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大阪府豊中市勝部遺跡で弥生期風馬墨書土器(長さん)

今回は、大阪府で出土した弥生式土器とされる
遺物に、漢字で和将棋の将棋駒名である、風馬
と書かれているように見える遺物の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
4750_2_勝部遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
勝部遺跡、1972年、大阪府豊中市教育委員会。
 遺跡の場所は、発掘報告書の第20ページ付
近によると、大阪府豊中市大字勝部字立花。
遺物が出土したのは、同じく第22ページ付近
の記載によると、西暦1967年前後の事の、
ようである。
 遺物の成立年代は、弥生式土器であるという
点が書かれているだけてあると認識している。
西暦起源前後と仮定し、以下は論じる。
 遺物の写真は発掘報告書第2写真図版pdf
の写真図版第68:”弥生式土器(8)”の、
最上段左側に在り、遺物番号第342番との旨、
ナンバリングされている。壷のような形の土器
のように、私には見える。

勝部遺跡風馬.gif

上図のように、煤模様が多くはっきりしないが、
写真の中央の破片だけを見ると、画面で右の中
央に漢字で”風”のように見える黒々とした煤
模様が在り、その下に、”一”。更にその下に
同じく漢字で”馬”か、”恵”のように見える、
計3文字が書かれているようにも見える。

漢王朝時代の渡来人筆では無いだろうか。

 風馬でなくて風一馬であれば、江戸時代成立
の和将棋の風馬とは無関係という事になるが、
意味不明である。そこでよく見ると、縦に書か
れた

第3字目には竹カンムリが有り、「笛」

ではないかと疑われる。風一笛と書かれていて、
文字通りの意味であろう。風流な

置物として二千年前、渡来人が置いていた壷

なのではないかと、一応疑う事が出来るように
本ブログの管理人は考える。(2022/08/31)

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山梨県中央市小井川遺跡で姉将墨書土器(長さん)

今回は将棋の駒名には無いものの、それを
思わせる「姉将」と読める戦国期、武田領内
の山梨県中央市で発掘された墨書杯ないし
カワラケ状土器遺物の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
7149_1_小井川遺跡Ⅲ.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
小井川遺跡Ⅲ、2008.3、山梨県教育委員会・
山梨県土木部。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の場所
は山梨県中央市布施地。遺物が出土したのは、
西暦2005年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第41ペー
ジの遺物観察表の対応する箇所によると、
15世紀後半から16世紀前半の戦国時代。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版第
23:”出土遺物土器”の下から2段目左端
に在り、遺物番号第723番との旨ナンバリ
ングされている、杯のような、あるいはカワ
ラケのような形に私には見える土器である。

小井川姉将.gif

 上図のように、はっきりと2文字の墨書き
が有り、上の字が女へんなのは確かであり、
ひょっとすると「姉」であり、下が難しいが
とりあえず「将」のようにも見えることは、
確かである。

「姉将」は将棋駒名に無いから、戦国時代と
はいえ、将棋と関連するとは考えにくい。

 が、将棋の金将・銀将の類のように見えな
くも無いので、今回本ブログでは取り上げて
みた。
 他に第2字目が将では無いが、第1字目が
姉のような内容が判らないが、鮮明に字が書
かれた墨書土器が、他に2枚程度出土してい
るように思う。発掘報告書の詳しい釈文が、
私には発見出来ない。武田氏の中に女城主が
居たというパターンを一瞬連想するが、遺跡
は少なくとも嫡流の城跡では無いようである。
 「布施」という名称からは寺が連想はされ
る。僧侶筆か。恐らくだが、器を使用する

僧侶の名前を私が誤読している

のではないかと疑われるが、どうも読めない。
(2022/08/30)

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高知県高知市泰泉廃寺跡で奈良初龍馬墨書瓦(長さん)

今回は、高知県高知市の泰泉廃寺遺跡で出土
した瓦片に「奉龍馬」と、墨書されているよ
うに見える墨書遺物の紹介である。

武装集団が死去した俊馬の慰霊に使用した瓦

等かもしれない。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
10897_2_秦泉寺廃寺第6次調査.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
高知市文化財調査報告書第27集秦泉寺廃寺(第6次調査)、
2004年12月、高知市教育委員会。
 発掘報告書第3写真図版pdf末尾の抄録
によると、遺跡の場所は高知県高知市
中秦泉寺142-1。遺物が出土したのは、
西暦2000年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書、第1本文
pdfの第97ページ付近によると、7世紀
後半から8世紀初頭の、飛鳥時代末から
奈良時代初と見られているようである。
 遺物の写真は、発掘報告書の前半写真図版
pdfである、前記第2pdfの写真図版第
19の下段右側にあり、遺物番号第29番と
の旨ナンバリングされている。上下に、瓦の
内側と外側の写真が有るが、そのうち上の方
の内側の写真に、漢字で龍馬と書かれている
ような、煤模様が在る。

泰泉寺龍馬.gif

 上図のように、縦に第1字目の龍がやや曖
昧だが、龍馬であると言われれば、そのよう
にも見える模様で在り、更に龍の字の上に、
何か”木”のような模様が見える。

「奉龍馬」の3文字ではないかと、本ブログ
では考える。

よっ、てこのケースは将棋駒の名称で無く、
祭祀用であろう。
 戦闘用に用いる俊馬が死んでしまったので、
慰霊を行ったように見え、武装集団が居して
いたのではないかと私見する。発掘報告書に
も指摘が有るが、渡来人の秦氏と関連の有る
集落が、近傍に存在するようである。
(2022/08/29)

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大阪府富田林市新堂廃寺跡遺跡等で飛鳥期泰山墨書瓦(長さん)

今回は、7世紀の飛鳥時代に建造された廃寺
の瓦に、奉山と墨書されているとみられる例
の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
17913_4_新堂廃寺跡・オガンジ池瓦窯跡・お亀石古墳.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
富田林市埋蔵文化財調査報告35新堂廃寺跡・
オガンジ池瓦窯跡・お亀石古墳、2003年、
(大阪府)富田林市教育委員会。
 遺物は3つの遺跡のうち最初の新堂廃寺跡
ないし2番目のオガンジ池瓦窯跡で出土した
ようである。
 発掘報告書第1本文pdf末尾の抄録によ
ると、遺跡の場所は新堂廃寺跡が大阪府
富田林市緑ケ丘町。オガンジ池瓦窯跡が、
大阪府富田林市緑ケ丘町ないし中野との事で
ある。
 遺物の成立年代は、遺跡群自体が飛鳥期の
ものであり、瓦も7世紀成立と読取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書第4写真図版
pdfの、写真図版123:”平瓦Ⅱ1
J1c群。平瓦Ⅱ1J1d群。平瓦Ⅱ1
J1e群”の最上段に在り、遺物番号
平209番との旨ナンバリングされていて、
煤のような薄い模様が在るのは、外側のよう
である。

新堂廃寺跡泰山.gif

 上図のように、写真の右側に縦に、山の字
の第1画目が短くしか残っておらず薄いが、
奉山と読めるような薄い模様が在る。大阪府
富田林市付近に、高い山は無いとみられるが、
大阪府の南東部に位置する為低山の山際地帯
である。よって鉱物資源を採集する目的の移
住者が、寺の瓦等に、鉱脈探査の成功を祈っ
て書いた祭祀用だとすれば説明出来、地方の
鉱山に向かう途中に、大阪府に居していたと
も考えられる。以上のように見なせば、論に
致命的な矛盾は無いのではと、私は考える。
大阪の難波京でも7世紀時点でなお、そのよ
うな渡来人の、拠点になっていた可能性が、
全く無いとは言えない事を、この史料は示し
ているのではないだろうか。(2022/08/28)

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石川県羽咋市四柳白山下遺跡で9C奔人墨書土器(長さん)

 今回は、平安時代の初めの墨書土器に走人・
恭人、あるいは奉人のように見える、判読がやや
困難な文字史料が有るとの旨の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
26291_2_羽咋市四柳白山下遺跡Ⅰ.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
羽咋市四柳白山下遺跡Ⅰ、2005、
石川県教育委員会・財団法人石川県埋蔵文化財センター。
 発掘報告書の末尾抄録によると遺跡の場所は、
石川県羽咋市四柳町。遺物が出土したのは、
西暦1994年前後の事のようである。
集落跡だが、羽咋市自体は、一ノ宮が有名で古墳
が有るという事である。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の第1本文
pdfの第267ページ付近から始まる「まとめ」
のトップに、遺跡自体が7世紀後半~9世紀中頃
の集落跡であるとの説明があり、同じく発掘報告
書の第268ページの右の墨書土器の成立年代表
によると、8~9世紀の平安時代に入った頃成立
とみられる土器に、墨書遺物が多いように記載さ
れている。
 遺物の写真は、第2写真図版pdfの、写真
図版第34:”A・B地区出土墨書土器(4)”
の第2段目右端に在り、遺物番号第696番との
旨ナンバリングされた土器の、恐らく裏面の、
拡大写真とみられる。発掘報告書では、2文字で
あり、第1字目が不明で、第2字目が「人」と、
釈文されているとみられる。

四柳白山下奔人.gif

 上図のように、第1字目は、奉であれば上部
縦棒が1本余計のようであるし、走では下部だけ
しか似ていないし、判読困難な事は確かで、将棋
関連遺物の証拠としては、かなり弱い物品である。
 そこで、別の墨書土器を見ると、第647番と
して、忍人と発掘報告書で釈文された遺物が有る。
 この墨書も第1字目が不明確で、私には「毘」
の意図の用にも見える。毘人とは、友人・恩人
に近い意味では無いのだろうか。
 後者の「人」墨書の類であるとすれば、奉人
でも通るかもしれないし、恭人と書かれていて、
「お客様用」という、相手をたてたイメージで
はないかと思う。
 仮に、以上の解釈が正しければ、神社でその器
を使用する人間を、特定するためのものであると
いう解釈とは別に、該土器は祭祀とは、かかわり
が薄く、このケースに限っては平安時代の接待用
の食器に、識字層が単に字を書いただけという、
経緯のものなのかもしれないと、私は推理する。
(2022/08/27)

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愛媛県松山市松山城より江戸期王将絵茶碗(長さん)

今回は、食器として使用される江戸期成立
の瀬戸物に、扇の全面に王将の五角形将棋
駒の図柄が描かれた、松山城から出土し
た遺物の話題である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
129423_1_史跡松山城跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
松山市文化財調査報告書207史跡松山城跡、
2022、松山市・松山市教育委員会。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の
場所は、愛媛県松山市丸之内・堀之内。
遺物が出土したのは、発掘報告書の第2
ページによると、第20次発掘のときで
あり、西暦2017年前後出土と読取れる。
 遺物の成立年代は、末尾の抄録によると
江戸時代である。
 遺物の写真は発掘報告書のスケッチ図第
10:”三之丸跡第20次出土遺物実測図
(1)”旨の右上隅にあり、スケッチ図第
10の第4番との意、ナンバリングされて
いる。遺物観察表によると、猪口となって
いる。が、スケッチ図には、茶碗のような
形の瀬戸物の絵が描いてある。外側側面の
「扇面」と猪口では言わているとみられる
場所に、以下の図のように、扇とその全面
に乗せて在るような、将棋の王将駒が描か
れている。

松山城三の丸20次王将.gif

 扇の更に向こうにある物品の絵は催事の
備品関係か。五角形の将棋駒の底辺の線を
細くして、下部が左右に八の字に見えるよ
うにし、末広がりのめでたさと、駒が前に
進む、積極的な雰囲気を出している。職人
が詳細な漢字教育を受けていないと見られ、
旧字体の将は、兆のようでもあり正確で無
い。近代作の可能性は少なかろう。よって、 
江戸時代の器物であるから、当時も盛んな
将棋がデザインとして採用されたのであり、
食材入れとして、普通に使われた物品であ
ろう。
 なお全国遺跡総覧には、この記事を書い
た2~3日前に、本遺物が記載された発掘
報告書が、データベースに登録されたよう
である。(2022/08/26)

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岩手県花巻市貝の淵Ⅰ遺跡で平安初期泰山墨書土器(長さん)

今回は、以前に「月亭」墨書遺物と「山奉」
墨書遺物を紹介した岩手県の山間部の遺跡、
花巻市貝の淵Ⅰ遺跡で「奉山」墨書土器が、
もう1枚は出土している等、墨書土器追加
の紹介をする。

「山奉」墨書遺物は2枚有る疑いもある。

前の紹介の際述べたが自然信仰や自然を
めでる行為が、盛んだったのであろう。
 発掘報告書の、奈良文化財研究所
全国遺跡発掘報告内のpdfファイル名と、
報告書名称は、以前に述べた通りである。
21569_1_貝の淵Ⅰ遺跡発掘調査報告書.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
岩手県文化振興事業団埋蔵文化財調査報告書第428集
貝の淵Ⅰ遺跡発掘調査報告書、西暦2003年11月、
岩手県花巻地方振興局土木部・財団法人岩手県文化振興事業団
埋蔵文化財センター。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の場
所は、岩手県(当時:稗貫郡。現:花巻市)
石鳥谷町関口31-2。遺物が出土したの
は、西暦2002年前後の事との内容であっ
た。
 遺物の成立年代は、一帯の住居跡は、漠
然と、平安時代前半の成立と考えられてい
るようである。
 遺物の写真は、はっきり奉山と判る土器
は、発掘報告書の写真図版第
34:”遺構内出土遺物(13)”の第3
段右端に在り、遺物番号第113番との旨、
ナンバリングされている、杯のような形の
土器である。

貝の淵113泰山.gif

 上図のように、底面図の左に、山の字が
明確に判り、その少し右にズレて上に黒い
煤の塊があって、奉山のようにも見える。
 もう一枚の、やや不明解な例については、
発掘報告書の写真図版第29:”遺構内出
土遺物(8)の、第2段目左に、遺物番号
第58番とナンバリングされている、これ
も杯のような形の土器のようである。

貝の淵58泰山.gif

 上図のように、側面図の中央に泰山と、
縦に墨書が在るように見えるが、汚れと、
本ブログナ内では解釈する煤模様が多いの
で、実際のところは、明確でない。
 そもそも、以前に紹介した第63番墨書
土器は、その直ぐ右下にある。
 山を奉じている儀式ないし享楽が平安時
代にかなり大規模であった事を、前に紹介
の第63番も入れて、計3枚の山奉ないし、
奉山墨書土器は、示しているという事なの
であろう。(2022/08/25)

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兵庫県南あわじ市珉平焼窯跡で近代四天タイル(長さん)

今回は、ぐっと時代が下って、近代成立と
みられるタイルの破片に、筆で黒いペンキで
「四天」と書いたような字のある窯跡遺物の
話題である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
65323_2_珉平焼窯跡.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
兵庫県文化財調査報告 第284冊
珉平焼窯跡、2005年3月、兵庫県教育委員会。
 遺跡の場所は、発掘報告書第1本文pdf
末尾の抄録によると、兵庫県南あわじ市
北阿万伊賀野。遺物が出土したのは、西暦
2003年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の第235
ページ付近の表から、大正~昭和太平洋戦争
前に成立と、考えられているように読み取れ
るようである。
 遺物の写真は写真図版第128:”タイル
文字資料(2)”の、第2段目左端に在り、
TW10と、発掘報告者よりナンバリングさ
れている。一抱えの、道路歩道等に敷き詰め
る、正方形の、セメントタイルのように、私
には見える。

珉平焼釜跡四天.gif

 上図のように、写真で中央のタイルの表面
に、大局将棋の成駒将棋駒名である、「四天」
とかれているように読める。発掘報告書でも、
「四天」+(顔マーク)と釈文されている。
 タイルに大局将棋の駒名は当然だが、仏教
の仏像の名称を書くと言うのは不自然である。
別の文字の書かれたタイルを見ると、仕事の
段取りで必要な項目を書いたタイルであり、
それらは最後まで敷き詰められなかったので、
残って出土しているという事情のように認識
される。

詳細不明だが、特定の模様のタイルを、中央
の天王山の位置に4枚、固めて置くデザイン
になっているという事等を記載

しているのではなかろうか。右側の人の顔型
は、ひし形に4枚置くという印なのかもしれ
ない。恐らくだが、将棋とは無関係だが仏教
の四天王とは引っ掛けられた、工事現場の仕
事上の用語を、大正時代~昭和初期等、近代
に書いたのではないだろうか。(2022/08/24)

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島本町立歴史文化資料館館報第12号に将棋史料展望(長さん)

以下、奈良文化財研究所の発掘報告書
データベース、全国遺跡報告総覧に登録
されているが、博物館・資料館の報で
あって、発掘報告書では無い冊子に、
京都における、将棋史料の、今後の発見
の可能性について論じた文献が有るので
紹介する。
全国遺跡報告総覧に登録されているpdf
ファイル名は、以下の通りである。
129398_1_島本町立歴史文化資料館館報.pdf

 執筆者:小泉信吾氏の報告として、

水無瀬兼成将棋駒と将棋纂図部類抄について
紹介の後、室町時代・戦国時代・安土桃山時代
の将棋駒か、安土桃山時代の将棋文献史料を
指すとみられるが、

京都市内の旧家(貴族と表現)から、今後
発見されるだろう

との、予想を述べられている。
 講演会の内容を記した論考文であり、
表題と、記載箇所は以下の通りである。
館報名:島本町立歴史文化資料館館報
文献号数:第12号
題目:「水無瀬駒製作と時代背景」
著者:小泉信吾
小冊子記載ページ:第12ページ~13ページ
の計2ページ。
 冒頭述べた表題内容に関する記載箇所は、第
13ページ付近であり、以下の旨の記載が在る。
”時々整理しきれていない貴族の蔵から新たに
駒なり、こういう駒日記が発見される可能性も
あります。”ただし、「駒日記」とは文脈から
水無瀬兼成の将棋馬日記を指すものとみられる。
 文献の内容は、特定されないだろうから、
小泉信吾氏は、西暦2021年より少し前の
時点で、将棋駒か、

安土桃山時代の頃の、将棋文献史料がまだ、
京都市市内の旧家に眠っている可能性を示唆

していると読取れる。駒に作駒師の名前が書い
てないと、その疑いが濃くても作者は特定され
ず、室町時代以降では、そもそもが既存の、
中将棋駒種が発見されるだけの可能性が高いが。
安土桃山時代以前の文献史料は、現行は実態近
辺では、将棋纂図部類抄と色葉字類抄の奥付の、
「大小将棋駒名」程度。ずっと飛んで鎌倉初に
「二中歴」しか既存の史料は無いだけに、京都
の旧家に、本当に将棋関連文献史料が眠ってい
て現存するとすれば、価値はたいへん高いであ
ろう。(2022/08/23)

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宮崎県延岡市早日渡遺跡で縄文早期山鬼墨書土器(長さん)

今回は、宮崎県東臼杵郡北方町(当時)の
早日渡遺跡で、縄文早期土器の破片の内面に、
漢字で「山鬼」のように見える模様のある、
土遺物例の紹介である。

画像処理すると山奉のようであり、弥生時代
後期に、そのように加筆された

のではないかと、本ブログの管理人は疑う。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
3129_1_打扇遺跡・早日渡遺跡・矢野原遺跡・蔵田遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
打扇遺跡・早日渡遺跡・矢野原遺跡・蔵田遺跡、
1995年、宮崎県教育委員会。
 このうち話題とする遺物は、2番目の
早日渡遺跡(はやひといせき)で発掘された
ようである。
 冒頭の調査に至る経緯によれば、遺跡の場
所は宮崎県東臼杵郡北方町(当時。(現)
延岡市)大字巳174番地。
遺物が出土したのは西暦1990年前後の事
のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第26ペー
ジ付近の記載から、遺跡自体が縄文時代早期
成立で、土器はほとんど縄文早期のものであ
ると認識されていると読取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版7の、
左カラム、Ⅰc・Ⅰf・Ⅰg・Ⅰh類土器
;遺物番号第149番~162番との旨の、
報告書の向きで右上隅にあり、遺物番号は、
本文38ページのスケッチ図の記載から、遺
物番号第162番の内面の写真のようである。
なお、遺物観察表によると、第162番土器
破片は、Ⅰh型との事であり、スケッチ図が、
魚拓方式で作成されているようにも見え、裏
返しであり多分だが、内面のように見える。

早日渡遺跡山鬼.gif

 上図のように、pdfの目視では、第2字
目が鬼か兎のようにも見えるが、

漢字で山奉と書かれている

ように、疑われる。奉の下部の「キ」は、
はっきりしない。夫に横棒一本足しの一例か
もしれない。
 内面とすれば使用中に書かれたとは思えず、
弥生時代後期等に、今まで述べた他の1~2
例同様、一度掘り出されて、

祭祀用に転用され、山奉と書かれた

のではないかと、本ブログの管理人は疑う。
正確には福岡県筑後市鶴田牛ケ池遺跡神墨書、
鹿児島県鹿屋市四方高迫遺跡の奉山墨書に
ついで3例目であり、九州では、西暦紀元の
頃の人口が多いため、このような例が複数出
現するのではないかと私は疑っている。他の
所で述べたが、九州で縄文時代早期の遺物に
加筆する行為が行われたのは、土器面が平ら
で、たまたま書く事が可能だからであろう。
(2022/08/22)

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