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兵庫県川西市栄根遺跡で4C奔王墨書土器(長さん)

以前、表題の兵庫県の遺跡で、漢字で、
いっけん「奉金山」と書かれているよう
に見える、弥生時代から古墳時代初の3~
4世紀前後に成立したとされる、墨書遺物
を紹介し、兵庫県の地元の領主に金を奉じ
た漢王朝時代~六朝時代の中国人が居て、
元々鉱脈探査の為に、来日したものである
等と論じた。
 しかしながら、奉じる領主が居たかかど
うかは、この墨書の語句の内容からは実は
不明解である。しかし今回は「奉金山」
墨書土器と同じく住居跡4-b最下層から
出土した土器中に、実は表題の将棋の駒名
の奔王に似た「奉王」と読める、奉じる相
手の存在を示す別の土器が有るのを、本
ブログの管理人が、見逃していたのに気が
ついたので、以下に紹介する。
 出展は同じ発掘報告書である為、
以下の通りである。
 発掘報告書が、奈良文化財研究所発掘
報告書データベース、全国遺跡報告総覧に
登録公開されているとの事であった。
 pdfファイル名は以下の通りである。
20169_1_栄根遺跡.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
兵庫県文化財調査報告書第14冊永根遺跡、
西暦1982年3月、兵庫県教育委員会。
 発掘報告書冒頭の例言によると遺跡の
場所は、兵庫県川西市栄根2丁目。遺物が
出土したのは西暦1979年前後。
 「奉王」墨書土器は「奉金山」墨書土器
と、同一箇所のやや深い地層から出土して
いる。深さの差は、成立年代の差に、この
ケースは、響か無かったようである。
「奉金山」土器「奉王」土器の成立年代は
発掘報告書の第57ページ付近に、遺物は
住居跡4-b下層か最下層で出土したが、
畿内第Ⅴ期様式の土器出土層で、その成立
年代は、発掘報告書第60ページ付近の
記載によれば弥生時代後期~古墳時代初期
の、3~4世紀頃と見られているとの事で
あった。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版第
60:”第6次調査”(上)住居跡4-b
最下層出土土器・(下)住居跡4-C出土
土器”の上カラムの第2段左に在り、
遺物番号で、同4-b住居跡出土遺物の第
39番との旨、ナンバリングされ、杯型の
土器の底を裏から見たような写真のように
私には見える。

永根奔王.gif

 上図のように、第1字目の「奉」が、
やや不自然に細長いが、縦に「奉王」と、
2文字書いてあるようにも見える。同一
地点から出土した、以前の第19番土器と
組み合わせると、渡来人は鉱産物を、王、
つまり領主に奉じた事が推定できるように
思われる。
 更に、この回のこの遺跡の発掘では、
鉱物探索が山岳部で行われた事を、「山奉」
という別の出土土器が示している。即ち第
3の遺物の写真は、発掘報告書写真図版第
79:”第5次調査;大溝出土土器”の
上カラムの、第2段右から2番目に在り、
遺物番号で大溝出土遺物の第30番との旨、
ナンバリングされ、壷型の土器の破片の、
口元の写真のように私には見える。

永根山泰.gif

 上図のように、写真の左側やや下に、縦
に漢字で「山奉」と読めるような暗い模様
が見える。
 なお、大溝の成立年代は、発掘報告書の
第9ページによると、古墳時代の中期、
5世紀頃と、やや前の2個の土器に比べて
下る。が、鉱物探査をした結果、山岳信仰
がこの地に定着したとすれば、鉱脈は山岳
部で捜索されたのであろう。
 以上のように追加で本ブログの管理人が
気がついた、2個の古代よりも遡ると疑わ
れる2個の、墨書を疑わせる遺物土器から、
以前結論したように、大陸中国から渡来人
が、兵庫県川西市に3~4世紀に渡来し、
地元の領主に、鉱脈から発掘した鉱産資源
を、奉じるといった行為が有ったと考えざ
るを得ないように、私は個人的に、依然と
して疑っているのである。(2023/02/28)

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兵庫県川西市栄根遺跡で4C奉泰山墨書土器(長さん)

今回は、表題の兵庫県の遺跡で、漢字で、
いっけん「奉泰山」、しかしよく見ると、
「奉金山」と書かれているように見える、
弥生時代成立とされる、墨書遺物の紹介
である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
20169_1_栄根遺跡.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
兵庫県文化財調査報告書第14冊永根遺跡、
西暦1982年3月、兵庫県教育委員会。
 発掘報告書冒頭の例言によると遺跡の
場所は、兵庫県川西市栄根2丁目。遺物が
出土したのは西暦1979年前後のようで
ある。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の第57
ページ付近によると、遺物は住居跡4-b
下層で出土したが、畿内第Ⅴ期様式の共出
土した土器と、ほぼ同時期とされ、その成
立年代は、発掘報告書第60ページ付近の
記載によれば、弥生時代後期~古墳時代
初期の、3~4世紀頃と見られているよう
に読取れる。以下仮に、3~4世紀として
議論する。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版第
59:”第6次調査;住居跡4-b下層・
最下層出土土器”の最下段右に在り、
遺物番号で同4-b住居跡出土遺物の第
19番との旨、ナンバリングされ、椀の
ような形の土器の、側面の写真のように
私には見える。

永根泰山.gif

 上図のように、中央やや右土器最上部
に、一見漢字で「泰」か「奉」のような、
模様が見えるが、よく見ると、

「金」のようである。

 そして、その字のように見える模様に
左に接触して、ややカスレているが、

本物の「奉」が別に有る。

 弥生末~古墳時代初、兵庫県の金鉱脈
に関係した遺物のような内容である。
そして「金」の字の右下に接触して、
墨書のような、刻書のようなはっきり
しない模様で「山」という字が有るよう
にも見え3文字合わせて、

「奉金山」と書かれている

ように見える。泰山では無いから、将棋
の大局将棋の駒名とは関係が無く、金山
に関係するようである。
 元々この頃の識字層は、渡来人としか
考えようも無いので、この模様が字であ
るとすれば、兵庫県川西市に4世紀頃に
渡来し、地元の領主に鉱脈を奉じた人物
は、元々鉱脈探査の為に、来日したと考
えざるを得ないように、私は個人的に推
定する。(2023/02/27)

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福岡県福岡市姪浜遺跡で弥生期龍丹墨書土器(長さん)

今回は、福岡市の姪浜遺跡で弥生期とみら
れる壷型土器に、龍神の赤龍を連想させる
「龍丹」と漢字で書かれているような模様
のある遺物の紹介である。

漢方薬のキキョウ根の龍胆の別字で、龍丹
と書かれているという意味とみられる。

なおweb上に胆を丹と書く事を示唆した
サイトが有る。弥生時代に漢方薬を入れる
壷が、福岡市に有った事を示しているので
あろう。ただし、将棋駒名の青龍の類例で
「赤龍」、その言い換えで「龍丹」のよう
にも一応見えるので、今回本ブログでは、
取り上げた。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
20573_1_姪浜遺跡3.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
福岡市埋蔵文化財調査報告書第1058集
姪浜遺跡3第4次調査の報告、2009、
福岡市教育委員会。
 発掘報告書末尾抄録によると遺跡の場所
は、福岡県福岡市西区姪浜3丁目3393。
遺物が出土したのは、西暦1991年から、
西暦1998年の間のようである。
 発掘報告書第31ページ付近によると、
遺物は試堀時に出土したが、弥生土器の壷
で、弥生時代成立のように解釈されたと、
読取れるように思われる。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版
第12の、第2段目右に在り、遺物番号第
117番との旨、ナンバリングされていて、
壷のような形の土器の、上部の破片を横か
ら見たところのように、私には見える。

姪浜龍丹.gif

 上図のようにヨゴレが多いが、写真で
中央の下部に漢字で「丹」のように見える
模様が有るようであり、その上の字は、はっ
きりしないが、「龍」のようにも見え、
キキョウの根の多分意味の「龍胆」の別字
で、同義だと、webの一部のサイトで指
摘されているように私には認識される、
「龍丹」になるようにも見える。
 キキョウの根は漢方薬なので、福岡に居
した弥生時代の帰化人が、漢方薬入れの壷
にキキョウ根を入れ、「龍丹」と印をつけ
たようにも私見される。
 「龍胆」では無くて「龍丹」とすると、
伝説の動物で火の龍とされる「赤龍」に似
た意味にもなり、大大将棋駒等の青龍の、
親戚の赤龍を表しているように見えなくも
無い。が、出土物のように、壷に字を書い
た事から見て、弥生期に漢王朝時代の中国
人が福岡に渡来して、複数の壺に、一種類
づつの漢方薬を保管したとき、各々の銘柄
を区別する為に、各壺に漢方薬の銘柄を書
いたのだが、出土壺には、キキョウ根を保
管したので、その意味の「龍丹」と書いた
と考えた方が、かなり自然なのではないか
と私は疑う。
 この遺物の模様は、福岡市の住人の中に
は、弥生時代の中頃には既に、漢代の中原
に住む人間と、同じレベルの識字層が、か
なり多かった事を示唆していると私は思う。
(2023/02/26)

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三重県松坂市大川上遺跡で平安期山泰墨書土器(長さん)

以前三重県松坂市の村竹コノ遺跡、西肥留
遺跡で、それぞれ山将、奉基王と書かれた
弥生末から古墳初の墨書土器が出土したと
の旨の紹介をした。今回は時代が平安時代
と大きく下るが、そのとき紹介した遺跡か
ら、数キロないし十数キロの地点である、
表題の大川上遺跡で、廃寺に近いために、
その関連と見られるが、かなり多くの墨書
遺物が出土し、その中に、発掘報告書で
山( )または山寺、本ブログの見解で「
山奉」ではないかとみられる祭祀内容が同
系統の墨書土器が、出土している為、更に
紹介
する。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
20788_1_大川上遺跡発掘調査報告.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
三重県埋蔵文化財調査報告189
大川上遺跡発掘調在報告、1999・3、
三重県埋蔵文化財センター。
 発掘報告書末尾の抄録によると、遺跡の
場所は、三重県松坂市中万町大川上。
遺物が出土したのは西暦1998年前後の
事のようである。
 遺物の成立年代は、遺物はB地区の第
30土抗から出土しており、発掘報告書の
第8ページ付近の記載から、平安時代
中期と推定されているように読取れる。
 遺物の写真は発掘報告書写真図版を2枚
ずつ並べた後半のページの第20ページの
下のコマの、中段右から3番目に在り、
遺物番号第55番とナンバリングされて
いる、細かい土師器の破片のように私には
見える出土物品である。

大川上山泰.gif

 上図のように、発掘報告書の8ページ
付近の本文解説の通り、2文字縦に書かれ
ている、墨書土器のように私にも見え、
私見だが、「山奉」と書かれているように
私には見える。が第2文字目はやや不明確
であり、発掘報告書の釈文のように「山寺」
の可能性が、全く無いとまでは言えないよ
うに私も見る。
 祭祀用の墨書土器である事は、間違い無
いように見える。なお、発掘報告書第20
ページには、合計約27個程度の、土器の
破片等の写真が有るが、ほぼ全てに墨書が
有るように、私には見える。このページの
土器には、呪用の言葉が、ちりばめられて
いるとみられるフシがあるようだ。発掘
報告書の他のページにも、墨書土器は複数
写真が記載され、特に、発掘報告書第19
ページ、上のコマの写真の右と中央の土器
の底裏側に「神宮寺」と書かれているとし
て、発掘報告書では古文書と合うため注目
しているようである。墨書きしているのが、
僧侶のような階層の人物である事を示唆し
ているのかもしれないと、私は疑う。
 古墳時代の道教に影響された伝来の
山岳信仰が、現在の日本の神道の山岳信仰
と、我が国ではほぼ切れ目無く、少し変形
した上で繋がっていることを、時代の違う
同じ型の墨書が、同一地帯で出土している
事で示されているように私は見る。
 何れにしても、三重県松坂市の集落の古
さには、改めて驚かされる。(2023/02/25)

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三重県松坂市西肥留遺跡で古墳期奔王墨書土器(長さん)

今回は、表題の遺跡で墨書土器で”+”と
書かれているとの発掘報告書見解の遺物に、
奉基王と書かれている疑いのある。出土物
の紹介である。なお、以前同じ松坂市の、
村竹コノ遺跡で山将墨書土器が出土したと
の旨の紹介をしたが、時代が近い上に、
互いに十キロ前後の距離なので、同じ一族
の王と将なのかもしれない。発掘報告書の
”+”も有り、ヘラで刻んだ線のように私
には見える。
 さて遺物写真がweb上に公開されてい
て発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
21030_1_西肥留遺跡発掘調査報告.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
三重県埋蔵文化財調査報告293
西肥留遺跡発掘調査報告(第1・2・3・5次)、
2008年3月、三重県埋蔵文化財センター。
 発掘報告書末尾抄録によると遺跡の場所
は、三重県松坂市肥留町。遺物が出土した
のは西暦2004年~2005年の第2~
3次調査のときのようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第127
ページ付近の記載によれば、この地域の遺
跡は、古墳時代とする意見が主流であり、
遺物は報告書第138ページ記載によると、
第132号井戸から出土し、簡単に”+”
と墨書されているとの見解が書かれている
ように読取れる。ここでは以下範囲が広い
が古墳時代初、4世紀前後の遺物として議
論する。村竹コノ遺跡の山将の類のように、
この点だけからも、予想される。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版第
98:”出土遺物(39)”で紹介されて
いる、墨書土器の一群の、第3段目左に在
り、遺物番号第1041番との旨、ナンバ
リングされていて、杯型土器の底の裏面の
写真のように私には見える。

西肥留奔王.gif

 上図のように、中央やや左側のやや下に
縦に漢字で「基王」と読めるような、模様
が有るようにも見える。そして更にはっき
りし無いがカスレたように、それらの右側
にやや大きく、奉のようにも見える煤模様
もある。
 古墳時代の初めに、地域の有力者を祀っ
たようでもあり、王は「元祖」「源」の意
味で「基王」と呼ばれていたようにも見え
る。高見山地で鉱物探査をしている、知識
のある帰化人の一族が、古墳時代には一帯
を支配しており、村竹コノ遺跡では亡くな
ると葬られるときに「山将」、そしてこの
西肥留遺跡では「基王」として祭祀の対象
に、もしかするとなっていたのではないか。
以上のように、私的に疑っている。(2023/02/24)

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三重県松坂市村竹コノ遺跡で古墳初山将墨書土器(長さん)

今回は、三重県松坂市の低地の遺跡で古墳
時代早期頃成立の土器に、山将と書かれ、
鉱脈捜索を行った当時の知識人が住民から、
棟梁と崇められたようなイメージ人物の、
追悼祭祀の墨書を疑わせる遺物が出土して
いるという旨の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
21050_4_村竹コノ遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
三重県埋蔵文化財調査報告123-9
村竹コノ遺跡、2009年3月、
三重県埋蔵文化財センター。
 発掘報告書第4pdf末尾の抄録による
と、遺跡の場所は、三重県松坂市上川町
村竹・コノ・廿子。遺物が出土したのは、
西暦2003年から2006年の間のよう
である。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第1本文
pdfの第70ページ付近の記載によると、
第301号環状土坑(SD301)で出土
したが、その成立年代は、弥生後期から
古墳時代初期にかけての、3~4世紀頃の
成立と考えられているように読取れる。
 遺物の写真は、第4写真図版pdfの写
真図版第63:”出土遺物(15)”の、
最下段左に在り、遺物番号第716番との
旨、ナンバリングされている。発掘報告書
第1本文pdfの第106ページ付近の記
載から、つぼ型土器とみられているような
遺物の、側面が写真に載っている。

村竹コノ山将.gif

 図のように、中央、僅かに右よりのやや
下に、縦に漢字で「山将」のようにも見え
る、薄い模様が在ると言われれば、そうも
見えるという程度のものである。相当に薄
い。特に旧字「将」の下部は焦げ煤とみら
れる、底部分の黒い部分に隠れ、ツクリは、
上図のように画像処理すると、かえって見
づらくなってしまった。墨書が有ると仮定
してだが。
 松坂市は低地の河川周辺に開けた町であ
るが、西側に高見山地の低山帯が有り、
鉱脈捜索をする当時の修験者風の知識人を、
古墳時代早期に、山の棟梁として、現地で
他界後に祀った、墳墓から出土する土器類
の一種のようにも、私には見える。その
知識人はひょっとすると、六朝時代の中国
から渡って来て我が国に帰化した、大陸出
身者だったのかもしれないと私見される。
余り明確な、墨書では無いだろう。(2023/02/23)

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御堂関白記に大宰府~京都間1015将棋具藤原隆家運搬説に不利な内容(長さん)

ss-blogの「けふもよむべしあすもよむべし」
2023年02月20日の管理人middrinn
氏のコメント(4番目)に、本ブログの表題内容の
仮説にとって不利な、御堂関白記の日記の記事が有る
との情報が書かれている。本ブログの管理人が気が付
かない内容だったので、御指摘を深く感謝したい。
 すなわち西暦1015年2月(宣明暦)前後の中国
北宋時代の交易商人周文裔が、恐らく東南アジア方面
からもたらした、対平安朝用の交易物の孔雀は、
藤原道長の御堂関白記に、藤原蔵規から道長ルートに
直入手であるかのように書かれている。が本ブログで
は、実際には藤原蔵規→藤原隆家の大宰府~京都内裏
間運搬→三条天皇の選別下賜→藤原道長の入手と見て
いた。
 しかるにmiddrinn氏は、貴族日記の文献
捜索という手法により、次のように、藤原道長の日記
の通りではないかと、前記ブログ前記記事の彼の
コメントで指摘している。
 以下、middrinn氏からの情報によると次
の通りである。
 倉本一宏(全現代語訳)『藤原道長「御堂関白記」
(中)』(講談社学術文庫、2009)によると、
長和2年(1013年)2月4日条に
「・・・内裏に参った。・・・天皇は、すぐに
唐物を御前に召して、これを覧られた。・・・
私には、錦八疋・綾二十三疋・丁子百両・
麝香五臍・紺青百両・甘松三斤ほどを賜った。・・・」
とある。
 三条天皇が、後一条天皇に、黄金原始平安小将棋具、
藤原道長に、孔雀を分けるといった采配をすれば、
1015年には1013年のときと同じように、藤原
道長なら御堂関白記に書くのではないか。
 middrinn氏は「『唐物御覧」』の後に対立
してた(としても)三条天皇から『下賜』」されたこ
とを藤原道長はちゃんと記してます」と表現して以上
の旨を指摘している。
 また、倉本一宏(全現代語訳)『藤原道長
「御堂関白記」(下)』(講談社学術文庫、2009)
に長和5年(1016年頃)11月9日条に
「・・・権帥(藤原隆家)が送ってきた手筥を、
(藤原)為親が持って来た。二双で、香薬を入れて
あった。」と、隆家からの唐物を(元々手配した
人間隆家と、(実際に運搬した輸送人から)受け取っ
て、道長のところに持ってきている、藤原為親という
人物名を記載している。ので西暦1015年には西暦
1016年のケースとは異なり、孔雀の中間輸送者を
省略したとする、本ブログの仮説の根拠は薄いのでは
ないか。
 以上は、

何れも厳しい指摘

である。以上のmiddrinn氏の指摘に関しては、
藤原道長が、置かれた境遇で、都合の悪い項目を彼の
日記には書かないようにしていると仮定する程度しか、
逃げ道は無いと今のところ本ブログ管理人は認識する。
 1013年の内覧は、「平時」の中国交易商人のも
たらした、日常の貴族の実質奢侈品の唐物の内覧であっ
て1015年の長和第1次内裏火事直後の補充交易に
よる輸入物品とは内容が違うとも言えるのではないか。
 藤原道長は、内裏の復旧飾りつけ作業の進行が、滞
りなく行われる事を通じて、三条天皇による、「内裏
が燃えても天皇の威厳で、ただちに復旧出来る」と内
外に見せつける事を通じた権威強大化が実質的にもた
らされる事を警戒していた。そしてそれは、藤原道長
の影響力を相対的に低下させるという効果をもたらす
という意味で、彼には元来ネガティブ・イベントとな
っていた。そこで三条天皇のもとで、急げ急げの掛け
声で進行する内裏の復旧作業という状況の中で、恐ら
く行われた、西暦1015年2月頃の、孔雀を含む、
交易物品の配布作業(仮説)を、藤原道長自身は心の
奥底では、余り快く見ていなかったと仮定してみる。
 そのため、火災が原因で失われた飾り物の補充の多
い、1015年唐物は、孔雀も実質、三条天皇が分け
ていたのだが。内裏復旧の現場とは離れた大宰府・
博多での交易の交渉の仕切りをしていた、大宰府大監・
藤原蔵規の九州での、京都とは遠い活躍だけを、西暦
1013年のケースとは違い、日記を読んだ人間の心
象を予想して、選択的に強調したのではないか。
 また1016年の大宰府権帥、藤原隆家からの贈答
は、全てが自分の思い通りに事の進み、後一条天皇が
誕生等の藤原道長にとり人生「満月の年」だった。の
で、藤原道長自身の機嫌が良く、天皇ではなくて、自
分の手に国政が掌握されているという良い気分の中で、
大宰府権帥職を真面目にその時務めている藤原隆家か
らの贈答品の入手経路などは、詳しく日記に書いた。
 それに対し同じ藤原隆家でも西暦1015年2月の
場合は、藤原隆家への西暦1014年暮れ~15年頃
の大宰府権帥職付与という人事采配に関して藤原道長
が余り乗り気でなかったのに、三条天皇の、隆家眼病
に対する同情等によって、しぶしぶ押し切られたとい
う経緯が有ったとも、少なくともweb上に出ている。
仮にそれが実際に有ったとすれば。そのため藤原隆家
が西暦1015年2月頃に、大宰府関連職務に絡んで
活躍している事自体が、藤原道長には心の奥底では、
面白くは無いと推定する事も、可能なのではないか。
その為西暦1015年唐物・孔雀のケースには、西暦
1016年の大宰府・藤原隆家からの贈答物・香薬の
ケースとは異なり、藤原隆家という人物単語は同じで
あっても、西暦1015年2月の活躍の方だけ書きた
く無いという事情が有った。ので、やはり藤原道長は、
藤原蔵規による、孔雀等の対周文裔入手交渉活動等が、
自分が孔雀を飼育しているという現実の、理由の全て
であるかのように自身の日記には書いたのではないか。
 以上のような苦しい仮定を一例ではしないと、前記
middrinn氏の指摘には答えられない、かなり
厳しい境遇に、本ブログはいまや陥ったようだと、私
は現在認識しているのである。(2023/02/22)

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中国雲南省の古城村遺跡で殷・周時代山母墨書土器(長さん)

web上に公開された「人民網」の
2023年2月16日電子記事によると、
雲南省の文物考古研究所は、2020年
前後の発掘で、表題の遺跡で土器を複数
発掘したが、以下紹介するように、
本ブログが、日本で室町時代初に成立し
たとみている、漢字で「山母」に見える
模様の土器が出土したようである。
 遺物の写真はweb上で公開されてい
て、中国の新聞「人民網」のweb版
記事に載っている。記事のurlは、
以下の通りである。
エイチテイテイピーコロンスラッシュスラッシュ
yn.people.com.cn/BIG5/n2/2023/0216/c378439-40302991.html
電子記事は、繰り返すと西暦2023年
の2月16日08:39(北京か?)に、
webに公開されたようである。
 記事によると、紹介者は前記雲南省
文物考古研究所の周然朝研究員。
古城遺跡の正確な位置は、私にはよく
判らないが、記事に「同省昆明市晉寧区」
と取れる旨出ている。
 遺物の写真は、前記urlの、下へ
スライドした部分の、最上段右側にある、
以下のような、足の付いた細長い甕のよ
うに私には見える、日本のと少し形の違
う、ほっそりした土器と思われる遺物の、
側面にある。

雲南省古城村山母.gif

上図のように、土器の写真で右隅に、縦
に漢字で「山母」のように見える模様が
有る。中国の妖怪に山母が有るとの情報
を、私は持たない。
 仮に中国黄河四大文明の時代に成立し
た遺品であったとしても、将棋駒や中国
シャンチーとはたぶん関係が無いだろう。
 写真を見ると、縁に近づくことによる、
像の歪みが少なく、よって恐らくは残念
ながら、偶然模様と疑われる。(2023/02/21)

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奈良市平城京跡シャトランジ墨書の玉駒は帝(長さん)

以前に本ブログで、出土将棋遺物で最古レコード
の物品として、平城京出土墨書遺物集成の「王手
するシャトランジの兵駒」の絵を紹介した。

玉駒は、兵が漫画で「王手の叫び」表現をしてい
るという点を根拠に、イスラムシャトランジの
「王」であると、本ブログでは見なしたのだが、
その後間違い

である事が判った。

絵を良く見ると「帝」と書いてある

のである。
 そのおり紹介したように、遺物の写真はweb
上に公開されていて、奈良文化財研究所の発掘
報告書データベース、全国遺跡報告総覧に登録・
公開されている。pdfファィル名、発掘報告書
の名称、場所、出土年は繰り返すと、以下の通り
である。
63054_1_平城宮出土墨書土器集成1.pdf
名称:
国立文化財研究所30周年記念史料(史料第25冊)
平城宮出土墨書土器集成Ⅰ、奈良国立文化財研究所、
1983年。
発掘場所:奈良県奈良市。
出土年:1961年前後。
 成立年代は、前記冊子の第2ページ付近に、
出土地点の井戸の木簡解析から、平安時代初頃、
9世紀初のものだと考えられているとの旨
が、”SE311B井戸”の説明の箇所に有る
との旨、その折にも紹介した。
 遺物の写真は冊子のPL(図版).6に有り、
左下以外が全部、話題にした遺物の、向きを変
えて写した、側面や見下ろし底面の写真である。
遺物番号は第9番と、ナンバリングされている。
台付杯土器の側面にも底面にも一面に、絵画と
みられる墨描きがあり、底面のオモテ面の一部、
以下の赤い四角で囲った部分に、イスラム
シャトランジの知見に基づいて人間の他国征服
欲等を表現したような、漫画風の絵が有るとい
う事であった。

平城宮皇帝.gif

 以前、本ブログの管理人は完全に見落として
いたが上図、ブルーの矢印の先に、「帝」と書
いてあるように考える。

唐代中国人から、当時の奈良平城京の知識人は、
「イスラムシャトランジの玉駒は『帝』である」

と教わったようである。イスラム帝国時代の
アラブ人から中国人が、「玉駒は国家の中核の
人物の名称である」と教わったので「王」では
なくて、たまたま「帝」と訳したという事情だっ
たのであろう。この絵は、

王手の絵ではなくて、帝手の絵

であったようだ。
 なお、底座の絵は全体として、沼の魚が一兵
卒の兵隊の叫びに驚いて、跳び上がったような
姿にも、はっきりしないが、見えるようである。
 シャトランジ駒を、飛び上がる魚。盤が沼の
水面、升目が波紋に準えられたのかもしれない。
 しかし抽象的なイスラム・シャトランジ駒が、
平安時代早期の日本人に、全体として「跳び上
がる魚」群のように見えるのは、不自然である。
墨書絵は、中国人著書のイスラムシャトランジ
紹介冊子・巻物を見て書いたが、挿絵に、現
インドネシア・セランゴルのチャトル(スキー
トコレクション)のような、踊る魚駒の、
シャトランジ駒が紹介されていたという、事情
なのかもしれない。
 中国人にはアラブ人がシャトランジを指すこ
とは当然知られていたが、道具は、伝来途中で
消費されて無くならない、当時のシュリーヴィ
ジャヤ王国産のが、唐代中国人には、比較的良
く知られており、挿絵もセランゴルのチャトル
に、たまたま似た格好だった、からなのかもし
れないと、はっきりしないが私は想像する。
 なお、上記写真以外に、冊子:
「平城宮出土墨書土器集成」には、側面の墨書
写真も載っている。

「下方に刃を向けた剣」のような絵が複数有り、
杯に乗せたのも、その類の武器であって、絵は
武芸を表現している事にほぼ間違いない。

以上のように、私には依然見えている。(2023/02/20)

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山梨県笛吹市身洗沢遺跡で古墳期龍王墨書土器(長さん)

今回は、山梨県の山間の扇状地、笛吹市で
古墳時代の土器に、漢字で龍王と書かれた
墨書杯土器、泰山書かれた墨書杯土器が、
特定の発掘調査で1枚ずつ出土していると
の旨の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
21676_1_身洗沢遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
山梨県埋蔵文化財センター調査報告書第310集
身洗沢遺跡、2017.2、山梨県教育委員会・
山梨県県土整備部・中日本高速道路株式会社・
笛吹市。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の場
所は、山梨県笛吹市八代町南地内。遺物が
出土したのは、西暦2014年前後の事の
ようである。
 遺物の成立年代はそれぞれC区2号遺物
集中地点で龍王墨書土器が、C区第14号
土坑で泰山墨書土器が出土したが、発掘報
告書の第30ページ付近の記載によると、
隣接する集落の成立年代から第2号遺物集
中地点が古墳時代中期後半の5世紀後半、
発掘報告書の第29ページによると、第
14号土坑が、古墳時代の中期後半の、
5世紀後半と見られているように読取れる。
どちらも5世紀後半で、ほぼ同一である。
 遺物の写真は、龍王墨書杯型土器が、
発掘報告書の写真図版第51:”C区出土
遺物(25)”の最上段の右から2番目に
ある。遺物番号は、特に記載されてい無い。
杯型土器の裏面の写真のように見える。尚、
第2号遺物集中地点の遺物は大量に存在す
るため、写真図版第44の中段から、写真
が連続して続いている。

身洗沢龍王.gif

 上図のように、山合いの河川に棲む龍神
を奉じるような、古墳時代の祭祀用の龍王
文字が、墨書きされているように私見する。
 次に、泰山墨書杯型土器が、発掘報告書
の写真図版第42:”C区出土遺物(16)”
の下から2段目の左端にある。遺物番号は、
こちらも特に記載されてい無い。杯型土器
の破片の側面写真のように、私には見える。

身洗沢泰山.gif

 上図のように、泰の下部の「水」部分が
やや薄く、大山のようにも見えるが、薄い
部分を加えると、奉山ではなくて、漢字で
泰山と書かれていて道教関連のようである。
すなわち、遺跡からの風景写真によると、
富士山等は里から直接には見えないようだ
が、南側に山並みが見え、山並みを道教の
聖地に見立てて奉じた、古墳時代の祭祀用
の土器のようにも後者は見えると私見する。
 山梨県の山間の扇状地の為、古代より遡
る、古墳時代中期の土器であるが、祭祀用
で識字層が、龍神信仰や山岳道教信仰に関
係した、祭祀用の墨書土器を作成していた
疑いも、この山梨県の遺跡の遺物について
は、全く無いとは断定できないではないか
と、私的に疑っている。(2023/02/19)

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