SSブログ

奈良県御所市楢原遺跡で4C泰山墨書土器(長さん)

今回は奈良時代には都の有った奈良県の、
古墳時代前期4世紀の遺跡から、奉山墨書
土器が出土しているとの旨の話題である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
1593_1_楢原遺跡Ⅰ.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
御所市文化財調査報告書第17楢原遺跡Ⅰ、
1994年3月、御所市教育委員会。
 発掘報告書冒頭の例言によると、遺跡
の場所は、奈良県御所市大字楢原字荒毛
438。遺物が出土したのは、西暦
1987年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、包含層で出土した
かなりの数の遺物の傾向から、古墳時代
前期の4世紀と考えられているように、
発掘報告書の第29ページの説明からは
読取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版
第24:”W地区包含層出土遺物(その
2)”の、最下段左に在り、遺物番号で、
スケッチ図32の第27番との旨、ナン
バリングされいる。土器の台部に見える
が、遺物観察表に、甕型土器の台との説明
がある。

楢原遺跡泰山.gif

 上図のように、写真で中央右に寄って、
比較的全面に縦に、漢字で奉山と書いて
あるようにも見える。
 識字層が、奈良県御所市に古墳時代初期
4世紀に大勢居り、先祖に見立てて奈良県
西部の山々を崇拝していたのであろう。
近畿地方は、大陸からの文化の初期伝来地
だとみなす、本ブログのこれまでの説明と、
概ね一致する史料なのではないかと考える。
(2022/07/31)

nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

兵庫県神戸市松野遺跡で鎌倉期泰山墨書土器(長さん)

本ブログでは、中国漢王朝期の弥生時代後期
に、日本の九州と近畿で帰化人から広まった、
山を奉じる祭祀と、有力者に馬を献上する実
態納税の行為が開始されたと見ている。現在
では大いに変形し、祭祀は残るが神道の儀式
と、区別はつかなくなっていると見られる。
では山を奉じ馬を献上した習慣は、近畿地方
で、何時まで弥生時代式として明快であった
のかという点について、今回は、奉山と馬奉
墨書が同時の発掘で出土した神戸市松野遺跡
で、鎌倉期と示唆されている証拠が在るとい
う点につき、以下に紹介する。
 その奉山・馬奉各墨書遺物の写真はweb
上に公開されていて発掘報告書に載っている。
発掘報告書が奈良文化財研究所の発掘報告書
データベース、全国遺跡報告総覧に登録・
公開されている。pdfファイル名は以下の
通りである。
10455_1_松野遺跡第11~23・25・26・29~31次水笠遺跡第2・.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
松野遺跡第11~23・25・26・29~31次
水笠遺跡第2・3・5~15・17~21次
発掘調査報告書、西暦2002年10月31日、
神戸市教育委員会。
 なお、全国遺跡報告総覧データベースに
pdfを登録する時に、第1pdfと
第2pdfとを入れ違え、第2pdfが本文
pdf。第1pdfが写真図版のpdfになっ
ている。
 第1写真図版pdf末尾の抄録によると、
遺物は松野遺跡の第19次発掘で出土したが、
松野遺跡の位置は、兵庫県神戸市長田区
松野通4丁目。遺物が出土したのは、西暦
2000年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、同じく抄録や、発掘
報告書第1本文pdfの、第34ページの記
載から第1土坑で出土したが、出土遺物から、
第1土坑は鎌倉時代成立と、見られているよ
うに読取れる。
 遺物の写真は、奉山墨書土器が、第1写真
pdfの写真図版55の最上段中央に在り、
遺物番号で第6番とナンバリングされている。
土器の破片のようである。

松野遺跡泰山.gif

 上図のように縦に、間が開いて、ほぼ真ん
中と下隅に、奉と山の字が、書かれているよ
うに見える。
 次に馬奉墨書遺物については、同じく発掘
報告書第1写真pdfの写真図版第54の、
下カラム:”2.松野遺跡第19次SK01
上層”の、下から2段目左側に在り、遺物
番号第5番との旨、ナンバリングされている。
杯型の土器のように、私には見える。

松野遺跡奔馬.gif

 上図のように、杯の写真の右下に漢字で、
馬のような模様が、まず目につき、ついで、
その馬の字に少し重なって、右下に奉の字が
書いてあって、合わせて馬奉の意のように、
私見される。
 馬の収め先は、北条時宗か小山朝政であっ
て、漢王朝の皇帝では当然無いのであろうが。
蛇足だが13C初時点、つまり小山朝政の時
代の発掘現場が播磨国なのか、摂津国なのか
は、私には良く判らない。何れにしても、土
地の有力者の祖先に見立てられた山を奉じ、
そして有力者へ駿馬を献上の意味は弥生時代・
古墳時代・古代・中世鎌倉期と、神戸市の下々
の側から見れば、格別大差は無かったのかも
しれないと、私には疑われる。(2022/07/30)

nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

島根県松江市松江城下町遺跡で7枚目金将駒(長さん)

以前、遺跡の場所に建設された松江歴史館
に将棋駒が6枚程度保有されているらしい
との旨の情報を、本ブログで紹介した。
 最近になり、管理人が読み落としていた
発掘報告書に、母衣町68と表現された
地点で、西暦2011年の歴史館の開館
直後に、成立時代は展示品と同じく、近世
のカテゴリー頃らしい、7枚目の木製将棋
「金将」が、出土していたとの旨の情報を
得たので、以下に紹介する。すなわち、本
ブログでは久し振りの、五角形木製の典型
将棋駒の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
69363_1_松江城下町遺跡母衣町68.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
松江市文化財調査報告書第164集
松江城下町遺跡(母衣町68)、2015年
3月、島根県松江市教育委員会・公益財団法人
松江市スポーツ振興財団。
 遺跡の場所は、発掘報告書末尾の抄録に
よると、島根県松江市母衣町68。遺物が
出土したのは、西暦2012年前後の事の
ようである。
 遺物の成立年代は、同じく抄録によると、
江戸時代の武家屋敷内であると、考えられ
ているようである。
 遺物の写真は前記発掘報告書の写真図版
第50:”南西屋敷第1遺構面遺構外出土
遺物(2)”の下から3段目右端に在り、
スケッチ図第98の遺物番号23番との旨、
ナンバリングされていて、将棋の駒の金将
の写真が載っている。ただしオモテ面だけ
である。スケッチ図にも裏面の紹介は無い。
無地と断定されたようである。

松江城下町金将.gif

 写真のように、新字体の将の金将であり、
恐らく幕末のもので、博物館の所持品とし
ては成立した時代が新しい方なのであろう。
 以前紹介した2013年出版の発掘報告
書は、財団法人松江市教育文化振興事業団
担当分の発掘現場であったが、この西暦
2015年出版の発掘報告書の発掘現場は、
公益財団法人松江市スポーツ振興財団の担
当箇所であり、後者の地点でたまたま出土
した為、報告書の記載が遅れてその結果、
本ブログの認知が遅れたようである。なお、
文字列検索しても、将棋でこの発掘報告書
は、たまたまヒットし無かったようである。
 実際には存在するのに、私が知らない時
間が相当に長かったが、島根県出土の将棋
駒遺物は1枚増えたと認識する。近世には、
松江で将棋が盛んであったことを、示して
いると考える。(2022/07/29)

nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

山形県寒河江市三条遺跡で古代山泰墨書土器(長さん)

本ブログで以前古代成立の「香箪」墨書土器や
一文字「桂」墨書土器を紹介した山形県の三条
遺跡の同じ発掘報告書に、より単純に「山奉」
と墨書された遺物が有ったのを、私が見落とし
ていたようなので、以下に紹介する。
 情報の出所は同じwebページの発掘報告書
であり、pdfファイル名は、繰り返すと
以下の通りである。
28295_2_三条遺跡第2・3次発掘調査報告書.pdf
 発掘報告書名も以下の通りであり、以前に
紹介済みである。
山形県埋蕨文化財センター調査報告書第93集
三条遺跡第2・3次発掘報告書、2001、
財団法人山形県埋蔵文化財センター。
 遺跡の場所は第1本文pdf:
28295_1_三条遺跡第2・3次発掘調査報告書.pdf
の巻末の抄録によると、
山形県寒河江市寒河江字三条。発掘調査は
同じく抄録により西暦1996年前後という事
であった。
 今回の問題にする土器の成立年代は、発掘
報告書第1本文pdfの、第11ページに、
話題にする遺物は、竪穴住居跡第2号で出土し
たが、奈良・平安時代に成立と、みられている
ように読取れる。なおスケッチ図が発掘報告書
第1pdfの第201ページ付近の、第165
図:”遺物実測図(15)-ST1・2”の、
4番に在り、それが遺物の番号になり、第2号
竪穴住居跡出土である事が判る。
 遺物の写真は、第2写真図版pdfの、写真
図版第59の、最上段左に在り、165-4と、
符号が付記されていて、先に述べた意味である。

三条山泰.gif

 上図のように、字が薄いものの、

漢字で山奉と書かれている

ように私には見える。すなわち煤の模様のよう
な、黒い部分が縦に2つ存在する。
 付近の山の先祖神を祭る祭祀用土器なのであ
ろう。この遺物の文字は、そのものずばりだと
考える。なお、発掘報告書でも墨書土器である
と見なされたが、山の右側だけに墨が在ると、
判定されたようである。縦に2文字書かれた字
が、写真で反時計回りに回転しているのは、そ
の為とみられる。釈文等仔細は、私には不明で
ある。(2022/07/28)

nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

愛知県瀬戸市上品野蟹川遺跡で9C王近墨書土器(長さん)

今回は、大大将棋に有る将棋駒名である近王
をひっくり返して王近とし、寺か方(カタ)
を第3字目として付けて3文字にしたような
漢字の墨書の有る、古代成立の遺物の紹介で
ある。

 施設の名称であるから将棋に関連しない。

なお、この遺跡の近傍の上品野西金地遺跡で、
戦国時代の「奉馬」墨書土器も、別の発掘
調査のおり、見つかっている。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
1795_1_上品野蟹川遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
愛知県埋蔵文化財センター調査報告書第142集
上品野蟹川遺跡、西暦2008年、
財団法人愛知県教育&スポーツ振興財団・
愛知県埋蔵文化財センター。
 発掘報告書冒頭の例言によると遺跡の場所
は、愛知県瀬戸市上品野町。遺物が出土した
のは、西暦2000年前後の事のようである。
 ここで話題にする王近墨書土器の成立年代
は、発掘報告書の67ページ付近の記載によ
ると、9世紀前後のようであり、遅くとも、
平安末期に収まると読み取れるようである。
 遺物の写真は発掘報告書の写真図版第11
の、拡大写真右側最下段に有り、遺物番号第
207番との旨ナンバリングされている。
 土器の裏側に漢字の墨書があり、釈文とし
て、発掘報告書で「遠方」と、解釈されてい
るように読み取れる。

上品野王近.gif

 上図を見ると、第1字目の「遠」の吉部分
は、口がはっきりせず、また土ではなくて王
である。よって本ブログの管理人は、王近と、
2文字ではないかと疑う。下の方は寺か発掘
報告書の読み通り「方」であろう。下の字は、
祭祀用でよく見かける書体だが、正確な意図
は私はまだ、解明されていない。方と解釈し
ても寺と解釈しても、土器を使用する場所を
示す、働きをしているだけのように私には思
える。よって

遠方では無くて王近寺か王近方と書いてある

のではないか。すると、大大将棋の駒名
「近王」に近くなるが、王近という名称の建
屋の中で使用する器、または、王近寺用とい
う意味であって、ゲーム駒名とは考えにくく、
日本の将棋とは直接的な関連性は、あまり無
いのではないかと疑われて来る。
 なお、西暦2010年の別の上品野地区で
の発掘で、上品野西金地遺跡という、蟹川遺
跡から東に数百メートル程度の地点で、下記
のような、戦国時代成立とされる奉馬墨書土
器も出土している。

上品野奔馬.gif

この遺物の載っているpdfファイル名は、
次の通り。
1754_1_上品野西金地遺跡.pdf
発掘報告書の第229ページに、写真が載っ
ている。
 古墳時代ではなくて、それよりずっと時代
が下った戦国時代のものであるとされている
らしいと、後に示した下の方の発掘報告書の
第43ページ付近から読み取れる。
 織田信長と古墳時代の有力者とで、愛知県
瀬戸市の下々にとっては、馬を奉じるという
点で、千年以上差が有っても、余り差が無い
と見られていたらしい点が、後者の史料につ
いては興味深い。最初の遺物は「奉」型
墨書土器でも無かったようだが。愛知県では
長い期間・時代を通して、奉墨書も書かれて
いた事が、後者からは判る。(2022/07/27)

nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

宮崎県宮崎市余り田遺跡で、古代奔川墨書土器(長さん)

今回は、宮崎県宮崎市の大淀川へ流れ込む
小川のほとりとみられる場所の遺跡で、本
ブログの管理人の読みでしか無いが、漢字
で奉川と書かれている墨書土器が2~3枚
在るとの旨の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
3186_2_余り田遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
宮崎県埋蔵文化財センター発掘調査報告書第1集
余り田遺跡、1997年3月、宮崎県埋蔵文化財センター。
pdfファイルは、第1pdf:
3186_1_余り田遺跡.pdf
の途中から、写真図版になり、以下第3
pdfまで続く。
 遺跡の場所は、発掘報告書の第3pdf
末尾の抄録によると宮崎県宮崎市大字浮田
字余り田。遺物が出土したのは、同じく抄
録によると、西暦1995年前後の事のよ
うである。
 遺物の成立年代は発掘報告書の第103
ページ付近の記載によると、余り田Ⅱ区で
は、大量の遺物が出土したが、大半は古代
成立と見られているように読取れる。なお
遺跡全体で、墨書土器の出土が150個程
度に達したとのことである。
 遺物の写真は、発掘報告書第2pdfの、
写真図版第22の第1段目と第2段目の、
何れも右端に、ほぼ同じ文字とみられる、
漢字で2文字書かれた墨書土器が2つ在る。
上段に遺物番号第349番、第2段目に、
遺物番号第350番との旨のナンバリング
が在る。また発掘報告書の、第47ページ
付近によると、遺物番号348・349・
350は、同一文字かつ字体も類似であり、
波太または、得万と発掘報告書では釈文さ
れているように読取れる。なお、遺物番号
第348番の土器は、文字が写真の裏側に
回っているのか、私には墨書の部分が確認
出来ない。
 遺物番号第348番と349番が杯、第
350番は椀とみられていると、同じく発
掘報告書から読取れる。

余り田奔川.gif

 上図のように、第349番土器の第2字
目は、川が自然の読みである。第1字目は、
上下どちらの遺物も、何の字か、正確には
判らないので、波・得で無いという証明は
困難だ。が、上図を見る限り第1字目に、

サンズイやギョウニンベン等の「へん」が
存在しない

と私見する。「へん」が無いので、

「奉」だと解釈した方がマシなことは確か

なのではないか。大淀川か近傍の山からの
支流からか、古代に砂金ないしは、大量の
鉄鉱石が取れたので、川の神に感謝したと
いう祭祀土器群と考えても、問題が無いの
ではないかと思う。私は個人的に、これら
の遺物に関して、発掘報告書の釈文を疑っ
ている。(2022/07/26)

nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

山梨県北杜市下原遺跡で縄文中期山泰墨書土器(長さん)

今回は、縄文時代中期半ば、紀元前20世紀頃
成立と発掘報告書に記載された土器に、漢字
で墨書「山奉」と、奉墨書が書かれているよう
に見える、山梨県の出土土器の紹介である。

山奉墨書の成立は、山梨県の八ヶ岳山麓付近
では、かなり早かったのであろう。

遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
7068_1_原町農業高校前下原遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
山梨県埋蔵文化財センター調査報告書第210集
原町農業高校前(下原)遺跡(第1次)、
2003.3、山梨県教育委員会。
 発掘報告書末尾の抄録によると、遺跡の場
所は、山梨県北杜市(北巨摩郡長坂町:当時)
渋沢1007-19。遺物が出土したのは、
西暦2000年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の第22ペー
ジによると、問題の土器は第Ⅱ群に属する形を
しており、縄文時代中期半ばの成立と見られて
いるようである。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版第74
(PL-74):”縄文土器(2)第5号住居
跡(2)”の、下から2段目の左に在り、遺物
番号第166番との旨、ナンバリングされてい
る。口の広いコップのような形に私には見え、
写真からは、縄文が在るかどうか私には良く判
らない。

原町農業高校山泰.gif

 上図のように、写真の中央やや左に寄って、
縦に漢字で山奉と書かれ、山の字の背景に、私
には白抜きで、八ヶ岳のような形の山が絵で、
表現されているように見える。
 これまでの「奉」墨書土器の中でも、本品は、
成立時代が早いと主張されたレコードでは無い
だろうか。

 言うまでもないが、紀元前20世紀に日本で、
漢字が成立していたとしたら、驚異である。

 私見だが、弥生時代にこの土器を、帰化人が
掘り出して、縄文が邪魔ではなかったので、祭
祀用に、字と絵を描いて使ったのではないかと、
想像する。そもそも現地は高原避暑地に近い所
のようであるから、鉱物資源を捜索する者が、
地面を掘削する作業を、いかにもしそうな所で
ある。いったん紀元前後に、この遺物は出土し
て墨書されたのでは、なかろうか。
 何れにしても、山を奉じることが、八ヶ岳
山麓でも、飛びぬけて早くから行われていた事
は、八ヶ岳が奉じられるような、形の整った山
だったとは言え、興味深い事だと私は考える。
(2022/07/25)

nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

長野県佐久市宮の前遺跡で古代?奔金墨書土器(長さん)

今回は、将棋駒名”奔王”が、奉王という単語
が見慣れていた為に、奔と奉との字の形の類似
性から発生したという本ブログの論とよく合致
する、”奔”と側面に書かれた、貢物の砂金を
入れる入れ物と見られる墨書土器の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている、発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
254_1_周防畑遺跡群若宮遺跡IV道常遺跡南近津遺跡III宮の前遺跡I.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
佐久市埋蔵文化財調査報告書第198集
周防畑遺跡群:若道遺跡Ⅳ・道常遺跡・南近津遺跡Ⅲ・
宮の前遺跡Ⅰ・Ⅱ、2012.10、佐久市・佐久市
教育委員会。
 発掘報告書に本文pdfが見当たらず、簡単
な前置きと、まとめの書かれた、スケッチ図集
とみられる、別のpdfファイルが存在する。
92_1_周防畑遺跡群若宮遺跡IV道常遺跡南近津遺跡III宮の前遺跡I.pdf
 遺跡の場所は、下のスケッチ図pdfの末尾
の抄録によると、佐久市長土呂1281-1付
近に5つの遺跡が固まって存在するようである。
同じく抄録によると、今回話題にする遺物は、
西暦2010年前後に発掘されたようである。
 遺物の成立年代は、本文pdfが見当たらな
いので良くわからないが、竪穴住居跡のうち、
古代、奈良・平安期に成立したものが多いとの
旨、記載されているようである。
 遺物の写真は、写真図版pdfの写真図版第
134:”宮の前遺跡Ⅰ・Ⅱ出土遺物(4)”
の、下から3段目右に在り、遺物番号で、
竪穴住居跡第11の第9番との旨ナンバリング
されている。蓋のように、私には見える。

宮の前奔金.gif

 上図のように、天地逆であるが、外側側面に、

奉と書くべき所に、奔と、はっきり書いてある

という点に、この遺物の大きな特徴がある。
 そして、蓋の取手面の底に、上図のように、
左上に金、右下にたぶん奉と書いてある。砂金
を置く器のように私には見える。貢物として、
奈良か京都に金粉を送るときに、器として一緒
に差し出すためのものであろう。字を間違えた
ので、使われなかったのかもしれないが。

奔は、明らかに奉の誤字であり、古代から奔と
奉とは、似ている漢字とみられていた証拠

と考えて良いだろうと私見する。これまでは、
この誤字認識説は本ブログの単なる仮説という
地位であったが。この遺物により、証拠が出始
めたと言えそうだと、本ブログの管理人は考え
る。(2022/07/24)

nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

長野県飯田市恒川遺跡群で9C山奉墨書土器(長さん)

今回は、発掘報告書ではなくて、上田市の信濃国の
国分寺跡の記念資料館の記念冊子の中に、長野県
飯田市の伊那郡衙跡とみられる遺跡から出土した
墨書土器の中に、漢字で山奉の墨書だが、富士山の
絵も書いてあるという、デザインの珍しい墨書遺物
が在るので紹介する。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
上田市立信濃国分寺資料館の記念事業時作成冊子の
中に載っている。その冊子は奈良文化財研究所の
発掘報告書データベース、全国遺跡報告総覧に
登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
8375_1_古代信濃の文字.pdf
 文献名は、以下の通り。
古代信濃の文字、上田市立信濃国分寺資料館、2007年。
 ここで話題にする遺物が発掘された遺跡は、
前記文献の26ページ付近のよると、南信地方の、
飯田市恒川遺跡群であり、墨書土器は薬師垣外
遺跡で、発掘されている旨が同じく文献の、
第22ページ付近に在る。伊那郡衙跡とみられる
地点らしい。遺物が出土したのは、西暦2005年
に発掘報告書が出ており、西暦2000年前後の
ことではないかとみられる。元文献は、以下との事
である。
恒川遺跡群-遺物編その1(古代。中世)、
飯田市教育委員会、2005。
 冒頭の記念出版冊子文献の第26ページによると、
ここで話題にする遺物の成立年代は、伊那郡衙跡が
機能していた9世紀の平安時代と、みられているよ
うである。
 遺物の写真は、冒頭pdf文献の第26ページの
右下に有り、釈文が書かれているが、嵐の虫部分が、
小に置き換わる、私には何んと読むのか、良くわか
らない字である。

恒川遺跡山泰.gif

 上図のように、第1字目は山、第2字目が奉で、
山の絵が第2字目の背景に書かれていると見ると、
判り易い。実質、山奉であろう。山は、富士山の
ようにも私には見え、飯田市から高台に登ると、
南アルプス連峰が見えることから、それらの山の、
信仰用の祭祀土器ではないかと私は疑う。
 なお、この記念冊子では、日本での漢字の成立
時期に関して冒頭総論で述べており、紀元後1世紀
の中国人の渡来時であろうと、本ブログと、ほぼ同
じ趣旨の結論を、西暦2007年段階で確立してい
る点が、たいへんに興味深い。出土遺物の模様を
見ている人間は何れも、ほぼ同じような認識だとい
う事だと考える。(2022/07/23)

nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

静岡県浜松市伊場遺跡で古代奔王等墨書木製品(長さん)

以前、表題の遺跡については、律令時代の漢字「国」
墨書木簡について紹介した事があった。が、同じく
古代:律令時代の木製品に、奉王や奉山の字が書かれ
ているのを見出したので以下に紹介する。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に、登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
16240_1_伊場遺跡遺物編8.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
伊場遺跡発掘調査報告書第10冊
伊場遺跡遺物編8(木製品Ⅱ・金属器・骨角器)
2002、浜松市教育委員会。
 発掘報告書の末尾の抄録によると、遺跡の場所は、
静岡県浜松市東伊場二丁目22及び東若林町。
ここで話題にする遺物が発掘されたのは、西暦
1970年代の事のようである。
 遺物の成立年代は、以下話題にする木製品は何れも
曲げ物の底板であり、出土層の位置から、奈良時代の
8世紀には、今の形のような物品が成立していたと、
発掘報告書には述べられているように読取れる。曲げ
物底板には中世成立のイメージが有るが、以下の物品
は奈良期に成立したものと考えられているようである。
 遺物の写真は、1つが発掘報告書の写真図版第7:
”伊場遺跡”の第2段目左から3個目に在り、遺物
番号第275番との旨、ナンバリングされている。

伊場遺跡奔王.gif

 上図のように、第1字目が、ぼやけているが奉王
と、漢字で書かれているように見える。
 2つ目は、発掘報告書の写真図版第52:”伊場
遺跡”の最上段右に在って、遺物番号第735番と
の旨、ナンバリングされている。

伊場遺跡泰山.gif

 左側に、漢字で縦に、第1字目がやはりぼやけて
いるが、奉山と書いて在るように読取れる。
 時代は下るが、弥生時代後期から存続した、有力
者の祖先に対する崇拝祭祀の奉山奉王墨書が、この
ケースは奈良時代の頃の、食材を入れる容器にも書
かれているという事なのであろう。(202/07/22)

nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー