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山形県川西町の道伝遺跡で”龍麻”墨書土器(長さん)

今回は1980年の、出土将棋駒の概念が知ら
れたばかりのかなり前に、墨書土器であるが、
龍王の意で書かれたと疑われる遺物が東北地方
の郡衙跡と伝わる遺跡から、発掘されていたと
いう話題である。
 場所は表題の通り、山形県東置賜郡川西町の
道伝遺跡で出土遺物の土器自体は、10世期前
後のものと見られたようである。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に掲載されていて、web上
で見る事が出来る。
6306_4_道伝遺跡発掘調査報告書.pdf
発掘報告書の名称は、以下のようなものである。
川西町埋蔵文化財報告書第8集
道伝遺跡置賜郡衙推定地発掘調査報告書、
山形県川西町教育委員会、1984年。
第33図版の、2段目右に写真が出ている。
”龍麻(?)”と読んでいるようである。土器
の成立年代は、西暦900年頃と見られてるよ
うだ。寛平の年号の入った遺物の出土した層か
らの出土物だからという事らしい。

道伝遺跡龍麻.gif

置賜郡衙の跡と見られているので、他にも墨書
遺物が、多数出土しているようである。
 上図から、2文字目は欠けていて、判読が、
相当に困難である事が判る。

素直に見れば、”主”の方が近いのではないか

と私見する。私には断定できないが、龍王とい
う熟語自体、”典型的『龍』”の意味に近いよ
うに、認識している。この墨書遺物の字を書い
た者の

意図は少なくとも、龍王なのではないかと疑う。

飛車の成りが龍王の日本将棋が、西暦900年
に成立していた事を示唆している遺物だと、言
えるのかどうかだが”否”であり、この遺物の
字が将棋駒名から来ているとは余り思われない。

龍王は、一般名詞だと私は思うから

である。なお、本ブログでは、龍王の将棋駒と
しての成立は、モンゴル帝国が、朝鮮半島に、
侵攻し、日本を脅かし始めた、13世紀中頃だ
と今の所見る。
 この遺物の存在は”龍王”という熟語が、
東北地方の郡衙内でも著名であり、

竜神信仰が盛んになると、状況によって何者か
によって、大将棋に取り入れられるのは必然

だという事に過ぎないのではなかろうか。この
遺物から判る事は、奔横や奔王同様、将棋の駒
の龍王の発明者も、京都の貴族とは、必ずしも
断言できないという事ではないかと私は疑う。
(2020/12/31)

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富山県舟橋村で”王子”土器出土(長さん)

以前に”雲を掴むような話”と本ブログで
表現した、富山県中新川郡舟橋村舟橋出土の、
成立時代未知の王将墨書遺物に関連して、
その南西1キロ程度の地点から、王子の墨書
土器が、別途出土しているとの情報を知った。
場所は富山県中新川郡舟橋村仏生寺で、成立
は、室町時代後期から、戦国時代にかけての、
15世紀から16世紀との事である。発掘さ
れた遺物は、前世紀の末発見されたらしい。
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に、今述べた発掘報告書は
登録・掲載されていて、web上で見る事が
出来る。pdfファイル名は、以下の通りで
ある。

6061_1_富山県舟橋村仏生寺城跡発掘調査報告

また発掘報告書の表題は、”富山県舟橋村
仏生寺城跡発掘調査報告”舟橋村教育委員会、
西暦2001年である。遺物は該発掘報告書
の後ろの方の図版18、”出土遺物(5)
中世2”の中段右にある。

富山県舟橋村王子.gif

報告書には、スケッチがあり、”墨跡印”が
付記されているようだが、コメントは特に見
当たらないように思われる。以下、あくまで
ここでの見解だが、前記の図の遺物の字は、

王子や八王子を信仰する習慣と関連

するのではないかと疑われる。場所が1キロ
以下と互いに近いので、以前指摘した瓦の破
片のような遺物に残る、墨の跡のような王将
の字と疑われたものも、将の方が誤読であっ
て、王子等と書いたのかも知れず、そのケー
スは、将棋を意図したのではなくて、中世の
信仰に絡んだものだったのかもしれない。
 なお仏生寺城の方は、15世紀~16世紀
の頃のものと、発掘報告書に明記されている
ように読め、”単純に限定できない”と、取
れる旨の書かれた浦田遺跡の発掘の後3年位
の間に、だいぶん現地では遺跡群の成立年代
に関する議論が、進んだような印象である。
 また、前記発掘報告書には、他にもう一枚、
”王口”と読める皿のように土器が、同じ
図版18、出土遺物(5)中世2の右下にも
有るように私には思われる。
 そもそもこれらの遺物の出土場所自体が、
神仏習合時代の寺であるし、成立時代からは、
摩訶大大将棋関連の曼殊院将棋図成立時代と
合うので、今回の件に関しても、

王子は酔象の成り駒名と言いたいところだが、
将棋と言うよりは、信仰に関連した遺物

の疑いの方が濃いと思われる。よって舟橋村

浦田遺跡の遺物も、王子信仰に関連したもの

とみられるとの見解を、今の所本ブログでは
取る事に致したい。(2020/12/30)

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岐阜県で野内遺跡出土碁盤様破片木片を曲物判定(長さん)

以前に、大坂城で発掘された1センチ弱の、細
かいメッシュの入った木片を、”碁盤の破片”
かと本ブログで述べた事がある。今回は、それ
を否定する発掘報告書を発見したので報告する。
岐阜県高山市の

野内遺跡で2005年前後に、大坂城碁盤破片
様木片と、同じパターンの木片が出土

していて、発掘報告書に、曲物側板だと判定さ
れている。

木目のメッシュが偶然、それと垂直なケビキ線
のメッシュと、だいたい同じになる場合が有る。

では、説明を開始する。
本ブログの見解の間違いを示唆した発掘報告書
の遺跡は、岐阜県高山市上切町の野内遺跡の、
D地区の発掘報告書で西暦2007年に岐阜県
教育文化財団文化財保護センターから発行され
ている。これまでも何度も述べた、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に、発掘報告書は掲載されて
いて、web上で見る事が出来る。pdfファ
イル名は、以下の通りである。
1632_2_野内遺跡D地区.pdf
 そこの後ろの方、図版10の、
”遺物包含層出土の遺物(3)”に、木片が
2個写った写真が掲載されている。

岐阜県野内遺跡D地区碁盤.gif

左側の木片は、縦線のメッシュが細かく縦線に
見えるのは木目で、横線のみケビキ線だと判る
ので、曲げ物だと判定できる。
 しかしながら、右側の木片は、木目のメッシュ
とケビキ線のメッシュが

偶然同じ

で、正方形に近い升目に見えるが、手を入れた
のは片方だけであるとの旨が、別のページの、
スケッチの説明の箇所で指摘されている。写真
ではよく判らないが、目視すれば、色相や引っ
掻きか木筋かで、ケビキ線と、木目は容易に判
定できるからだと、解釈できる。
 この事から、

大坂城の遺物は、実際に目視しないと、縦横
どちらか一方の平行線が、木目であるという疑
いが晴れない

事は明らかだ。残念ながら、

大坂城から碁盤の破片が出土した可能性は低い

ようだ。以上のように、この発掘報告書を見て、
私は思うようになってしまった。(2020/12/29)

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新潟県新発田市住吉遺跡で角行底記載の土器出土(長さん)

今回も、奈良文化財研究所の発掘報告書データ
ベース、全国遺跡報告総覧に収録されている、
発掘報告書の中に、将棋の駒名を書いた遺物が
有るという話題である。発掘報告書が2019
年発行の為、本ブログで、初めての指摘だとみ
られる。
 報告書の表題は新発田市埋蔵文化財調査報告
第58”住吉遺跡発掘調査報告書”、2019、
新発田市教育委員会である。新潟県の北東部、
山形県に近い所である。
全国遺跡報告総覧に収録されている発掘報告書
のpdfファイル名は、以下の通りである。
69863_1_住吉遺跡発掘調査報告書
 発掘は西暦2012年から2013年の間に
行われたとある。
そこの後ろの方のページの、図版35の真ん中
へんに、カワラケのような皿状の陶器だと思う
が、その底に、”角行”と書いてあるように読
める。発掘報告書の225ページには、
”土師質土器、坏”と記載されている。同じこ
とか。
 更に成立は、C14分析等から14世紀初頃
を中心とした、中世ではないかと取れる説明が、
同じく前記の、発掘報告書に有る。

新潟県住吉角行.gif

本ブログでは、角行駒の成立そのものについて
は、西暦1230年~1260年の間と今の所
している。将棋駒としての角行の、現在の初出
は、栃木県小山市神鳥谷曲輪の、
成り一文字金角行駒で、西暦1380年前後と
言われている。小山市の出土駒については、
鎌倉時代までは、恐らく遡れないであろう。
 発掘報告書によると、最も古く見積もって、
出土品の平安時代末との事である。巾が広すぎ
るが少なくとも日本将棋の角行はまだ存在せず、

大将棋ないし中将棋の駒名を書いたと解釈

は出来よう。
 ただし、上図のように、行がズレていて、

字が淡いので、角行と確定困難

と見られる。

写真にたまたま写った、幻影

の疑いも有る。発掘報告書に、”この土器には
文字が見える”との旨の記載が、特段見当たら
ないからである。
 なお歴史的に現地は、鎌倉時代に荘園内、
室町時代後期に、武家で加地荘の地頭職を務め
た加地氏の城があったとの事である。
 繰り返すと情報が淡いので重要性は劣るが。
栃木県小山市の角行駒や、石川県堅田B遺跡の
龍馬駒のカデゴリーとして考察すべき、本ブロ
グの中心的課題の物品の出土である。つまり、

このブログの、メイン分野の遺物の一つとみな
すべき重要情報

であると考える。周辺に、本物の木製将棋駒が
眠っていて、既に発見ないし、近未来に発見さ
れる事が、当然だが大いに期待される。
(2020/12/28)

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博多61次細長駒の天童将棋資料館駒名特定は正(長さん)

以前、福岡県博多61次遺跡の玉将駒の点の
様子が、文部科学省文化庁のwebページの、
”文化遺産オンライン”というサイトの写真
が撮影された時点で、変わっているという事
を述べた際、蛇足としてもう一枚の出土駒に
関し、何の駒なのか、私がコメントした事が
あった。その後チェックした際表題の通り、

天童市将棋資料館発行の、天童の将棋駒と
全国遺跡出土駒の判断、香車駒との見解が正

しく、判定不能とした私の判断は、間違いで
ある事に気がついた。原因は、
”文化遺産オンライン”というサイトの写真
の問題の将棋駒が、

裏返しに撮影されたため、破損した成香面が、
判定不能なのを、私が勘違いして”駒名がこ
れでは判るはずが無い”述べてしまったため

であった。
 では、もう少し説明する。
 博多61次遺跡(福岡県)と表題がついて、
天童市将棋資料館発行の成書”天童の将棋駒
と全国遺跡出土駒”には98ページに99と
遺跡番号が付いて、2枚の将棋駒のオモテ面
の写真と、スケッチがある。問題にしている
のは、今回は下の方の細長い駒である。同じ
写真が、web上で以下のファイル名で、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に収録されている、発掘報
告書の中の、比較的最後の方に出ている。
17280_1_博多24.pdf
以上の点前にも述べた。
 そこで、その発掘報告書の細長駒の写真
(左)と、”文化遺産オンライン”の細長駒
(右)の写真とを並べて示したのが、以下の
図である。

博多61次香車.gif

 なお前にも述べたが”文化遺産オンライン”
の博多遺跡の遊戯駒群の紹介の中に、問題の
細長将棋駒も入っていて、その写真の出てい
るサイトurlは、以下の通りである。
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/438999
この写真が小さく、かつ、斜めからの撮影な
ので、やや判りにくいが、上図で発掘報告書
の方の像の、赤い矢印で示した、僅かな腐食
による傷が、”文化遺産オンライン”の写真
では、青い矢印で示したように、左右逆になっ
ている。であるから、それぞれ別々の写真に
関して、問題の駒の撮影された面の

裏表が逆であろうと推定できる

のである。つまり、”文化遺産オンライン”
での撮影の際、問題の出土駒は駒名がはっき
りしないとみられただろうからこの香車駒は、

適当に裏返しに置かれて、撮影されてしまっ
た疑いがある

という事である。
 将棋駒に特に関心が無ければ”駒種曖昧”
と聞けば、適当に置きたくなるのは、普通は
当たり前だろう。だから当然ながら、このケー
スに関しては、

そこまで相手の心を読んでから、注意深く、
駒種を議論しなかった私の落ち度

であった。今後は、考古学全般を広く網羅す
るのが仕事の、遺跡全般の発掘紹介担当者の、
こんな”ありきたり”の間違え方に関しての
”フールプルーフ”が、卑しくも将棋駒を専
門に紹介しているサイトの人間である私に、
出来なかったといった事態が、くれぐれも無
いように、私の心を充分に引き締めたいもの
だと考える。すなわちこの件、そのときの、
漫然としたブログの作文作業に対し、大いに
反省させられたという顛末である。(2020/12/27)

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静岡県三島市青木原遺跡で近代の飛車駒出土(長さん)

以下も奈良文化財研究所発掘報告書データベース
”全国遺跡報告総覧”に収録された発掘報告書
からの情報である。西暦2009年前後に、
静岡県三島市の青木原遺跡で、成りが龍王の、普
通の飛車駒が、発掘されたとの事である。書体に
かなりの高級感が、現代人感覚で見ると、明らか
に感じられる。発掘報告書名は以下の通り。
静岡県埋蔵文化財調査研究所調査報告第244集
青木原遺跡Ⅱ(財)静岡県埋蔵文化財調査研究所、
西暦2011年。
pdfファイル名は、以下の通り。
16194_1_青木原遺跡Ⅱ.pdf
 そこの、一番後ろのページの図版21の上部
中央に、出土駒の写真がある。

静岡県青木原飛車.gif

場所は正確には静岡県三島市南二日町626-4
との事である。以前に川筋だった所で、まだ残り
が眠っている可能性は少ないらしい。
 遺物は一部擦れているが、たぶん”草書の書体
の天童駒”ではないかと私は思う。従って成立は
恐らく、近代に下ってしまうだろう。
 河川に近いため、元々近世の遺跡だが、それ以
降の時代の遺物が混じるとの旨、前記発掘報告書
に説明が有るようだ。説明の通り、比較的最近の
将棋駒なのだろう。三島に近代に入ってから、相
当熱心な、将棋の団体が存在したのではあるまい
か。学校で遊ぶ子供の手作りおもちゃとは、この
ケースに関しては、全く違っているようだ。
(2020/12/26)

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富山県舟橋村浦田遺跡から王将?土器(長さん)

以下、成立年代も全く判らない、雲をつかむ
ような墨書遺物の紹介である。焦げ跡がたま
たま、将棋の駒名のように見えるだけなのか
もしれない。
 発掘場所は、富山県中新川郡立山町の近く
の舟橋村の浦田遺跡で、発掘年は1997年
頃のようである。 web上で、この件につ
いても、情報が公開されている。
 奈良文化財研究所発掘報告書データベース
の、”全国遺跡報告総覧”に収録されている
からである。pdfファイル名は、以下の通
りである。
6132_1_富山県舟橋村浦田遺跡発掘調査報告書.pdf
そこの、図版40の右下の方に47番とある、
大きめの土器の破片とみられる出土物の、内
側に上から上下逆に、以下の図のように、”
王将”とも読める、墨跡のようにも見えると
いうものである。

富山県舟橋村王将.gif

本文中をざっと目を通すと図版40の遺物は、

成立年代が不明

の意と取れる記載が有る。遺跡自体は先土器
時代から近世とあり、この遺物については、
弥生時代以降であろうが、成立年代について、
遺物の特徴についても私には全く判らず、

その点でも雲をつかむような話

である。
 そもそも、食料を調理した時に、焦げ目が
付いて、王将の形になったのかもしれず、
将棋の駒名を書く場所、また大きさが大きい
事から見ても、将棋を知っていて書いたのか、
それ以前に、これが、そもそも人の手による

字なのかどうか、かなりの疑いが持たれる

所である。ちなみに、発掘報告書には、この”
黒い模様”について、特に言及は無いように、
今の所、私は読み取っている。
 やはり器の底に書かないで、側面に天地逆
に書いてある、書いた場所の不自然さ、食器
として使ったとした場合の不潔さから見て、

これは将棋遺物では、たぶん無い

のではないかと、今の所しておくしか他に、
表現のしようも無い物のように私には見える。
(2020/12/25)

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秋田県払田柵跡遺跡で9世紀の桂馬木簡か(長さん)

以下、平安時代の奥州の城柵跡として有名だ
と聞く、秋田県大仙市払田から仙北郡美郷町
本堂城回にまたがる、払田柵跡遺跡の木簡の
中に”桂馬”という字に、見えるものがある
という話題である。ただし、

桂の字が怪しく、官営の厩の目印が疑われる。

では論を開始する。
 以下の発掘報告書に記載が有り、web上
で見る事が出来る。一乗谷朝倉氏遺跡の出土
将棋駒が発見されて、まもない頃の、かなり
以前の報告書である。
払田柵跡調査事務所年報1983
払田棚跡、第49次(2~3分冊)・53次・
54次発掘調査概要、
秋田県埋蔵文化財振興会、西暦1984年
web上では、本ブログでもたびたび出てきた
奈良文化財研究所発掘報告書データベースの、
”全国遺跡報告総覧”に収録されていて、
pdfファイル名は、以下の通りである。
11708_1_払田柵跡第49_2-3・53・54次発掘調査概要.pdf

なお最近まで現地では、繰り返し発掘調査が
行われているようである。
 報告書には”嘉祥二年(西暦849年)”
の年号が入った墨書遺物がこのときに共出土
した等記載されている。この事から、問題の
墨書木片は、9世紀前後の遺物のようであり、
1982年に、発掘発見されたものである。
その木簡の切れ端の遺物は以下のものである。

払田棚遺跡桂馬.gif

残念ながら、この木製品について、報告書に
詳しいコメントは無いようだ。当時は馬と書
いてある墨書遺物で片付けられたのであろう。
 だがこのケース、馬の前の字は、はっきり
しないが、いっけん

”桂”のようでもある。

当然だが、9世紀中葉に、日本に将棋は見出
せ無いとの見方が、現時点では有力である。
 ただし、官営跡なので駅馬が居たとみられ、

駅舎を示す何らかの目印が有って不思議ない

場所であったのが、残念だったと私は感じる。
 何れにしても奥州の当時の北方異民族に対
する守りの城柵跡が、墨書木簡も認字層も、
有る程度居て出て来やすいため、

将棋遺物の有無を調べるキーポイント

である事が、よく判る例だと私は思う。
 前に王将墨書土器を指摘した、福島県
会津若松駅の北方の遺跡も、その類だったし、
少なくとも私もこれで2例目に、ようやく、
たどり着いた事は、確かなように感じた。
(2020/12/24)

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福島県文化振興財団が格子模様木片を曲物と説明(長さん)

以前に本ブログでは、格子模様のついた木片を
囲碁盤の破片ではないかと紹介した。出土した
のは、大坂城のケースであった。その後、この
タイプの遺物は、食器用の疑いがあるとの旨り
記載が、表題のように、別の場所の発掘報告書
に説明されている事が判った。ただし結論から
言うと、

以前紹介の遺物、大坂城の木片は、これとは別

のようである。では紹介する。
 情報が記載されている発掘報告書は、下記の
2011年発行の文書である。
福島県文化財調査報告書第488集
会津縦貫北道路遺跡発掘調査報告13
西気流C遺跡(1次)、2011年、
福島県教育委員会、(財)福島県文化振興財団、
国土交通省東北地方整備局郡山国道事務所。
この発掘報告書は奈良文化財研究所発掘報告書
データベースの、”全国遺跡報告総覧”に収録
されていて、web上で見る事が出来る。
pdfファイル名は以下の通りである。
23479_1_会津縦貫北道路遺跡発掘調査報告13.pdf

遺跡の場所は、福島県会津若松市高野町大字
木流字木流、磐越西線堂島駅近くのようである。
2012年に発掘調査が行われ遺物の成立年代
は、平安時代後期(9世紀から10世期)と、
みられているようだ。そして巻末の図50と、
図51に、いっけん格子模様であるように
見える木片遺物が4枚、その疑いがある木片が
6枚、合計10枚ほど写真で掲載されてしる。
そしてその発掘報告書の本文中の45ページに、
”ケビキ線のある板材”等と紹介され、
”曲げ物側板等か”という説明がある。曲げ物
側板については、この遺跡の別の所の遺物にも
例が有り”ケビキ線が有るので曲げ物であろう”
との旨の説明も、この発掘報告書には有る。
”格子に見えるが、片方に木目であるケースは、
その木目の線の一部の、見間違いであり、

平行線が引いてあるだけである。

そして、曲げ物の原材料板に、平行な切り込み
を入れるのは、曲げやすいように切り込みを入
れているからである”との含意ではないかと、
発掘報告書の論理を解釈した。そのような例に、
これまで私は、注意して来なかったが、そんな
事も有るものなのかと、私は認識した。
 なお今回述べた報告書の遺物の”ケビキ線”
の間隔は、1センチ以下であり、囲碁盤メッシュ
としても、少し目が細かすぎるようだ。将棋盤
の一部の可能性は、なおさら薄い。なお

大坂城の遺物は、縦横に線が入っているのは、
木目と平行な方向の線が、木目より太い

ので判る。この福島県の遺跡の遺物とは、違う
とみられる。ケビキ木片遺物は、私は知らなかっ
たが結構多く、碁盤・将棋盤遺物検出にとって、
ノイズになるかもしれない。
 何れにしても格子状に見える木片遺物に接し
た際には、木目の一本が、引いた筋のように、
たまたま見えていないかどうかについて、注意
したいと私は、この報告書を読んで悟った。
(2020/12/23)

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富山県氷見市惣領野際遺跡で縄文時代の金将か(長さん)

以下、石製遺物に、描画として四角い駒型の
金将駒の姿が、刻印されているように見える
遺物の出土の話題である。発掘は、
西暦2003年頃行われ、場所は表題のよう
に、富山県氷見市の惣領野際遺跡である。
遺物は

”凹み石”と表現された重さが10kg程度
の、恐らく石器の制作作業の為に、縄文時代
に使用されたと見られた作業台の石

のようである。その凹み面とみられる部分に、
彫り物のように見える、金将の絵がある。

惣領野際遺跡金将画.gif

 出土遺構自体は、中世かもしれないとの事
なので、中世に使われたものならば、問題は、
より少ないとみられる。周囲は戦国時代に、
山城が点在していた場所との旨、発掘報告書
には、別途記載されている。
 問題の発掘報告書は、たびたび紹介した、
奈良文化財研究所発掘報告書データベースの、
”全国遺跡報告総覧”に収録されていて、
web上で見る事が出来る。pdfファイル
名は以下の通りである。
13356_4_惣領浦之前遺跡・惣領野際遺跡発掘調査報告.pdf
 なお、報告書の表題は以下の通り。
富山県文化振興財団 埋蔵文化財発掘調査
報告書第45集
惣領浦之前遺跡・惣領野際遺跡発掘調査報告
第二分冊、2010年、
(財)富山県文化振興財団埋蔵文化財調査事務所
上の図の遺物は、120ページ付近の
”図版143”に載っている。

縄文時代の字だとすれば、ウルトラ大発見だ

ろう。そうでなくても、金将だとすれば、

四角形駒の初の発見

という事になるかもしれない。ただし、この
描画の第1字目は金に見えるが、

第2字目が、草書の”将”なのかどうかは、
上記図の通り、余りはっきりしない。

 作業台だとしたら、”金口”四角駒を掘り
込んだ動機も謎で、

写真のカメラのレンズの、乱反射の疑い

も今の所無いとは、断言できないと私見する。
 正直、この写真は何だろうかと、私は思っ
ている。(2020/12/22)

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