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高槻城三の丸中将棋駒10番、王でなく王将(長さん)

以下に、前にも述べた、高槻城三の丸遺跡、
1989年頃発掘の小型中将棋駒の駒名の読み
取りの話をする。なお遺物の成立は18世紀末~
19初。問題の駒は”一文字王駒”として文献
に載るが、

王は枠の絵、駒名は不成り二文字王将

との旨報告する。
 前にも述べたが、この出土駒の写真も、以下
の文献に載っている。
 高槻市文化財年報西暦1988~1989
年度版。
pdf名が、以下の通り。
5200_1_高槻市文化財年報昭和63・平成元年度

文献は奈良文化財研究所の発掘報告書
データベースの”全国遺跡報告総覧”の中に、
収録されている。今回題材にする問題の出土
将棋駒は、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒にも
載っており、かつそこでの遺物番号と、上記
高槻市文化財年報1988~1989年度版の
図版8番号とは中将棋駒第10番で同じである。
問題の番号の出土駒”第10番”の写真は以下
の通りである。

高槻城三の丸10.gif

 従来は、オモテ面の模様を、”王”と解釈し
ているように、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒
には書いてある。しかし、

これは誤りで五角形の将棋駒の絵の枠を、王の
字の第四画と間違えている

と、本ブログでは考える。
 つまりオモテ面の方にも裏面にも、五角形の
駒の外枠ではないかとみられる線が、この駒だ
けにあるのだと見ると言う事である。そして、
その中にオモテ面には、

二文字で駒名があって、王口と書いてある

というのが、ここでの読みである。だから第
10番出土駒のオモテ面は、”一文字王”では
なくて王将。かつこの面の王の第4画と見られ
た線は、

実際には五角形駒の絵の外枠の下線と私は思う。

 なお裏面(10’面)の上の方の水平線は、
写真を見る限り、製作時に付いた単なる錯誤の
墨跡なのではないだろうか。
 だから結果として、全体として駒の同定は、
正しかったが、読み方は”裏無地将棋マーク、
将棋マーク王将”が、正確には正しい。だから、
”王”ではなく、冒頭の結論のように王将にな
るように思う。なお外枠が駒の中に書いてある
のは、製作時の気まぐれか、一連の中将棋駒を
製作したとき、第10番遺物が最初の一枚であ
って、五角形枠まで、試し書きした疑いが濃い
のではないかと考える。
 なお、関西出土駒でも、徳川家斉の時代には、
玉将が出土してもおかしくない。中将棋の玉駒
も、王/玉1:1の伝来例が有るように、私は
認識している。関西では玉将は出土せず、王将
だけという法則に、この例では見かけ上従って
いる。が、今の所、

この駒の王将の王に点がないとは、墨跡が薄い
ので私は断言しない。

なお、現代の佐藤敬商店製の中将棋駒は、双玉
ではなくて、王/玉1:1である。(2020/11/09)

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