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愛知県東海市畑間遺跡より7世紀の王将墨書土器(長さん)

よく知られるように、古墳時代や飛鳥時代の
遺物は多数出土している。ので、墨書・刻書
等の書き込みの有る遺物の中に、将棋に特有
の名詞が有るかどうかを調べれば、将棋の伝
来が、その頃以前であるかどうかを判断出来
る材料は、それらの時代に関して意外に多い
との旨を述べた。しかし判定の時に、自然に
出来たシミ等の誤認の懸念を、例を掲げて指
摘した。今回は、

その誤認の類と疑われる遺物の他の例

の紹介である。
 遺物は愛知県東海市畑間遺跡より2016
年頃に発掘された、比較的新しい出土例であ
る。7世紀に成立した弥生土器の破片とされ
るものである。
 情報はweb上に公開されており、
報告書が、奈良文化財研究所発掘報告書デー
タベース、全国遺跡報告総覧に登録されてい
る。写真の出ているpdfファイルは、以下
の通りである。
22811_1_平成28年度畑間遺跡発掘調査報告.pdf
報告書の表題は以下の通り。
愛知県東海市畑間遺跡発掘調査報告2018年
東海市教育委員会、2018。なお畑間遺跡
は、東海市大田町に有るそうだ。下の図の
写真は、前記pdfファイルの写真図版42、”
遺物 畑間遺跡(土師器・須恵器・灰釉陶器・山茶碗)”
の上段右に有り遺物番号は50で、写真の
遺物の中央に王と、右下の寸の部分が特にはっ
きりしない、将のようにも見える部分がある。

畑間遺跡50王将.gif

良く見ると、全体が長方形で、囲われている
ようでもある。しかし”将”の字の、へんが
爿になっているのかどうかは、かなり怪しい。
 なおこの遺物の成立年代については、前記
報告書の64ページの真ん中付近の記載から、
7世紀半ばと発掘者は解釈している事が判る。

本当に王将なら、この名詞も将棋に固有とみ
られるので、現在有力な説となっている、
”将棋の遅い伝来説”は不利になる。

 しかしながら。
上記図のように、王はしっかりしているよう
に見えるが、このケースについては将が、
ボヤケ過ぎである。王将は将棋駒名でしか、
あまり使われないので、もし本当に王将なら、
7世紀に、日本に将棋が伝来しているという
証拠になり得るだろう。しかし、王は土器を
作ると漢字の三という横縞のヨゴレや、写真
に影として写る模様が出やすい。のでたまた
まそう見えているだけ。”将”はこの土器に
関してヨゴレが、たまたま、多数の遺物を探
すと、そのような形になったものを選んだと
いう、それだけであると、このケースに関し
ては解釈も出来るのではないか。だとすれば、
将棋が日本に7世紀に成立していたとの証拠
には、必ずしもならない事は明らかである。
 将棋駒や将棋盤は木製が多いため、腐って
歩留まりが悪い。ただし他の機会に、他の物
品に将棋駒名を書くというケースは、相当に
レアーだろう。が後に残る物に書けば、発掘
される確率はかなり上がる。土器類は文字史
料の大量に見つかる、平安時代初期以前のも
のがたくさん発掘されており、木が腐って将
棋駒自体が残らないにしても、それを補完し
て、日本での将棋の存在の、手がかりが得ら
れる事を、ここでは期待してみたという事で
ある。木製五角形駒:たまたま墨書遺物の発
掘確率は、1:1/4程度かもしれない。
 それでも過去に、土器に将棋駒名を書いた
例等が発掘されていそうだが。過去、将棋史
家に目に付く程度の数は、たぶんだが無いの
だろう。そのため過去には、そうした例の指
摘が無いのかもしれないと、探してみて私は
最近思うようになった。(2021/02/23)

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