年3月-
兵庫県教育委員会(1991)
ただし、将棋駒の情報は1986年頃発行の
木簡研究8号に載っているとみられる。今述
べた事は、”天童の将棋駒と全国遺跡出土駒、
(2003)”に載っている。なお同書には、
駒のオモテと裏の写真もある。が、冒頭にも
示したようにどちらの面の字も、私にははっ
きりとは読み取れない。
 なお、web上で発見した、以下の発掘報
告書が紹介されたwebのページは、永らく
更新されておらず、閉鎖の恐れが有る。ブロ
グの表題は、以下の通り。

古墳から歴史を学ぶ会
2016年07月25日
ページ表題:
豊岡市の遺跡6-深田遺跡
URL:
https://15726469.at.webry.info/201607/article_5.html
ブログのトップページのurlは以下の通り
である。
https://15726469.at.webry.info/
問題の歩兵駒の写真は、以下の図のようなも
のである。

兵庫深田歩兵.gif

前にも述べたが、全体として磨耗して小さく
なったいる分を考慮せずに、写書しようとし
ている為であろう。元々字は、さほど崩れて
いない。つまりスケッチで出回っているもの
よりも、歩兵の字は、達筆との印象である。
 しかしながら、成りの駒名は、どんなに目
を凝らして見ても、”と”だか”金”だか、
私にはよく判らない。完全に消えているか、
または、最初から無地の可能性も有りそうだ。
 西暦1094年~1096年の間の成立と
され、興福寺1058年物を除いて、今の所、
明確な将棋出土駒としては、古さで第2位と
みられると、私は認識している。(2020/11/26)

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広島城跡より石製将棋駒状物品が出土(長さん)

何度も紹介した、以下も奈良文化財研究所の
発掘報告書データベース”全国遺跡報告総覧”
の中に収録されている、発掘報告書よりの
情報である。今回は、以前の岡山城二の丸跡
から出土した、石製の将棋駒物品に似た、
遺物の話題である。場所は今度も瀬戸内で、
広島県の広島城から西暦2005年頃の発掘
で、見つかった遺物である。
発掘報告書のpdfファイル名は、以下の
通りである。

16633_2_広島城跡法務総合庁舎地点-広島市中区上八丁堀所在-.pdf

そこの、352ページの後に続く、カラー写
真のページの6枚目の中段左に、五角形の問
題の遺物の写真がある。

広島城石駒写真.gif

 なお、同じコンテンツの41ページには、
スケッチも載っている。典型的な将棋駒型で
あること自体は、間違いが無い。”無地石製
将棋駒擬似物体”類に入れて良いように思う。
ただミニチュアの動物・人物坐像などが多数、
広島城跡の、この地点から出土しているもの
の、碁石など他の種類の遊戯駒類の数は、全
体としてわずかである。
 従って、このケースは将棋駒では無く、

将棋の駒型の、家具または建築部材の穴埋め
のための小ピース

である疑いも一応持たれる。
 発掘報告書の本文に当る16633_1_・・・の
方にも、この遺物が将棋駒だとは記載されて
いない。また墨跡ありとも特段なっていない。
成立は、安土桃山時代末から近世江戸時代で
間違いないと思われるが、この遺物が将棋駒
であるという、充分な証拠は無いようだ。
 なお、発掘報告書の記載が多少曖昧だが、
この地点からは、碁盤の足ではないかと疑わ
れる物品は、共出土しているらしい。
(2020/11/25)

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何かに”なる”事を示す鎌倉出土かわらけ(長さん)

以下、鎌倉考古学研究所著、中世鎌倉の墨書
に記載された、墨書かわらけ等-105番の
話題である。

この史料には、”になる”と書かれている。

結論から先に言うと将棋ルール書ではなくて

霊前に納める仏具だと本ブログは考える。

では論を開始する。
 問題の遺物の”になる”から本ブログの場
合直ちに思いつくのは、”金に成る”である。
 しかも、左にズレているのが気になるが、
以下の図のように、”に”の上には”ん”と
書いてあるようにも読める。

鎌倉市御成町868番.gif

しかしその、平仮名の”ん”には見える字は、

左に偏っているのが確かにおかしいと言える。

そこで以前にも用いた以下の成書を見てみる。
”覚えておきたい古文書くずし字500選”
柏書房編集部編、柏書房(2002)
 すると、左にズレていて”ん”に見えるケー
スは、

”にんべん”らしいと判る。

この事から、この”かわらけ”には、

”仏にぞなる”等と書いてある

事が疑われる。つまり故人のの霊前に納める、
何らかの器具として使用した物品ではないか
と、疑われるという事である。
 なお、冒頭に述べた出典文献には、文字が
墨でかわらけの裏面に記載されている事。元
報告書が”若宮大路周辺遺跡発掘調査報告書”
で1993年7月発行である事。成立年代が、
13世紀中ごろ~後半である事。発掘地点が、
神奈川県鎌倉市御成町868番(地番)であ
る事などが、表形式で記載されている。
 ちなみに記載文献は、本ブログでたびたび
登場した集成鎌倉の墨書、鎌倉考古学研究所、
西暦2017年の、記載の箇所は具体的に、
17ページの下の遺物で、かわらけ・
白かわらけの105番と、遺物番号が付いた
史料である。
 この遺物については、”金に成る”と書か
れていたとしても、”主語”が不明だとすれ
ば、情報に中身が希薄な為、これまでは、将
棋の遺物として疑いの有る物には、本ブログ
の場合、入れてこなかった。というよりは、
”になる”では、余りに漠然としていたので

ノーマークだった。

しかしこれでは、うかつだったと言える。そ
こで最近見返してみて”になる”の3文字が、
”金に成る”にますます見えてきたので、気
になり調べ直した。
 が、以上の結果から、この遺物については、
将棋に関連した内容が、はっきりと書かれて
いるようには、残念ながら見え無いという事
になってしまった。(2020/11/24)

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島根県松江松江藩家老三谷家遺品の将棋駒(長さん)

今回は出土駒ではなくて、代々の旧家に伝わる
遺品から、天保期の将棋駒が恐らくワンセット発
見された話題である。出典はいつものように、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
”全国遺跡報告総覧”の中に、遺跡発掘では無い
のだが、報告書として収録されている。
pdfファイル名は、以下の通り。
14107_1_松江藩家老三谷家文書概要調査報告書.pdf
表題のように島根県松江市で、江戸時代の松江藩
の家老の家、三谷家の子孫宅より見つかった、
大量の遺品の中に、恐らく駒箱に入って、天保期
の日本将棋の将棋駒セットが、ワンセットまるま
る発見されたとみられる話題である。
 文献の表題は以下の通り。
松江藩家老三谷家文書概要調査報告
2005年3月、松江市教育委員会。
そこの12ページ付近に”長持”に入って、たぶ
ん駒箱に保管された、将棋駒セットが入っていた
との情報が有るようである。他に天保年間の記載
のある、厚紙の付いた立て盆が、同じ”長持”に、
梱包されていたようだ。
 残念ながら、発掘報告書の内容はこれだけのよ
うであり、これ以上詳しい事は判らない。
 江戸時代に関しては、出土するだけでなく、
遺品が建屋の中から発見されるケースもあるよう
である。そのため、こうした情報にも絶えず気を
配る必要がありそうだ。(2020/11/23)

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青森県弘前市寺沢遺跡で将棋駒出土(長さん)

なんと前世紀の終了時点で、日本国内の出土
将棋駒の北限は、岩手県や秋田県ではなく、
青森県だったようだ。
 奈良文化財研究所の発掘報告書データベース
の”全国遺跡報告総覧”に、弘前市教育委員会
編集の、2000『中野(2)・中野(1)・
寺沢遺跡発掘調査報告書』が、文献名だけ掲載
されている。そして発掘報告書データベースの
定型方式のフォーム中に、”主な出土遺物”の
項目があり、

青森県の寺沢遺跡より近世成立の将棋駒が出土

との旨記載が有る。なお遺跡の場所は、青森県
弘前市大字清水富田字寺沢だそうだ。
 そしてこれが、私の知る限り

出土駒の北限のレコードである事は、言うまで
も無い。

 ただし、日本将棋の広がりが近世に、青森県
弘前市までだったというのは明らかに不自然だ。
 つまり例えば江戸時代発行の、将棋駒絵の有
る南部盲経が、弘前市よりも緯度の高い地点で
見つかっていると、これに抜かれる事も、確か
ではある。
 なお報告書によると、この発掘の目的は、
”県営長坂地区農免農道整備に伴う発掘調査”
との事である。残念ながら、pdfファイルで
web上にコンテンツが出ていないので、それ
以上詳しい事は、私には判らない。
 前世紀の出土とすれば、天童の将棋駒と
全国遺跡出土駒に載っていてもおかしくなかっ
たはずだが。たまたま当時は、研究者に見落と
されていたのだろう。
 近世の成立とすれば、特に目新しい情報では
無い。むしろ江戸時代、南部藩よりも更に北の、
たとえば北海道の道南、松前藩領内でも、将棋
が指された証拠が、恐らく出ているだろうと見
るべきだろう。(2020/11/22)

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高松城から桂馬駒2枚(?)出土(長さん)

以前東京都文京区の、本郷元町遺跡付近にある
高松藩の江戸屋敷跡を紹介した事がある。
が、四国の香川県高松市にある、本家の高松城
から2002年頃に、桂馬駒が恐らく2枚出土
し、本当に出土駒”ゆかりの藩”になっている
ようだ。
 駒はweb上に開示されており、いつも通り、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
”全国遺跡報告総覧”の中に収録されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
10364_1_高松城跡松平大膳家中屋敷跡
 現物はスケッチで2枚とも書いてあるが、報
告書をざっと見た限りでは、写真はオモテ面が、
はっきり桂馬と判る、以下の一枚だけのようで
ある。

高松城桂馬駒.gif

前後したが、発掘報告書の名称は以下の通り。
高松城跡(松平大膳家中屋敷跡)、2002年
12月、高松市教育委員会・香川県弁護士会
弁護士会館建設時の、発掘調査との事である。
なお、将棋駒は江戸時代、江戸後期18世紀頃
の成立との事。
 成りは2枚共、桂馬の成りの一文字金のよ
うに、スケッチからは見える。一枚のオモテ面
ははっきりと桂馬だが、もう一枚はかろうじて、
2文字目が馬のように見える程度で、字が消え
かかっている状態での発掘のようである。
この城でも江戸期、将棋が盛んだったのであろ
う。(2020/11/21)

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