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徳島県板野町黒谷川宮ノ前遺跡で10C横本墨書土器(長さん)

 徳島県では、徳島市の川西遺跡で出土した
「本横」墨書木製将棋駒の遺物が良く知られ
ている。今回は、徳島市上八万町の川西遺跡
の本横駒が出土した、西暦2009年よりも
かなり前、西暦1988年前後に同県板野郡
板野町の黒谷川宮ノ前遺跡で無理読みすれば、
「横本」に見える皿型の土器が出土している
との旨の紹介である。

横本では無く、「楷奉」の意図だと見られ、
「全奉」に近い祭祀用語が書かれている

と見られる。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファィル名は、以下の通りである。
33203_1_黒谷川宮ノ前遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
黒谷川宮ノ前遺跡、西暦1993年、
徳島県教育委員会。
 発掘報告書の調査日誌によれば、遺物が
出土したのは西暦1988年前後の事のよう
である。発掘報告書に「板野町の周辺遺跡の
紹介」との旨が、発掘報告書の第1ページ
「周辺の遺跡と歴史的環境」に記載されてい
る。ので、恐らく徳島県板野郡板野町内では
あろうと見られる。詳しい場所は発掘報告書
内を見た本ブログ管理人には、発見出来てい
無い。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の第40ペー
ジ付近の小結によると、遺物は第1次調査区
の第1包含層で出土したが、10世紀後半の
平安時代、本ブログで、いわゆる日本の将棋
が日本で成立した頃か、少し前であると見ら
れているように読取れる。
 遺物の写真は発掘報告書の巻頭カラー図版
第1に載っている。発掘報告書の写真図版第
10(PL.10)の第3段目の左にも在る
が前者の方が見易い。皿型の土器とみられる。

黒谷川宮ノ前横奔.gif

 上図のように漢字で縦に2文字在り、発掘
報告書の本文第20ページ付近で、第1字目
が、木ヘンに昔、第2字目が「本」と釈文さ
れている。第2字目は奉の類の「夲」であろ
うと私見される。発掘報告書の第20ページ
の説明から、第1字目は読み不明と解釈され
ているように、読取れる。
 「横」と無理読みすると奔王の逆の「王奔」
の仲間であるが、ツクリが黄で、特に中段が
由であるとは、田である部分が日であるのは
かなり確かなため、可能性は低いと私も見る。

将棋駒名とは無関係であろう。

そこで、第1字目について思考してみると、
書道の楷書の「楷」とも無理無く読め「南無」
の同義と見られる

「楷奉」の意図で墨書されている

と私見する。「恭しく奉る」の意で、祭祀語
が書いてあるのではないだろうか。
 よって、この遺物は将棋が日本で成立した
直後に「奔王」駒が有った事を示唆しておら
ず、祭祀用語が書いて在ると私は今のところ
考えている。(2023/01/31)

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埼玉県熊谷市宮下遺跡で古代奔馬墨書土器(長さん)

今回は、以前「王子」と「火像」の意味
と見られる墨書が併記された、皿型の
墨書土器が出土したとの旨の紹介をした、
埼玉県熊谷市宮下遺跡で、同じ発掘報告書
に紹介されている、そのとき私には読めな
かった、別の墨書皿型土器に、「奉馬」な
いし「名馬」と墨書されていると疑われる
物品が在るとの旨紹介する。

神仏習合の熊野神社信仰を連想させる。

 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っており、pdfファイル
名と発掘報告書名は、以前紹介したものと
同一であり、次の通りである。
35936_1_宮下遺跡Ⅲ.pdf
発掘報告書名は、以下の通りである。
埼玉県熊谷市埋蔵文化財報告書第26集、
宮下遺跡Ⅲ、西暦2018年、埼玉県熊谷市
教育委員会。
 遺跡の場所は発掘報告書末尾の抄録に
よると、埼玉県熊谷市千代字宮下700番
代・字押出123~124番。同じく抄録
によると遺物が出土したのは西暦2016
年前後の事との事であった。
 遺物の成立年代は縄文時代から室町時代
の間の遺物が出る遺跡で、発掘報告書第
164ページ付近の記載によると、遺物は
竪穴住居跡第52号から出土したが、遺物
の形から住居跡の成立時代は9世紀後半の、
平安時代前半期であり、以前の「王子」等
の墨書杯と同じ時代の、平安時代成立の遺
物と考える事が出来る。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版第
109の第3段目左側にあり、スケッチ図
第162の第5番と書かれているが、番号
が間違っており、スケッチ図162の第3
番と同じものであると見られる。写真では、
裏面と側面に墨書があり、側面には「上司」
「頭目」の意味かと疑われる「上」と墨書
されている。以下問題にするのは、その横
面の「上」墨書ではなくて、下図のように
裏面の墨跡である。

宮下奔馬.gif

 上図のように発掘報告書にもあるように、
スケッチ図第162の第3番の杯状土師器
土器には、側面だけでなく、裏面にも墨が
ある。ヨゴレがひどいが、中央やや左の少
し上に、いっけんして「人」に見える、太
い黒い筋模様が在り、よく見ると、

「久」か「各」か「名」である。「名」で
あろう。

そして、そのほぼ真下に漢字で「馬」に見
える模様がある。本ブログでは、これまで
「奉馬」墨書土器を複数紹介し、第1字目
は、無理読みすれば大局将棋の駒名である
「奔馬」に似た「奉馬」と読めないことも
無かろう。が、このケースは「名馬」と書
いてあり、上司か頭目の俊馬が死んだので、
9世紀後半に、部下が神として祀ったよう
にも見える。
 そして、同じ遺跡の同じ発掘で杯として、
近くから出土した「火像・王子」墨書土器
と組み合わせてみると、発掘報告書で推定
されているように仏教系の施設であるにし
ても、熊野信仰に関連した、現代でも見か
ける、神社が習合して軍馬も祀られている
ような、古代の和製宗教施設が、個人的に
は連想される。
 熊谷市という地名、宮下という地名から
も、結局のところこの遺跡は、古代からあ
る熊野神社の神を、分祀して祀ったような
場所の可能性も、全く有り得ないとまでは、
言えないのでは無かろうか。(2023/01/30)

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沖縄県那覇市大嶺村跡遺跡で昭和期歩兵歯ブラシ(長さん)

今回は、将棋関連の遺物の紹介ではなく、
その正当性の議論であり、歩兵と読めない
ものの「歩兵」と書いたのであろうと見ら
れる、遺物に書かれた文字の紹介と議論で
ある。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
36127_1_大嶺村跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
沖縄県立埋蔵文化財センター調査報告書第101集
大嶺村跡、2019年3月、沖縄県立埋蔵文化財センター。
 発掘報告書末尾の抄録によると、遺物の
出土遺跡の場所は、沖縄県那覇市字大嶺
那覇空港。
 遺物が出土したのは西暦2016年前後
の事のようである。
 遺物は太平洋戦争中の日本軍、第45
歩兵連隊の兵士の持ち物とみられているよ
うに、発掘報告書の第53ページの記載か
ら読取れると認識する。
 遺物の写真は、拓本の紹介が発掘本文の
第53ページに在ると同時に、巻頭図版第
6中段右にもある。

大嶺村跡歩兵.gif

上図は、そのうちの拡大写真であり、発掘
報告書第53ページで「(星)歩兵第四十
五聯隊酒保」の旨、釈文され旧日本軍小禄
飛行場に関連する資料とみられているよう
である。人間の歩兵連隊を示していると見
られ、昭和期の日本将棋の存在の証拠とは、
無関係と考えられるように思う。
 問題は、現物の字にヨゴレによる偶然線
や凸凹が加わり、将棋駒名「歩兵」に見え
ない事があるという点と考える。
 上図では、「歩免炭四十万・・・」のよ
うにも見え、特に第2字目は拓本を取ると、
やっとこさ目立たなくなる汚れ線が目立ち、
兵の最終画はカスレて、更に「兵」には見
えなくなっている。
 その為、本ブログでこれまで紹介した
墨書等のうち、

「免」と読んだ例があったが、本当は「兵」
だった可能性のある遺物が、存在した疑い
がある

と思えるほどである。
 そこで再度良く見直してみるとたまたま、
兵の下のハの部分の左が長すぎる

癖字の場合は、お手上げであると見るしか
ないのではないか

というのが、この遺物を見た結論となる。
 将棋駒名と判断される条件を緩めると、
現実的にノイズ情報が、耐えられない程度
に増大すると私は認識するので、

現実にはこのケースに似た例は、今後も、
見逃しは諦めるしかない

と今のところ結論する。(2023/01/29)

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福岡県吉富町和井田遺跡で古墳期奔王墨書土器(長さん)

今回は、古墳時代特有の口が鍔状になった
羽根型の土器に、漢字で奉王と書かれて
いるように見える、古墳時代の遺物土器
出土の話題である。なお、以前複数の古墳
時代の奉馬墨書遺物を紹介した、福岡県
築上郡上毛町郷ケ原遺跡、弥生時代後期の
奔王墨書遺物を紹介した、同築上郡上毛町
の桑野遺跡は、今回紹介する和井田遺跡の
十キロメートル程度南と南西の、山に少し
入った所にあり、弥代後期~古墳時代の
遺跡の多い一帯であるという事である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データペース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
59381_4_一般県道吉富港線・山内吉富線関係
埋蔵文化財調査報告和井田遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
一般県道吉富港線・山内吉富線関係埋蔵文化財調査報告
和井田遺跡・成恒山ノ内遺跡・八ツ並下ノ原遺跡
福岡県文化財調査報告書第251集、
2016年、九州歴史資料館。
 遺物はこのうち最初の、吉富町和井田
遺跡で出土したようである。遺跡は互い
に数キロ程度離れている。2番目の成恒
山ノ内遺跡の方が、以前紹介した築上郡
上毛町郷ケ原遺跡等に近い。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の
場所は、福岡県築上郡吉富町。遺物が出
土したのは、西暦2011年前後の事の
ようである。
 遺物の成立年代は、和井田遺跡の第1
号竪穴住居跡から大量に出土した遺物の
一つで、発掘報告書本文第1pdfの、
「まとめ」の第48ページ付近の記載に
よると、古墳時代初頭から前期前半の、
4世紀前後に竪穴住居跡自体が成立し、
遺物もその頃の、鉢型土器とみられてい
るように読取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版第
17の第4段目左側にあって、スケッチ
図第20の、通し番号第149番との
旨ナンバリングされている。繰り返すと、
鍔の大きな丸い鉢型土器で、全体が羽根
型の、古墳で出土するような形の土器の
ように、私には見える。

和井田奔王.gif

 上図のように、写真の、ほぼ中央に、
大きめでかつ、少し崩して漢字で
”奉王”と書いたような黒い模様が見え
る。ただし、第2字目の「王」は最終画
が擦れているようである。多少字の曖昧
さはあるものの、弥生時代の後半で、し
かもこれより少し早いが、類似の土器が、
近隣の福岡県築上郡桑野遺跡で出土した
例を前に紹介している。現地で4世紀初
には早くも、古墳を作るような豪族が発
生し、その者と一族を王族を崇める渡来
系の識字層が、弥生時代後期にひき続い
て、この地に住んでいた事を示唆する、
遺物例なのではないかと私的に疑う。
(2023/01/28)

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群馬県館林市北近藤第一地点遺跡で平安期泰山墨書土器(長さん)

 今回は、北方に関東山地の山が望める
群馬県館林市の遺跡で、古代成立と見ら
れる、漢字で奉山と書かれているように
見える杯状の土器出土の話題である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
60672_1_中島遺跡北近藤第一地点遺跡南近藤遺跡.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
群馬県館林市埋蔵文化財発掘調査報告書第20集
中島遺跡・北近藤第一地点遺跡・南近藤遺跡、
1988年、館林市教育委員会。
 遺物はこのうち、真ん中の”北近藤第一
地点遺跡”で出土したようである。
 発掘報告書に遺跡の位置が詳しく書かれ
ておらず正確な場所が私には把握できない。
「東武小泉線成島駅の南2km地点」との
旨、記載されている。群馬県館林市市内と
みられる。遺物が出土したのは、発掘報告書
冒頭の例言によると、西暦1987年前後
の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の第2ペー
ジ付近の記載から、近接する苗木西遺跡
同様、平安期のものと読取れるように考える。
 遺物の写真は発掘報告書の第136ページ
の最上段左に在り、遺物に”北14住63”
との旨付記されている。”63番”が遺物の
番号だとみられる。杯型の土器のように、
私には見える。

北近藤第一泰山.gif

 上図のように、中央やや左の、横縞が、
ちょうどうまいぐわいに切れた部分に縦に、
漢字で奉山のように見える黒い模様が在る。
 館林市内の北には足尾山系渡良瀬渓谷の山
の景色が広がるため、古代に山を奉じたもの
ではないかと、この墨書土器の正体を私的に
疑っている。(2023/01/27)

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長崎県松浦市下谷遺跡で馬奔縄文土器(長さん)

今回は、縄文時代の遺跡と紹介された長崎
県の遺跡の土器に「馬奉」と書かれている
が、写真図版とスケッチ図との対応が不明
で、後の時代成立なのかどうか、はっきり
し無い遺物の紹介である。弥生中期成立と
疑われる。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
62570_1_下谷遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
松浦市文化財調責報告書第18集下谷遺跡、
2002年、長崎県松捕市教育委員会。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の場
所は、長崎県松浦市御厨町西木場免。遺物
が出土したのは、西暦2000年前後の事
のようである。
 遺物の成立年代は、写真図版とスケッチ
図の遺物との対応が不明であり、スケッチ
図の遺物土器の成立年代に関する説明しか
なく、また、遺物の底面の模様の写真しか
なく、遺物の側面に縄文があるのかどうか
も判らないので、私には判らない。末尾の
抄録によると、縄文時代と中世の複合遺跡
と取れる説明が在るので、どちらかとの意
図かもしれない。以下では弥生時代中期の、
中国の歴史で漢王朝の時代と仮定し論じる。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版第
16の上から第5段目右から2番目に在り、
ナンバリングは無い。土器の裏面の写真の
ように、私には見える。

下谷馬奔.gif

 上図のように、上部の縁に漢字で「馬」
のように見える黒い模様と、右側中段に、
はっきりしないが「奉」のように見える
模様がある。

大陸から渡来した漢王朝時代の中国人等
が、鉱産資源の捜索をしつつ牧場を作って
馬を飼い、中国の皇帝等に、馬を湊から船
に乗せて送る事により献上していた

可能性が、松浦市付近で弥生時代中期に、
有った形跡のある遺物のように、私見さ
れる。本ブログで過去、複数回紹介した、
九州北部でも見られた土器と、同類では
なかろうか。(2023/01/26)

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広島県東広島市聲門遺跡で13~4C山泰墨書土器(長さん)

今回は、広島県東広島市聲門遺跡で鎌倉時
代から、南北朝時代にかけて成立とみられ
る廃棄土器に、山奉と墨書のある遺物の紹
介である。遺跡付近は盆地で龍王山の南麓
のため、中世に山を奉じたという経緯のよ
うである。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
62752_1_聲門遺跡・安芸国分寺周辺遺跡発掘調査報告書.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
東広島市教育委員会文化財調査報告書第53集
聲門遺跡・安芸国分寺周辺遺跡発掘調査報告書、
西暦2015年、東広島市教育委員会。
 遺物は、この2箇所の遺跡のうち、最初
の方の聲門遺跡で出土したようである。
 発掘報告書冒頭第2ページ付近の「位置
と環境」によると遺跡の場所は、広島県
東広島市西条町吉行。第1ページの
「はじめに」によると、遺物が出土したの
西暦2014年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、遺物は聲門遺跡の第
1溝状遺構で出土したが、発掘報告書第
51ページ付近の「まとめ」によると、
土師器とみられる出土品は、全体として、
13世紀~14世紀、鎌倉時代から南北朝
時代にかけてのものと見られているように、
読取れる。
 遺物の写真は発掘報告書写真図版第14
の下から2段目に在って、聲門遺跡出土
土器の遺物番号第9番との旨ナンバリング
されている。右側の底の写真とみられる
部分に墨書と疑われる模様が有る。

声門山泰.gif

 上図のように、底の中央部に縦に漢字で
2文字、「山奉」のように見える模様が有
る。北側の標高数百メートル前後の龍王山
を、鎌倉時代前後にも奉じたものではない
かと私は疑う。(2023/01/25)

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兵庫県朝来市芝ヶ端古墳で平安末奔軍墨書砥石(長さん)

今回は、古墳の有る兵庫県朝来市の遺跡で
中世成立とみられている、漢字で「奉軍」
にも見える黒い模様の有る砥石が出土した
との紹介である。

奉霓虹(奉日本)と書き京都の朝廷を崇拝
する祭祀用に、中国から南宋王朝期に渡来
した中国人が使用した物品の遺物

の疑いが在る。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
63325_1_和賀向山1号墳・芝ヶ端古墳・芝ヶ端遺跡・芝花古墳群.pdf
 発掘報告書の表題は以下の通りである。
兵庫県文化財調査報告第329冊
和賀向山1号墳・芝ヶ端古墳・芝ヶ端遺跡・
芝花古墳群、2008年3月、兵庫県教育委員会。
 遺物はこのうち、芝ヶ端古墳で出土した
との事であるらしい。
 発掘報告書冒頭例言によると遺跡の場所
は、兵庫県朝来市和賀字芝ヶ端108-7、
108-8。遺物が出土したのは発掘報告
書末尾抄録によると西暦1999年前後の
事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第41ペー
ジ付近の記載により、古墳東の盛土より出
土し、古墳期よりは後のもので、中世程度
と漠然とみられているようである。平安末
程度と仮に仮定し、以下に論じる。
 遺物の写真は発掘報告書の写真図版第
30の最下段にある。遺物にK-S2との
旨、ナンバリングされている。両面の写真
が並んでいるが、模様は右側の写真の面に
有る。

芝ヶ端奔軍.gif

 上図のように写真の左によったところに、
上下に帯状に、いっけんすると「奉軍」・
「奉暈」のように見える模様がある。
 大局将棋に右軍・左軍という名称の駒が
存在するが、奔軍という駒名は、在りそう
だが余り知られてい無い。平安期の将棋と
は無関係であろう。
 それにしても、特に第2字が難解で、
下部は鬼や男の下部のようにも見える。の
で更に調査の必要があり、マイクロソフト
のimeパッド等を駆使して読もうとする
と、

暈と霓とが、重ね書きされていると見ると
比較的説明し易い

事が判る。自然崇拝の祭祀用であろう。
大気現象を拝んだものであろうが。或いは
切れている部分に第3文字目が有って、

「奉霓虹」と書いて、南宋王朝期に中国か
ら渡来し、中国語を話す住民が、更に日本
の朝廷や天皇をも崇拝する祭祀を、日本の
朝廷を支持していたので当時行っていた

とも疑われる。webを見る限り「霓虹」
(「けいこう」又は「にほん」)は、最近
の「日本」表記のようなイメージだが。
日本の鎌倉時代より前には、既に有った事
を示す意義深い遺物が、兵庫県朝来市で、
出土していた疑いも、全く無いとは言い切
れないのではないかと私は見ている。
(2023/01/24)

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兵庫県たつの市福田片岡遺跡で中世三入井刻書土器(長さん)

今回は兵庫県たつの市の遺跡で、備前焼の
陶器とされているとみられる遺物の破片に、
刻書で漢字で「三入」と読めるような線と、
呪いで井マークを書いたが、将棋盤の絵の
ようにも見え、歩兵等の将棋駒が、相手陣
の第3段目で金将に成るのにちなんで蓄財
呪いをしたのではないかと連想される、
奇妙な模様の有る、遺物の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
65328_4_福田片岡遺跡.pdf
 発掘報告書の表題は以下の通りである。
兵庫県文化財発掘調査報告書第94冊
福田片岡遺跡、西暦1991年2月、
兵庫県教育委員会。
 発掘報告書末尾の抄録によると、遺跡の
場所は、兵庫県たつの市(旧:龍野市)
誉田町福田。遺物が出土したのは、
西暦1983年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第1本文
pdfの第169ページ付近の記載による
と、遺物が出土した第4土坑で、15世紀
前半、室町時代前期の青磁が共出土してい
て、この頃成立の大きな甕型備前焼陶器の
破片とみられているようである。
 遺物の写真は、発掘報告書第4写真図版
pdfの写真図版第230:”中世土器
(36)備前焼箆書(2)”の下段に在り、
”三入♯”との旨、釈文がある。「三石入
大甕」と遺物観察欄で表現されている。

福田片岡三入升盤.gif

 上図のように左に、入が左と下で切れて
いるようだが、ヘラで、漢字でそのように
読める長くて太く、はっきりとした線が有
り、右に井マークが有る。

内容物を示すと同時に、内容物が呪い用で
ある事を示唆している

のであろう。
 将棋で歩兵等が金将に三段目で成る縁起
の良いルールにちなんでいるようにも連想
される。が、物体(石)が3個入っている
のを示しているだけかもしれない。つまり、
三段目より以降の位置に入る事は示してお
らず、「物体3個で吉祥星(天体)のごと
くに拝む者に幸運をもたらす」という呪い
カテゴリーのものなのではないかとも疑わ
れという事である。「と金」等を連想する
のは、既に日本の将棋が成立しているとみ
られる時代の物品な為、問題は無いが、解
釈としてやや苦しいと、私は疑っている。
(2023/01/23)

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大阪府松原市三宅西遺跡で中世奔人墨書土器(長さん)

 今回は、大阪府松原市の三宅西遺跡で、
中世成立とみられる第2層の流路跡から、
漢字で奉人と書かれているように見える、
墨書土器の破片が出土しているという旨
の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
65590_1_三宅西遺跡Ⅱ.pdf
発掘報告書の表題は以下の通りである。
(財)大阪府文化財センター調査報告書
第204集松原市三宅西遺跡Ⅱ、西暦2010年7月、
財団法人大阪府文化財センター。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の場
所は、大阪府松原市三宅西5・6・7、
三宅中7。遺物が出土したのは、西暦
2009年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、遺物は流路跡の層序
第2層で出土したが、発掘報告書の第9
ページ付近によると。層序第2層は、13
世紀~14世紀、鎌倉時代ないし南北朝
時代の遺物の層とみられているように、
読取れるようである。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版第
19の下カラム:”第3~5区 第2面 
3流路 出土遺物(2)”の左下に在り、
遺物番号で流路跡の第2層の第16番との
旨、ナンバリングされて、土器の破片の、
側面と、一部裏面を撮影した写真である。

三宅西奔人.gif

 上図のように、側面の右に寄った部分
に縦に、かなり大きく漢字で”奉人”と
書かれているような黒い模様が在る。
 土器自体が祭祀用で、祭祀の主催者の
器である事を示しているのかもしれないと
私は考える。奉が奔である可能性は少なく、
摩訶大大将棋/摩訶大将棋の成立年代の
推定は、この史料からは困難ではないかと
字を見た限りは疑っている。(2023/01/22)

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