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松江歴史館展示の松江市28番駒は銀将では無い(長さん)

以前紹介したように、松江城下町遺跡の近
傍に建てられ、遺跡の遺物も展示している
松江歴史館に、4枚の出土将棋駒、
飛車、銀将、香車2枚が展示されていると
の紹介をした。その際web上の情報に従
い、”松江市28番駒”との表示の有る駒
一枚を銀将と紹介したが、web上の写真
により

銀将であるとの形跡が無く、胝将と読める

という話題を以下でする。胝は音が同じな
ので、”蛸”つまり卑下も含むと見られる。
 さて前にも紹介したが発掘報告書も有り、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
”全国遺跡報告総覧”の中に、次のpdf
ファイル名中で、出土駒が紹介されている。
14541_1_松江城下町遺跡殿町287番地・殿町279番地外発掘調査報告書.pdf
 この文献でも、裏が特殊書体の金かまた
は、何も書いて、い無いようにも見える、
第1字のはっきりしない、web上、展示
状態でそのような状況とみられる、不明字+
”将”が、問題の遺物である事が、ただち
に判る。
 また”全国遺跡報告総覧”の中に、別の
次のpdfファイル名の文献があり、そこ
にも、今述べた駒の写真がある。
14240_1_財団法人松江市教育文化振興事業団埋蔵文化財課年報
後者の年報文献の6ページの中段右に写真
が有るが、恐らく展示品”松江市28番駒”
と同じ遺物なのであろう。

今述べた文献の写真から、銀将の銀のカス
レの形跡が無い

事が判る。

歴史館松江28駒.gif

 そこで第1字目は、曖昧性そのものが、
実は余り無く恐らく、

胙に近い、何か別の漢字であると見るべき

なのではないかと、私見される。展示され
ている現場の状況に関する情報がはっきり
しないが、これを展示して”銀将だ”と主
張するには、無理があると私は思う。

観覧者から質問が過去無かったのだろうか。

 そこで字を探してみると”指にタコが出
来るほど習字の練習をした”と言うときの、
タコの”胼胝”の胝と見て、大きな矛盾が
無いようだ。

成りが、少なくともはっきり書かれていな
い事も、銀将では無いという事を示唆

していると私は思う。江戸時代の駒師の意
図”胝将”は、一例として出世はしないが、
江戸時代の初期の頃に武芸に異常に熱心で、
木刀を持つ手にタコの出来たような武将を、
御ふざけで卑下して、周囲でこう読んでい
た。ので、

ふざけて、”胝将”という将棋駒を、しば
しば作成した事が有った事実が残ったもの

と私は推定する。将棋纂図部類抄が既にあ
り、泰将棋という、新作駒名を多数含むゲー
ム種の存在は、知られていた。だから、そ
の方式をまねて、新しい駒種を、単にふざ
けて、かなりの頻度で作成するという事も、
全く行われてい無かったまでは、断定出来
無いのであろう。
 本ブログでも、従前この松江28番駒は、
銀将との立場だったが。展示品の通常写真
らしきものが間近で紹介された、後者の報
告書を見て、以前の考えを以上のように、
改める事にした。
 もちろん遺物としての”価値”は、

銀将より胝将の方が、はるかに上だ。

(2021/01/31)

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出雲国府跡遺跡より銀口土器(長さん)

以下、平安時代末の可能性もある島根県の
出雲国府跡遺跡より、底に金ヘンの字+将を
思わせる字の書かれた、墨書土器の出土の話
題である。銀将と書かれておらず、

女性の顔飾り道具を入れる、器の意図ではな
いか

と疑われる。
 遺物の写真は、web上に公開され、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録されている。
 以下の発掘報告書であり、西暦2008年
に出されている。発掘調査は、西暦2005
年頃の事らしい。
島根県風土記の丘地内遺跡発掘調査報告書
18、史跡出雲国府跡、
【発行】島根県教育委員会、
【発掘報告書編集者】
島根県教育庁埋蔵文化財調査センター。
 そこの160ページの右上に、全体スケッ
チと、底の部分の写真と見られるものが乗っ
ている。
 データベースに登録されている、pdf
ファイルは、以下の通り。
2801_1_史跡出雲国府跡5.pdf

出雲国府跡銀将.gif

上の図で、墨書として金ヘンの何らかの文字
と、もう一文字が書かれているように、私に
は見える。発掘報告書には墨書に対する言及
は、特に無いようである。なお、遺跡からは、
この発掘で、多数の墨書遺物が出土している。
 遺跡の全体としての年代は、遺跡の名称の
イメージから飛鳥時代であるが、実際には、
遺物の推定成立年代は”古墳時代~平安末期”
と、漠然としている。
 この遺物が載っている図版自体の名称が、”
第143図宮の後地区包含層出土還物実測図
(4)”となっているように、土壌が混合し
た包含層からの、出土物であるからである。
 だから、銀将と仮に読んだとしても、

平安小将棋が平安時代末期に、出雲国府で
指された事を、証明しているに過ぎない

という事になると見られる。
 遺物の字は末広がりで、何となく将棋駒の
絵が書いてあるようにも見えるのだが。更に
一応、何と書かれているのかを、く見てみる。
 金ヘンの字のツクリは、良のアタマ点無し
よりは、

釘に近い。

次に2文字目は書いてあるようだが、ツクリ
は、受に似ているというよりは、世+木の方
がまだましで、ヘンは爿だか虫だか不明であ
る。つまりヘンは”虫”でも良く、字は

将ではなくて、蝶であっても大差ない

と私は思う。つまり例えば、

”銀将”ではなくて”釘蝶”と書いてあり、
女性の顔飾りの意味

なのではないかと私は疑う。

ピアス位の大きさの物品を置く場所にする為、
土器の使用者が、器に印を手書きした

と考えて、大きな矛盾が無いという意味であ
る。国府の高級官僚の奥方用であれば、成立
時代も、飛鳥時代に使われていたとして、
不自然さは、特には無いのではなかろうか。
 中国四国地方に関しては日高町深田遺跡の
将棋駒、通称”日高駒”で知られる兵庫県に
は平安時代に将棋が有って、島根県には
平安時代末に無かったという事も、無いので
はあろうが。この遺物と将棋とは、特に関連
が無い疑いが濃い。 
 よってこの、金ヘン二文字墨書という、比
較的

珍しい字の書かれた土器

はたまたま、化粧道具の一時期の保管用の器
であって、将棋駒の銀将を象ったものでは無
いのではないかと、私は疑っているのである。
(2021/01/30)

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島根県山持遺跡の鏃に中将棋駒系の字(長さん)

以下、島根県出雲市西林木町の、弥生時代後期
から平安時代の地層から、鏃が出土したが、

仲人、と、龍の字に見える模様が有る

という話である。web上に発掘報告書があり、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録されている。pdfファ
イル名は、以下の通りである。
2848_3_山持遺跡Vol56区.pdf
発掘報告書の表題は以下の通り。
山持遺跡Vol.5(6区)、2009年3月、
島根県教育委員会。
前記pdfの図版113に、左下に問題の鏃の
写真がある。

島根山持遺跡仲人.gif

 単色白黒写真の暗色部をピンクに焼いただけ
のようで、写真の色に大意は無いようだ。そし
て本文中に、スケッチと説明が有るが、pdf
にするときに分割されている。pdfファイル
名は以下の通り。
2848_1_山持遺跡Vol56区.pdf
 そこの68ページの下の方のスケッチの9が、
問題の鏃で、

縮尺が有るので、将棋駒の大きさ

だと判る。だから、仲人、と、龍が手書きだっ
たとしたら、相当に細かい字であると、解釈出
来る。つまり、将棋駒名を書こうとする行為を
したとは考えにくい。そこで、

字に見える模様が、将棋駒の文字よりかなり小
さいので、これは字ではなく

て、写真でたまたま生じる、鏃が凸凹で有るた
めの、反射光の強度の、場所による違いが原因
で出来る模様だと判断出来る。
 写真には、光のあたり方が原因で、模様が、

このような感じに、紛らわしく生じる事がある。

以上のような一例とみられる。(2021/01/29)

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香川県多肥松林遺跡より弥生時代の五角形木器(長さん)

以下はweb上にpdfファイルの形で、
弥生時代の、将棋駒形の出土木片が載って
いるという話題である。情報源は、いつも
のように奈良文化財研究所の発掘報告書
データベース、全国遺跡報告総覧に登録さ
れている。pdfファイル名は、具体的に
以下の通りである。
11088_6_多肥松林遺跡.pdf
発掘報告書の名称は次の通り。
”多肥松林遺跡”、1999.3、
香川県教育委員会、財団法人
香川県埋蔵文化財調査センター。
場所は高知県高松市の市内の、桜井高校の
建設予定地。
そこの図版164の二段目右に写真がある。
 墨書きは無いようである。

多肥松林将棋駒.gif

この遺物は、将棋駒ではたぶん無い。

台形のテント止め”くい”のような物品の、
先が折れただけであると私は疑う。
 成立年代はデータベースに登録されると
き、分割されてしまっていて、別の以下の
ファイルで登録されている部分に、記載が
有る。
11088_1_多肥松林遺跡.pdf
 説明は、この”本文部分ファイル”の、
142ページから143ページにあり、
前後に建築材の杭も紹介されている。
発掘調査は1993~1994年に行われ
たとの事である。
 成立年代については、本文ファイルの

16ページでは、共出土した土器の形から、
弥生時代中期と判断される遺物群

との旨が簡単に述べられているだけである。
 更に125ページには、弥生時代には違
いないが、中期~後期のものだろうとの旨
の示唆も、地層の説明をした上で、記載が
有る。どちらにしても巾が広い。しかし、
古墳時代よりは、前とされる遺物のようで、
将棋の駒だとしたら、驚きの大発見である。
 さて上図から、先端部分の破損は”折れ”
だと判る。が、右先端も不規則な折れ跡が
有り、

元は杭(クイ)の形をしていた

と推定できる。駒名も特に書かれていない。
従って、この遺物は、

弥生時代後期の五角形将棋駒の存在を示唆
し無い

と、私はほぼ断定する。なお、報告書には、

用途不明木器

との旨、記載されている。
 大きさは良く判らないが、将棋駒と見て
も、まずまずだったのかもしれない。
 折れ跡が、遺物右先に付いていなかった
ら、弥生時代の将棋駒の非存在を、厳密に
確定は、し辛かっただろうと、私はこの遺
物史料を見てびっくりした。(2021/01/28)

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群馬県前橋市大胡町堀越中道遺跡で山椎土器(長さん)

以下、群馬県(現)前橋市の堀越中道遺跡
出土で、私には山鹿と読める9世紀末成立の
土器の話題である。

大局将棋が西暦900年以前に存在する事
を意味しない

と考えられる。
 発掘報告書に遺物のスケッチだけが載って
いる。その発掘報告書の表題は、以下のよう
になっている。
大胡西北部遺跡群”堀越中道遺跡”
「(群馬)県営ほ場整備事業大胡西北部地区」
に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書-第3集-
発行者に関しては、以下の旨が報告書の冒頭
に記載されている。
発掘調査:大胡町教育委員会直営、1994
年度実施。
発行:大胡町教育委員会。
 この発掘報告書はweb上に公開され、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
16117_1_大胡西北部遺跡群中道遺跡.pdf
 今回話題にした遺物は、報告書の本文中
97ページの冒頭に、スケッチだけが載って
いる。右上の少し欠けた土器である。
 墨書のようだが、スタンプで押したような
字かもしれない。ともあれ報告者は、この字
を”山椎”と読んで書いたようである。

私には大局将棋の駒として存在する”山鹿”

のようにも、その字が見える。
 何を意味するのかは、山椎だと解釈困難だ
が山鹿なら何とかなると私は思う。つまり後
者なら、神道の神を神棚で祭るときの、杯の
印と解釈できるのではなかろうか。
 よって、この山鹿は神鹿との主旨の名称で
あり、

大局将棋が成立して、その駒名を書いたとい
う内容では無い

と私は考える。大局将棋の山鹿は、中将棋の
飛鹿の変形であり、飛鹿の鹿は神様鹿だと、
前に本ブログは論じた。だから結果としては、
神を敬っている事に、変わりは無いのかもし
れないのだが。将棋を愛好するためではなく
て、神事に使用する為の器だったのではない
か。以上が、今の所私の見方である。
 なお、前記の発掘報告書の同じページの
遺物のスケッチの2段目の左に、もう一枚、
字の書いた土器がある。つまり、2つの遺物
はどちらも”第89図11号住居跡出土遺物”
というところに、書いてあるという事である。
 発掘報告書によると、後者を”平”と読ん
で、スケッチしたという事である。ただし、
縦棒が中央水平線から、下に抜けているのが、
もし仮に曖昧だとしたら、

私なら”巫”と読むような字

である。鹿が神様と考えたので、共出土土器
に巫女の巫が書いてあれば、用途として一応
整合していると私は思う。
 なお報告書を読むと、出土地点は平安時代
の、公務員住宅をイメージすると、判り易い
ような所のようだ。たまたま身内に病人が出
て、呪師に祈祷を頼んだときに作成した器で
はないか。だとすれば成立が平安時代中期と
いうのならば、群馬県前橋市だから発掘され
たのではなくて、比較的全国的に見て、あり
きたりな物品だった可能性も、全く無いとは
言えないのではなかろうか。以上のように今
回話題にした遺品について、私は考えている。
(2021/01/27)

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茨城県つくば市島名熊の山遺跡から奔土土器出土(長さん)

以前、擬似将棋駒名のような”夜象”と
紛らわしい、夜家という墨書土器出土物
を本ブログでは話題にした。この遺物が
出土した表題の、茨城県つくば市の
島名熊の山遺跡で、その後、

奔土にも見える墨書土器も出土している

事が判明した。こちらは、前の調査の
何年か後の2013年~2014年の調
査中の出土のようである。遺物の成立年
代は、発掘報告書に9世紀後半とある。
ただし発掘報告書には、

平安時代中期の、島名熊の山遺跡付近の、
豪族の名前に関係した文字ではないか

ととれる旨が書いてある。発掘報告書が
正しければ、このケースも摩訶大大将棋
の、平安時代、9世紀後半の成立を示唆
しないとみられるようである。
 問題の発掘報告書情報も、web上で、
公開されている。いつもの、
奈良文化財研究所の発掘報告書
データベース、全国遺跡報告総覧に登録
されているからである。
 夜象のケースとは違い、こちらの方は、
たまたま、発掘報告書に写真が出ている。
写真の載っているpdfファイル名は、
以下の通りである。
22892_1_島名熊の山遺跡.pdf
報告書の表題は、次の通り。
茨城県教育財団文化財調査報告第431集
”島名熊の山遺跡”、2018年、
茨城県公益財団法人茨城県教育財団。

 写真は報告書の後ろの方の、PL21
と書かれたページの、2段目中央にある。

熊の山奔土駒.gif

報告書の写真では、照明の鏡面反射光が
まぶしく、字が良く判らないので、上図
では、白抜けした部分の画像を修正した。
元の発掘報告書でも、出来れば字を確認
していただきたい。
 ちなみに発掘報告書では、奔の卉を土
と解釈し、2文字目の”土”の字の方は
”不明”としている。私は、

一文字目はたぶん”奔”で良い

と思う。2文字目は、土の縦棒が曲がっ
ていて、本当に”土”なのかどうかは、
私にも判らない。
 解説は前記報告書の105ページ付近
に書かれている。今の所本ブログでは、
前回の”夜家”土器の件に関して、
茨城県教育財団の発掘報告者の見方が正
しかった経緯から、そこに書いて有る旨
の通り、

奔土は、将棋の駒名を参照して書いたの
ではなくて、土器の所有者の部族名等を
書いたもの

と仮に、しておく事にしたい。
 ”奔土族”として、有る程度豪族の名
が、古代~中世に著名となっていて、そ
の為、摩訶大大将棋の成り駒名に、採用
された可能性については、私も敢えて否
定しない。(2021/01/26)

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平安時代の四角囲い金将絵付き土器新潟で出土(長さん)

今回は、松岡信行氏が西暦2014年に発表
した、「解明:『将棋伝来の謎』」で述べら
れている、長方形の最初期将棋駒仮説にとっ
て有利な絵の描いてあるように見える、土器
が、前世紀の終わりに出土していたらしいと
いう話題である。ただし、出土地点は当時の
都、京都からかなり離れた新潟県の、古代
集落である。なお、

像は薄く、はっきりしない。

 遺物についての情報はweb上で公開され
ており、発掘報告書は、いつものように奈良
文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録されている。
写真の載っているpdfファイル名は、以下
の通りである。
26420_1_新保遺跡.pdf
発掘報告書の表題は以下の通りである。
国営ほ場整備事業に伴う埋蔵文化財発掘調査
報告書「新保遺跡」、新潟県教育委員会・
財団法人新潟県埋蔵文化財調査事業団
西暦2001年。発掘作業は、1997年~
1998年に行われたようである。
 遺物はこの発掘報告書の図版162に載っ
ている、土器の69番という遺物である。

報告書に墨書が有るとの記載は無い。

本ブログの管理人が、目視で見出したもので
ある。
 以下に示したように、長方形の黒い縁取り
の中に、”金将”という文字が、型で抜かれ
ているように見えるという状況のものである。

新保遺跡金将.gif

 遺物の成立年代は”平安時代9世紀後半~
10世紀頃を中心とする”とされていて、か
なりの巾があり、詳しくは書かれていない。
 場所は(当時)新潟県中頸城郡柿崎町
上直海(字)新保の新保遺跡である。
現在は新潟県上越市柿崎区・・という地名に、
代わっていると聞いている。
 この遺跡からは墨書遺物が、数点出土して
いる。将棋駒関連の文字が書かれている遺物
が、別にも有るとの情報は無い。
 四角い将棋駒の絵を描いたようにも見える
という程度のものであり、

方形の将棋駒自体が出土した訳ではないので、
松岡説が、俄然有利になったとは言えない

というのが、私の見解である。なお”墨書が
ある”との指摘が、紹介した発掘報告書に、
同様に無い土器で、薄く”王”と書いてある
ようにも私には見えるものが、2点ほど有る。
これら全てに言えるが、

写真撮影時の光線の当り方による影で、たま
たま、上記図のように、将棋駒名に関連した
字が、書いてあるように見えるだけ

かもしれず、情報としてかなり曖昧である。
 他の解釈としては、例えば土器底のヨゴレ
を、更に疑うべきではないかと、私はこの件
については、かなり疑わしいと思っている。
(2021/01/25)

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富山県で鎌倉時代の”成金は全”曲物底板出土か(長さん)

本ブログではこれまでの所、将棋のルールが
書かれた出土遺物の存在は、神奈川県鎌倉市
に限られていると見ていた。しかるに今回、
その他の地域からも遂に、

初の将棋ルール出土遺物らしき物を見出した

ので報告する。発掘地は、富山県高岡市の
手洗野赤浦遺跡で出土したのは西暦2000
年前後の事のようである。墨書が有るとの旨
の記載は、発掘報告書中に特に見当たらない。
曲げ物の底板の破片とされ、重要度に於いて
通常の出土遺物の一として、永らく眠ってい
たようだ。
 発掘報告書は、いつものように奈良文化財
研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録されている。
写真の載っているpdfファイル名は、
以下の通りである。
13882_8_岩坪岡田島遺跡・手洗野赤浦遺跡・近世北陸道遺跡発掘調査報告.pdf
発掘報告書の表題は、以下の通りである。
富山県文化振興財団
埋蔵文化財発掘調査報告第35集
岩坪岡田島遺跡
手洗野赤浦遺跡発掘調査報告
近世北陸道遺跡第一分冊、
財団法人富山県文化振興財団埋蔵文化財
調査事務所、2007年。
その報告書の図版117のページの左上にあ
り、遺物番号は手洗野赤浦遺跡の第14番と
の旨で、ナンバリングされている。

手洗野赤浦遺跡成金書体.gif

どちらが曲げ物底板破片のオモテ・裏なのか、
私には良く判らないが。図の右の方の面の、
破片の右の方から、

”施(スナラバ、将棋ノ)馬ノ成名ニ於イテ
全(ハ)成金将(ノコト也)。”と書かれて
いる

と私が読んだ。

『成り金将の字としては、”と”や、”今”
の崩し字の”ケ”金ではなくて、”金”の
楷書に比較的近いもの、一文字で良い。』と
の意味

と私は考える。間違いないとしたなら

大発見だ。

これにより、偽書として麒麟抄が普及する少
し以前の鎌倉時代初期に、将棋の成りとして、
極崩しの金にするという習慣が、少なくとも

公式の話としては、無かった事を示している

と見られる。なおこの遺物が鎌倉時代前期で、
鶴岡八幡宮境内出土駒の”と金”成り歩兵よ
りも、少し前だと言う旨は、以下の分割され
た別のpdfファイルに記載がある。
13882_3_岩坪岡田島遺跡・手洗野赤浦遺跡・近世北陸道遺跡発掘調査報告.pdf
そこの”円形板”と書かれた項の直ぐ下に、
この遺物の説明が有る。成立年代は12世紀
末~13世紀中との事である。西暦1300
年前後とみられる、鶴岡八幡宮境内出土の、
成り”と金”歩兵よりは、少し早い。
 本ブログでは、大将棋系の角行・竪行・
横行の成りが金になったのは、小将棋の成り
が、南北朝時代直前の頃の麒麟抄の成立で、
”と金”になったため、駒道具の管理上紛ら
わしいので、不成りにしていたのを、そうし
なくても良くなった。その結果室町時代から
戦国時代まで、安土桃山時代に水無瀬兼成が
現れるより前には、大将棋の成り金は、楷書
に近い金で表現して、平安小将棋の駒と区別
し、こうしてルール上

金成りになるようにしていた

との解釈を取っていた。つまり、この論だと、
鎌倉時代には、小将棋(平安小将棋)の成り
金の金の字は、大きくは

崩さなかった

と仮定したのだが。そう仮定して良い

物的証拠の疑いの有る遺物が、1品出てきた

と言う事になる。
 書いてあるメディアが、食器であり、単な
る落書きなのは明らかである。字も特に”全”
が、かなり薄い。そこで詳細、これ以上の事
が言えないのだが。少なくともこの遺物は、
発掘報告書全般の墨書遺物の文字には、遊戯
史史料が眠っている疑いが有り得ると見て、
その類の遺物は残らずチェックし、内容を確
認するだけの価値が有る事を、

ほぼ100%示した。

以上のように、私は確信するようになった。
(2021/01/24)

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なぜ石名田木舟遺跡金将駒には金が2文字有る(長さん)

以下、富山県(現)高岡市木舟の
石名田木舟(B2)遺跡出土駒のうちの
1枚、改造金将駒の金将面に書かれた、
特殊な表記を解析する話題である。良く
見ると、この出土将棋駒には、

割ったために部分的にしか見えない金と将
の字の他に、下の図のように金の右に、
小さな金の字が、もう1字書かれている。

今回は、

右半分の金ではわかりにくいので、もう一
つ別に”金”の字をわざわざ書いたようだ

との旨を述べる。

石名田木舟金将.gif

 問題の遺物を本ブログではかつて、
山形県天童市将棋資料館発行の、
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒(2003)
で議論した。同書43ページの最後の段に、
富山県文化振興財団埋蔵文化財調査事務所
の説明によれば聞香札とされている、
”王”木札と共に、その右に、オモテ面の
問題の遺物の写真のみがある。
 基本的に解像度に差はほとんど無いと私
は見るが、以下の発掘報告書には、同じと
みられるオモテ面の写真が有る。そして、
そればかりでなく、裏面の写真もある。
富山県文化振興財団埋蔵文化財発掘調査報告
第14集”石名田木舟遺跡発掘調査報告”
能越自動車道建設に伴う埋蔵文化財発掘報告Ⅲ
第二分冊中世以降編、2002年、財団法人
富山県文化振興財団埋蔵文化財調査事務所。
 今回は、このweb上の写真を使って
説明する。
 なお、報告書は、奈良文化財研究所の
発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録されている。
写真の載っているpdfファイル名は、
以下の通りである。
5597_15_石名田木舟遺跡発掘調査報告.pdf
このpdfファイルの図版145の左上に、
上に示した図の遺物が載っている。
 遺物の説明は、全国遺跡報告総覧に登録
するときに分割された、別の以下のpdf
に有る。
5597_4_石名田木舟遺跡発掘調査報告.pdf
このpdfファイルの173ページの、
上から4行目に、”長さ3.3cm、幅は
上端で7mm(2mmは誤り)、下端で、
約1.1cm”の、金将駒を割ったような
形になっているとの旨が、記載されており、

香車または歩兵を、プレー中に一枚紛失

したので、金将を割って細長くして香車等
に改造予定であったのだろうと、以前に本
ブログでは論じた。
 以前に議論したときには、裏面の写真が
無い状況だったので、無地なのか、消えか
かりの香車かは、私には判らなかった。
 発掘報告書が前記のように入手出来たの
で、今回は良く見て、裏面には文字は無く

まだ、改造の為の墨書は無い

事が判った。
 スケッチが発掘報告書、天童将棋資料館
カタログの何れにもあるが、参考にしなが
ら、私の方でオモテ面の墨書きについて、
先の図のようになぞってみた。細部は報告
書とは合わないが、概念的には、報告書の
解釈で正しいと、私も思う。ただし、報告
書に無いのは、私が上図で紫色の輪郭線で
示した

小さな金の字

だ。これは報告書では、あるはずが無いと
見たので、書かなかったと解釈しても特段
おかしくは無いように、私には見える。
 この小さな金の字については、不注意か
ら私は、天童将棋資料館本を所持している
にも係わらず、ずっと見落とし続けていて
いた。そしてやっと最近、その存在に気が
ついた。何れにしても駒師が、このような
事をしたのは、単に

将は判るが金が判りにくかったので書き直
しただけ

だろう。以前に結論したように、室町時代
前期には、成り金の

裏が香車かどうかは、やはり単に、駒の
長細さで表現して示すのが普通

だった。その事は、

こんなにいい加減なやり方で、成り金を表
現した事その事、からみても充分に明らか

だと私は考えるのである。(2021/01/23)

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茨城県つくば市の島名熊の山遺跡の夜象墨書土器(長さん)

以下、奈良時代から平安時代初に成立と
みられる、茨城県の集落遺跡の墨書土器
の話題である。夜家という棟用の物品を
表しているとみられるが、

夜象とも読める。

共出土物に、奎ヵ房という”字地名”を
示したとみられる土器が有り、未知の、
日本の駒数多数将棋の存在は示唆しない
と見られる。
では説明を開始する。
 この情報もweb上で公開されている。
奈良文化財研究所の発掘報告書データベー
ス、全国遺跡報告総覧に登録されている
からである。報告書の表題は以下の通り
である。
茨城県教育財団文化財調査報告第360集
島名熊の山遺跡、西暦2012年、
茨城県・財団法人茨城県教育財団。
pdfファイル名は、以下の通りである。
10716_1_島名熊の山遺跡.pdf
 この発掘報告書には、問題の遺物のス
ケッチが載っているとみられるが、残念
ながら、写真が見当たらない。
 スケッチが書いてあるのは、今述べた
発掘報告書の250ページの中段右側で、
390番と、ナンバリングされている遺
物で土器である。皿の底の裏側に、墨書
が有るというものである。なお、このと
きの発掘では、この遺物が出土した井戸
跡以外では墨書遺物は、見いだせなかっ
たとの旨が同発掘報告書には書いてある。
井戸跡の番号は、第148号井戸跡と、
ナンバリングされている。なお図版番号
は220。
 墨書土器は他に、図版220~1に、
遺物番号で388番が”川”、391番
が”川”、393番が”奎ヵ房(ただし
発掘報告書の奎の字は、圭が土になって
いる)”、395番”南”、400番が
”玉”、404番”寺”、407番”土”
等があるようである。読みについては、
報告書の前段、第3ページに示唆がある。
 夜象の字は、遺物の写真ではなくて、
スケッチなので不確定性が大きいが、
夜でイが、部首のなべぶた冠から突き出
た第1文字に、マイクロソフトのime
パッドで手書きをしてチェックすると、
”家”と”象”とが、候補の1位と2位
に出る第2文字の組合せが書かれている。

 つまり”夜家”か”夜象”の何れか

であると見られる。前記発掘報告書の3
ページに口家と、報告者が読んだ旨が記
載されている。報告書の見解は取らずに

夜象ならば、将棋駒の名称にも見える。

暗闇で敵の戦象が暴れたら、怖いだろう
から、恐モテのする名詞という事になり、
将棋駒名としての適性を持つからである。
 しかしながらこのケースは、共出土駒
に”奎ヵ房”という、地名に見える墨書
土器が出土してしまっている。

奎は”二又の”の意味であるから、夜家
と昼家があって、土器がそれぞれ用に、
別々に有る

と言う解釈の方が、戦象が古代につくば
市に2頭居るというのよりは、現実実が
ずっと有る。”川”という墨書土器も有
るので、奎ヵ房には古代、小川も流れて
いたのであろう。

発掘報告書から類推される、棟名であり、
”夜家用の土器”の意図であるとの解釈
で、残念だが正しい

のではないだろうか。

夜象という駒名の将棋駒は、これから作
成する駒数多数将棋の駒名の一つに加え
るのも良い

とは思われるが。今回紹介した遺物が、
夜象の駒を含んだ将棋種の、平安時代初
の存在を示唆している可能性は、相当に
薄いと私には思えた。(2021/01/22)

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