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大阪府八尾市田井中遺跡で弥生中期象王墨書土器(長さん)

今回は大大将棋等白象・香象関連駒で大局将棋
のそれら、白象・香象の更に成り駒である、
象王と漢字で書かれているような、大阪八尾市
の遺跡の出土遺物の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
4523_1_八尾市埋蔵文化財発掘調査報告1994年.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
八尾市文化財調査研究会報告40
八尾市埋蔵文化財発掘調査報告Ⅱ
1.田井中遺跡(志紀遺跡)・2.八尾南遺跡(第10次調査)・
3.東弓削遺跡(第3次調査)、西暦1994年、
財団法人八尾市文化財調査研究会。
 遺物はこのうち、一番目の田井中遺跡(志紀
遺跡)で出土した。なお志紀遺跡とは、田井中
遺跡の東側を、後に分離した名称で、厳密には
志紀遺跡で遺物が出土したように読み取れる。
なお田井中遺跡は、第3・4・6・8次と、
相次いで調査されたが、目次等により、遺物は
第6次調査の第6(調査)区で、発掘されたと
の事時である。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の場所は、
大阪府八尾市志紀町西。遺物が出土したのは、
西暦1987年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の第37ペー
ジの記載から、問題にする遺物に関して、
弥生時代中期後半(紀元前後)と判断されると
の旨、読み取れるようである。
 遺物の写真は発掘報告書の写真図版55:”
第6調査区出土遺物”の、最上段右上に在り、
遺物番号第6051番”との旨ナンバリングが
有る。小型の甕との説明が、発掘報告書に在る。

田井中象王.gif

 上図のように、細長い字で遺物の中央やや左
側に、縦に漢字で象王と書いてあるようにも見
える。その左側に、朝顔型埴輪の絵のような模
様が更に有るようにも見えるが不明解である。
 象の字のような模様は、汚れがひどくまた、
ぼやけていて、象だか鬼だか、はっきりしない。
王の字も、真ん中むの横棒が擦れている。他方、
朝顔型埴輪に鬼の字の書いてあると疑われる遺
物が八尾市の八尾市南遺跡で出土しているので、

第1字目は鬼が正しいかもしれない。

目下のところは、大阪府付近で、弥生時代中期
後半の紀元前後の頃、王という漢字が、渡来人
によって伝来していた証拠の疑いの有る遺物と、
本ブログでは解釈しておく。
 あるいは、一字目も漢王朝中国人が鬼と書き、

鬼の王を、朝顔形埴輪の魔力で、追い散らす絵
を描いた

のかもしれない。何れにしても早い時代に、
大阪八尾市には渡来人によって、埴輪等、新し
い文化が流入していた場所だった疑いが、大き
いという事なのであろう。(2022/05/31)

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兵庫県太子町亀田遺跡で奈良期大兎墨書土器(長さん)

今回は、発掘報告書でも奈良期の墨書土器皿と
鑑定され「大家」と読んでいるが、別の読みの
可能性があり、いっけん「大兎」であるが、
「大宝」の可能性も有るという例の紹介である。
なおこの発掘報告書には、図版55に古墳時代
とされる土器に、象戯無正と墨書されている
ものがある疑いがあるという、別の将棋関連
墨書の存在を、以前に本ブログでは紹介してい
る。奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録されたpdfファイル
が元情報であるという事であり、情報源はその
折に紹介している。再掲するとpdfファイル
名は、以下の通りである。
19293_2_揖保郡太子町亀田遺跡第1分冊-亀田遺跡2地点の調査-.pdf
報告書名は、以下の通りである。
兵庫県文化財調査報告 第210冊
揖保郡太子町亀田遺跡、2000年11月、
兵庫県教育委員会。
遺跡の場所は兵庫県揖保郡太子町上太田字
亀田。遺物が発掘されたのは西暦1994
年前後という事であった。
 今度の遺物の成立年代は、発掘報告書、
第1本文pdfの第18ページ付近「N0.Ⅱ
地点の基本層序」によると、第2包含層の地層
部分に古代の流路が在り、その中に今回話題
とする墨書土器皿破片が見つかったようである。
形態から第1分冊第86ページ付近で奈良時代
成立であると推定されているように読み取れる。
 遺物の写真は第2写真pdfの写真図版第
87:”奈良時代の土器5(流路)”の最上段
右上に在り、遺物番号第393とナンバリング
されている。皿型の土器の破片の裏側に、墨書
が在る事を示している、写真のように見える。

亀田遺跡大兎.gif

 上図のように、大兎にも読めるが、将棋駒名
に大兎は存在しないので、将棋とは関連がない
と見られ、発掘報告書第1本文pdfの第86
ページ等では、大家と釈文されていると読み取
れる。よく見ると、第2字目は寶の草書であり、

大宝と書いてあるようで、

太子町でも貴金属が産出する鉱脈が、奈良期に
存在したようにも読める。或いは奈良期ならば、
具体的な内容は不明だが、

大宝律令に則った何らかの物品の、一時置き場
という意味

かもしれない。
 あくまで私見だが。家の字の下部が擦れてお
り、正確に釈文するのが困難な墨書の一例なの
ではないかと疑っている。(2022/05/30)

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埼玉県熊谷市在家遺跡で奈良期山泰墨書小石(長さん)

今回は埼玉県の官衙跡遺跡の墨書円形小石
に、山奉と書いてあり、古代の赤城山・
榛名山信仰ではないかと疑われる遺物の紹
介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
19530_1_在家遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
埼玉県熊谷市在家遺跡調査会埋蔵文化財調査報告書
在家遺跡、2015年、埼玉県熊谷市在家遺跡調査会。
 発掘報告書末尾の抄録によると、遺跡の
場所は埼玉県熊谷市別府五丁目185番地。
遺物が出土したのは、西暦2013年前後
の事のようである。なお、熊谷市別府は、
市街地から群馬県の太田市方面に、少し移
動した場所に在るようである。
 遺物の成立年代は、遺跡が官衙跡であり、
最盛期が8世紀半ばから後半の、奈良時代
後期である旨が、発掘報告書の第200ペー
ジ付近に記載されていて、遺物もその頃の
成立だろうと考えられているように、読み
取れる。
 遺物の写真は発掘報告書の、写真図版第
53の左下に在り、遺物に第174図33
との旨、付記されている。丸い形に削った
小石/小礫の類であると説明されている。
経石のパターンかと、発掘報告書の報告者
は、考えているように読み取れる。釈文は
判読困難と見ているようである。

在家山泰.gif

 上図の右側の赤外線写真のように、左上
に比較的濃く山と書いてあり、その右下中
央に、神社で見かける書体のように個人的
には見える、「奉」の字が書いてあるよう
に私見する。熊谷市北方郊外から遠方に見
える群馬県の、

赤城山ないし榛名山を奉じた祭祀用

の物品なのではあるまいか。経文に山奉の
2文字が無いという証明は私には不能だが。
奈良県では仏教が隆盛した時代だが。民間
の地方人が、埼玉県熊谷市で経石を書くに
は、少し早い時代だった疑いも、奈良時代
となれば、全く無いとまでは言えないよう
に私には疑われるのだが、どうであろうか。
(2022/05/29)

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香川県高松市北山浦遺跡で水奔墨書土器飾り(長さん)

今回は、弥生時代中期成立とされる四国香川県
高松市の遺跡から発掘された小型土器の、飾り
のような五角形の突起部に、漢字で「水奉」と
書かれているのではないかと疑われる遺物出土
の話題である。墨書部分は弥生後期に下るが、

祭祀用の清水入れではないかと疑われる。

 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
19581_1_木太鬼無線街路事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書第2冊北山浦.pdf
無線街というのは地区の名称で、道路工事に伴
う発掘調査のようである。
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
高松市埋蔵文化財調査報告第137集北山浦遺跡、
2012年、高松市教育委員会。
 発掘報告書末尾の抄録によると、遺跡の場所
は、香川県高松市西春日町。遺物が出土したの
は、西暦2008年前後のようである。
 遺物の成立年代は、遺跡自体が弥生時代中期
中頃とされていて、炭素14年代分析によれば、
紀元前350年~200年程度の成立のようで
ある。遺物は第5溝状遺構から出土している。
 遺物の写真は発掘報告書の第38写真図版の
最下段に在り、遺物番号第877番との旨の
ナンバリングがある。小型壷の土器との説明が、
発掘報告書から読み取れるようである。

無線街路水奔.gif

 上図のように、写真の右の方に将棋駒型の
破片を張り合わせたような突起物が在り、よく
見ると、右に偏っているが、

漢字で水奉と書いてある

ようにも読める。
 弥生時代中期中ばの遺物とすれば、漢字の水
等の伝来が飛び抜けて早かった事を意味するが、

第5溝状遺構付近から、散漫に出土しただけで
あり、弥生土器のようであるとされるが、弥生
時代遺構に属しているかどうかはっきりしない

と疑われる。本ブログでは瀬戸内に沿って移住
した、初期の渡来漢王朝人による墨書と、今の
所しておく。神棚に納めるような水汲みの道具
が個人的に連想され、それを示す為の飾りであっ
て、将棋を意識していないとみられる。なお、
鎌倉時代成立な為、時代が全く違うが、同様の
五角形形態の物品が、神奈川県鎌倉市からも出
土している。元に戻すと。

少なくとも「水」という漢字は、相当早く伝来

し、瀬戸内沿岸で使われていたと、疑って良い
という事なのであろう。(2022/05/28)

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奈良県大和高田市長田遺跡で古墳期奔金墨書土器(長さん)

今回は東北ではなくて奈良県で、金鉱の産物の
容器ではないかと見られる、漢字で奉金と書か
れているように見える、遺物土器出土の話題で
ある。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
19876_2_土庫遺跡群発掘調査報告.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
大和高田市埋蔵文化財調査報告第9集
土庫遺跡群、2010、大和高田市教育委員会。
発掘報告書に土庫長田遺跡、土庫丑寅遺跡、
土庫東遺跡が載っていて、遺物は土庫長田遺跡
で出土したようである。
 発掘報告書の第2写真図版pdf末尾の抄録
によると、長田遺跡の場所は奈良県大和高田市
土庫。遺物が出土したのは、第1次調査の折で、
西暦2007年前後の事のようである。
 また、同じく抄録によると、土庫長田遺跡の
第1次調査区は古墳時代成立とみられ、遺物も、
古墳時代に成立したとみられているようである。
 遺物の写真は第2写真図版pdfの写真図版
第42:”長田遺跡第1次調査大河道出土遺物”
の中段左に在り、遺物番号第276番との旨、
ナンバリングされている。大きな丸い甕のよう
な形の土器のように見える。

長田遺跡奔金.gif

 上図のように中央下に、漢字で金と書かれて
いるような、黒い模様が在り、その上に、はっ
きりしないが、奉か奔か、判然としないやはり
灰色に見える模様が有るようである。
 近畿地方のどこかで、何らかの鉱物を採取し
て中に入れ、有力者への貢物にしたようにも私
には見える。
 元々渡来人が多い畿内でも、金鉱探しが、か
つては盛んに行われていたのではないかと、私
はこの出土遺物の存在から疑っている。なお、
発掘調査報告書には、長田遺跡第1次調査で、
韓国式土器が複数出土したとの旨、まとめ等に
記載がある。(2022/05/27)

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鹿児島県鹿屋市で縄文早期泰山墨書土器(長さん)

今回は、縄文早期の遺跡と言われる場所から
漢字で奉山等と書かれているように見える、
土器の破片が出土しているという話題である。

山とは書かれているように見え山という漢字
の伝来は、相当に早かった

と考えられる。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
22753_1_中尾遺跡・四方高迫遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書99
中尾遺跡・四方高迫遺跡、2006年3月、
鹿児島県立埋蔵文化財センター。
 遺物はこのうち、四方高迫遺跡の集積遺構
で出土しているとの事である。
 遺跡の場所は、発掘報告書冒頭にある抄録
によると鹿児島県鹿屋市吾平町上名四方高迫。
遺物が出土したのは、西暦2000年前後の
事のようである。
 遺物の成立年代は、第4集石遺構で話題と
する遺物土器が出土し、発掘報告書第185
ページ付近の記載から、縄文時代早期と考え
られているように読み取れる。
 遺物の写真は発掘報告書の写真図版第26:
”四方高迫遺跡(集石遺構出土土器)の最上
段左に在り、遺物番号第516番とナンバリ
ングされている、土器の破片のように、私に
は見える物品である。

四方高迫奔山.gif

 上図のように、中央の上部、左側の小穴の
ように見える部分の左少し下に、反時計回り
に傾いているが

漢字の「山」のように見える模様が有り、

その上の黒い煤けたような部分も、奉である
と言われれば、そのようにも見える。泰の
右下の割れ目の部分にも、はっきりしないが、
もう一つ「山」のような黒い模様が有る。
 泰ではなくて奉だとすれば奉山々になり、
将棋とは関連し無い。が漢字の「山」の字が、
縄文時代早期とされる遺物に有る事自体が驚
きである。
 発掘報告書の地図を見る限り四方高迫遺跡
は、南側の山の際の場所であるように私には
認識され、山岳信仰が古墳時代であれば存在
出来るような場所のように、たまたまだが認
識される。
 この遺物には縄文が少ないように、私には
見えるが。縄文土器で間違いないとしても、
山の字が偶然模様で、仮に無いとしたら

山岳信仰を伝来させた渡来人が山と書いた、
漢字の成立として早い時期の遺物

と解釈するべき物品には、間違いはないと考
えられるだろう。(2022/05/26)

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大阪府八尾市八尾南遺跡で5C後半森鬼墨書埴輪(長さん)

今回は、大阪府八尾南遺跡で、古墳時代の埴輪
の破片に、漢字で大局将棋の駒名、森鬼と読め
るような黒い模様の有る遺物が出土していると
いう話題である。

「旱時鬼」と書かれ、雨乞い儀式用の道具

に使われるのではないかと、疑われる。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
4740_2_八尾南遺跡財団法人八尾市文化財調査研究会報告47.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
八尾南遺跡/財団法人八尾市文化財調査研究会報告47
第8次調査・第12次調査・第17次調査、
1995年、財団法人八尾市文化財調査研究会。
 遺物はこのうち、第8次調査の西地区で出土
したようである。
 発掘報告書第1本文pdf第8次調査編冒頭
の例言によると、遺跡の場所は、大阪府八尾市
若林町1丁目87番地他2筆。遺物が出土した
のは西暦1987年前後の事のようである。
以前別の、八尾南遺跡出土遺物を紹介した事が
有るが、そのときの遺物は若林3丁目から出土
していた。かなり遺跡の広さが、広いような印
象を受ける。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第1本文
pdf、第8次調査編121ページ付近の記載
によると、遺物は八尾南遺跡第10号墳墓(報
告書作成時の西地区第3号墳)から出土し、
共出土した須恵器の形式がTK23形式と記載
され、古墳時代の5世紀後半に成立したものと
考えられているようである。
 遺物の写真は(写真)図版第32:”西区3
号墳出土遺物”の上から2段目左側に在り、
遺物番号第316番とナンバリングされている。
広口瓶のような形の土器の破片のように、私に
は見える。朝顔形埴輪の破片との事である。

八尾南森鬼.gif

 上図のように写真図の中央よりも、やや右上
に、漢字で森のようにも見える黒い模様が在り、
その更に右上に、鬼と書かれていると言われれ
ば、そのようにも見えるような、やはり黒い模
が在る。朝顔型埴輪という名称からは遠い、暗
いイメージの文字内容ではある。
 江戸時代成立とされている大局将棋の、5世
紀後半の存在を示唆しているとは思えないが、
唐突とした内容であり、いっけんして意味不明
である。
 そこで、埴輪の模様を更によく見ると、

森ではなくて、時のように読める。

発掘報告書には指摘が、今のところ私には見当
たらないが、何か書いては有るようである。す
なわち、森と見た文字の更に左に、薄く漢字で、
「旱」と書いてある。この事から旱時鬼(を払
う)等の意味と読め、

古墳時代に、雨乞いに転用した埴輪ではないか

と疑われてくる。地方の豪族は呪い師や神官を
兼ねていて、仏教が伝来して僧侶等が雨乞いの
祈りを捧げる以前にも、旱魃のときには、それ
を終わらせるための儀式等を、墳墓の付近に、
人を集めて行ったのかもしれないと私見する。
将棋とは関連の薄い遺物であろう。(2022/05/25)

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熊本市健軍京塚下遺跡で平安初泰山墨書土器(長さん)

今回は、墨書土器が共出土している奈良~平安
初期成立の熊本県熊本市の台地際の遺跡で、
土器杯の裏面に漢字で「奉山」等と書かれてい
るように見えるひび割れ出土土器の話題である。

「泰(お日様マーク)山(改行)秦山」と書い
てあるようにも見え、阿蘇山が奈良時代に、
雄大な「秦山」と呼ばれていた事を示す土器

の可能性が在るように見える。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
15621_1_江津湖遺跡群・健軍京塚下遺跡.pdf
発掘報告書名は以下の通りである。
熊本県文化財調査報告第245集江津湖遺跡群・
健軍京塚下遺跡、2008.3、熊本県教育委員会。
 遺物は健軍京塚下遺跡の第Ⅱ区で発掘された
との事である。
 遺跡の場所は、末尾の抄録と冒頭地理的環境
後半総括に挿入された地図等から、熊本県熊本
市神水。遺物が出土したのは、西暦2004年
前後の事のようである。遺跡の場所は現在は、
熊本市市街地の中であるが、元々は阿蘇山の
裾野の、託麻台地の山の端付近であるとの事で
ある。
 遺物の成立年代は、健軍京塚下遺跡第Ⅱ区の
第2号土壙から出土したが、官衙の祭祀場であ
り、8世紀中~9世紀中までの間の奈良・平安
初期の成立と見られていると取れる記載が発掘
報告書の第142ページ付近に在る。写真図版
に、討伐の伐と書かれたように私には見える、
墨書土器が共出土して、報告されているようで
ある。軍事的施設でも、あったのであろう。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版第22
の、最下段のカラムの、Ⅱ区2号土壙(遺物)
と書かれた部分の、そのページの最下段の中央
に在り、遺物番号、2号土壙の第6番との旨の
ナンバリングが在る。割れ欠けのある土器杯の
ようであり、底の部分の下の写真に模様が有る。

健軍京塚泰山.gif

 上図のように、遺物の写真中央に、

秦の字と見られる目立つ模様が在り、その下に
漢字の山に見える煤のような模様が在って

秦山と書いてあるようである。そして、それだ
けではなくてその右に、縦に泰山と書いてあっ
て、その2字の中央に、私には目玉焼きマーク
に見える模様が在る。4文字および絵から、
「太陽のような大きい山である『はたやま』」
という意味では無いだろうか。
 恐らく山を拝めているのであり、具体的には
阿蘇山のことであろう。阿蘇山が奈良時代には
「はたやま」等とも呼ばれていた事を、示して
いるのではあるまいか。つまり奈良時代に今と
ほぼ同じ山岳信仰が、熊本市付近に存在してい
た事を示しているように私見する。(2022/05/24)

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愛媛県松山市大渕遺跡で奔金墨書土器(長さん)

今回は四国愛媛県松山市大渕遺跡で縄文時代
晩期の彩色壷型の土器に、漢字で奉金と書か
れているように見えるという旨の話題である。

残念ながら偶然模様と判断される。

 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファィル名は以下の通りである。
11968_1_大渕遺跡.pdf
なお、pdfは3つに分かれているが、写真
が第1本文pdfの第3巻頭カラー写真とし
て公開されている。
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
松山市文化財調査報告書77大渕遺跡、西暦
2000年、松山市教育委員会・財団法人松山市
生涯学習振興財団埋蔵文化財センター。
 遺跡の場所は、発掘報告書第22ページの
「組織」の項の記載によると、愛媛県松山市
太山寺町甲473、496、498。遺物が
出土したのは同じく第22ページによると、
西暦1987年から1989年および、その
前後の事のようである。
 遺物の成立年代については、発掘報告書の
第10ページの記載によると、遺跡の第5層
から出土した遺物であることを根拠にして、
縄文時代晩期後半であると、見られているよ
うに読み取れる。
 遺物の写真は、冒頭に述べたように、第1
本文pdfの巻頭写真第3番に在り、遺物番
号は第659番とナンバリングされているよ
うに本文から読み取れる。また巻頭写真第3
番には「大渕遺跡出土彩文壺」との旨の説明
書きが、付記されている。

大渕奔金カラー.gif

 上図のように、赤い色材で塗布された土器
写真の中央下に漢字で金のようなスペード型
抜き模様が在り、その上方の写真で土器の、
ほぼ中央に、上部がはっきりしないが、漢字
の奉であると言われれば、そのようにも見え
る、同じく輪郭を抜いたような模様が有る。
ややバラケているが「奉金」と読めるように
解釈され、彩色で飾られた、貴金属奉納の壷
を連想させる。が、

漢字の成立時代が、著しく早すぎ

である。
 そこで遺物を良く見ると、
①奉の大部分の左下が無い。
②金のハ部分が2つ有る。
 以上の事から、漢字としては不自然であり、

偶然模様である

と解釈される。残念ながらこのケースは色材
の一部が剥げ落ちた際に、ムラで模様が出来、
一部が奉金という字に、似ただけだったと見
るべきなようである。なお、発掘報告書に、
模様の内容に関するコメントは、今のところ
発見出来ていない。(2022/05/23)

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福岡県みやこ町カワラケ田遺跡で7C上将墨書土器(長さん)

今回は宝応将棋に有る、上将と書かれている
ように見える、福岡県発掘の飛鳥時代成立と
みられる墨書土器瓶の紹介である。

上将という官職が存在した

のであろう。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
59141_1_東九州自動車道関係埋蔵文化財調査報告10.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
東九州自動車道関係埋蔵文化財調査報告
呰見川ノ上遺跡・カワラケ田遺跡2次調査2(Ⅲ・Ⅴ・Ⅵ区)・
八ッ重遺跡2次調査、2013年、九州歴史資料館。
 遺物はこのうちカワラケ田遺跡2次調査で
発掘されたようである。
 発掘報告書末尾の抄録によると、遺跡の場
所は福岡県京都郡みやこ町大字呰見。遺物が
出土したのは、西暦2009年~2010年
の間のようである。
 遺物の成立年代は、カワラケ田遺跡第2次
調査の第7・8号住居跡から出土したが発掘
報告書の第146ページ付近の記載によると、
7世紀前半前後の飛鳥時代の頃住居跡が成立
し、遺物もその頃のものとの旨が、読み取れ
るようである。
 遺物の写真は発掘報告書の写真図版第44
の上から2段目の右側に在り、遺物番号第
109番との旨のナンバリングがある。正面
向きの写真(上の方)に、煤に埋もれて更に
濃い模様が有り、漢字で上将と書いてあるよ
うにも見える。

カワラケ田遺跡上将.gif

 上図のように、漢字のよう見える模様が右
下にあり、縦に上将と書いてあるようだが、
将の字の右側の斜め線が余分では有る。なお、

牛僧儒の宝応将棋の成立は9世紀

である。
 瓶の容器の所有者の識別のために書いたよ
うに見え、飛鳥時代に中国の官職名を参考に、
上将という職階が我が国にも存在したとしか
説明出来ないであろう。職階の一般名称なの
で、日本に7世紀に、インド・チャトランガ
成立直後に宝応将棋が存在していたという証
拠には、なら無いのではないかと私見する。
(2022/05/22)

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