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岐阜県重竹遺跡より王将墨書土器片(長さん)

奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧登録の発掘報告書に、
王将との墨跡の残る土器片の紹介があるとの
旨の報告を、以下にする。表面の模様をタク
ホンの要領で写したと見られる発掘報告書の
図に、それが載っている。

ただし、普通の写真に写らない。

その記録が載った発掘報告書のpdfファイ
ル名は、以下の通りである。
1241_2_重竹遺跡・上西田遺跡・洞雲戸遺跡.pdf
発掘報告書は、表題が以下のpdfに記載
されている。登録するとき、順番を間違え
たらしい。
1241_3_重竹遺跡・上西田遺跡・洞雲戸遺跡.pdf
 この発掘報告書の表題は次の通り。
岐阜県教育文化財団文化財保護センター
調査報告書第91集、重竹遺跡・上西田遺跡、
財団法人岐阜県教育文化財団、西暦2005。
 2001年頃の発掘で、遺物は出土した
ようだ。
 報告書の第2分冊34ページの図236の
”(重竹遺跡)遺構出土遺物(中近世)”の、
中段付近に遺物番号454として載っている。

岐阜県関重竹王将.gif

この、魚のタクホンを取る要領で写したとみ
られる図面の記載からは、王将のような字が
有るように見える。が第2分冊の図版54の、
下段左から2番目に、遺物の写真そのものが
あるが、問題の面を撮影したと見られる

写真では、王将の文字は、全く判らない。

なお発掘された場所である岐阜県重竹遺跡は、
岐阜県関市下有地にある”刃物の町・関”と
言われる場所との事である。現場は鍛冶職人
の住居跡かもしれない。
 また成立年代は中世~近世となっており、
漠然としすぎてはっきりしない。が、

何れにしても王将の存在した時代なので、
有っても矛盾は無い遺物

であると、本ブログでは見ている。
 繰り返すが、写真に明確に写らない事から、
タクホンで偶然出来た模様である疑いがある。
(2021/02/19)

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