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和歌山県白浜町田ノ口遺跡で9C奔車墨書土器(長さん)

今回は、和歌山県の祭祀用遺跡で、古代成立
の漢字で、「奉車」、「奔車」、「大車」等
の何れかと書かれた墨書遺物の紹介である。

大車の疑いが、最も濃い。

 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
27823_1_目座遺跡、八丁田圃遺跡、塗屋城跡、大古2遺跡、稲成1遺跡、安.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
目座遺跡、八丁田圃遺跡、塗屋城跡、
大古Ⅱ遺跡、稲成Ⅰ遺跡、安宅本城跡、
田ノ口遺跡、岩崎大泓遺跡、岩崎大泓Ⅱ遺跡。
2015年1月、公益財団法人和歌山県文化財センター。
 遺物はこのうち、第7番目の田ノ口遺跡で
出土したとの事である。遺跡は田辺市と、
西牟婁郡内に有るが、近畿自動車道の工事に
伴う調査をまとめたものであり、20km
程度の範囲に、分散しているようである。
 遺物が出土した遺跡の場所は、発掘報告書
末尾の抄録によると和歌山県西牟婁郡白浜町
十九渕。遺物が出土したのは、西暦2012
年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第103
ページの記載によると遺物は調査区3で出土
したが、年号の入った遺物が共出土し、西暦
825年より少し後、9世紀の成立ではない
かと見られているように、読取れるように思
われる。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版第66
の第3段目左端に在り、遺物番号第113番
との旨、ナンバリングされている、欠けた杯
のように見える物品である。

田ノ口113奔車.gif

 上図のように、図のほぼ中央に縦にかつ、
第2字目が少し右にズレて、漢字で大車か、
奉車、奔車の何れかに見えるような、薄い煤
模様が在るようにも見える。
 9世紀に平安大将棋が成立していたとすれ
ば驚きである。が、

大車と書かれた可能性が高く、古代の神事で、
山車が使われるような場面で添えられる、
祭祀用の土器の、疑いが濃いと私見される。

このような山車を連想させる神事・祭りが、
和歌山県(南紀)白浜町に於いて相当に歴史
が有る事を、恐らく物語っているのではない
だろうか。(2022/09/30)

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長野県佐久市深堀遺跡から9C後王将墨書土器(長さん)

今回は、以前に奔牛と疑われる平安時代成立
の墨書土器とされている物品が出土した遺跡
で同時期に、別の遺構から漢字で王将のと、
書いてあるようにも見える、土器が出土して
いるとの旨の話題である。

王の字が不明解であり、日本の将棋から来て
いるのかどうか、良くわからない。

 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。以前に紹介した、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されたpdf
と同一である。
682_1_深堀第235次調査.pdf
 報告書の名称は、以下の通りである。
長野県佐久市埋蔵文化財調査報告書第98集
深堀遺跡 第2・3・5次調査
長野県土地改良課・佐久市教育委員会、
(2002)。
 遺跡の場所は、発掘報告書第1ページの、
調査の概要によると、長野県佐久市大字瀬戸。
以前にも紹介したが、発掘報告書冒頭の例言
によると、調査は1998年から2001年
頃に行われたようである。
 遺物の成立年代は、以前に述べた通り、
遺跡の成立年代が古墳時代から平安時代の間
とされ幅広くて、はっきりとは特定できない。
墨書土器は出土複数。遺跡の性格も官衙であ
るといったようには、はっきり判らないよう
に発掘報告書からは読める。が少なくとも、
識字層が居していた事は、確実のようである。
 住居址地帯とされ、第29号住居跡から出
土している遺物である。複数の年代の物が
混じり、共出土遺物からも、はっきりと年代
は特定できない。が、住居跡自体は9世紀後
半の平安時代前半の頃のものであろうと、考
えられているように、発掘報告書の第188
ページ付近からは読取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版第
102の中段カラム、第29号住居址の、
第2段目左に在り、遺物番号そのカラムの中
における5(1)との旨、ナンバリングされ
ている。土器の割れ欠けのように、私には見
える。

深堀5_1王将.gif

 上図のように、ごくはっきりしないが写真
でちょうど中央の、割れた両面を跨いで漢字
で縦に2文字有り、第1字目が主・王・正の
どれか。第2字目は、ツクリを草書にした将
のようにも見える。続けて王将なので、日本
将棋が11世紀に伝来と考えた本ブログの論、
及び茨城県を中心として分布していると見ら
れる10世紀前半の、平将門に起因する王将
墨書遺物の成立よりも早い。
 遺跡で墨書土器が複数出土しているものの、
この遺物に関しては、字が書いてあるとの旨
の発掘報告書の指摘は見当たらない。事実か
なり薄くて不明確な為、反例として説得力の
有る遺物とまでは言えないのではないかと、
私は疑う。ただし、この遺跡は漢字に見える
煤模様を持った土器が他にも有るようで、注
意が必要だと考える。(2022/09/29)

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島根県益田市山根ノ下遺跡で中世泰山墨書土器(長さん)

今回は、鏡や鉄剣遺物が共出土した島根県
の遺跡で、12世紀から16世紀の中世に
成立したと見られる、漢字で奉山と書かれ
た墨書祭祀土器遺物出土の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
2708_1_山根ノ下遺跡.pdf
 発掘報告書の名所は、以下の通りである。
匹見町埋蔵文化財調査報告書第34集
山根ノ下遺跡、西暦2001年3月、
島根県匹見町教育委員会。
 発掘報告書第2ページの地形的立地によ
ると、島根県益田市(美濃郡匹見町:当時)
大字澄川。遺物が出土したのは、冒頭の、
例言によると、西暦2000年前後の事の
ようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書本文第
27ページ付近の小結によると、土師器
が全体として、12世紀~16世紀のもの
と見られ、中世成立と読取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版第7
の右上カラム:”縄文土器・土師器類”の、
最上段中央に在る、周りより大きな土器
片とみられる遺物である。

山根ノ下泰山.gif

 上図のように、中央やや右にかなり大き
く、漢字で奉山と書いて在るようにも見え
るが、第1字目の奉の字が潰れていて不明
確である。ただし、この遺跡からは鉄剣や
和鏡が共出土しており、まるで古墳時代の
有力者の居所を連想させる山間の地である。
 遺物の模様が、漢字としては不明確だが。
共出土品の内容から識字が可能なのではな
いかと疑われる有力者の居所なのであろう。
なお、発掘報告書では、小結で「有力な、
中世の地侍の居所ではないか」と結論して
いるように読取れる。(2022/09/28)

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山梨県都留市三ノ側遺跡で古代泰山墨書土器(長さん)

今回は山梨県東部の都留市の、律令集落跡と
みられる遺跡で、地元で作成したと見られる、
甕型の土器の破片に漢字で奉山と書かれてい
るのではないかと疑われる遺物の話題である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
4195_1_三ノ側遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
山梨県埋蔵文化財センター調査報告書第290集
三ノ側遺跡、西暦2013年3月、
山梨県教育委員会・山梨県産業労働部。
 発掘報告書冒頭の例言によると遺跡の場所
は山梨県都留市(旧都留郡谷村)上谷五丁目。
発掘報告書末尾の抄録によると、遺物が出土
たのは西暦2011年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、遺跡自体が奈良後期か
ら、平安時代初期のものと、抄録に書かれ、
第11号土坑から出土したが、発掘報告書の
第120ページ付近によると周辺の住居跡が、
8世紀後半の奈良時代から、9世紀前半の、
平安時代初期と見られているようである。
なお、遺跡は、律令時代の集落跡と考えられ
ているようである。
 遺物の写真は、発掘報告書の巻頭カラー写
真2の中段、”堀之内原タイプ・相模系の
土師器甕”の右側に在り、11号土坑(出土)
との旨、付記されている。

三ノ側遺跡泰山.gif

 上図のように、破片を繋ぎ合わせて、甕の
上部になるような物品で、右側の上部に漢字
で「奉」の字が、下部に縦だが少し左にズレ、
かつ下部が煤に埋もれた形で、漢字の「山」
の字が在って、奉山のようにも見える。ただ
し、第1字目の奉の字は、かなり滲んで、ぼ
やけている。
 遺跡の場所が山際である為、山岳信仰の為
の祭祀用かもしれない。字がぼやけているの
で、確実とまでは言えず、単なる甕の疑いも、
このケースについては有るとは思う。(2022/09/27)
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山梨県甲府市山梨学院運動場遺跡で11C桂馬墨書土器(長さん)

今回は、成立年代から日本に将棋がその時代
に有る疑いが持たれる、山梨県甲府市出土の
桂馬墨書土器片の話題である。

「神馬」と書いてあり、軍馬の慰霊等である
疑いがある。

 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
6567_2_山梨学院川田運動場遺跡群.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
甲府市文化財調査報告37、山梨学院川田運動場遺跡群
(桜井畑遺跡。亀田遺跡。川田久保田遺跡)、
2008年、学校法人山梨学院・甲府市教育委員会・
川田遺跡群発掘調査団。
 なお遺物は、南側の桜井畑遺跡で第3次調
査の際発掘されたようであり、他の遺跡は、
桜井畑遺跡に北側で接している。全体が南北
650メートル、東西1キロ程度に、広がっ
ているようである。
 発掘報告書第1本文pdf末尾の抄録によ
ると遺跡の場所は山梨県甲府市川田町176。
遺物が出土したのは西暦2000年前後と見
られる。
 遺物の成立年代は、第40号ピットで遺物
が出土したが、遺物を含んだ用土が10世紀
後半以降との旨記載が有り、本ブログの解釈
では11世紀頃ととれるように、第1本文
pdfの、第817ページの記載から読取れ
ると考える。
 遺物の写真は、第2写真図版pdfの写真
図版第3次発掘の図版第61の下から3段目、
左から2番目に在り、ピット第40号の第1
番との旨、ナンバリングされている。土器の
破片のように見える物品の、外面とみられる
部分である。

山梨学院桂馬.gif

 上図のように漢字で第1字目に木へんに、
±のような文字、2字目が反時計回りに30°
位回転していて不自然だが、薄く馬に見える
ような、灰色の模様が見える。

日本に、将棋が成立した頃とも見られるので、
将棋の桂馬から来ていても、一応おかしくは
無い

とは考える。しかしながら、字が曲がって配
置されている上に、桂の字が不明解である。
 そこでよく見ると、馬の字に向きが合うよ
うに、模様を見直すと、

桂の木へんは、神のツクリの縦棒のようにも
見え、漢字で「神馬」と書き、牧場で軍馬等、
朝廷に献上する馬が死去したので、それを慰
霊したようにも見えてくる。

 本ブログでは、今のところこの遺物に関し
ては後者の解釈を取り、古代の軍馬等の馬の、
慰霊・祭祀用遺物等では無いかと疑っている。
(2022/09/26)

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秋田県にかほ市カウヤ遺跡で奈良期泰山墨書土器(長さん)

今回は古代柵の秋田城に関連する人物の住
むと推定された、秋田県象潟町小砂川の
カウヤ遺跡で奈良期の8世紀第3四半期と
される、杯状土器遺物の裏面に、山の絵と
奉山と書かれた墨書が有るのではないかと
疑われる例の紹介である。

山の絵という古代画は珍しいと考える。

 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
12117_1_カウヤ遺跡第2次発掘調査報告書.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
秋田県文化財調査報告書第135集
カウヤ遺跡第2次発掘調査報告書、
西暦1986年3月、秋田県教育委員会。
 発掘報告書冒頭の例言によると遺跡の場
所は、秋田県にかほ市(旧:由利郡象潟町)
小砂川。遺物が出土したのは西暦1985
年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書48ペー
ジの記載によると遺物は第12号住居跡か
ら出土したが、8世紀第3四半期の奈良時
代の頃のものと推定されたように読取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版第6:
”SI12竪穴住居跡、SQ04炉跡出土
遺物”の最上段右に在り、2つ縦に並んだ
写真の下側の、杯土器のように私には見え
る遺物を、底から撮影したものと見られる
コマに在り、その底部分に墨書のような、
煤模様が在る。

カウヤ泰山.gif

 上図のように、秋田県の現地の風景と疑
われるような、2つの山の模様が有り、右
側の近いほうの山の裾野に縦に漢字で

奉山と書かれている

ようにも見える。近世の浮世絵風の、簡単
なデッサンのようでもある。
 今のところ本ブログでは、この遺物の墨
書等は秋田城等、古代当時の柵城に関連し
た識字層の住む家屋で、山岳信仰に基づく
祭祀用遺物として使用された物品ではない
かと見る。が山の絵が、奈良時代のものだ
とすれば、珍しいのではないかと私には感
じられる。(2022/09/25)

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兵庫県神戸市深江北町遺跡で古代神山泰墨書土器(長さん)

今回は、古代成立の神戸市出土の椀状土器に、
神(改行)山奉と書いてあり、山岳信仰で
ある事が良くわかる、古代成立の出土土器の
話題である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
10642_1_深江北町遺跡第12・14次調査埋蔵文化財発掘調査報告書.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
深江北町遺跡埋蔵文化財発掘報告書、
2014年、神戸市教育委員会。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の場所
は、兵庫県神戸市東灘区深江北町1・2丁目。
 遺物が出土したのは、西暦2012年前後
のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第33ペー
ジ付近の記載によると、問題の遺物は黒色砂
質シルト層で出土したが、形態から奈良・
平安時代の遺物を含む層とされ、問題の縁直
立杯状須恵器も、その頃のものと考えられて
いるように、読取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版第11
:”B80-B区黒色砂質シルト層出土土器”
の土器集合写真の左下隅に在り、遺物番号第
285番との旨、ナンバリングされている。
私には、椀として使用する物品のようにも見
える。

深江北神山泰.gif

 上図のように、側面外で写真の中央付近に、
縦に「山奉」に見えるような煤模様が在るよ
うであり、その右に”神”と書いてあって、
「神山奉」と読めるように見える。
 古代の、山岳信仰の祭祀に使用した供え物
置き用物品のように見える。なお、この発掘
で、古代の墨書土器自体、深江北町遺跡から
複数個出土しているようである。(2022/09/24)

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富山県高岡市出来田南遺跡で奈良末蛮鬼墨書土器(長さん)

今回は、古代の墨書遺物が複数出土した官衙
関係者の住居跡とされる富山県高岡市の遺跡
で、「蛮鬼」と読める墨書土器が出土してい
るとの旨の話題である。

口麻呂土器が複数出土し、疾病回復祈願等の、
マジナイ用の祭祀遺物ではないか

と疑われる。なお報告書では、出土地点の地
名に関連すると私には連想される「友田土」
との釈文が、充てられているようである。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
14570_1_出来田南遺跡発掘調査報告.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
富山県文化振興財団埋蔵文化財発掘調査報告第66集、
出来田南遺跡発掘調査報告、2015年、
公益財団法人富山県文化振興財団埋蔵文化財調査事務所。
 発掘報告書の末尾の抄録によると遺跡の場
所は、富山県高岡市出来田。遺物が出土した
のは、西暦2011年から2013年の間の
ように読取れる。
 遺物の成立年代は発掘報告書第110ペー
ジの第17表古代土器一覧(1)によると、
8世紀後半~9世紀前半の奈良時代末頃とみ
られ「大溝」で出土したとの旨書かれている。
富裕層の庭に作られた、大きな池のようにも
私には見える。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版第12:
”墨書土器”の、下から3段目の左端に在り、
遺物番号第18番との旨ナンバリングされて
いて、杯の破片の底の部分で、裏から撮影し
た一コマように、私には見える。

出来田南蛮鬼.gif

 上図のように、第1字目がはっきりせず、
発掘報告書で釈文されている「友」では有り
え無いとまでは言えないが、「変」や「蛮」
のようにも見える。その下は2字で田土では
無くて1字のようにも見え、「鬼」等では無
いかと疑われる。土とされる部分は、「心」
や「....」の方がむしろ近いと私見する。
 なお「田と土」は、仮につなげると獣へん
を除いた「狸」になる事にも注意。戻すと
つまりは

変鬼や蛮鬼であり、大大将棋の変狸や蛮狸に
イメージが近いが、何かの病人の様子を表現

したように私には見えるという事になる。な
おこの発掘で、人面墨書土器が複数出土し、
更には「口麻呂」墨書土器が複数出土してい
て、疾病の回復祈願の祈祷祭祀を、私には連
想させる。
 置かれた場所名等で無いと、言い切るのは
困難だが。識字層の身内に病人が出て、回復
の祈祷をする為の土器ではないかと、一応疑
われるのでは無かろうかと私は思う。
(2022/09/23)

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新潟県上越市下割遺跡で古墳期奔王墨書土器(長さん)

今回は、古墳時代成立とされる鉢状の土器
に、漢字で奉王と書かれているような墨跡の
見える、新潟県上越市出土の土器遺物の紹介
である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
23166_1_下割遺跡2.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
下割遺跡Ⅱ、2004年、新潟県教育委員会。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の場所
は、新潟県上越市大字米岡字下割1206番。
遺物が出土したのは、西暦2003年前後の
事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第29ペー
ジ付近の記載によると、問題の遺物は第1号
旧河川(跡)で出土したが、古墳時代成立と
見られているように、読み取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版第77:
”弥生時代の遺物(2)・古墳時代の遺物(6)”
の下から3段目右に在り、遺物番号第238
番との旨、ナンバリングされていて、発掘報
告書によると、鉢であろうとの事である。

下割奔王238.gif

上図のように、写真の上方ほぼ中央に、上部
が煤で潰れているが、漢字で奉のように見え
る模様が有り、その僅かに斜め左下、実質ほ
ぼ縦に、王と読めるような模様が在る。
 古墳時代に当地で王とされた古墳に、埋葬
する土器なのではないかと、個人的には疑わ
れる。
 なお遺跡は、現在の河川の上流4キロメー
トル程度南東の山際に、数基の古墳のある立
地のようである。古墳時代遺跡として下割遺
跡の他、2~3の遺跡が点在しているらしい。
(2022/09/22)

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山形県酒田市新青渡遺跡で10C泰山墨書椀土器(長さん)

今回は、表題遺跡で逆さまに「尿」と読まれた
墨書土器が、「奉山」+絵と書かれているので
は、ないかという例である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
6077_1_新青度遺跡第2次発掘調査報告書.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
山形県埋蔵文化財調査報告書第79集
新青渡遺跡第2次発掘調査報告書、
1984年、山形県・山形県教育委員会。
 遺跡の場所は、発掘報告書の第5ページの、
「調査に至る経過」によれば、山形県酒田市
大字新青渡字家際。遺物が出土したのは、西暦
1983年前後の事のようである。古代の柵か
ら、数キロ離れた地点であり、この発掘で、2
桁数の墨書土器が、出土しているようである。
 遺物の成立年代は発掘報告書の第64ページ
付近の記載によれば、第250号井戸跡で話題
とする遺物は出土したが、共出土した遺物の内
容から、平安時代の10世紀のものであろうと
されているように読取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版第60:
”墨書土器(8)”の第4段目左及び写真図版
第32:”出土遺物(1)SE250井戸跡”
の下から3段目右に、同じものとみられる写真
が在り、遺物番号第11番との旨ナンバリング
されている。杯とされているが、椀のようにも
私には見える。

新青渡遺跡泰山.gif

 上図のように、後光型の2本線が邪魔だが、
それを無視すると、第2次目が、かなり滲んで
いるものの「奉山」と書いてあるように見え、
後光は、朝日の絵のようにも見える。しかしな
がら、杯を伏せると、

発掘報告書によれば、「尿」という字に読める

とされる。
 そこで、複数出土している他の墨書土器を
調べてみると、「祀」と見られる字の書かれた
土器の数が多く、文字通り祭祀用土器の可能性
が高く、その旨の指摘も発掘報告書に有る。
 祭祀用土器で、しかも瓶や甕ではなくて、杯
ないし椀に、「肥料」等の意図で尿の字を書く
のは不自然であり、よって本ブログの今の所の
見解では、

後光付き「奉山」と、口を上にした状態で読む
と見た方が、幾らか自然の疑いが在る

と見る。
 後光が付いているし、泰ではなく奉なので、
10世紀に山形県酒田市で、大局将棋の泰山駒
が成立していたという事は、恐らく無いのであ
ろう。(2022/09/21)

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