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無地の石製五角形遺物は家具か建築用部材(長さん)

以前に本ブログでは、以下の3箇所の遺跡から
石製の将棋駒が出土したという報告をした。

愛媛県松山市小坂遺跡
岡山城二の丸跡
福井県疋壇城跡

このうち福井県疋壇城跡について、本ブログの
管理人は、スケッチも写真も見ていない。ただ
し、成書には駒名が記載されており、正しいと
すれば、将棋駒と見なせる。しかしながら、
他の2箇所の遺跡の遺物については、形こそ
将棋駒ではあるが、表面の墨跡は石製では残り
にくかろうとは言え、全く判らない。それでも、
岡山城二の丸跡からは、他の遊戯具も共出土し
ており、将棋駒の可能性は、かなり有るだろう
との旨述べた。ただし、松山市小坂遺跡の場合
には、他の遊戯具が出土しておらず、将棋駒と
して、使用したとの形跡は余り無い。今回は、
愛媛県松山市小坂遺跡と、ひょっとすると、
岡山城二の丸跡の将棋状の石製遺物について正
体が、将棋駒以外のケースを議論する。結論か
ら書く。

”コマ”という名称の、穴埋め用の家具用ない
し建築部材が疑われる。

では説明を加える。
 web上には、今述べた使い方は、現代にも
使用する用語との情報が複数ある。
 ただし、部材は小さければ何れも”コマ”と
言うのであり、

五角形である必要は無い。

だが、将棋駒の形は、一つには先細りで作業時、
穴埋め部材として挿入がしやすい形である事、
先が三角であり、中央部に挿入して奥に押し込
めるのに、小さな力で済むような形である。
 だから、

家具または建築部材用の強度の有る石製コマの
形態として、五角形のものが、有ってもおかし
く無い事は確か

ではないかと本ブログでは考える。また前記の
3箇所の遺跡の遺物は、近世ないし、安土桃山
時代程度のものである。だから、

将棋自体が、充分に広まっており、家具や建築
部材のコマという部品に、将棋駒の意匠を取り
入れる動機付けは、自明に存在する

とみなせるのは明らかであろう。江戸時代には
農村部でも将棋が自明に知られていた事は、
南部絵暦にも、将棋の王将の絵が使われていた
ことからみても明らかである。
文献:ものと人間の文化史”南部絵暦”、
岡田芳朗著、法政大学出版局、西暦1980年。
その27ページの右下2列目、下から3段目。
 だから、たまたまだろうが、何かの建造物の
部材同士の、隙間を埋める部品として、特に
愛媛県松山市小坂遺跡の史料は、使われた物品
のたまたまの出土である可能性も、少なくとも
否定は出来ないのでは無いか。
 よって以上のように、たまたま石で将棋駒を
作成した例が有るのは確かなようだが。石製の
五角形型の物品には、建物や家具等の部品が
含まれている可能性も、完全否定は出来ないの
ではないか。
 以上のように、本ブログでは考えるのである。
(2020/11/20)

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愛知県一宮苅安賀遺跡で2016年将棋駒出土(長さん)

奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に収録されている、2001
年愛知県の担当部署発行の発掘報告書とは、
違うコンテンツのようであるが。表題のように、
西暦2015~6年頃に、愛知県一宮市の
苅安賀遺跡または苅安賀城跡から、将棋駒が
2枚程度出土している模様である。簡単にその
旨の記載だけが、表形式で以下のweb上の
pdfコンテンツの中に、開示されている。
表題は以下の通り。
一宮市博物館年報(15)、平成27・28年
事業報告、発行一宮市博物館(2018)。
web上のファイル名は以下の通り。
nenpou15.pdf
なお、以下のpdfにも、ほぼ同じ内容が記載
されている。
nenpou15-4.pdf
ページは、上の方の文献に関し、24ページの
最下段に有る。

 駒名は書いてないが、将棋駒は苅安賀で2枚
出土した

ようである。
 更にweb上には別の文献検索サイトに、
苅安賀遺跡に関する発掘報告書が、2001年
版とは別に、2016年に作成されているとの
情報が有る。web上には2016年版のその
発掘報告書の方は、今の所まだ公開されてはい
ない。が恐らく、そちらの方にそれらの将棋駒
の情報が、出ているのであろう。
 全国遺跡報告総覧に収録されていないのが、
残念である。なお苅安賀城は2001年の発掘
報告書、ファイル名で1880_1_苅安賀遺跡.pdf
によると、安土桃山時代の城との事である。
将棋駒は恐らくだがその頃のものなのであろう。
(2020/11/19)

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高槻市市長対島本町町長の中将棋結果(長さん)

2020年10月3日に開催されたと聞く、
大阪の高槻市市長対島本町町長の、中将棋
の娯楽の対局の模様が、web上に少しづ
つ増えてきたようだ。
 たとえば以下のサイトにその紹介がある。

https://ameblo.jp/taetae-yas/entry-12629188042.html

紹介したのは”将棋と韓国語と少女時代”
アメーバブログ管理人ヤッスー氏のページ。
結果は、通常のルールでは指し掛けで止め
であったようだが。予め、各駒の点数を決
めておいて、残り駒点数で勝敗をつけたよ
うである。詳細、本ブログの管理人は知ら
ない。ともあれ結果、日本将棋アマチュア
初段の資格を持つという、高槻市濱田市長
が勝ちと判定されたそうである。以下は、
紹介したブログに示された、と途中局面で、

島本町の山田町長がかなり苦戦だが、両者
マトモな中将棋を指している

と見て取れる。

高槻島本中将棋.gif

局面、▲五十飛車と、高槻市市長が5五位
置の、後手の龍馬取りを掛けた所だと見ら
れ、基本は△2二龍馬と引くしか無いと、
私は見る。しかし先手には次に▲8七龍王
(2七)と、後手の8ニ位置の獅子取りを
掛けながら、2七位置の浮いた龍王の悪形
を消す手段が有る、そのため、先手に少し
余裕が感じられる。先手の獅子には、この
画面で解説者の体が邪魔になり、よく判ら
ないが、たぶん繋ぎ駒は無いようだ。以上
の事から、ともかく先手は、これ以上獅子
が後手陣に踏み込むのは無理だが、中央部
の制圧は間近だ。
 指し掛け時の取り込駒を見ると、先手は
図の局面で9八位置の小駒の銅将を繰り出
して、捨て駒にした形跡が無い。よって、
先手はその後、ゆっくり9八位置の銅将を
進めて行く駒数多数将棋、独特の指し方を
しなかった事が推定される。だからその、
”大味攻め”の欠陥を突いて、後手は先手
の前段に出た獅子の虐めに集中する同じく
中将棋独特の戦法に、より熟達していたと
すれば、後手の山田町長には、この状況で
はまだまだ、

逆転のチャンスが有ったのではないか

と、私には疑われた。何れにしても、両者
の対局は、駒数多数将棋の対局としては、
日本将棋の森内俊之九段の中将棋参入以来、
久々に、社会的にインパクトが有ったイベ
ントになった。(2020/11/18)

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集成鎌倉の墨書。木-193は将棋と無関係(長さん)

以前述べたように、私には古文書読解の能力
が無い。のでぱっと見に、墨書木製品が有っ
て、書いてある内容が将棋に無関係であって、
例えば伝言板ではないかと私に思えても、確
証の無い状態である。
 そこで今回は、今述べたような例について、
齋藤均氏に関連する、くずし字の入門書を複
数使い、内容を解析した例を示す。なお以前
にも紹介したが、今述べた成書は以下の2冊
である。
”今のことばで覚える初めてのくずし字”
齋藤均、柏書房、2016年
”よくわかる「くずし字」見分け方の
ポイント”、齋藤均(監修)山本明(著)
メイツ出版、2017年。
 これらの成書から、特定のひらがなに形の
似た別の読みの、くずし字変体カナの表を作
成するなどし、難読文字史料の解読を試みた。
 今回読解を試みた木製品は、具体的には以
下の書籍に、紹介されているものである。
集成 鎌倉の墨書、鎌倉考古学研究所、西暦
2017年。
この中で遺物は、2014年より少し前に、
北条時房・顕時邸跡から出土した成立年代が、
13世紀後半の折敷とみられる木製品である。
そして上記書の155ページに”木-193
番遺物”として記載されている。以下のよう
に、確定的ではないが、一部読める部分は、
別の所から鎌倉に戻る者(”入道”何がしか?)
の伝言板のようである。

鎌倉墨書木_193.gif

上図のように”うまにて品川 は入(←いり)
そ(うら)む 口-----口そうろう(?)
あしたのくれ(?)ころ つきそうろう 
入道(?)(以下、左側不明)”に近い内容
のように、私には見える。なお、品川の”品”
の字については、以下の成書で確認している。
”覚えておきたい古文書くずし字500選”
柏書房編集部編、柏書房(2002)
 この遺物は、文面の長さから見て、総計が

将棋のルールが記載されているルールブック
の文字数に近い

と以前から私は疑い、その為”木-193番”
遺物は、特に気になってきた。しかしながら、

ぱっと見に、何かの伝言ではないかと見て、
読み飛ばしていた

のである。しかるに今回、前記解説書と首っ
ぴきになりながら、どうやらこうやら、まだ
曖昧にだが、概略の内容把握にこぎつけた。
 そして恐らくだが、

出典鎌倉考古学研急所の著、集成鎌倉の墨書
には、以前本ブログで述べた分だけであり、
もうこれ以上将棋駒や、将棋ルールが記載さ
れた史料は載ってい無いのではないか

と私は、2020年の将棋の日の頃に思って
いる。
 やはり、今述べた遺物は、たまたま大雨か
何かで、紙で使い走りの者に渡すと溶けてし
まうので。折敷か何かに、たまたま予定を書
いて、家に連絡を入れた、主人かその他の者
の伝言文の、たぐいであったのかもしれない。
(2020/11/17)

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何故今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札解読(長さん)

今回は、古文書のくずし字に関し、ほぼ素人
である本ブログの管理人が、神奈川県鎌倉市
出土の南北朝時代の古い文字史料の木札、”
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札”
の解読が出来たのか、その経緯を解明する。
 なお従来成書には、この史料については、
”解読不能”との旨の記載がある点について、
本ブログで繰り返し紹介している。
 回答から書く。

別の現代ひらがな文字の形とまぎらわしい、
変体カナの字が、たまたま無かったため

である。
 では、説明を加える。
 1900年以前の古”くずし字”、あるい
は歴史的仮名遣いとか変体カナ変体仮名遣い
と言われるものに関し、どのような文字が、
現代の平仮名と形が似ていて、まぎらわしい
のかについて、例として以下の複数の成書に、
解説が記載されている。

”今のことばで覚える初めてのくずし字”
齋藤均、柏書房、2016年
”よくわかる「くずし字」見分け方の
ポイント”、齋藤均(監修)山本明(著)
メイツ出版、2017年。
 昔のサ、ツ、マ、のくずし字が”は”に
全部似ているとか、キ、ニ、マのくずし字が
”よ”に全部似ているとか、リ、ホが”わ”
に似ているとか、

誤読を惹起させる”ワナ”は多数存在

する。ところが、今回ここで問題にしている、
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札
のケースは、漢字の近が斤になっていたもの
の、行や上が極簡単な字であって紛れが無かっ
た等、漢字が、平易である上に、その数自体
が少なかった。その為この史料、”
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札”
は、”ひらがな”さえ、読み間違えなければ、
解読できるケースであった。そしてたまたま
だったが、万のくずし字を用いた”ま(読み
は実際には”も”)”を除いて現代ひらがな
類似形の変体仮名が、前記成書を参照して判っ
たが

奇跡的に、ほぼ無かった。そのためくずし字
素人の私にも、たまたま読めただけである

と判明した。そして更に幸運な事に、書き手
が現代人に”万”に見えるように、ま←万の

書き順を、たまたま間違えて覚えていた。

そのお陰で”盲虎(”まうこ”と表現)”の
読みまで間違えないように、なっていた。
 結局つまり、私のような古文書ド素人にも、
この木札は”まぐれで”読めただけだったの
である。
 なお、前記2冊の成書を参照して、個々の
現代ひらがなに類似の、変体くずし字の表を、
本ブログの管理人は、以下のように作成して
みた。

変体カナ.gif

 上の表の特徴は、各ひらがなについての
変体カナを表示したのではなく、それぞれの
ひらがなについて、

全く別の読みなのに、その平仮名に形の似た
変体カナを集めている

という点にある。このような”便利帖”予め
作成しておかないと、実際には史料の誤読を
防ぐ事が、出来ない事は明らかだ。
 何れにしても、少し長い文脈の書いてある
出土遺品等に接した際、将棋の史料に、ぱっ
と見で見えなくても。私の場合には解読力が
無い為、そう見える恐れが有ると、今後は戒
めて読み返しを、何回か繰り返すようにした
いものだと、以上の結論から、自身悟るよう
になったのであった。(2020/11/16)

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二本松市将棋駒は2010年東京都千代田区出土(長さん)

福島県二本松市の二本松市歴史資料館で現在展示
されているとみられる将棋駒は、西暦2010年
前後に、東京都千代田区永田町二丁目の溜池遺跡
で、衆議院議員会館の立替工事の際に、発掘され
た、二本松丹羽藩江戸屋敷跡から出土とみられる
遺物のようである。

残念ながら、web上に発掘報告書は公開されて
いない。

溜池遺跡衆議院新議員会館整備等事業に伴う調査
という名称で、発掘報告書の存在のみが、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベースの、
”全国遺跡報告総覧”の中に、収録されている
urlは以下の通りである。
https://sitereports.nabunken.go.jp/25317

発掘担当者は、(財)東京都スポーツ文化事業団
 東京都埋蔵文化財センターとある。
報告書の発行年月日は2011年3月末、
遺跡所在地は、正確には地番号で
東京都千代田区永田町二丁目1番地内、
調査期間は2007年6月26日から、
2010年2月25日だという事だ。

以下のサイトに、成立年代の情報が有る。

エイチティティピー://edo.jpn.org/cyber/index.htm
このサイトの会報131の”斉藤進本文pdf”
の説明によると、将棋駒等の成立年代は17世紀
頃との事のようである。
 そこにも将棋駒の駒種は全く記載されていない
のが、残念である。(2020/11/15)

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福島県会津若松市鶴沼遺跡から王将?墨書土器(長さん)

 以下は墨書きの内容が断片的であり、実際
には何んと書いてあるか、曖昧である。成立
年代は、

9世紀であり木製品ではなくて陶器製の遺物

である。
 発掘されたのは、西暦2013年前後であ
り場所は会津若松市。磐越西線で郡山駅から
会津若松駅に到着する少し手前、会津大学の
校舎の西の、福島県会津若松市高野町
(こうやまち)中沼字鶴沼の鶴沼C遺跡の中
でとの事である。
 遺物が記載された文献が、例によって
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース
の”全国遺跡報告総覧”の以下のpdfファ
イル中に、収録されている。

23462_1_会津縦貫北道路遺跡発掘調査報告15.pdf

 報告書は、福島県教育委員会等が発行。
web上での確認は容易。
 また上記発掘報告書の編集者は、
財団法人の福島県文化振興財団遺跡調査部と
なっている。なお、以下図のスケッチは、元々
の上記発掘報告書の74ページのスケッチを、

更に私が模写したものであり、正確ではない。

北会津縦貫道路.gif

写真は多分無いと思うが、元々の発掘報告書
のスケッチについては、前記文献で確認され
たい。

2文字目が余りに断片的だが、将の右上隅の
ようでもある。

 なおこの遺跡からは、同じく平安時代初期
の墨書土器等、文字資料が多数出土しており、
官営跡ではないかと、疑われているように、
報告書から読めると見ている。当然の事だが、

万が一将棋駒の字だとするとほぼ最古になる。

他に”馬”と書かれた、本当に馬用と疑われ
る器が、2~3点出土している。

遊戯が行われた形跡は、遺跡の他の遺物から
は特に無い。

よって将棋駒の遺物の可能性は低いと、私は
個人的に見る。が、一応注意はしておきたい。
(2020/11/14)

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何故平安大将棋に鉄将前飛龍の変種が無い(長さん)

今回は、かなりプリミティブな話題である。
その為二中歴に、平安大将棋の初期配列が、
ごたごたと、文章で記載されていると見るの
が自然だが。このゲームの初期配列は、必ず
しも覚え易いとは言えない。

2段目の配列の空升目が交互の方が記憶容易

なのは明らかである。
 こうならないのは、飛龍が桂馬の前段であっ
て、鉄将の前段に無い為なのだが。そのよう
な変種が平安末期に、何故生まれなかったの
かを、ここでは問題にする。回答から書く。

鉄将前の歩兵を、桂馬を出す為に上げると、
相手の飛龍で只取りになるから

である。
 では、一応説明を以下に加える。
 本ブログでは、平安大将棋の成立を西暦
1110年頃、その解説書として、懐中歴や
その他の”手帳”の類が成立したのは、早く
て西暦1170年頃だろうと見る。なお、以
前に、懐中歴に平安小将棋が書かれていても、
平安大将棋は無かった可能性を、示唆した事
があった。確定は困難だろう。何れにしても
つまりは、

その間に60年有ると見るので、伝承が安定
であるという証拠は無い

とは言えるだろう。
 ただし、2段目を中央から、横行、猛虎、
飛龍、奔車にするというのは、間違えないだ
ろう。横行と奔車が中央と端にそれぞれ有る
と言うのは、五行に従った走り駒を作るため
と見れば、覚えられ、また虎と龍は、四神な
いし、元々有る馬を除く十二支のうちで、自
明に戦力になりそうな動物だからである。
 問題は冒頭に述べたように、金将前が空き、
銀将前が猛虎、銅将前が空きなら、鉄将前に
飛龍を持ってくると勘違いしないか、どうか
だけである。
 しかし、桂馬を動かすために鉄将前の歩兵
を上げるのは、手として自明だから、それが
相手の飛龍で只取りなら、明らかに初期配列
としておかしいと、気がつくだろう。だから、
いっぺんまともに平安大将棋を指すと、飛龍
は桂馬の前に配列するように、自然になると
思える。これなら、二中歴に記載された、
平安大将棋の初期配列は安定だ。
 なお先に飛龍道を開けるために、銅将前の
歩兵を、互いに上げただけの状態だと、

仮に、飛龍が隣接する斜めの升目は、通過し
なければならないルールだとすると、桂馬前
の歩兵が、先手に只取りされる

可能性もある。
 本ブログでは、”超越”と二中歴に表現し
たので、誤伝してそのようなルールになった
と、平安大将棋の飛龍の駒の動かし方ルール
を、これまでは論じてきた。しかしながら、

飛龍と猛虎は、平安大将棋では元々対駒だっ
たので、元ルールも、飛龍は猛虎とは反対に、
隣接斜め升目には行けない駒

と、最初から表現されていたのかもしれない。
 そのケースには、初期配列で鉄将前に飛龍
が有ると、

桂馬前の歩兵が浮き駒になるので、一つ置き
配列は、益々都合が悪くなった

のかもしれない。何れにしても、一回まとも
にゲームしてみると、鉄将前の飛龍配列では、
平安大将棋の場合都合が悪かったので、二中
歴から解釈できるような、3段目自陣型平安
大将棋に、西暦1100年~1140年の間、
自然に戻ったのであろう。その後は、4段自
陣型も発生して、多少のふらつきが出て、更
にその後に二中歴に、ゲーム自体が記載され
るようになったのだろう。以上のように本ブ
ログでは今の所、考えているのである。
(2020/11/13)

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大阪高槻市市長と島本町町長10.3中将棋は実行(長さん)

一度コロナの流行で、中止になったと聞く、
大阪府高槻市と島本町の、行政のトップ同士
の娯楽の中将棋対局は、2020年10月3
日には、

実際に行われたらしい。

以下のwebページに、対局したとの旨と、
対局している所の写真が載っている。
エイチティティピー://www.city.takatsuki.osaka.jp/kakuka/sougou/koho/
gyomuannai/machiphoto/r2/R2_10/201003.html
”行われます”の意を記載したサイトは多かっ
たが、結果を示したのは、高槻市のサイトだ
けだった。新型コロナウィルス感染は、
2020年10月頭の頃にも続いていたので、
再中止になる可能性も有ると、当然見られた。
ので、このようなケースに関しては、記録を
残すという点を含めて、

結果が公表されたwebサイトは、充分貴重

だと思われた。
 水無瀬兼成の中将棋駒の残る水無瀬宮の有
る大阪府島本町が、中将棋ゆかりである事は
明らかだが。たまたま2桁台の数の、中将棋
駒が中心地の城跡とは言え、江戸時代の地層
から出土しただけで、高槻市が日本将棋だけ
ではなくて中将棋も再興させようとしている
点について、敬意を表するべきであろう。
(2020/11/12)

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前に福井県疋壇城跡より石製歩兵駒出土(長さん)

前世紀末時点、福井県立若狭歴史民族資料館
に居られた一乗谷朝倉氏遺跡の発掘調査書執
筆の履歴を持つ水野和雄氏によると、表題の
ように、前世紀に福井県の疋壇城跡より石製
の歩兵駒が、一枚出土していたとの事である。
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒のカタログに、

この遺物の紹介は無い。

戦国時代の朝倉駒に近い、16世紀の成立と
言う事である。前にも書籍の紹介をしたが、
以下の成書に載っている。
考古学による日本の歴史12
”芸術・学芸と遊び”雄山閣(1998)。
水野氏は、<特論>”輸入された遊び”を執
筆担当し、その169ページの表1の、
26/46に、”福井県の疋田城跡”として、
この駒を紹介している。”石製(歩兵・と)
1枚、16C成立”とあるが、それ以上の情
報は、一行で書いてあるだけで、残念ながら
無い。発掘報告書は古いものだからかweb
上には見当たらない。
 なお、本ブログでは、石製将棋駒として、
岡山城二の丸跡出土駒と、愛媛県松山市の
小坂遺跡の出土駒を紹介した事がある。発見
も成立も3例の中で最も古いが、これが第3
番目になった。ただし今の所、

歩兵駒というふうに、駒名が判ったのはこの
例だけ

である。
 ちなみに、前記成書の169ページの表1
の46例のうち、
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒に記載されて
いないのは、私が知る限り、この例1例だけ
である。福井県の研究者なので、さすがに
地元の史料には、見落としが無かったのであ
ろう。ただし、どこからか遺跡の発掘報告書
を入手しない限り、これだと

墨書石礫なのか彫りこんで駒名を入れたのか、
前記成書の表の1行を見ただけでは判らない

のが残念な所である。(2020/11/11)

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