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宮城県多賀城市新田遺跡から似顔絵の墨書(長さん)

以前に、以下の発掘報告書を紹介したのだが、
将棋駒型の墨書が、人間の絵のようだと述べた。
その後、私が読み落としていたのだが、同じ
報告書の115ページ付近に、裏面を擦った
跡のある、煎餅形の石に、猿の顔かまたは、

人間の顔のような似顔絵の墨書がある

との旨記載されているのに気がついた。
報告書の表題は、以下のものである。
(宮城県)多賀城市文化財調査報告書第23集
新田遺跡、(第4次・第11次報告書)、
西暦1990年多賀城市埋蔵文化財調査センター

pdfファイル名も、再度書くと以下である。
9690_1_新田遺跡.pdf
石に顔を書いた出土物については写真も、上記
の発掘報告書の図版45に載っている。

宮城県多賀城市新田顔石.gif

 この石蹴りの石に顔を書いたような石の遺物
は、将棋駒型の、札のような遺物よりも、幾分
下の層から出土している。石蹴り状遺物が鎌倉
時代中期の13世紀前半、将棋駒型の上の方に
穴のある札状の、人間全身絵の遺物が13世紀
後半から、鎌倉末ないし南北朝時代の初期のよ
うである。石蹴り石状物について、具合の悪い
患者の顔の絵とすれば、病気回復祈願の
マジナイ札を連想させる。ので、時代はズレる
が、両方共に呪いに使用する物品の、系統なの
かもしれない。
 なお、発掘報告書と多賀城遺跡は1.5km
しか離れておらず、後者は成書に8世紀成立と
載っている。
日本の美術2 No.213 ”多賀城跡”
桑原滋郎編、至文堂(1984)。

ここは田村麻呂縁のとりでであろうから、中世
にも、奥州の何族かの武士団が、駐屯していた
のであろう。
 事実彼ら中世武士団の、住居や寺院その他の
建物の柱跡のようなものが、現地を掘ると発見
されるとの旨も、発掘報告書にはよく読むと載っ
ていた。

ただし、住人には字が書けないらしく、銅銭以
外、ほとんど字の書かれた墨書遺物が無い

ようである。恐らくだがその為、たまたま将棋
は、ここでは余り、指され無かったのかもしれ
ないと、私には思われた。(2020/11/07)

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